第二話:バケモノ
人生最期の冬にはさせない。
物心着いたときには、父はもう居なかった。
周りの子も、母が居なかったり、兄弟姉妹が消えてしまったりである。でもそれは度重なる天災のせい。仕方ない、当たり前で終わるはずだった。
私には九つ離れた姉がいた。
彼女が生贄だと、五歳のときに知らされた。というより、大人たちが話しているのを聞いてしまった。
でも周りから何と言われようと、私はおねえちゃんが大好きだ。昔も今も、これから先も。
「……あ」
だから今日。この一瞬。その声を聞けて良かった。
そしてこれからも、聞いてやる。
当たり前なんかに、してやるものか。
※ ※ ※
そこには妹がいた。
なんで? 居るはずのないその存在に私は混乱する。
刹那。彼女が投合した何かが私の顔の近くを掠めた。
ぐぁ。
直後聞こえた、お腹に籠もる音。
再び振り返ると、つい一瞬前まで視界いっぱいに広がっていた口は、もう遠くにあった。
そんな仰け反った格好から、龍は少し反動をつけて何かを吐き出す。
カラン。そこには、べっとりと赤黒い液体の着いた刃物が転がっていた。
「これって…」
「おねえちゃんっ」
私の言葉より速く胸に飛び込んできたのは、紛れもなく妹であった。重さ、大きさ、匂い。認識を刺激する信号全てで彼女を感じる。
「にげよう」
とんでもないことをする子だ。優しい子だ。
でも私はもう。
「…逃げて」
「おねえちゃんもいっしょだよ」
分かってる。でも、それは出来ないのだ。
「はやく!」
「ダメなの」
「…っ!」
少し混乱は解消され、何故彼女がここにいるか分かった。
私を、そう。私を助けに来てくれたのだ。
随分昔に、期待していたことだ。
誰かが。例えば、土砂に飲まれ居なくなってしまった父が実は生きており、ひょっこり助けに来てくれるのでは、だなんて。
でも、もうこの洞窟で音を聞いたあの日から、結末に向けて生きる決意を固めてしまった。
なぜなら、恐ろしいことを聞いたから。
『生贄が捧げられなければ、龍は村人全員を食い散らかしまた別の村へ向かう』
そんなの望んでいなかった。私だけの犠牲で住むなら。否、それは犠牲とは言わず、英雄とでも言おうか。
それでも良いな、と思ってしまっていた。
だからーー。
「ーー逃げて、ミウ」
「……」
妹は無言で踵を返す。それで良い。ああ、さよなら。
しかし龍は、それに続いてしまう。
「…っ!! ダメ! あなたが食べるのはわたーー」
「ーーいや」
振り返った妹の手に握られていたのは、天井から生える無数の蔓の一本。
「だれにも! あげない!」
勢いよく引いたその蔓はあっけなく落ちた。先端に括られた少し長めの木の棒は、迫る龍にコツンと当たる。
勿論、それでは速度は落ちやしない。
でもその少し後。
龍に何かの影が落ちたと思うが速いか、雷が落ちたかのような大きな音を立てて、岩が龍に直撃した。
※ ※ ※
準備に三年の月日を要した。
おねえちゃんの秘密を聞いた日から、コツコツと。
いつか頼み込み行った洞窟で聞いた呼吸音は、紛れもなくバケモノが存在する証拠だったから。
だから、あれから何度も行った。準備した。
すごく怖かったけれど、起きるなと願い、植物の汁を身体につけたりして、どんな性能かも分からないその鼻を誤魔化す。
でもどうせ失敗すれば、いずれにせよ、おねえちゃんは食べられてしまう。
大人に何度も相談したけれど、生贄が居なきゃ全員死んでしまうという怖いことを聞いた。
でも、それでも、なぜやらないのか。このままでは、ずっと誰かが食われていくだけではないか。
やるしか、なかった。
毎日汚れて帰ってくる私を、おねえちゃんは『変わってる』だなんて言うけれど、それでも、枝を削ってるのを遊んでると思ってか彫刻刀をプレゼントしてくれたり、使い方を教えてくれたりした。
だから今日。それを持ってきて本当に良かった。
洞窟を抜け広間に出ると、そこにいたのは大きな口を開けるカイブツとその前に佇む一つの影であった。
ほぼ反射的に投げた彫刻刀であったが、何千回と練習したかいあってか、期待通りの軌道で命中した。
でも、そんなの少し切っただけに過ぎない。
だから、三年分の努力を。
人がバケモノに勝てるのだということを。
全て諦め命を投げだそうとしている姉を。
今、救ってみせる。
※ ※ ※
私は勘違いをしていたのかも知れない。
耳鳴りがする。落とした岩のせいだと思っていたがそれは違った。
そしてソレは、瓦礫の下から這い出てくる。
頭蓋は崩れ眼球は垂れ落ち、まともな形状を保たない顔の内部はグズグズに腐っていた。
この村の歴史はまだ百年少しだが、コレはその遥か前から近くの集落の生贄を食べてきたのだという。
噂では、千年もの昔から。
だから既に生命としての期限を終え尚生きてきたのだろう。
矛盾した腐敗は不滅の殻に守られ、今日まで保ってきたのだろう。
それを私たちは『龍』と呼び崇めてきた。
恐怖で縛るそれを、崇め犠牲を捧げ続けてきた。
そう、犠牲。
勘違いをしていた。
ソレは『龍』などではなく、ただのバケモノだった。
なんで綺麗だと思ってしまったのだろう。美しいと思った瞳は、腐り形の変わった角質に入る光が乱反射していただけであったのに。
そんなバケモノに、千人一人の女子は喰われ続けていた。
「ああ……なんで…?!」
妹の声がくぐもって聞こえる。
でもそれも、もうすぐ終わる。
「ミウ」
「……めん、ごめんなさい、お、おねえちゃん……」
こんなに強いのに、泣き虫なのは変わらないんだね。
「いいの」
九つ下の妹を再び抱きしめる。
迫る狂気。きっと私たちも終わるが、このバケモノも永くはない。
崩れゆく紅が、再び私を。私たちを覆う。
逃げようのない。とうにどこからか伸びた触手に身体は押さえられていた。
刹那奔った漆黒の閃光。爆音。
落ちる意識と共に、最後に捉えたのは、斃れゆくバケモノの残像。そして見知らぬ何者かの背中であった。
「ーー生きて、か」




