9。
姉姫アマーリエがラロス王国のハロルド王太子殿下のところへと嫁いでいったのは、アーマニがガイルを見送ってから2年後の事だった。
父王と母が参列したため、その厳かで盛大な式にアーマニとアベルは参列することはならなかったが、『とても綺麗だったわ。次は貴女ね』と母から言われたにも拘わらず、そこから更に3年の月日が経ってもアーマニの心の真ん中にはガイルが座ったままだった。
「だって、ガイル様だって20年経っても亡き奥様をそこに座らせているっておっしゃってたわ」
結婚の話が出る度に、アーマニはそう答えた。ついでに
「父王だって、『自分の心と頭が納得するまで、その恋を大事にするがいい』っておっしゃって下さったもの」と言い張ることも忘れない。
お陰で18歳になった今も、アーマニには婚約者もいなければ恋人もいなかった。
少女らしさはすでに抜け、その肢体は柔らかな女性らしい曲線を描くようになっていた。生まれ持った豪奢な金の髪に、宝石の様に煌めく碧い瞳は聡明さを宿している。
美しきフォルト王国の王位継承順位第二位の王女の噂話はひそやかに、それでも確実に近隣諸国へも知れ渡っていた。そのお陰で近年は国内に限らず国外の貴族からもその縁を結ぼうと打診が届く。
しかし、それらは全て会うまでもないとあくまで打診の段階で姫自身によって断られてしまう。
そう。これまでは、それで済んでいたのだ。
その日、アーマニはトフラン公令夫人より茶会への招待状を貰った筈だった。
口やかましいけれど、それでも陰ではアーマニに甘かった前宰相トフラン公爵が亡くなったのは姉がラロス王国へ嫁いで行ってすぐの事だった。
そのずっと前から体調を崩しがちで仕事はそれまで補佐についていた孫息子がしていた。現在宰相の職には、その補佐をしていた前公爵の孫息子がその能力を買われて就いていた。
そして現在、老公爵の息子は現在騎士団に所属し団長の地位に就いている。
本来なら、トフラン公爵として後を継いでしかるべきその人は、騎士団への入団を父に申し入れた際に、『騎士団に所属したからには命のやり取りはいつどこで遭遇するとも限らない。騎士たちの命を預かるだけで手一杯だろう。入団したならば公爵位にお前を就けることはない』と、言われ了承したのだと、自身は公爵位を継げる立場にないことを予てより宣言していた。
よって、宰相という役職だけでなく公爵位についても、その年若い孫息子がその役目を負っている。
そうして、若くして要職についた孫息子は忙しさを理由にいまだ未婚であった。
だからこれは前公爵の大奥様からのご招待、の筈だったのに。
招かれてアーマニが案内された庭で待っていたのは、銀色の髪をした美しい人だった。
「氷の宰相」「氷の美貌」と謳われるエイル・トフラン公爵。公爵家の現当主である。
異国より迎え入れられた母の血を引く現公爵は、フォルト王国では珍しい銀髪をしている。その美貌はまさに別の種族といった態で、まっすぐに伸びる髪の間からのぞく少しだけ褐色を帯びた肌とアクアマリンの瞳がミステリアスな雰囲気を醸し出している。
見たままの雰囲気通り、その性格は冷徹とも冷酷とも噂されており、王宮では切れ者として名が通っていた。
アーマニの前に紅茶が配られると、公爵は、侍女へ下がるように声を掛けた。そうして、すぐに本題を切り出した。
「アーマニ殿下、貴女様に王族との婚姻の申し込みが来ております」
「王族、ですか?」
その言葉に、アーマニは息を呑んだ。
まさかここに呼ばれてきて、そんな話をされるとは思わなかった。
しかし。確かに内密に進めなけれないけない相手との話であれば、父ではなく宰相である公爵から、王宮の外でされるのもありなのかもしれない。
アマーリエが嫁いでいき、アベルはまだ幼い。
アーマニも肩代わりができることはできるだけ頑張っているつもりだが、それでも父王への負担は大きい。それだけ忙しいのもあるのだろうが、なによりここ最近の父王は、婚姻話についてアーマニと話すことを苦手としているようだった。
(父王に、話をするのが億劫な我が儘娘と思われるのは心外ね)
そうは思っても、自国の高位貴族からの婚姻を受けるつもりはアーマニにはないし、これについてはある程度まではアーマニの我が儘が通る。
他国であっても、高位貴族程度であれば論外だと捨て置ける。
しかし、国と国を繋ぐ礎になれと国王陛下が判断を下されたなら、それは王女としての使命だ。受け入れるしかない。
「…ちなみに、どちらから申し入れがあったのでしょうか」
「申し入れがあったのは、ジャオユ国の王太子殿下からです」
「?!」
アーマニの瞳が、知らず剣呑な光を帯びた。
(──あの事件の発端の男が、まさか?)
そう、それは有り得ないことだった。あの不快な男はすでに王太子ではなくなっている。それも非常に不名誉なことが原因であったとアーマニは記憶していた。
「勿論、あの、我が敬愛なる第二王女殿下についてのでまかせをネタに、手当たり次第に口説きまくったご令嬢から刺されて子種を永遠に失った方はすでに王太子ではございません。あの方の弟君、第二王子からの申し入れとなっております」
トフラン公爵エイルの言葉に第二王子の情報を記憶の中から引っ張り出す。
ジャオユ国第二王子ライン・ジャオユ。確か第一王子とは8歳程離れていた筈だ。アーマニと第一王子が5歳差だったので、第二王子とは3歳程度の歳の差となる。ただし、今度はアーマニの方が年上だ。
「ありえない」
名前しか知らない相手ではあったが、嫌悪の情が湧き上がってくるのをアーマニは止められなかった。
あの、初めて顔を合わせた日の屈辱。
そしてなにより、王太子が女を口説くために使った口車に乗せられて、友好国相手に騎士団を送り込むような馬鹿な指導者どものいた国。
勿論、アーマニを狙ったというその事実は今でも伏せられている。
だから、彼の国は、野盗に堕ちた一個小隊が出た不名誉な国としてフォルト王国へ謝罪し賠償金を支払った。勿論、脱走兵たちや上司であった者の家は取り潰されている。前代未聞の罰を受けることになった国だ。
その為、現在は周辺国からは軍を統率できない二等国家としてのレッテルを貼られている。
その起死回生として選んだのが、事の発端でもあるアーマニを自国の王妃として正式に迎え入れること。
これを以ってフォルト王国との諍いは収まったということにしたいのだろう。
本当に、なんて失礼で、坐山戯た思考をする国だろうか。
「馬鹿にするのもいい加減にして欲しいところね」
アーマニが吐き捨てるのを、冷静な瞳でトフラン公爵エイルは見つめていた。
そんな気持ちになるのも当然だろう。
この婚約話がきて初めて、ガイル・リーディアルの本当の功績について説明を受けたエイルですら吐き気がするほどの怒りに震えたのだ。
それまで、やたらと心安い様子で一心に慕うアーマニと、一歩引いた態度といえなくはないもののそのお優しい心遣いを無碍にする態度を取るガイル・リーディアルを苦々しく思っていたのだ。
──たかが、子供の宝物を取り返したというだけの癖に。
内心、そう思っていたのはエイルだけではない。態度だけでなく直接の言葉で以って、友好国の使者として年に一度挨拶に回ってくるガイルに詰め寄る姿を見掛けたこともある。そしてそれを当然の報いだとして取りなすこともせず、エイルは放置してきたのだ。
それが。事実を知れば、なんと偉大な。
もしエイルが一国の姫の窮地を救ったなら、その名誉も褒賞も賞賛も、すべてを望み、そしてすべてを受け取るだろう。当然の事として。
それを、何も望まず、むしろ誰にも知られないよう心を配るなど。
自分には無理だと思えば思う程、相手の偉大さと、自分の矮小さを思い知った。
人としての完全な敗北にエイルは頭を下げる事しかできなかった。
そうして。いま、エイルは王から助けを求められている。協力を求められた自分に差し出せる答えは、一つしかない。
「この婚約の申し込みは打診ではありません。ジャオユ国よりフォルト王国へ正式な使者を立てて行われました」
正式な使者という言葉で、その意味をアーマニは正確に受け取った。
冷酷と言われようが、エイルにできることは事実を詳らかにしアーマニにそれを選んで貰う事のみ。
エイルは顎と下腹に力を込めて、その無慈悲な言葉をアーマニに告げた。
「アーマニ・イル・フォルト殿下。貴女様はもう18歳におなりです。それなのに婿を取ることも、嫁入りされるも拒否されていらっしゃいます。それどころかいまだ一度も正式な婚約者すらお持ちになったことはない」
宰相の言葉に、アーマニは『ご自分だって同じじゃない』と思ったが、実際には少し違う。宰相は忙しさ故に先延ばしをしている状態で、アーマニは自身の心の在り様によるものでしかない。
アーマニ自身は初恋の相手以外に嫁するつもりはないと宣言し、父王はジャオユ国の不法行為の心の傷を慮っているのかこのことについて強く出れない。
国内的にはそれで通るのかもしれないが、国外的にはなにか結婚に向かない瑕疵があるのではないだろうかと噂が立つのもそう遠い事ではないだろう。
婚約者もいないのに、正式な使者を立てた婚約を断るとはそういうことだ。
「ジャオユ国としては、事の発端となった貴女様を正妃に迎える事でフォルト王国との諍いを無かった事にしたいのでしょう。その為にも、かなり強引にこの婚姻を勧めようとする事は想像に難くない」
そうであることは、アーマニにも容易に予想できた。
あれだけの事をしでかしておいて馬鹿にするなと言い捨てられれば簡単なのだろうが、その理由を説明することもできない。
その説明は国内に向けてであろうとすることはできない。
では、どうするのか?
「このままジャオユに嫁ぎますか? ある意味、それが一番簡単で、そうして一番、屈辱的な選択でしょう」
そうはっきりと口にすれば、美しい瞳に剣呑な光を帯びさせアーマニがエイルを睨みつけた。
その視線を受け、エイルは空しくなった。
(この御方の視界に、どれだけ入りたかっただろうか)
しかし、それはこんな唾棄すべき提案をした男としてではない。
そんなことを望んだりしない。
ガイル・リーディアルを見上げる甘い瞳に、自分こそが映りたかった。
すっと、エイルが、アーマニの足元へと片膝をつく。
そうしてその片手を取って見上げた。
「では、私の手を取りますか?」
「?!」
エイルの言葉が意外だったのだろう。アーマニの動きが固く止まる。
「『私と貴女は、使者が正式な申し込みをする前から秘かに付き合い始めていた、そうして使者の来訪を受けてそれを公にすることにした』こんな筋書きは如何でしょうか」
その言葉に、アーマニは先ほどの言葉が茶番なのだと気が付いたのか、ほっと小さく息を吐いた。
単なる国内の高位貴族ではそれでは理由にならないかもしれないが、相手が公爵となれば話は別だ。
王家とも何度も婚姻を結び、その血統を王家に一番近いものとして繋いできたトフラン公爵家が相手であれば王位継承権を手放さなくて済む。それだけでも王家の血を残す為だといい訳が立つ。
「そういうことにする、ということね?」
瞳から剣呑なものが抜けて、アーマニのそれが柔らかなものへと変わる。
それでも、そこにはエイルが渇望する熱もなかった。
しかし、それはすでに受け入れたことだとエイルは心に決めていたことを躊躇することなく口に乗せた。
「そうです。ただし、この茶番は、本当の婚姻まで執り行うものですが」
まっすぐに見つめ合う。否、まっすぐに睨みあう。
そうして、ついにアーマニは自分の心に嘘を吐かないという信念を口にすることにした。
「でも、わたくしの心には」
そっと、口元を指で押さえられる。
「ガイル様は、私にとっても英雄です。国の体面を守ってくれたというだけでなく、私の、初恋の人を救って下さった英雄です」
その言葉に、アーマニは目を瞬かせた。
そうして、いま目の前に立つエイル・トフランという男が言った言葉の意味を考える。
ガイルに救われたのは、国と、そして──
跪き、見上げる瞳はどこまでも澄んで。
そうして真摯な輝きを持っていた。
「愛してます、ずっと。貴女様が、アマーリエ殿下に替わって立つと決められた時から密かにお慕いしておりました。あの決意を秘めた瞳を見たその瞬間から、例え傍らに立つ事は叶わなくとも私は貴女様を支えていきたかった。私のすべては貴女様、アーマニ・フェン・フォルト第二王女殿下のものです」
そうしてそっと、アーマニの指先へと唇を寄せた。
「…でも、わたくしの心には、こころには…」
「ガイル様をお好きなお心ごと、私の所へ嫁して下さっていいんです。私は、貴女を丸ごと受け入れる」
その言葉に、アーマニは俯いていた視線を上げた。
「ようやくこちらを見てくださいましたね」
にこやかに笑い掛けられて、アーマニはどうしていいか判らなかった。
アーマニの瞳が不安に揺れる。それに気が付いたエイルが、今度は目を伏せる。
エイルの長くて濃い銀色の睫毛が、褐色を帯びた頬の上でふるりと震えた。
その長さとたっぷりとした量がまざまざとよく判るその様子を、アーマニはどこか他人事のような気持ちで見つめていた。
「それとも。『所詮は政略結婚。心まで望むつもりはありません』とした方がアーマニ様におかれましては心安くなりますか? もしくは、『貴女の王族の血が目当て。国を落ち着かせるためのもの。貴女である必要は』…いや、これは駄目ですね。これを最後まで口にするのは例え貴女と結婚できるとしても私が許せない」
ぶつぶつと続けられたエイルの告白に呆気に取られたアーマニは、つい笑いだしていた。
「ようやく笑って下さった」
やさしく目を眇められて見上げられる。そのアクアマリンの瞳に、アーマニは吸い込まれそうだと思った。
「そのままのアーマニ様でいいのです。私の手を取り、共に生きる道を選んで戴けないでしょうか」
その瞳に嘘は見えない。
だからこそ、暗い未来になる可能性が高いことを、口にせずにはいられなかった。
「一生、心を添わせることのない夫婦になるかもしれません」
アーマニの声は硬い。
国を守るために最高ではなくとも最良となる選択をしなくてはと懸命に考える。
「それでも。アーマニ様が私以外の男と共に歩み、私がアーマニ様以外の女性と共に歩む道より、私には正道であると言い切れる」
お互いに、その血を繋いでいくことを求められる存在だ。いつまで我が儘が通るかも判らない。明日にも意の染まぬ相手と婚姻を結ぶよう強要されても仕方がない者同士。
見つめ合う瞳は揺らがない。
そのまま、二人の瞳は逸らされることなくお互いの中の真を探すように見つめ合った。
そうして。どれだけの時間をそうしていたのだろう。
陽射しが柔らかなオレンジ色に染まり始めた頃。アーマニは、そっと取られた手を握り返した。
「エイル・トフラン公爵様。末永く、よろしくお願いいたします」
そう固い笑顔で言うアーマニの瞳は涙で潤んでいた。
その涙が意味するものが何なのか。それを問うのはアーマニにとってもエイルにとっても酷なものとなるだろう。
「こちらこそ。貴女様のその決断、一生後悔させません」
そういってエイルはそっとずっと恋焦がれた愛しい人を腕の中に囲い込んだ。