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楡の葉は大海を渡る(青木家サーガ第1作)  作者: 光闇居士


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第九章 紅衛兵が見た光

1967年、夏。上海の空は、まるで巨大な溶鉱炉の蓋のように、重く、熱く、そして不気味なほどの赤い光を帯びていた。太陽そのものが、来るべき動乱を予感しているかのように、街路を、人々を、焦げ付かせるような苛烈さで照らしつけていた。


張楡生は、その夏、機械の大専(大学専門)学校生になった。彼の肉体と精神は、彼自身にも制御不能な、奇妙な不協和音を奏でていた。原因は、戸籍にあった。海南島から上海へ来た時、父・洪正と母・珍蓮は、息子の日本人という過去を消し去りたく、中国人としてのこれからの未来を案じ、当時ゆるゆるだった戸籍登記の際に、彼の生年を二つ引き上げて登録していた。1946年春生まれの楡生は、公的には1944年7月生まれの「少年」として、この世界に存在していた。


その二歳の差は、子供の頃は何の意味も持たなかった。だが、思春期という、誰もが自分自身の輪郭を探しあぐねる季節において、それは埋めがたい深い溝となった。周りの同級生たちは、急に大人びた顔つきになり、男女が互いを意識し、密やかな手紙を交わし、二人きりで映画に行くようになった。だが、実年齢がまだ追いついていない楡生にとって、その熱っぽい空気は、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。彼は、大人びた同級生たちの輪の中で、一人だけ取り残されたような、居心地の悪い戸惑いを抱えていた。


家族は、さらに増えていた。楡生が十歳の時、弟が生まれた。上海で生まれたその子には、この街への願いを込めて「滬生フウシェン」と名付けられた。兄とは対照的に、物静かで、本を読むのが好きな少年だった。活発な妹の慧文と、内気な弟の滬生。兄として二人を守らなければという責任感と、同級生たちとの精神的な断絶。楡生の心は、そんなアンバランスな天秤の上で、不安定に揺れていた。


そんな彼の心を、さらにかき乱す存在がいた。朱慧ジュウ・フイ。妹の慧文と同じ「慧」の字を持つ、快活で、少し気の強い少女だった。その名前の偶然がきっかけで、二人は小学校の頃から、誰よりも親しい友人だった。楡生にとって、彼女は性別を超えた、心を許せる唯一の同志のような存在だった。だが、彼女のほうは、違っていた。


中学時分のある日の放課後、蘇州河のほとりで、朱慧は、頬を赤く染めながら、楡生に小さな紙切れを押し付けた。それは、彼女の震える文字で書かれた、紛れもない恋文だった。


「……返事は、明日聞かせて」


そう言うと、彼女は走り去っていった。


楡生は、呆然とその場に立ち尽くした。嬉しいとか、好きだとか、そういう感情の前に、ただただ「どうしたらいいか分からない」という巨大な困惑が、彼を支配した。彼はまだ、女の子の手を握ることの意味も、その先の感情も、本当の意味では理解していなかったのだ。


翌日、楡生が答えを出せないまま逡巡している間に、事態は動いた。楡生の煮え切らない態度に傷ついた朱慧は、彼に当てつけるかのように、以前から彼女に好意を寄せていたクラスの別の男子生徒と、急に親しくなり始めたのだ。楡生は、何も言えなかった。自分の未熟さが、彼女を傷つけ、そして失ってしまった。それが、彼のほろ苦い初恋の、幕切れだった。


そして、今その個人的な感傷など、取るに足らない些細な出来事として吹き飛ばしてしまうほどの、巨大な嵐が、中国全土を覆い尽くし始めた。


「造反有理(造反にこそ理あり)!」


「革命無罪(革命は無罪なり)!」


毛沢東主席の呼びかけに応え、若者たちが、学生たちが、一斉に立ち上がった。彼らは、腕に「紅衛兵」と書かれた赤い腕章を巻き、毛主席語録を高く掲げ、旧い思想、旧い文化、旧い風俗、旧い習慣――「四旧」を打破するという大義名分のもと、街へ、学校へ、そして家庭へと、なだれ込んでいった。それは、純粋な理想に燃える聖戦のようであり、同時に、抑圧されていた若者たちのエネルギーが、破壊という形で噴出した、恐るべき狂乱の始まりでもあった。


標的は、まず「黒五類」――地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子――とその家族に向けられた。やがてその範囲は、知識人、芸術家、そしてかつて少しでも豊かな生活を送っていた「資産階級」へと、際限なく広がっていった。


張家も、その嵐から逃れることはできなかった。


父・洪正が働く国営「東風西装店」にも、ある日突然、革命委員会の「審査組」が乗り込んできた。彼らは、店の幹部や、洪正のような「技術権威」を、ブルジョワ思想に染まった反動分子として吊し上げた。


「張洪正! 貴様は旧社会で、労働者を搾取する私営工房の主人だったな! その罪を、人民の前で告白しろ!」


洪正は、仕事を止められ、来る日も来る日も、「学習会」という名の批闘大会に引きずり出された。そして、過去の経歴、交友関係、果ては心の中で思ったことまで、全てを洗いざらい書き出すよう、自己批判文の執筆を強要された。彼の誠実な人柄を知る古い同僚たちも、自らが標的になることを恐れ、彼を庇うどころか、競って彼を罵倒した。


その狂気は、家庭にまで及んだ。


ある夜、楡生は、地域の革命委員会の若者たちに呼び出された。その中心にいたのは、紅衛兵の腕章を誇らしげに巻いた、朱慧だった。彼女の顔からは、かつての快活な少女の面影は消え、イデオロギーに燃える、冷たく、硬質な表情だけが浮かんでいた。


「張楡生」彼女は、楡生を階級の敵を見る目で睨みつけた。「お前は、ブルジョワジーの息子だ。革命への忠誠を示す時が来た。お前の父親、張洪正の隠された罪を、我々の前で暴くのだ」


「……父さんに、罪なんてない」


「黙れ!」朱慧は、毛主席語録を振りかざした。「階級の敵を身内だと思うこと自体が、反革命的な思想だ! さあ、言え! 張洪正は、国民党のスパイと通じていたのではないか? 台湾にいる叔父から、反革命的な資金援助を受けていたのではないか?」


それは、香港の叔父からのささやかな支援を、悪意に満ちたレンズで歪曲した、言いがかりに過ぎなかった。


「知らない! そんなことはない!」


「しらを切る気か! ならば、我々が貴様に、父親を尋問させてやる!」


楡生は、人民裁判のようになった集会所の一室で、やつれ果てた父と向かい合わされた。周りを、朱慧をはじめとする紅衛兵たちが、憎悪の目で取り囲んでいる。


「さあ、聞け!」朱慧が命じる。「『父さん、あなたの罪を正直に話しなさい。人民は、正直な者を寛大に扱う』と」


楡生は、唇を噛みしめ、動けなかった。父を、自分の口で詰問しろというのか。


「早くしろ!」


誰かが、楡生の背中を蹴った。


洪正は、そんな息子を、ただ哀しげな、しかし穏やかな目で見つめていた。そして、小さく首を振った。言うな、と。お前が苦しむ必要はない、と。


その父の眼差しに、楡生の心の中で何かが切れた。彼は、生まれて初めて、巨大な理不尽と、人間そのものへの、底知れない不信感に叩きのめされた。世界が、歪んで見えた。


その数日後、ついに、その日はやって来た。


「抄家だ! 反革命分子、張洪正の家を捜索しろ!」


けたたましい怒号と共に、家の石庫門が蹴破られた。朱慧を先頭に、十数人の紅衛兵が、土足でなだれ込んでくる。彼らは、獲物を見つけた猟犬のように目を血走らせ、手当たり次第に家具をひっくり返し、壁にかけられた額を叩き割った。母の珍蓮が、妹の慧文と弟の滬生をかばって部屋の隅で震えている。祖母の玉蘭は、恐怖のあまり気を失っていた。


「徹底的に探せ! ブルジョワの証拠、反動的な書物、金銀財宝! 全て見つけ出せ!」


朱慧の甲高い声が、破壊音の中に響き渡る。


紅衛兵たちは、洪正が大切にしていた古いトランクをこじ開け、中身を床にぶちまけた。古い写真、手紙の束、使い古された裁縫道具、そして海南島時代の思い出の品々が、無残に散らばる。


その、ガラクタの山の中に、鈍い銀色の光を放つ、小さな物があった。


それは、楕円形の、小さなロケットペンダントだった。


楡生の目は、それに釘付けになった。なぜだか分からない。だが、そのペンダントを見た瞬間、彼の心臓は、警鐘のように激しく鳴り響いた。これは、ただの物ではない。これは、この家にとって、自分にとって、命にも等しい、何か途轍もなく大切なものだ。理屈ではなく、魂がそう叫んでいた。


紅衛兵の一人が、そのペンダントに気づき、足で蹴飛ばそうとした。


その瞬間、楡生は、考えるより先に動いていた。彼は、嵐の中に飛び込む獣のように、ガラクタの山に身を投げ出し、ペンダントを固く、固く握りしめた。


「こら! 何をする!」


紅衛兵たちが、楡生に掴みかかる。


「何を隠した!」


その声に、朱慧が鋭い視線を向けた。彼女は、ゆっくりと楡生の前に歩み寄ると、その顔を覗き込んだ。その目は、もはやかつての少女のものではなく、獲物を追い詰める蛇のように、冷たく、執拗な光を宿していた。


「張楡生。今、何を隠したの? 正直に言いなさい。毛主席は、我々に、全ての反動的な証拠を人民の前に晒すよう、教えているわ」


「……何も、隠してない」


楡生は、握りしめた拳を背中に隠しながら、喘ぐように言った。掌の中で、ペンダントの冷たい金属が、汗で滑る。


「嘘ね」朱慧は、冷ややかに笑った。「あんたは、昔からそう。肝心なことは、何も話さない。私の気持ちから逃げた時と、同じ顔をしているわ」


その言葉に、個人的な恨みが滲んでいるのを、楡生は感じ取った。彼女は、革命という大義名分を借りて、個人的な復讐を果たそうとしているのだ。


「これは、革命よ。個人の感情を挟む場所じゃない」楡生は、必死で平静を装って言った。「お前こそ、革命を私物化しているんじゃないのか」


「口答えする気?」朱慧の顔が、怒りで歪んだ。「いいわ。ならば、力づくで調べさせてもらう。みんな、この小赤佬シャオ・ツー・ラオ(このガキ)を押さえつけて、何を隠しているか確かめるのよ!」


数人の紅衛兵が、楡生の腕を捻り上げ、背中に隠した拳をこじ開けようとする。楡生は、必死に抵抗した。このペンダントだけは、絶対に渡してはならない。なぜかは分からないが、これを失えば、自分の魂の、一番大切な部分が、永遠に失われてしまうような気がした。


「やめなさい!」


その時、これまで黙って隅で耐えていた珍蓮が、叫び声を上げた。彼女は、子供たちを背後にかばいながら、立ち上がった。


「この子をいじめるのは、およし! 何かあるなら、あたしが相手だよ!」


その母の姿に、楡生は一瞬の隙を得た。彼は、捻り上げられた腕の力を逆に利用し、体を回転させると、紅衛兵たちの間をすり抜け、部屋の隅にある、石炭を積んだ麻袋の陰に転がり込んだ。そして、握りしめていたペンダントを、石炭の黒い塊の間に、素早くねじ込んだ。


「見つけたぞ!」


紅衛兵たちが、再び彼に殺到する。


「今度こそ、逃がさないわ!」


朱慧が、勝利を確信したように命じる。彼らは、楡生を荒々しく引きずり出し、全身を調べた。だが、ペンダントはどこにもない。


「どこへやった!」


「……だから、何もないと言っただろ」


楡生は、息を切らしながら、不敵な笑みさえ浮かべてみせた。


朱慧は、唇を噛んだ。彼女は、楡生が何かを隠したことを確信していた。だが、証拠がない。彼女は、石炭袋に、疑いの視線を一瞬向けた。しかし、真っ黒な石炭の山を、この場で一つ一つ調べるのは、現実的ではなかった。


「……いいわ」朱慧は、悔しさを押し殺して言った。「今日のところは、これくらいにしてあげる。でも、覚えておきなさい。私たちの目は、常にあんたたち一家を監視している。反革命の尻尾は、必ず掴んでみせるから」


彼女は、そう吐き捨てると、部下たちを引き連れて、破壊の限りを尽くした家から引き上げていった。


嵐が、過ぎ去った。


残されたのは、粉々になった家具、破り捨てられた書物、そして、ズタズタに引き裂かれた家族の心だった。


父の洪正は、その日のうちに「牛棚ぎゅうほう」と呼ばれる、反動分子を収容する暗い部屋に連行されていった。


それから、地獄のような九ヶ月が過ぎた。


楡生は、夜、家族が寝静まった後、こっそりと石炭袋からあのロケットペンダントを取り出し、自分の枕の下に隠した。時々、彼はそれを掌の中で温め、見つめた。それは、何の変哲もない、古い銀のロケットだった。開けてみようとしたが、固く閉ざされていて、(無理して壊すのが怖くって)開かなかった。それでも、彼は、これが自分の「生き印」であると、心のどこかで確信していた。


九ヶ月後、父の洪正が、牛棚から解放されて帰ってきた。彼は、幽霊のように痩せこけ、髪は真っ白になり、かつての精気は完全に失われていた。だが、彼は生きていた。家族は、言葉もなく、ただ抱き合って泣いた。


その夜、楡生は、枕の下からロケットペンダントを取り出し、父の前に差し出した。


「父さん、これは……」


洪正は、そのペンダントを見て、息を呑んだ。彼の目に、何年ぶりかで、強い光が宿った。彼は、震える手でそれを受け取ると、何も言わずに、ただ息子の肩を、強く、強く抱きしめた。


後片付けもままならない、破壊された家の中で、父と息子は、一つの小さなペンダントを間に、無言で繋がっていた。


朱慧は、あの日以来、張家に近づくことはなかった。彼女は、より大きな革命の舞台へと、その身を投じていった。彼女が見た光とは、何だったのだろうか。それは、毛主席が指し示す、輝かしい革命の未来という光だったのか。それとも、かつての恋心を憎悪に変え、権力を振りかざすという、暗く歪んだ快感の光だったのか。


あるいは、彼女は、あの混乱の中で、別の光を見ていたのかもしれない。


理不尽な暴力に抗い、得体の知れない一つの小さな物を、命がけで守ろうとした少年の、その屈しない瞳の中に宿っていた、強い光。それは、どんなイデオロギーにも、どんな権力にも、決して消すことのできない、人間の尊厳そのものが放つ光だった。


その光の眩しさに、彼女は、自分が信じる「革命の光」が、実は底知れぬ闇なのではないかと、ほんの一瞬、感じてしまったのかもしれない。そして、その眩しさから、目を逸らすようにして、彼女は去っていったのだ。


文化大革命の嵐は、まだ始まったばかりだった。だが、楡生の心には、あのロケットペンダントと共に、一つの確かな光が灯っていた。それは、いつか、この長い夜の果てに、真実を知る日が来るという、かすかな、しかし消えることのない希望の光だった。

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