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楡の葉は大海を渡る(青木家サーガ第1作)  作者: 光闇居士


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第三部 真実と決断 ― 父の遺言 第十二章 改革開放の風

第三部 真実と決断 ― 父の遺言(1979年~1989年)


第十二章 改革開放の風


1979年。中国大陸を覆っていた、長く、重苦しい冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。巨星、毛沢東の死から三年。文化大革命という名の熱病から覚めた中国は、鄧小平という、小柄だが現実的な思考を持つ新たな指導者のもと、歴史的な大転換へと舵を切った。その名は、「改革開放」。


それは、階級闘争という内向きの呪縛から自らを解き放ち、再び世界の舞台へと躍り出るための、壮大な号令だった。前年に締結された日中平和友好条約、そしてこの年の冒頭に実現した米中国交正常化は、中国が竹のカーテンを自ら開け放ったことの、何よりの証だった。西側諸国は、この巨大な龍の目覚めを、期待と警戒が入り混じった複雑な思いで見つめていた。巨大な潜在市場の開放、そして何よりも、共通の敵であるソビエト連邦からこの国を引き離すという地政学的な思惑。彼らは、経済発展という名の甘い果実が、やがて中国に「民主化」という、より甘美な変化をもたらすだろうと、淡い期待を抱いていた。


この国中を吹き荒れる「四つの近代化」という新しい風が、最も濃密な形で吹き溜まっていた場所。それが、上海の南端、金山地区だった。何もない塩だらけの海岸に、国家の威信をかけた巨大な石油化学コンビナートが、まるで蜃気楼のように姿を現しつつあった。


そのプロジェクトの中枢に、張楡生はいた。


全国から選び抜かれたエリート技術者たちが集うこの場所で、楡生の才能は、堰を切ったように開花した。星火農場で師・方文博から授かった化学の知識と、父から受け継いだ繊維への深い理解。その二つが、彼の両翼となった。彼は、一期プロジェクトの原料精製から、二期プロジェクトの繊維の大型量産化まで、その全てに深く関わることになった。


彼の運命を決定づけたのは、二期プロジェクトの総責任者である廠長(工場長)、葛大偉グォ・ダーウェイとの出会いだった。葛は、大柄で、声が大きく、そして何よりも器の大きな男だった。「用人不疑ヨン・レン・ブ・イ疑人不用イ・レン・ブ・ヨン(用いる以上は疑わず、疑うならば用いず)」。それが、彼の信条だった。彼は、まだ三十歳を過ぎたばかりの、一介の工程師エンジニアである楡生の才能を、初対面で見抜いた。


 「張工程師、君の意見を聞かせてくれ」


葛は、常に楡生を対等なパートナーとして扱った。その絶大な信頼が、楡生の潜在能力を極限まで引き出した。


もちろん、やっかみや嫉妬はつきものだった。天津から鳴り物入りでやって来たライバル技術者の候建駿ホウ・ジエンジュンとは、事あるごとに火花を散らした。二人は、同じ問題を前に、全く異なるアプローチで解決策を導き出し、会議の場で激しく議論を戦わせた。だが、その競争は、互いの能力を認め合った上での、健全で質の高いものだった。


より陰湿だったのは、コネで入ってきた党員技術者の李鶴青リー・ヘーチンのような存在だった。彼は、楡生の迅速な判断力と、周囲を巻き込むリーダーシップに、底意地の悪い嫉妬を燃やしていた。ある日、楡生が、西ドイツから導入した最新の紡績設備の配置について、葛廠長の決裁を待たずに、現場に詳細な指示を出したことがあった。それは、一分一秒を争う状況下での、最善の判断だった。だが、李鶴青は、これを「組織の規律を乱す越権行為だ」として、すぐさま葛廠長に告げ口した。


 「廠長! 張楡生の奴、あまりに増長しています! あなたの許可も得ずに、あれほど高価な設備を勝手に動かそうとしていますぞ!」


息巻く李鶴青に対し、葛大偉は、机の上の書類から顔も上げずに、静かに、しかし腹の底に響くような声で言った。


 「李同志、それは全て、私が許可したことだ。何か問題でも?」


その一言で、李鶴青は顔を真っ赤にして黙り込んだ。


後で、楡生が「あの件は、やはり廠長にご報告してからにすべきでした。申し訳ありません」と謝罪に行くと、葛は豪快に笑い飛ばした。


 「気にするな! 君の判断は、俺の判断と寸分違わなかった。いちいち書類を通していたら、日が暮れるわい。これからも、思い切ってやれ。責任は、全て俺が取る!」


この一件以来、葛大偉と張楡生のコンビは、周囲が羨むほどの「ゴールデンコンビ」として、金山プロジェクトで語り草となった。楡生は、上司のその絶大な信頼に応えようと、寝る間も惜しんで仕事に没頭した。昇給やボーナスの査定会議では、葛は常に、自分の分を削ってでも楡生の成果を褒めたたえ、彼への待遇を厚くするよう上層部に働きかけた。その話が、人づてに楡生の耳に入った時、彼は、この人のためなら命でも懸けられると、心から思った。


その結果、二期プロジェクトは、驚異的なスピードで進んだ。外国製の設備の導入、生産ラインの構築、テスト生産。楡生は、それら全てを、まるでオーケストラの指揮者のように、的確に、そして調和の取れた形で取りまとめていった。プロジェクトは、当初の予測より実に二年近くも早く、本格的な量産体制へと近づいていた。


仕事が興隆を極める一方で、楡生の心には、常に一つの気がかりがあった。家族のことだ。息子の義成は、もう四つになり、幼稚園に上がる年頃になっていた。だが、妻の京海と義成は、まだ星火農場にいた。


 「京海、金山に来ないか」週末、自転車を飛ばして農場へ帰るたびに、楡生は妻を説得した。「ここには、新しくて綺麗な社宅が完備されている。学校も、病院も、娯楽施設もある。生活環境は、農場とは比べ物にならないほどいい。義成のためにも、その方が…」


だが、京海は、首を縦に振らなかった。


 「あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、私の根っこは、上海市内にあるの。帰るなら、あそこじゃなきゃ駄目なのよ」


彼女にとって、金山は、どれほど近代的な施設が整っていようと、あくまで「上海の郊外」だった。彼女が焦がれるのは、幼い頃に育った、あの雑多で、活気に満ちた、本当の上海の空気だった。


そんな二人の膠着状態を、思いがけない出来事が打ち破った。


京海の養母が、体を悪くして倒れたのだ。上海市内の小さな紡績工場で働いていた彼女は、もはや勤めを続けられる状態ではなかった。そして、疎遠になっていたはずの養母から、京海のもとに、切実な手紙が届いた。


 「京海、どうか上海に帰ってきて、私の仕事を引き継いではくれないだろうか…」


それは、「頂替ディンティ」と呼ばれる、当時の中国に存在した特殊な制度を利用した申し出だった。親が退職する際、その職を、戸籍のない地方の子供が引き継ぐことで、都市戸籍を得ることができるという、鄧小平が毛沢東の「知青上山下郷」悪政を挽回するための裏技のような制度だ。


京海は、驚いた。なぜ、あれほど自分たちを疎んじ、楡生との結婚にも反対だった養母が、今になって自分を呼び戻そうとするのか。


 実は、この数年の間に、京海の養父母の家では、大きな問題が持ち上がっていた。弟として育てられた婿殿が、とんでもない嫁を連れてきたのだ。その嫁は、怠け者で、金遣いが荒く、口を開けば養父母への悪態ばかり。家の中は、一日中、嫁と姑の罵り合いが絶えず、養母は心労ですっかり参ってしまっていた。そして、苦境に陥った時、彼女が思い出したのは、気の強さの中に、本当の優しさと実直さを持っていた、血の繋がらない娘、京海のことだったのだ。


京海は、決断した。


彼女は、星火農場で築き上げた、党幹部候補という輝かしいキャリアを、あっさりと捨てた。そして、四歳の義成の手を引き、上海へと帰還した。彼女の新しい職場は、養母が働いていた、古くて小さな国営紡績工場。仕事は、一日中糸を紡ぐだけの、単調な女工の仕事だった。だが、彼女の心は、晴れやかだった。ついに、自分の力で、上海戸籍を取り戻したのだ。


さらに、養母は、もう一つの贈り物を用意してくれていた。彼女たちが住む、旧日本人租界にある古い洋館の三階。その部屋に隣接した、かつては物置として使われていた小さなゲストルームを、娘と孫のために空けてくれていたのだ。狭く、陽当たりも悪い、わずか六畳ほどのスペース。だが、それは、楡生と京海と義成にとって、初めて手に入れた「自分たちの城」だった。


上海での新しい生活は、喜びと、そして新たな闘争の始まりでもあった。


隣の部屋に住む、弟夫婦との関係は、最悪の一言に尽きた。特に、弟嫁は、新しく隣人となった京海親子を、目の敵にした。


「あら、農場帰りの党幹部様がお戻りかい。せいぜい、お母様のご機嫌でも取って、おこぼれにでもあずかったらどうだい?」


 嫌味と悪意に満ちた言葉が、毎日、薄い壁を通して聞こえてくる。洗濯物を干す場所、共同の台所の使い方、些細なことから、全てが争いの種になった。


 京海は、かつての中越戦争へ行こうとした頃の闘争心を、今度は家庭内で発揮することになった。ある日、弟嫁が、義成がうるさいと怒鳴り込んできた時、京海は静かに、しかし有無を言わせぬ迫力で言い返した。


「弟の嫁さん。あなたの声が、この界隈で一番うるさいってこと、自分で気づいてる? 子供の声をどうこう言う前に、まず自分の口を慎んだらどうかしら」


 その気迫に、弟嫁はぐうの音も出ず、捨て台詞を吐いて部屋に逃げ帰った。京海は、養母がなぜ自分を呼び戻したのか、その理由を、身をもって理解した。ここは、新しい戦場なのだ、と。


楡生は、週末に金山から帰ってくるたびに、そんなコミカルで、しかし熾烈な女の戦いを目の当たりにして、苦笑するしかなかった。だが、彼は、たくましく、そして生き生きと新しい生活を切り開いていく妻の姿を、心から愛おしく思った。


仕事では、国家プロジェクトの中核を担う天才技術者。家庭では、嫁姑・小姑問題に頭を悩ませる、ごく普通の夫。その二つの顔を持つことが、楡生にとって、人間としてのバランスを保つ、重要な要素となっていた。


改革開放の風は、中国全土を、そして張家を、新しいステージへと押し上げていた。古い価値観が崩れ、新しい秩序が生まれる、混沌とした時代。楡生と京海は、それぞれの場所で、それぞれの戦いを始めた。その先にある未来が、輝かしいものなのか、それとも新たな困難が待ち受けているのか、まだ誰にも分からない。だが、二人には、守るべき息子・義成がいた。そして、どんな嵐の中でも、手を取り合って生きていくという、確かな愛があった。彼らの物語は、時代の大きなうねりの中で、さらに深く、豊かに、紡がれていく。

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