第6話 荒れる漢王朝、諫める父
ひとまず平日1話、休日2話でゴールデンウィーク終わるまで投稿します。
予定よりストックに余裕があれば追加で投稿する場合もあります。
青州 北海国高密侯国
光和元年は中央が激動となった1年だった、らしい。年末に兄から元気かという手紙をもらった限り、そうらしい。
まずは売官の公認だ。これまでも賄賂を渡して便宜を図ってもらう、くらいのことは裏で行われていただろう。しかし、光和元年から漢の皇帝・霊帝こと劉宏は西邸と呼ばれる屋敷を用意し、ここで皇帝公認で金で官位を買えるようにした。しかもこれを管理するのが宦官。腐敗ここに極まれり。
これをビッグウェーブと見た商人たちが大金を払って公的な官位を得て、箔付けに利用されまくっているそうだ。俺と高誘を送り届けてくれた商人の張世平も雒陽までは行かないらしく、一度北海に来た時に「一度友人から教えてもらって相場を見たらとんでもない額でとてもとても手が出せません」とか言っていた。
当然だがこれに対する批判は大きい。ただ、この件を高誘と話していたら郗慮(字は鴻豫である)が話に入ってきてこう教えてくれた。
「皇帝が、というより漢朝が今資金難なのが原因さ。劉宏様は最近の冷夏や荒天で作物からろくな税が集まらず、それでいて北狄が度々漢の領土を荒らすのに対応しなければならない。劉宏様はこれを誅罰するために雒陽に近衛軍を置こうとしているのさ」
「ということは、その近衛軍の原資を用意するために売官していると」
「だろうな。しかし、それで清流派の賢人たちが漢朝を見放してるんだから、困ったもんさ」
「詳しいですね。さすが鴻豫殿です」
「ふ。これでも名士の知り合いは多い。雒陽にいる孔聖の子孫とも手紙のやり取りをしているからな!」
「孔聖の子孫と申されると、かの孔融様でしょうか?すごいですね」
「ふふふ。まぁな!雒陽の事が知りたければいつでも聞いてくれたまえ」
まぁ、上手くおだててれば色々教えてくれる人みたいだから、それでいいか。
しかし、事情があるとはいえ結果的に国内が混乱しているのは事実だ。売官で得た官位を笠に着て横暴なことをする者もいるらしく、これに反発したのが宋皇后の弟である宋奇だった。彼は29歳という年齢ながら濦強侯を襲名して執金吾に就くなど将来を嘱望されていた。しかし、売官によって1つ下の格の関内侯が売りだされたことに怒ったため、霊帝に直接諫言したそうで。
「濦強侯は謀反の意ありとのことで誅され、宋皇后は廃位させられた。宋一族は三族皆殺し。しかも濦強侯の室が一族まで連座を受けたとか」
「連座されたのって」
「曹一族だ。やはりあの曹騰様が亡くなって、曹一族の権勢にも陰りが見えているな」
曹操の祖父である曹騰。彼は俺が生まれた頃には亡くなっていた。そんな彼の影響で曹操は名士との繋がりを得られたと言っても過言ではない。今回の処分は曹水の娘が嫁いでいた影響らしい。曹水は呉郡太守である曹鼎の子だとか。血族的にはこちらが本流で、曹操は父親が養子なのもあって死んだのは惜しまれるだけだったらしい。
「しかも、この発表の直後に日食があった。雒陽は大騒ぎだったそうだ」
「こちらも騒ぎにはなりましたが、やはり」
10月、日食があった。コーリャンとトウモロコシの収穫も終わり、明るい話題の多かった鄭玄様の門下生でも動揺が見られた。漢王朝にとっては余計だろう。雒陽では売官のせいだ天が怒っていると大騒ぎだったとか。
「とは言え、この件は旋殿の父上こそ活躍なされただろう」
「ええ。父は直接人事を改めるべしと皇帝に申したそうです」
「……お前が父に縛られたくなくとも、盧大海の名は漢の地に轟いている。まぁ、その、頑張れよ」
郗慮から見ても、父は相当偉大なようだ。そりゃそうだ。やってることは小説の主人公みたいだし。むしろなんで父が主人公の小説はなかったんだ。
♢
年が明け、光和2(179)年となった。新年を祝ってみんなで餅を食べながら今年が良くなることを願う……なんて殊勝なことはなく。過酷な勉学と農作業に早く慣れますように、なんて願いを思った。間違えてはいけないのだが、自分はまだ数えで15歳。父からの遺伝で背は高く、先日測ってもらったら7尺5寸(約181cm)くらいあった。確認が終わった後、高誘には呆れられた。
「盧先生のような体格になるとすれば、いつか茂才で雒陽に行けそうだな」
「雒陽か……どうでしょうねぇ」
「州牧として各地を渡り歩くならともかく、皇室の下で働くならば雒陽での仕事は切っても切り離せないぞ。盧先生も尚書として今は雒陽務めだろう?」
「ええ。父は議郎の職の方が楽しかったようですが、尚書として雒陽で職務に励んでいるかと」
「で、兄上は太学、と」
高誘が太学、という言葉を口にする時に少し小声になる。隣の部屋にいる郗慮に聞こえないように。
「ええ。ですので、兄上は雒陽で暫し学ぶことになるでしょう」
「拙はここで馬先生の教えを受け継ぐのが我が身でなすべき大業と心に定めていますが、旋は違う。それをしっかり考えて、いつ雒陽に行くかも先々のために考えておくと良いですよ」
「そうですね」
いや、決めてはいるんだ。黄巾の乱が発生する5年後まで、ここにいると。だが、周囲は18歳になったら太学を受験するために雒陽に行くんだろうという目で見てくる。これは少々厄介だ。鄭玄様の下に長くいるのは鄭玄様と儒学を究めようとする者たちだけだ。官僚を目指す者は長くても5年くらいでいなくなる。俺はその計算だと黄巾の乱の直前にここを去る計算になる。こういうことならあと2年琢郡で学んでおくべきだった。こっちはそんなシステム知らないんだ。インターネットで何でも調べられるわけでもなし、資料請求の電話が出来るわけでもなし。情報は自分の目と耳で仕入れろがこの時代の常識だ。それ考えると後々のために密偵とか育てたくなるな。
折角なので、少ない雒陽の人脈である蔡邕様に手紙を送った。雒陽の様子を教えてもらう伝手は多いに越したことがないからだ。ついでに、定型文のように「困ったことがあれば頼ってください」の一文を添えておいた。
春。コーリャンとトウモロコシの大規模な作付が始まった。鄭玄様の高弟とも呼べる年長の門下生の任された田畑で一斉に作付けしていく。昨年レンゲを育てた場所にコーリャンを植え、トウモロコシを植えた場所にカブを植える。連作障害も考えられた素晴らしい輪作農業だ。
ホッカイテイオーは昨年収穫したカブのざく切りを美味しそうに頬張っていた。本当は人参食べたいよな。でもここで人参と言えば薬用で知られるあの超高級人参だけなんだ。すまない。
衣食住の充実は大事。鄭玄様も飢える事がないのは学を志す上で大事だから農業もしているのだ。倉廩実ちて礼節を知る。衣食足りて栄辱を知る。管子の言葉である。
♢
夏。今年も無事に雨が降った。おかげでコーリャンもトウモロコシも生育は順調だ。寒さのせいで他の作物はあまり順調とは言えないものの、この2つは例外だ。ホッカイテイオーも昨年の収穫分から一部作ったトウモロコシの粗挽きを美味しそうに食べている。疲れたので少し木陰で休む。おかげさまでなんとか学問と農業を両立できる程度の体力はついた。天に祈りは通じたのかもしれない。
ホッカイテイオーに乗って周辺の見回り番に向かう。農作業・勉学・そして自衛。全部やらないといけないのがここの生活の難しさだ。一応、地元の名士である孫家から支援を受けているらしいが、それも積極的ではないとか。鄭玄様が影響を受けすぎないようにそうしているとか。とは言え、ここで学んでいる孫家の一族もいる。それが孫乾だ。彼は今年に入ってから鄭玄様のところに学びに来た。15歳まで書館で過ごし、地元の名士として地元出身者と友好を結んできたらしい。
彼が門下に加わったため、俺の住む部屋が一番余裕があるからと彼を加えることになった。最年長の門下生・郗慮・高誘・俺・孫乾というルームメイトだ。そして、今日の見回りは郗慮を先頭にして孫乾と一緒である。
「旋、お前もそろそろ字を名乗れば良かろう」
「鴻豫殿、自分はまだまだ未熟者であります故」
「盧大海様に願い出れば成人扱いも出来るだろうに」
そうするとここに長くいられなくなる。難しいところだ。尚更雒陽で学べと言われかねない。
「まだまだ兄と違って未熟ですので」
「常に兄を立てる姿勢は盧大海様の薫陶が行き届いているな」
こんな会話をしていると、前方から2人組の見知らぬ男が走ってくるのが見えた。鄭玄様のところまで普段来る人間は限られる。顔を見たことがない人間に、郗慮も俺も身構える。少し後ろの高誘がとっさに馬首を後方に向け、不審者の接近を伝えようとする。しかし、孫乾が彼らに親しげに話しかけたことで、俺たちは警戒を少し緩める事になった。
「おお、良ではないか!」
「若様!ちょ、ちょうど良いところに!至急鄭先生とそちらに居る盧大海の御子に連絡を!」
「盧大海の子は私ですが、何か?」
「な、なんと!これぞ天の采配!」
何があったんだ?鄭玄様と一緒に呼ばれるなんて、父関係くらいしか思い浮かばない。しかし父の生涯でこの時期何か大きなことなんてあっただろうか?正直黄巾の乱の活躍と董卓に殺されかけることくらいしか知らないぞ。
「実は、盧大海の御子を訪ねて御客人が孫家に顔を出されまして」
「客人、ですか?私に?」
「はい」
そこで出てきた名前は、あまりにも驚くべきものだった。
「蔡伯喈様が、陳留郡よりこちらに!」
蔡伯喈?つまり、蔡邕様?が来た?
光和2年は、波乱で終わりを告げようとしていた。
人参の中国伝来は10世紀前後。ホッカイテイオーはRPを増やす方法がありません。課金でこれはなんとかならないんだ、すまない。
青州孫(夏侯)家は史料的な証拠はないですが、北海郡だと孫乾(鄭玄に推挙される)・孫邵(呉の初代丞相)と結構著名人が輩出されているので設定しています。
孫乾が各地で外交面に活躍したのも、呉の重臣である孫邵との血縁や夏侯氏との遠縁があったからではないかと推測しています。
樊城の戦い・夷陵の戦いにいたる大きな理由が孫乾の死(215年)・魯粛の死(217年)と孫呉・蜀漢の同盟の要が相次いで死んだことにあると思っています。




