第一話:またね
人生最期の冬が来た。
窓の外、歪む景色に散る枯葉がせめてもの餞であって欲しい。
もう、あの樹に咲き誇るサクラの花が見れないことだけが未練だった。
「行こ…お姉ちゃん」
母が私を促す。
私は首を縦に振る。
誰か来るかな、あわよくば。だなんて思ったけれど、家を出たときには少し冷たくなった風が頬を撫でるだけだった。
それでいい。
ーーだってもう別れは済ませたんだから。
何より今日は、そう、今日だけは。誰もが家を出ることは許されない。
それが規則だからだ。
例外は、この先で待ってる長老と私の家族だけ。
だから、何者も私たちを止められはしない。はずだった。
「いかないでっ…! なんでおかあさんも! おねえちゃんをとめないのっ…! ねぇっ」
妹のミウだった。扉を開け放った状態のまま、大声で、その涙と鼻水まみれになった顔で、私たちを止めようとする。
「……」
一瞬、母の口元が歪んだ気がした。
でも、確認するより前に彼女は振り向き、口を開く。
「っ……何度も…」
それ以上、母の口から紡がれる言葉は無かった。
振り向いた格好のまま、まるで魔法にかけられてしまったかのように固まってしまった。
少し震える肩が、怒りなのか、はたまた悲しみなのか。どちらでも私は嬉しいけど。
「きいたよ! でもウソだっ! ただバケモノにたべさせてまんぞくするだけだっ…!!」
「ミウっ…!」
「こんなのムダだって! おねえちゃんがたべられたくらいでこの村がすくえるはずなっ…」
母が怒る声も、頬を張られさらに泣く妹の声も、今見ている家の前のこの景色すらも、その全てが十七年分の記憶を呼び起こす。
ーーなんども怒られたなあ
度重なる災害。それで記憶を呼び起こすまでもなく死んだ人もいるのだから、私は幸せな方なんだろう。
もう声を忘れてしまった父がきっとそうだったように。
だから私はこの一瞬を噛み締める。
「ーー遅いと思ったら。」
気付けば、長老がそこにいた。
泣きじゃくる妹を見て言う。
「ミウちゃん。お姉さんはね」
「このクソジジイ!」
「こらミウっ」
笑いそうになった。笑ってあげたかった。
ーーでも、ダメなんだよ。ごめん。
「…まあ、いつか分かる日がくるじゃろ。近いうちにね」
そうであって欲しいと思う。
※ ※ ※
「では、ここからは私がソノさんを連れて行きます。」
「……またね」
そう言うや否や、踵を返す母。
もう少し、顔が見たかったなあ。だなんて。
「さあ、行こうか」
目の前にある真っ暗な洞窟。もう一度振り返り、母を見ようとするが、この短時間で慣れた暗闇に太陽は眩しかった。
もうそこに居ない母は、最後まで普通を演じてくれたのだろう。
だから言ったのだ。普通の母が、普通の娘を見送るように。
『……またね』
これから私は生贄となり、この奥に住むという龍に捧げられる。
一つだけ不満があるのならば、最期の一日。今日だけは誰とも話してはならないことだ。
最初の音をも龍に喰わせるためだ。
でも、この一見理不尽な人生を呪ったことはない。
私が選ばれたのは単純に、前回の生贄から数え、この村で生まれた千人目の女子だったからに過ぎない。
物心着いたときから分かっていた。
でもその分、濃密な時間を。この十七年に人一生分を詰めることが出来たように思う。
結末の決まった人生だったが、やりきった。
ああ、やりきった。
「さあ、この先は自分の足で進みなさい」
目が慣れてきたからか、仄かに光る結晶を頼りに進んでいく。
実は本当に秘密で、誰にも言ってないことがある。昔私は、妹とここに来たことがある。勿論、絶対に入っては行けない特別な場所なのだが、普段ずぼらで飽き性な妹が珍しく粘るから、今くらいの位置まで来て、引き返した。
あの日引き返した理由は一つ。そう、聞こえたからだ。
そして今一度。あの日と変わらず、あの音が聞こえる。
「……」
ごおおお。
古の伝承で語られる『龍』。でもあの日私たちは、その存在を確信した。千人に一度の生贄という非現実な歴史も、齢十八を迎える前に村の繁栄の為捧げられるという自分の未来も、決定した瞬間であった。
ごぁおおお。
曲がりくねる道。少しずつ明るくなる洞窟内部。天井の所々に遥か上で外へ通じる穴が空いている。
そして終点。
否、先程まで壁面だと思っていたそこは紛れもなく『龍』であった。
ごあああおおおおぉぉぉん。
お腹の底まで響く、その鼾。
天井に一際大きく空いた穴はこの生き物の出入り口なのだろうか。鼾の振動で揺れる、長く生えぶら下がった蔓が、その年月の長さを物語っていた。
※ ※ ※
ピタリ。鼾が止む。
気が付けば、真上からの光はオレンジ色となり洞窟に満ちていた。夕方であった。
巨大なそれが、尚沈黙を保ち、頭を上げてこちらに迫る。
同じく巨大な双眼が開く。
骨まで透過し人生さえ見透かされそうなその眼差しが私の身体を焼く。
何重にも重なった瞳の虹彩が美しい。
きっと今までの生贄は、最期にそんなことを思ったのだろう。
静謐の中。無数の牙と滴る水滴、その奥に湛える無限の紅が視界を埋め尽くす。
ーーおねえちゃん。
妹の声が記憶を撫でる。
ああ、見せてあげたかったな。
私が作ってあげた彫刻刀を握り、何度もダルマを作ってくれた、感性豊かでどこかズレた面白い彼女なら、きっと楽しい人生を歩めるだろう。
ーーおねえちゃん。
私の為に泣いてしまう、ここ数日の彼女の声が耳から離れない。
ーーおねえちゃん。
どうか私の分まで。
「おねえちゃんっ!!!」
「……あ」




