数年後
完璧に牧歌的なその光景の中を、ひとりの男が歩いていた。
誰もどこから来たのか知らない男。
手には二本の人参と一本の葱、
そして――袋から逃げ出そうとしている、やたらと意思の強そうなレタスが一つ。
「お見事。滞在一週間で、レタスとの戦いに敗北するとはね」
霊ケアリンが呆れたように言った。
「先に手を出したのはあいつだ」
ブルーノはぶっきらぼうに答え、視線を落とすこともなく肘でレタスを袋に押し戻した。
村人たちは、まるで“正装したヒキガエル”でも見るような目で彼を見送った。
好奇心、わずかな恐れ、そして――“場違いなものを見た”という確信。
ブルーノは気にしなかった。
まるでずっと昔からここにいたかのような歩き方で進む。
もしかすると、本当にどうでもよかったのかもしれない。
あるいは、もっとひどい場所を知っているだけなのか。
「誰かと話してみたらどうだい? たまには。
最後に人間と会話したときなんて、完全にスルーされてたじゃないか」
「忙しそうだった」
それだけで十分だと言わんばかりに、彼は平然と答えた。
「忙しいって、“他人の脳に子守唄を語ってた”って意味だったのかい?」
沈黙。
ブルーノは八百屋の前で立ち止まった。
店主は笑顔を見せ――次の瞬間、凍りつく。
ブルーノは一本の人参を手に取った。
曲がっている。だが、買った。
「マジで? そんな曲がった人参?
それ誰に食わせるつもり? 自尊心か?」
ケアリンが目を回しながら言う。
「俺に似てるだろ。まっすぐ……だけど、哀愁でねじれてる」
ブルーノの声は乾いた皮肉で満ちていた。
ケアリンは三秒ほど黙り込み、
「……詩的に最悪だね」とだけつぶやいた。
ブルーノは無視した。
水たまりで石を跳ねさせて遊ぶ子どもに小さく手を振る。
子どもは叫びながら逃げた。
「変な人だー!」
「君ってほんと、みんなに愛されてるよね」
「努力中だ」
――努力する気のない顔で言う。
ようやく家が見えてきた。
今日も無事に“誰にも知られずに済んだ”と、
ブルーノが密かに満足しかけたそのときだった。
背後から――声。
いや、音。
鈍い衝撃。そして、震える声。
「う、動くな! 全部出せ! ケガしたくなきゃな!」
ブルーノはゆっくりと振り返った。
片手で曲がった人参をかじりながら。
そこにいたのは――
痩せた少年。
震える手に、刃の鈍い短剣を握っている。
「お、俺は……おまえを襲ってるんだ!」
少年は震え声で繰り返した。
ケアリンは顔を覆い、深いため息をつく。
「完璧だ。盗賊まで登場。今日という日には花が咲いたね」
ブルーノは淡々と人参をもう一口。
その目は穏やかで、静かに少年を見つめていた。
――瞬間。
少年がびくりと跳ねる。
短剣の先が突き刺さったのは、肉ではない。
……レタスだった。
「な? 戦わずに勝てるってわけだ」
ブルーノは軽く肘を上げ、得意げに構える。
「本当の戦いは、あの子がレタスを刃から引き抜くことだろうけどね」
ケアリンがぼそりとつぶやいた。
ブルーノは聞いていない。
ただ歩き続け、家の扉の前に立った。
手が取っ手に触れた瞬間――動きが止まる。
「どうした?」
「……誰か、家の中にいる」
ブルーノの声が低く沈む。
目が闇を探る。
一拍。
「……もういない」
扉を押し開けた。
何も変わっていない。
物も盗まれていない。
「……盗みじゃないな。目的は――」
ケアリンが顎に手を当てた。
「――観察、だ」
ブルーノは黙ったまま、買ってきた野菜を片付ける。
その足元――
床に落ちている、黒い何かに気づいた。
夜の闇よりも深い黒。
彼のものではない。
外。
高い木の上で、何かが動いた。
静かに、正確に。
ブルーノの家を見下ろしながら、音もなく息を潜める。
それは、葉と同化した影。
あるいは、“世界に忘れられる術”を極めた者。
袖口から覗く曲線状の黒い紋様が、
かすかに脈打ち――やがて、止まった。
「……あの男、違うな」
そして次の瞬間、風に溶けるように姿を消した。
「良い夢を」




