表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
楡の葉は大海を渡る(青木家サーガ第1作)  作者: 光闇居士


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/23

第十章 下放先の化学式

文化大革命の嵐が、破壊と狂乱の限りを尽くして吹き荒れた後、その嵐を生み出した張本人である毛沢東は、次なる一手を打った。それは、都市部で紅衛兵運動に熱狂し、もはや制御不能となりつつあった膨大な数の若者たち――「知識青年」を、農村へと送り込むという、壮大な政策だった。


「知識青年は農村へ行き、貧農・下層中農から再教育を受ける必要がある」


その言葉は、絶対の命令だった。それは、若者たちの有り余るエネルギーを地方に分散させ、都市の治安を回復させるという政治的な計算と、彼らを広大な中国の田畑に縛り付けることで、食糧生産の労働力に変えようという、冷徹な経済的打算に基づいていた。


1969年、冬。張楡生もまた、その巨大な歴史の奔流に、抗うことなく飲み込まれた。大専を卒業し本来は仕事分配前だった彼は家で待業ダイ・イェ(フリーター)させてはくれず、他の何百万人もの同世代の若者たちと共に、「上山下郷(山に上り郷に下る)」運動の対象とされたのだ。行き先は、くじ引きで決まる。ある者は、遠く黒竜江省の極寒の開拓地へ。ある者は、雲南省の熱帯雨林の奥地へ。家族と引き裂かれ、二度と故郷の土を踏めぬ者も少なくなかった。それは、事実上の国内流刑にも等しかった。


そんな中、楡生は、ある種の強運に恵まれたと言えた。彼が引き当てたのは、上海市の南、杭州湾に面した「星火農場」。そこは、もともと塩分の多い干潟を干拓して作られた国営農場であり、環境は劣悪だったが、それでも上海市の管轄内にあった。遠く辺境の地へ送られた友人たちに比べれば、それは天国にも思えた。だが、その天国と、彼が生まれ育った虹口区の家との間には、途方もない距離が横たわっていた。


トラックの荷台に、家畜のように詰め込まれて農場へ送られた日、楡生は、自分が初めて本当の意味で「独り」になったのだと悟った。背中には、母の珍蓮が徹夜で縫ってくれた、継ぎはぎだらけの布団と、着替えの詰まったリュックサック。手には、父の洪正が黙って握らせてくれた、数元のなけなしの金と、あのロケットペンダント。


「楡生、体に気をつけるんだぞ。つらくても、歯を食いしばって耐えろ。お前は、張家の長男なんだからな」


父の言葉が、耳の奥で重く響いた。


星火農場での生活は、想像を絶するほど過酷で、そして単調だった。


夜明け前の、まだ空に星が瞬く漆黒の闇の中、けたたましい起床ラッパの音で叩き起こされる。眠い目をこすりながら、凍てつくような水で顔を洗い、とうもろこしの粉で作った、味のない粥を胃に流し込む。そして、肩に鍬を担ぎ、生産隊の仲間たちと共に、広大な畑へと向かうのだ。


仕事は、ひたすらな肉体労働だった。春には種を蒔き、夏には炎天下で雑草を抜き、秋には腰が砕けるほどの収穫作業に追われる。杭州湾から吹き付ける潮風は、夏はべとべとした熱気となり、冬は骨身に沁みる寒風となって、容赦なく体力を奪っていった。楡生のような都市育ちの青年には、それは拷問にも等しかった。手のひらの皮はすぐさま破れ、血豆が潰れて膿んだ。肩には、鍬の重みで、硬いタコができた。


食事は、粗末を極めていた。朝晩は味のない粥。昼は、畑のあぜ道で、冷え切った黒窝頭ヘイ・ウォー・トウ(青稞むぎからできる黒パン)と、塩辛いだけの漬物をかじる。たまに、豚肉の切れ端がスープに浮かんでいる日は、全員が歓声を上げた。若者たちは、常に空腹だった。その飢えは、彼らの思考能力を奪い、本能的な生存競争へと駆り立てた。夜、宿舎に帰ると、誰かが隠していたサツマイモを巡って、激しい口論や、時には殴り合いが起きることもあった。


日は、驚くほどの速さで過ぎていった。過酷な労働が、全ての時間を食い尽くす。夕食を終える頃には、もはや瞼を開けているのもやっとで、誰もが泥のように眠りに落ちる。そこには、読書をする時間も、物思いに耽る時間も、未来を夢見る時間もなかった。ただ、労働と食事と睡眠が、巨大な歯車のように、毎日、毎日、同じリズムで繰り返されるだけ。楡生の心は、その単調さの中で、少しずつ摩耗し、鈍くなっていった。


月に一度だけ、帰省が許された。だが、農場から上海の家までは、公共の交通機関などない。楡生は、金曜の労働が終わると、仲間たちと共に、何十キロという道のりを、ひたすら歩き続けた。夜通し歩き、土曜の朝にようやく家にたどり着く。そして、日曜の昼には、再び農場へ向けて、長い帰路につかねばならない。家族と過ごせる時間は、わずか一日にも満たなかった。


その短い時間の中で、母の珍蓮は、息子のために、ありったけのご馳走を用意した。貴重な配給の肉や卵を、全て彼の前に並べる。父の洪正は、多くを語らず、ただ息子の破れた服を、慣れた手つきで繕ってくれた。妹の慧文と弟の滬生は、兄の周りを離れず、農場での生活を興味津々で尋ねた。その束の間の温もりが、楡生が過酷な日々を耐え抜く、唯一の支えだった。だが、家を出る時、背中に感じる家族の視線は、彼の心を締め付けた。自分は、いつまでこんな生活を続けるのだろうか。いつか、この家に戻れる日は来るのだろうか。


少年は、この理不尽な国家の制度の下で、孤独と向き合い、少しずつ、しかし確実に、青年へと成長を遂げていった。無駄口を叩かず、黙々と働き、自分の感情を内に押し込める術を覚えた。そして、理不尽な現実の中で、生き抜くための知恵を身につけていった。


そんなある日、楡生の単調な日常に、小さな、しかし決定的な変化が訪れた。


彼が所属する生産隊に、一人、風変わりな男がいた。名は、方文博ファン・ウェンボー。年は四十代半ばで、下放されてきた知識青年たちの中では、際立って年長だった。彼は、もともと上海の有名な化学研究所の研究員だったという。文化大革命の初期に「反動学術権威」として吊し上げられ、この農場へ送られてきたのだ。


他の知識人たちが、過去の栄光を捨てきれず、不平不満を漏らしたり、絶望に打ちひしがれたりしている中で、方文博だけは、どこか違っていた。彼は、過酷な農作業を文句一つ言わずにこなし、その細い腕で、若者たちに負けじと鍬を振るった。だが、彼の目は、決して死んではいなかった。むしろ、その瞳の奥には、消えることのない、青い炎のような探究心が燃え続けているように見えた。


きっかけは、些細なことだった。楡生が、農作業の合間に、配給された肥料の袋に書かれた化学記号を、何気なく地面に書き写していた。


「NH4NO3……硝酸アンモニウムか」


背後から、不意に声がした。振り返ると、方文博が、興味深そうな目で、地面の文字を覗き込んでいた。


「君、化学に興味があるのかね?」


「いえ、ただ……これが何なのか、気になっただけで」楡生は、少し驚いて答えた。


「ふむ」方文博は、にやりと笑った。「これは、窒素と水素と酸素の化合物だ。植物が育つためには、窒素が不可欠なんだ。空気中の窒素は、そのままでは植物は使えない。だが、化学の力を使えば、それを植物が吸収できる形に変えることができる。まさに、錬金術だろう?」


彼の言葉は、まるで魔法の話をするかのように、生き生きとしていた。


その日を境に、二人は、農作業の合間に言葉を交わすようになった。楡生は、この風変わりな中年知識人に、強く惹きつけられていた。方文博は、楡生の素直な好奇心と、物事の本質を掴もうとする聡明さを見抜き、彼に、自分の持てる知識を少しずつ授け始めた。


それは、秘密の授業だった。彼らは、畑の隅で、土を黒板代わりに、木の枝をチョーク代わりにして、語り合った。方文博は、元素記号の成り立ちから、分子構造の美しさ、そして化学反応のダイナミズムまで、ありとあらゆることを、情熱的に語って聞かせた。それは、学校で習う無味乾燥な知識ではなかった。彼の言葉を通して語られる化学は、世界の成り立ちを解き明かす、壮大で、美しい物語だった。


ある夜、方文博は、楡生を自分の寝床にこっそりと招き入れた。そして、ぼろぼろになった布団の下から、油紙に厳重に包まれた、数冊のノートを取り出した。それは、彼が研究所から追われる際に、命がけで持ち出した、研究ノートだった。


「楡生君、これを見てくれ」


ノートに書かれていたのは、無数の数式と、複雑な化学構造式だった。


「これは……?」


「夢だよ」方文博の目が、少年のように輝いた。「我が国には、人が多すぎる。だが、土地は限られている。つまり、天然の綿や麻だけでは、いずれ、全国民に十分な衣服を供給できなくなる日が来る。だが、もし、我々が、石油や石炭から、人工的に繊維を作り出すことができたら、どうなると思う?」


彼は、興奮で声を震わせた。


「それは、まさに化学の魔法だ。安価で、大量に、衣類を作り出すことができる。衣食住の『衣』の問題を、完全に解決できるんだ。私は、そのための研究をしていた。このノートには、その基礎となる化学式が、全て書き記してある」


楡生は、息を呑んで、その汚れたノートを見つめた。そこに書かれた記号や数式の意味は、まだ半分も理解できない。だが、彼には、それが途方もなく価値のある、人類の希望の設計図であることだけは、直感的に分かった。


「どうして、それを僕に……?」


「君には、才能がある」方文博は、楡生の肩を掴んだ。「君の目は、死んでいない。この絶望的な環境の中で、まだ何かを学ぼう、何かを理解しようという光を失っていない。私は、もう年だ。この農場から、生きて出られるかどうかも分からん。だが、この知識だけは、誰かに託したい。次の時代を作る、君のような若者に、この夢を繋ぎたいんだ」


その日から、楡生の人生は、百八十度変わった。


過酷な労働は、もはや苦役ではなかった。それは、夜の秘密の授業のために、体力を温存し、思考を研ぎ澄ますための、修行の時間となった。単調だった日々は、知的好奇心という鮮やかな色彩で染め上げられていった。彼は、昼間は土にまみれて働き、夜は、方文博という人生の師のもとで、世界の真理を解き明かす化学式を、貪るように吸収していった。


成長は、急速だった。もともと持っていた地頭の良さに加え、過酷な環境が彼の集中力を極限まで高めた。彼は、数ヶ月のうちに、高校レベルの化学を完全にマスターし、やがて方文博の研究ノートの内容さえ、理解し始めた。彼は、自分の頭の中に、もう一つの世界を構築していった。それは、元素と分子が織りなす、論理的で、美しい、無限の可能性を秘めた世界だった。


ある日、帰省した楡生の姿を見て、父の洪正は驚いた。息子の体は、農作業でたくましくなっていたが、それ以上に、その目に、以前にはなかった深い知性と、自信に満ちた光が宿っていたからだ。


「楡生、お前、何か変わったな」


「そうかな」楡生は、少し照れながら笑った。


彼は、方文博との出会いを、家族には話さなかった。それは、彼と師だけの、誰にも侵されてはならない、聖域のような秘密だった。


だが、彼は、父から受け継いだ裁縫の技術と、方文博から授かった化学の知識が、自分の頭の中で結びつき始めているのを感じていた。布を作る化学。服を仕立てる技術。その二つが合わされば、一体何が生まれるのだろうか。


星火農場の広大な塩田に、夕陽が沈んでいく。空と、水面が、燃えるようなオレンジ色に染まる。それは、まるで巨大な実験室で、劇的な化学反応が起きているかのようだった。楡生は、鍬を肩に、その壮大な光景を見つめていた。


理不尽な国家の制度が、彼をこの場所に追いやった。だが、その絶望の淵で、彼は、人生を懸けるに値する、一つの化学式と出会った。少年は、もはやそこにいなかった。過酷な現実を、未来への希望へと昇華させる術を学んだ、一人の青年が、地平線の彼方を見つめて、静かに立っていた。彼の青春は、ここから、本当の意味で始まるのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ