第十三章 東の国の客人
改革開放の風は、上海金山の巨大な化学プラントの配管を吹き抜け、新しい時代の音を奏でていた。二期プロジェクトは、葛大偉の豪胆なリーダーシップと、張楡生の天才的な手腕によって、驚異的な速度で量産化への最終段階へと突き進んでいた。現場は、昼夜を問わず活気に満ち、誰もが「中国の奇跡」の担い手であるという、熱っぽい誇りに満ち溢れていた。
そんなある日の午後、葛大偉が、珍しく神妙な顔つきで楡生を自分のオフィスに呼びつけた。
「楡生、近々、東の国から客人が来る」
葛は、机の上の大きな図面から顔を上げずに言った。
「日本人だ。日本の繊維技術の専門家たちが、我々のプロジェクトに売り込みをかけてくる。お前も、会議に同席しろ。彼らが何を言うか、しっかりその耳で聞いておけ」
日本人――その言葉は、楡生の心に、小さな、しかし確かな波紋を広げた。彼にとって、日本とは、歴史の教科書の中に存在する、かつての侵略者の国であり、同時に、父や祖父の世代が「東洋鬼子」と蔑みを込めて呼んだ、遠い国の名でしかなかった。だが、なぜか、その言葉の響きには、血の奥底をかすかにざわつかせる、不思議な親近感が伴っていた。
数日後、会議室に、その一行は現れた。
背広に身を包んだ、五人の日本人技術者たち。楡生がまず感じたのは、彼らが放つ、独特の空気感だった。それは、これまで接してきた、実直だがどこか無骨なドイツ人技術者とも、陽気だが大雑把なイタリア人技術者とも違う、静かで、張り詰めた、一種の様式美のようなものだった。彼らは、深く頭を下げ、完璧なタイミングで名刺を差し出し、その立ち居振る舞いの全てに、無駄がなく、洗練されていた。
金山プロジェクトの上層部は、この商談に、初めから冷ややかだった。プロジェクトの根幹は、すでに西ドイツの技術と設備で固められており、量産化まであと一歩というこの段階で、後発の日本企業が入り込む余地などない、というのが共通認識だった。会議は、儀礼的な挨拶と、中国側の現状説明だけで、早々に切り上げられる雰囲気だった。
だが、その空気を一変させたのが、鈴木清太と名乗る、一行の中でもひときわ若い技術者のプレゼンテーションだった。彼は、他のベテランたちが醸し出す重厚さとは対照的に、まるで大学の研究室からそのまま抜け出してきたかのような、実直で、少し不器用ささえ感じさせる青年だった。しかし、彼がスクリーンに映し出された図面を指し示しながら語り始めた時、その言葉は、驚くほどの熱量と、揺るぎない自信に満ちていた。
「我々がご提案するのは、単なる個別の設備ではございません。原料の投入から、重合、紡糸、そして最終製品の巻き取りまで、その全てを統合管理する、一貫した生産システムです」
通訳を介して語られる彼の言葉は、明晰で、論理的だった。彼は、ドイツ製の設備の優秀さを認めつつも、その非効率な部分――各工程間の連携の悪さ、エネルギー消費の多さ、そして、品質管理における属人的な要素の多さを、的確に、しかし決して相手を貶めることのない丁寧な言葉で指摘していった。
「我々のシステムは、『カイゼン』の思想に基づいています。日々の小さな改善の積み重ねが、最終的に、生産効率の飛躍的な向上と、不良品率の劇的な低下をもたらします。それは、単なる機械の性能の問題ではなく、思想、フィロソフィーの問題なのです」
上層部の幹部たちが、退屈そうに腕を組んでいるのを尻目に、楡生の耳は、鈴木の言葉を一言も聞き漏らすまいと、全神経を集中させていた。そして、彼の右手は、まるで独立した生き物のように、手元のメモ帳の上を走り始めていた。鈴木が語るシステムの概念、エネルギーフロー、品質管理のチェックポイント。彼の言葉が、楡生の頭の中で、次々と具体的な草図へと変換されていく。それは、彼自身が、このプロジェクトで感じていた問題点や、改善すべきだと考えていた点と、恐ろしいほどに一致していた。
会議室の空気が、わずかに変わった。葛大偉が、組んでいた腕を解き、身を乗り出している。彼の目は、値踏みするような鋭い光を放ち、鈴木と、そして一心不乱にペンを走らせる楡生とを、交互に見比べていた。
プレゼンテーションが終わり、質疑応答の時間になっても、中国側からは、当たり障りのない質問しか出なかった。だが、楡生は、通訳の小林(親しみを込めて)――林健偉という、国交復活してからの第一期の日本への国費留学生だった、技術的な知識にも明るいエリート青年――の助けを借りて、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「鈴木先生、そのシステムのボトルネックはどこにありますか? 触媒の反応速度と、紡糸工程の冷却効率の間に、どのような相関関係を想定していますか?」
「品質管理のフィードバックは、リアルタイムで生産ラインに反映されるのですか? それとも、バッチ処理後の統計的な分析に基づくのですか?」
専門的で、核心を突く楡生の質問に、鈴木清太の目が、初めて輝きを放った。
「素晴らしいご質問です。それこそが、このシステムの最も重要な点なのです…」
二人の間では、もはや通訳は、言葉を変換するだけの機械となっていた。技術者と技術者の魂が、国境や言語の壁を超えて、直接、共鳴し合っているかのようだった。楡生は、忘れていた感覚を思い出していた。それは、星火農場で、師である方文博と、化学式について夜通し語り明かした時の、あの胸のすくような高揚感だった。
会議が終わった後、楡生は、日本側が置いていった分厚い資料の束を抱え、誰に言うともなく、自分の設計室へと消えていった。
それから、半日が過ぎた。夕暮れ時、葛大偉のオフィスのドアが、勢いよく開かれた。そこに立っていたのは、目の下に濃い隈を作り、髪をくしゃくしゃにした、しかしその瞳に狂気にも似た興奮の色を浮かべた楡生だった。
「廠長、ご覧ください」
彼は、葛の大きな机の上に、何枚もの図面と、数字がびっしりと書き込まれた比較表を広げた。
「こちらが、現行のドイツ式プランの最終予測データ。そして、こちらが、日本の提案を基に、私が半日でシミュレーションしたものです」
葛は、その書類に、食い入るように見入った。そして、眉間の皺が、みるみるうちに深くなっていく。
楡生が叩き出したデータは、衝撃的だった。技術的な優位性、生産効率、品質管理の精度、そして納期の短縮。その全てにおいて、日本の提案は、現行のプランを凌駕していた。そして、最も決定的なのは、コストだった。
「もし、この日本の技術が、彼らの言う通りに機能するのなら……」楡生の声は、興奮で震えていた。「我々は、このプロジェクト全体で、億単位の米ドルを節約することができます。国の、貴重な外貨を……」
「……本当か」
葛の口から、呻くような声が漏れた。彼は、ドイツの企業と、これまでどれほどのタフな交渉を重ねてきたことか。どれだけ、彼らの傲慢な態度に、煮え湯を飲まされてきたことか。もし、楡生の言うことが真実なら、我々は、とんでもないカモにされてきたことになる。
葛は、椅子から立ち上がると、楡生の前に仁王立ちになった。そして、その大きな拳で、楡生の肩を、ゴツン、と強く殴った。
「真有你小子的!(たいした野郎だ、お前は!)」
それは、彼の最上級の賛辞だった。
葛は、自分の椅子に戻ると、愛用の紙巻きたばこに火をつけた。紫煙が、彼の決意を秘めた顔を、おぼろげに隠す。
「楡生、日本へ行ってこい」
静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで、彼は言った。
「お前自身の目で、その技術が本物かどうか、確かめてこい。その間、ここのことは、俺が全て抑えておく。上層部の連中も、ドイツ人も、俺が何とかする。だから、お前は、お前のやりたいように、思う存分、やってこい」
その一言で、全てが決まった。
すぐさま、訪日視察チームが編成された。メンバーは四人。このミッションの主役である楡生。技術的な議論に不可欠な通訳の林健偉。そして、お目付け役として、設計部門の「老法師」である李環と、工場共産党支部書記であり、チームリーダーという肩書を持つ王謹濤が加わった。王書記は、国有企業にいる党員たちの思想を監視する役目を負っており、彼の存在は、この出張が、純粋な技術視察だけではないことを、暗に示していた。
その日の夜、楡生は、興奮冷めやらぬまま、上海の家に戻った。週末でもないのに父が帰ってきたことに、息子の義成は、目を丸くして驚いた。楡生は、そんな息子をひょいと抱き上げると、自転車の中バーに乗せた。
「父さん、どこ行くの?」
「母さんを、迎えに行くんだ」
二人は、夜の街を走り抜けた。向かう先は、妻の京海が夜勤で働く、小さな紡績工場。工場の門の前で待っていると、やがて、終業のベルと共に、疲れ切った顔の女工たちが、ぞろぞろと出てきた。その中に、愛しい妻の姿を見つけた時、楡生の心は温かいもので満たされた。
京海は、夫と息子の突然の訪問に、驚きながらも、その顔には満面の笑みが広がった。
帰り道、楡生は、決まってお祝い事があるたびに買う、「氷磚」を三つ買った。狭い我が家で、親子三人、冷たくて甘いアイスを頬張りながら、楡生は、日本への出張が決まったことを告げた。
「日本へ……?」
京海の目が、少しだけ、複雑な色を帯びた。だが、彼女は、夫のキャリアにとって、それがどれほど大きなチャンスであるかを、誰よりも理解していた。
「すごいじゃない! あなたの力が、国に認められたのね。体に気をつけて、頑張ってくるのよ!」
彼女は、心からの笑顔で、夫を送り出すことを決めた。
だが、この時、楡生は知らなかった。彼が日本へ旅立つ決定がされたちょうど同時に、葛大偉は、もう一つのチームを編成していた。ライバルの候建駿と、あの陰湿な李鶴青を伴った、西ドイツへの出張チームを。それは、葛が、日本の技術という「実」と、ドイツとの関係維持という「名」の両方を天秤にかける、老獪な戦略家であることの証だった。また、それは当時中国国有企業内の独特な人間相関の調整でもあった。しかしこの事実は、楡生が四ヶ月後に帰国するまで、彼に知らされることはなかった。
楡生の渡日が決まったことで、張家は、ごった返した。
父の洪正と、母の珍蓮は、息子の初めての海外、それも、あの「日本」へ行くという事実に、平静ではいられなかった。二人は、それぞれ、何かを言いかけては、言葉を飲み込み、また言いかけては、こらえる、ということを繰り返した。その瞳の奥には、喜びと誇り、そして、楡生には理解できない、深い、深い苦悩の色が浮かんでいた。
結局、彼らは、その思いを言葉にする代わりに、行動で示した。
父の洪正は、何日もかけて、息子のために、一着の背広を仕立てた。それは、彼の持てる技術の粋を集めた、完璧な一着だった。「日本の連中に、舐められてはならん」。その背中が、そう語っていた。
母の珍蓮は、暗紅色の、上質な毛糸を取り出すと、来る日も来る日も、編み棒を動かし続けた。そして、出発の前日、象が鼻を繋げて輪になっている模様の、いかにも暖かそうなセーターを編み上げた。「日本の秋冬は、上海より寒いからね」。その優しい眼差しが、そう語っていた。
出発の準備が、全て整った前日の夜。
楡生は、あのロケットペンダントを取り出し手に握った。そして、実家の父の前に、それを静かに差し出した。
「父さん、これを、預かっていてほしい」
それは、不吉な予感からではなかった。ただ、この家族が、命がけで守り抜いてきたこの宝物は、自分が家を空ける間、この家の主である父の元にあるべきだと、直感的に思ったのだ。
洪正は、そのペンダントを見て、息を呑んだ。彼の顔が、苦痛に歪んだ。彼は、何かを言おうと口を開き、しかし、声にならない喘ぎだけが漏れた。言わねばならない。今こそ、全てを話すべきではないのか。息子が、何も知らずに、己の本当の故郷の土を踏む、その前に。
だが、その言葉は、彼の喉の奥で、鉛のように固まって、出てこない。真実を告げることは、息子から、これまでの人生の全てを奪うことになりはしないか。彼を、張家の息子として育ててきた、自分たちの三十数年を、否定することになりはしないか。またあの動乱のさなかで体験した恐怖がよみがえり、そもそもこの真実は今の情勢においてはまだターブではなかろうか、息子を失うかもしれないという恐怖からが、彼の唇を縫い付けていた。
「……楡生」かろうじて、彼は息子の名を呼んだ。「道中、気をつけるんだぞ。何があっても、お前は、俺と、お前の母さんの、大切な息子だ。それだけは、忘れるな」
それが、彼が言える、精一杯の言葉だった。
翌日、上海虹橋飛行場。
楡生は、妻の京海と、息子の義成に見送られ、タラップを上がった。飛行機の小さな窓から、手を振る二人を見下ろす。義成が、何かを叫んでいる。
飛行機が、滑走路を走り、ふわりと浮き上がった。眼下に、生まれ育った上海の街並みが、みるみるうちに小さくなっていく。
彼は、まだ知らない。
この旅が、彼の人生を、根底から揺るがすきっかけになるということを。
彼が、ただの技術視察だと思っているこの旅が、実は、自分自身のルーツを探る、運命の旅の始まりであることを。
そして、あのロケットペンダントに秘められた、哀しく、そして気高い真実が、彼を海の向こうで待ち続けているということを。
自身がまだ事実として知らぬ故郷であるはずの日本へ。
張楡生を乗せた飛行機は、東の空へと、一直線に飛んでいった。




