最後の恋、繰り返しの夢
最後の恋、繰り返しの夢
アパートの一室は、いつもと変わらぬ、湿り気を帯びた六月の夜の空気を吸い込んでいた。壁にかけた古いカレンダーは、梅雨の蒸し暑さと共に、七十を過ぎた俺の残りの時間を静かに刻んでいる。テレビの画面では、白黒の映画がモノクロームの夢を紡いでいた。主演女優の、あの頃の日本映画ならではの慎ましい美しさに、ふと遠い記憶が呼び覚まされる。
(ああ、あの時代か……)
昔懐かしいメロディが流れ、エンドロールがゆっくりと昇っていく。映画が終わると、部屋は再び静寂に包まれた。昔はよく、こんな夜には酒をちびちびやっていたものだが、今では医者に止められている。代わりに出されたのは、決まった時間に飲むよう指示された、数種類の薬だ。高血圧の薬、コレステロールを下げる薬、そして、ここ数年患っている不眠症を和らげるための、ほんのり鎮静効果のある薬。その薬は、いつも通っている病院の、あの看護師が処方してくれたものだ。彼女の声は優しく、いつも笑顔で、どこか知的な雰囲気を持っていた。
ごくり、と一気に飲み干した。
薬が喉を通っていくたびに、体にじんわりと重さが広がるような錯覚を覚える。いつもなら、この後ソファに戻り、読みかけの本を少し読んでから床に就くはずだった。だが、今夜は何だかひどく眠い。まるで全身の力が抜けていくように、ぼんやりとした意識が俺を包み込む。病室で、何度も同じ悪夢にうなされていたことを、あの看護師が知っていたなんて、この時は思いもしなかった。
(今日は、映画が長かったからか……)
そう思いながら、俺は深い眠りの中に落ちていった。
次に目覚めた時、最初に感じたのは、布団の感触とは違う、やけに硬い床の冷たさだった。身体を起こそうとすると、あれ? と思った。いつもの重苦しさが、どこにもない。むしろ、羽が生えたように軽い。
目を開けた。そこは、見慣れない天井だった。いや、見慣れないはずはない。これは、かつて俺が暮らしていた、もっと前の、二十代の頃に住んでいた下宿の天井だ。壁には、大学時代に貼ったままになっていた、古ぼけたバンドのポスターが貼ってある。
「…なんだ、これ?」
掠れた声を出した。その声が、やけに若々しい。慌てて飛び起き、部屋の隅に置かれた、鏡台に向かった。
鏡に映っていたのは、皺一つない滑らかな肌、力強い瞳、そして、三十年以上前に別れたはずの、見違えるほど若い自分だった。
俺は、一瞬、夢を見ているのかと思った。だが、頬をつねると、ズキンとした痛みが走る。そして、脳裏に一瞬よぎったのは、昨夜見たあの白黒映画のヒロインの面影と、それをぼんやりと見ていた、七十過ぎの「俺」の姿だった。
混乱と興奮が入り混じる中、ふと、ある顔が脳裏に浮かんだ。麻美――。大学の、一つ下の後輩だった。あの日見た白黒映画の女優に、どこか雰囲気が似ていた。控えめで、それでいて芯の強い、涼やかな目元。いつも誰かのために動き、さりげない優しさで周囲を明るくする、ひまわりのような人だった。
俺は、あの頃、彼女に夢中だった。何度も告白しようと思った。しかし、結局、言えなかった。臆病だったのだ。そうこうしているうちに、彼女は別の大学の先輩と付き合い始め、卒業と同時に結婚して、あっという間に俺の人生から姿を消した。それ以来、俺は誰かを本気で好きになることもなく、ずるずると独身のまま歳を重ねてきた。
この若返りで、今度こそ、あの時の「もしも」を実現できるのではないか。俺の胸に、かつてないほどの熱い感情が込み上げてきた。
ボロアパートの部屋を出ようとドアを開けると、隣の部屋から見慣れた顔がひょっこり顔を出した。大学時代からの悪友、タカシだ。俺が七十を過ぎてからも、年に一度は酒を酌み交わす、数少ない親友。だが、今の彼の姿は、皺一つない、あの頃の若々しいタカシそのものだった。
「よお、健一! 今からか? 悪いな、昨日のレポート、俺まだできてねぇんだよ」
俺は、この状況で何をどう説明すれば良いのか、全く分からなかった。もし、俺が若返ったことを話せば、狂人だと思われるだろう。
俺が狼狽していると、ふと、タカシの部屋の中から、もう一つ、顔が覗いているのが見えた。それは、俺の全く知らない女性だった。二十代前半だろうか。肩にかかるくらいの茶色い髪を揺らし、少しだけ眠たそうな目をしている。目が合った瞬間、彼女はまるで俺の内心を見透かすかのように、小さく、しかしはっきりと口元だけで呟いた。
「おかえりなさい」
その言葉に俺は驚いたが、彼女はすぐにタカシの部屋の奥へと引っ込んでしまった。
「おいおい、健一? どうしたんだよ。誰かに見えてんのか?」
タカシの言葉に、俺は慌てて首を振った。タカシが、再び口を開く。
「健一、まさかとは思うけど、隣に引っ越してきた麻美のこと、知らないのか? 俺がこの前話しただろ? 新しい彼女だって」
その瞬間、俺の頭の中に、稲妻が落ちたような衝撃が走った。麻美? あの女性が麻美? そして、タカシの新しい恋人だと?
俺の全身から、力が抜けていくようだった。若返って、一番に思い出した「麻美」という存在。この手に入れた若い体で、今度こそ、と胸に燃え上がったはずの希望が、一瞬にして凍てつく氷に変わる。
タカシに促され、麻美は再び姿を現し、自己紹介した。やはり、彼女はあの麻美だった。俺はなんとか挨拶を返したが、頭の中は真っ白だ。麻美は、朝食を誘ってくれたが、俺は「急ぎの用事がある」と嘘をつき、その場から逃げるようにアパートを飛び出した。外に出ると、行き交う若者たちの会話のテンポや、コンビニの前に並ぶ見たことのないエナジードリンクの多さに戸惑い、自分が本当にこの時代に馴染めているのか、不安が募った。
翌朝、俺はやはり麻美と鉢合わせした。タカシは今日から合宿でいないという。麻美の視線は、昨日よりもさらに深く、俺の内側を見透かすかのようだった。そして、彼女は昨日と同じように、しかし昨日よりもはっきりと口元だけで言った。
「あの、健一さん……今日も、よろしければ……」
俺は迷わず頷いた。もう逃げないと決めた。部屋に入ると、麻美は昨日と同じように温かく、美味しい朝食を用意してくれた。あの病院の看護師と同じように、どこか知的な雰囲気を持ち、それでいて優しい彼女の姿に、俺の胸はざわついた。
そして、麻美は、静かに語り始めた。
「実はね、健一さん……タカシが、私のことを好きだって、言った時、あなたは、何も言わずに、身を引いたのよ」
その言葉に、俺の記憶の奥底に封印されていた過去の真実が、鮮明に蘇った。あの時、タカシの屈託のない笑顔を曇らせたくなくて、俺は自分の想いを飲み込み、彼の背中を押したのだ。俺は、自分で麻美への道を閉ざしていた。
「そう……だったな」
俺は絞り出すように答えるのがやっとだった。麻美は、俺の顔をじっと見つめ、哀しげに続けた。
「あなたは、あの時、いつもそうだった。いつも、一歩引いて、自分の気持ちを言わない人だった。だから、私は……」
その言葉は、俺の胸に突き刺さった。俺のせいで、麻美もまた、何かを諦めていたのかもしれない。麻美の瞳に、かすかな後悔の色が浮かぶ。「毎回、あなたが私のもとから去っていくのを見るのが、どれほど辛かったか、あなたには分からないでしょうね」と、彼女は静かに呟いた。
「そして、健一さん……あなたは、これが初めてじゃないのよ」
俺は息を呑んだ。
「あなたは何十年かに一度、人生の岐路に立った時、特に後悔を抱えたまま死に瀕した時、あの薬を飲んで、こうして若返るの。そして、毎回、私の元に現れる」
麻美は、遠い目をするように語った。
「でも、毎回同じなの。あなたはいつも、私への想いを口にすることなく、誰かのために、あるいは自分の臆病さのために、身を引いてしまう。そして、時が来て、また元の老いた体に戻っていく」
俺が、長年通っていた病院。いつも俺のうなされ声を聞き、その痛みを理解してくれていた、あの看護師。彼女が、麻美。そして、あの若返りの薬は、彼女が俺に、この繰り返される後悔の連鎖を断ち切るために渡したものだった。彼女は、俺が「燃えるような恋」をしたいと願っていたことを知っていたのだ。そして、彼女自身も、俺のその願いが叶うことを、誰よりも強く願っていた。
麻美の瞳が、再び俺に向けられる。その眼差しは、今度こそ、俺に選択を迫っていた。
「だから、健一さん。今回もまた、あなたは身を引くの? それとも……」
俺は、麻美の手を、強く握り返した。
「いや……もう、身は引かない」
声は震えていたかもしれないが、その言葉には、七十余年の後悔と、そして今、麻美の真実を知ったことで生まれた、新たな決意が宿っていた。麻美の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、長きにわたる繰り返しの終わりを予感させる、光り輝く涙だった。
その後の**数週間は、俺にとって生涯で最も鮮烈な時間だった。**タカシが合宿から帰ってくるまでの間、俺たちはあのボロアパートの一室で、語り合い、笑い、そして、互いの過去と未来を分かち合った。夜の公園で他愛ない話をしてはしゃぎ、カフェで何時間も夢を語り合った。時には、麻美の手を引いて夜の岐阜の街を駆け、人気の少ない金華橋の上で、初めて素直な言葉を交わした。「ずっと、あなたが好きだった」――そう告げた時、麻美は涙を流し、俺の全てを受け入れてくれた。生まれて初めて、こんなにも誰かの全てを欲し、誰かの全てに愛されたいと願う自分がいた。
それは、まさに「燃えるような恋」だった。若き日の衝動と、老練な魂が混じり合った、複雑で、しかし深く、切ない情熱。二度と後悔しないよう、俺は麻美の全てを受け入れ、そして、麻美もまた、俺の全てを包み込んでくれた。
タカシが帰ってきた時、俺は麻美と共に、全ての真実を彼に告げた。タカシは一瞬、言葉を失い、俺たちを呆然と見つめた。彼の顔から血の気が引き、その目に深い傷が走ったのが分かった。彼はただ「……そうか」と絞り出すように呟いたきり、多くを語らなかった。だが、彼が去る時、その背中が、どこか小さく見えたのは、俺の気のせいではなかっただろう。
俺と麻美は、アパートを出て、二人の新たな生活を始めた。それは、永遠には続かない、儚い時間だった。若返りの効果が、いつまで続くのかは分からなかった。しかし、麻美は言った。「大丈夫よ、健一さん。もう、あなたは何も後悔しなくていい」。
季節は移り変わり、若返った体には、再び時間の足音が聞こえ始めた。肌のハリは失われ、体に重さが戻っていく。それは緩やかで、しかし確実な変化だった。麻美は、そんな俺の姿を、いつも優しく見守ってくれた。そして、俺は、もう何も恐れることはなかった。
最後の朝、俺は再び、あの病院のベッドにいた。麻美が、看護師の姿で、俺の隣に座っている。その手は、昔と変わらず、優しく、温かかった。窓の外には、朝焼けの光が差し込み、新しい一日が始まろうとしていた。
「麻美……」
俺は、精一杯の力で、彼女の手を握り返した。麻美の顔は、涙で濡れていたが、その瞳は、確かな愛情に満ちていた。
「ありがとう……」
その言葉は、麻美に若返りの機会を与えてくれたことへの感謝であり、これまでの人生の全てを見守ってくれたことへの感謝であり、そして、俺に「燃えるような恋」を与えてくれたことへの、何よりも深い感謝だった。
俺は、満足していた。
過去の愚かな選択を乗り越え、本当に望んだ愛を手に入れた。繰り返されてきた後悔の連鎖を、ついに断ち切った。
視界が、ゆっくりと白く染まっていく。その薄れていく意識の中で、俺は麻美の顔を見上げた。
そして、俺は、満足そうに、穏やかに、微笑んだ。
その微笑みは、七十余年の人生の終わりに、ようやく見つけられた幸福の証だった。俺は、これまでのどの生よりも深く、満たされた心で、静かに息を引き取った。
麻美は、彼の顔を見つめ、そっと彼のまぶたにキスをした。
「……おやすみなさい、健一さん」
彼女の瞳には、哀しみと共に、長きにわたる物語の終焉を見届けた、深い安堵の光が宿っていた。
病室の窓からは、早朝のひんやりとした風が吹き込み、カーテンを揺らした。ベッドサイドのモニターは、静かに直線を示している。部屋には、規則的な機械音だけが響き、そして、看護師の麻美は、その場に立ち尽くしていた。
彼女は、彼の遺体を、穏やかな表情で見つめる。その口元には、微かな微笑みが浮かんでいるように見えた。
「これで、あなたも、ようやく自由になれるわね」
麻美の呟きは、誰にも聞こえることなく、白い病室の空気の中に溶けていった。
その瞬間、病室の片隅に置かれていた、昨日まで彼の老いた体が身につけていたパジャマが、風もないのに、ほんのわずかに揺れたように見えた。あるいは、それは、ただの錯覚だったのかもしれない。
そして、病室のテレビの画面には、昨夜からずっと流れていた、昔懐かしい白黒映画のエンドロールが、再び静かに昇っていく。それは、誰の目にも触れることなく、ただ淡々と、物語の終わりを告げていた。