溶ける瞬間
社会人というのは、青春からはひどくかけ離れた存在だと思っていた。
歳を重ねるにつれ、人は子供や他人から、その残り香を分けてもらうしかないのだと思っていた。
誰かの笑い声、誰かの恋、誰かの思い出
そのすべては、触れられないものとして遠くで揺れている。
そんなものだと思っていた。
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理不尽な叱責、しょうもないクレーム対応。
ここ最近は、心を削り取るように僕を消耗させていった。
「社会人だから仕方ない」と自分に言い聞かせる中、やり場のない苛立ちが静かに燻る。
張り付けた仮面は、疲労と虚しさでどんどん重くなる。
歩きながら、ふと思う。
いつからこんなにも笑うタイミングを失ったのだろう。
子供のころは、些細なことで何度も笑い転げていたはずなのに。
気づけば日常のほとんどがルーティンと化し、
責任に埋もれ、取り繕った笑顔に変わっている...
帰り道、家までは徒歩10分ほど。
普段なら、この道の途中で気持ちは少しずつ整い、明日への小さな余裕を取り戻せるのに、今日は少し違った。
背中にまとわりつく負の感情が、歩みに呼応するかのように離れない。
街灯の黄色い光が熱を蓄えたアスファルトにぼんやり映る。
暗く、静かに、それでいて存在を主張するように...
ひとりで立ち止まり、息を吐くと、
孤独があたりに漂うようだった。
「コーヒーでも買うか...」
そう心の中で呟き、コンビニへと歩みを進めた
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コンビニに着くと、
店前のガードレールに腰をかけている女性が目に入った。
こんなに暑いのにスーツ姿で、落ち着いた雰囲気。
僕より少し年上だろうか。
片手にアイスを持ち、困ったようにため息をついている。
数秒目が合い、会釈をされ、軽く会釈を返す。
コンビニに入るその瞬間、ズボンにアイスがこぼれているのがちらりと目に入った。
「使います?」
気づけば、僕はハンカチを手に声をかけていた。
彼女は目を見開き、驚いたように笑った。
「すみません…助かります」
拭き終えた彼女はお礼にと、同じアイスを買い、僕に差し出した。
「すみません、これでチャラにしてください」
僕はお礼を言い、素直に受け取ることにした。
どれだけ荒んでいても、人の好意には素直になれる。
胸の奥の乾いた部分が、少しずつ水を含んでいくようだった。
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数分後。
近くの公園のベンチで、なぜか僕は見知らぬ女性と並んでアイスを食べていた。
街灯の光に照らされたベンチの影は長く伸び、足元の影と夜の闇が溶け合う。
遠くで犬の鳴き声がし、途切れ途切れに車の音が聞こえる。
街の喧騒の中、気まずさを紛らわせるため僕は口を開いた。
「こんな時間に、外でアイス食べるなんて久しぶりですよ」
口にした僕の言葉に、彼女は小さく笑った。
「ですよね。私も、こんなこと滅多にしません」
少し間を置いて、彼女がぽつりと続ける。
「コンビニでアイス買って外で食べるのなんて、学生のとき以来かもしれない」
僕は黙って聞いていた。
「部活の帰りに、友達とよく食べてたんです。
夏の夜に、制服のまま。
あの頃は何も考えずに笑っていられたのに……
社会人って、笑うタイミングすら失うことがありますよね」
街灯に照らされる横顔。
その輪郭に、どこか儚さを感じる。
年上で落ち着いているはずなのに、今だけは僕と同じ場所に取り残されたように見えた。
僕は思わず口を開いた。
「でも、こうして食べてると...
ちょっとだけ、取り戻せる気がしますね」
彼女は驚いたように僕を見つめ、ふっと笑った。
「そうかもしれない。
大人にも、大人なりの楽しみってあるんでしょうね」
理不尽も叱責も、遠くに押しやられていく。
馬鹿げているけれど、不思議と胸が温かくなる。
僕は思った。
―もしかすると、青春とは「過去」でも「未来」でもなく、「今ここ」にあるのかもしれない、と。
過去の栄光も、未来の希望も、すべてこの瞬間に滲んでいる。
目の前の彼女もまた、過去の自分の影を抱え、未来の不安を背負いながら、この一瞬に立っているのだろう...と。
そう思うと少し救われる気がした。
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アイスを食べ終えた彼女は袋を丸め、夜空を見上げる。
「また、ここでアイス付き合ってくれる?」
数刻の沈黙。
「またハンカチを貸すことがあれば…」
冗談混じりにそう答えたとき、仮面が外れているような気がした。
彼女はこちらを見つめ、またふっと笑った。
灯った光は、永遠ではないことを知っている。
それでも、この熱帯夜の中で、
僕は確かに生きていると感じていた。
歩き出す足取りは、ささやかに軽くなった。
今この瞬間だけは生きている実感が背中を押してくれていたから...
フィクションとノンフィクションの狭間で昇華したく、
書きました。
事実は小説よりも奇なりという言葉の通り、
現実に期待をしてもいいのかも知れませんね。