8。
「ガイル様! 明日この国を出るというのは、本当ですか?!」
その知らせがアーマニに届いたのはつい先ほどで、しかも正式に教えて貰った訳ではなく、たまたまガイル達の帰国準備を手伝っている侍従の声が耳に入ってきただけだった。
だから、いま自分が得た情報は間違いだったとそう言って欲しくてアーマニは日頃培ってきた作法を全てかなぐり捨てて廊下を走ってガイルを探し廻った。
「ははは。さすがアーマニ殿下はお耳が早い。お陰様で国交についての条約も無事締結と相成りました。本格的な冬になる前に帰国しなければ、ここで年を越すことになってしまいますから」
確かに、本格的に寒くなり船が出なくなる前の今なら帰りも船で帰れる。
ただし、海流を無視して進めるほど操船技術は進歩していない為、トリントン~フォルト間は、往きが2週間なのに対して帰りは大回りとなりひと月以上かかる。
年が明ける前の帰国を考えるなら今すぐにでも出立する事が正しいのはアーマニにも判る。
それでも、全権大使としてやってきたガイルとで条約が成ったのは昨日のことだ。
てっきり条約締結を祝して宴があったり、もっと細かい取り決めを交わしたりするなど、まだしばらくはガイル達一行はフォルト王国へ滞在するものだと思っていたのだ。
それなのに。
「でも…だって…」
そう。まだアーマニは、あの日の告白の答えを貰っていないのだから。
──ガイルがそれをせずに旅立ってしまうことだってあり得る。
子供のたわごととして、取るに足らないことだと捨て置かれる事だってある、そうアーマニは自分を戒めてきた。
それでも実際にガイルがそれを選択しそうだと思っただけで泣いてしまいそうだった。
それはつまり、本気だとすら思われなかった。
そういうことなのだと思うと自然とアーマニの視線が下がっていき、ついには何も言えなくなったまま俯いてしまった。
そんなアーマニを見つめながらガイルは今日のスケジュールを思い出していた。
そうしてなんとか頭の中で時間の段取りをつけると、ガイルは窓辺によって外を指さした。
「あの丘に、一度行ってみたいと思っていたのです。今日は天気もいい。どうか案内をお願いできませんか?」
その言葉に、アーマニは弾けるように返事をした。
「お父様に許可を取ってくるわ。厩で待ち合わせね!」
王位継承権第二位の王女とは思えないほどのお転婆な様子に、ガイルは苦笑しならが頷いて、走っていく王女の後ろ姿を見送る。
嵐のような来訪に、今度こそ大きく息を吐いて両手で自身の頬をぱしんと叩いた。
「よし。ショーンに怒られてこよう」
そうして午後までの仕事を全部あいつに押し付けようとガイルは心に決めて、なんだかんだといって頼りになる部下の姿を探した。
「おぉ~! これはなかなかの眺めですな」
王宮の窓から見える小さな丘。そこから王都を一望する。
少し離れたところに近衛の姿もある。その姿を目の端で確認しながら、ガイルは目の前ではしゃぐアーマニの姿を眺めた。
そうして。
「ここから見る景色は、私の領地にある丘からの景色とはやはり違いますな」
ガイルの感想に、アーマニは興味深げに訊ねた。
「リーディアル侯爵領は、どのような土地なのですか?」
眼下に広がるそれは洗練された王都だ。
それに対してガイルの領地であるリーディアル侯爵領は牧歌的で、職人も多いが農畜産業も盛んな呑気な田舎である。
「領主の私が言うのもなんですが、呑気な土地ですよ。広い小麦畑と、そこで出た藁や雑草を食べる山羊や牛を飼っている牧場と。何にもないという者も多いが、私のすべてがある場所です」
ガイルの説明に、アーマニは見たことのない土地を夢見る。
そこにガイルと共に立つ、自分の姿も。
(きゃーーーっ!)
思わず夢を見た自分をアーマニは叱る。
ガイルの表情を見ていれば判る。自分はこれから振られるのだ。
(それでも。最後の一瞬まで、夢を見るのは構わないでしょう?)
父王は、『自分の心と頭が納得するまで、その恋を大事にするがいい』そう言ってくれた。だから、最後の一瞬まで、信じる。信じていたい。
しかし、現実は、その夢をすぐにでも終わらせるつもりのようだった。
「この丘に来てみたかったのは、リーディアル侯爵領にも、ここに似た丘があって…そこにはリーディアル侯爵家の墓地があるのです。勿論、私の妻の墓所もそこにあります」
続けられた言葉に、していた筈の覚悟が萎える。
もう少しだけ、夢を見ていたかったのに。
「外交官という仕事のいいところは、あまり家に帰らなくていいという事です。家にいると、妻がそこにいないことを実感しなければならなくなる。でも、旅に出ている間は、妻が家で待っていてくれる気がしているのです。会えないのは、自分が家にいないから、だと」
アーマニは、ガイルと交わした言葉は全部覚えているつもりだった。
だから、今ここで交わされる会話も全部覚えるつもりで耳を澄ませた。
「何故会えないのか。会いに行ってしまえばいいではないかと囁く声が聞こえる事だってあるんです。でも、娘もいる。孫も出来ました。勿論、領民もいます。私にはそれを捨てることができない」
その言葉には、熱があった。今だ冷めない熱情。
アーマニがなにより渇望し、それでも与えられることのなかったもの。
「そんなことをしたら、妻に怒られるからです」
『大将が奥さんを失くして20年以上経ってる筈なんですけど、今でもまったく忘れらんないみたいですねー』
そんなショーンの言葉を思い出す。
ガイルが亡き妻の後を追いたいと考えているということよりも、それを踏みとどまらせているのが亡き妻を怒らせたくないと考えているからだということが、よりアーマニの心に突き刺さる。
「アーマニ殿下。私は貴女様に『自分に恥じない自分であること』と言いました。けれど、あれは嘘です。いや理想です。本当の私は、自分が彼女の傍に逝かないこと、逝けないと考えていることに納得できてない。私自身が本当に求める事をしてしまったら周囲が悲しみ迷惑を掛ける。それを知っていても、それでも私は、妻の傍に逝きたいと考えてしまう事が今でもあるのです」
ガイル自身がまだそのことを消化できていないのだろう。
段々と選ぶ言葉が粗くなり、何度も言い直し、懸命に言葉を探して伝えようとしてくれていることが判る。
言葉にしにくい本心を、アーマニのために詳らかにしてくれようとしているのだ。
「だから、私の行動原理は『妻に怒られない行動をする』です。自分の事は信じていない」
馬鹿でしょう? と笑う顔を見上げる。
泣いているのかと思った。
けれど、そこにいたガイルは、誰よりも優しい笑顔をしていて。なのに誰よりも寂しそうだった。
「私の中には確かに隙間がある様に見えるかもしれません。でも、そこには妻が、いまでもちゃんと座っているんです。心の真ん中に」
だから。
「申し訳ありません。貴女様の御心を受け取る訳には参りません」
勢いよく頭を下げられた。
身体を直角になるまで折り曲げて、頭を下げられる。
アーマニはその姿を見て
(あぁ、やっぱりこの人が好きだ)
悲しいのに幸せになったのだった。
その返事は、戻ってくるまでにひと月近くも掛かった。
だから、ガイルはすでにフォルト王国にはいない。
あの翌日には、本当にこの王都から旅立ってしまった。
国境まで見送ることは許されなかった。当然だ。
アーマニは王位継承権第二位の王女である。
いくらアーマニがガイルを慕い、その行いに感謝を捧げていようとも対外的には子供の宝物を取り戻して貰っただけである。
その事に疑問を持たれるような行動は慎むべきだし、感謝を安売りする必要はないと、ガイル本人に断られたのだった。
だから。もしかしたらこの手紙と入れ替わりになるように、そろそろトリントン王国へ着いた頃かもしれなかった。
自室でひとり、愛しい人の娘からきた手紙を読む。
『アーマニ様のお心は嬉しいと思います。しかし、私の父は20年以上経った今でも心の一番温かな場所に母を住まわせているのだと思います。今でも亡母のことを誰よりも、(私よりも、です)ずっとずっと愛しているのです。身体の弱い私しか実子もいないので後添えを迎え入れるよう親族たちから何度も、なんと言われようとも、父はそれを受け入れませんでした。『後継ぎはリィンに婿を取る。そうして血を繋いでいけばよい』と。父は母のことをこれからも忘れる事はないでしょう。母以外に心を渡すことはありえない。そう言い切れてしまうことを娘の私は喜びと共に少しだけ寂しくも思うのです。けれど、やはり私が勝手にアーマニ様を受け入れる訳にはいかないのです。ごめんなさい。
その代わりと言ってはなんですが、私達リーディアル家の家族となって欲しいと私は願っています。アーマニ様にお願いしたいのです。遠い貴女様の地へと嫁することになった私の命より大事なクレアを、母とも実の姉とも思い、傍で守り導いてやって戴けないでしょうか。勝手で都合のいい事ばかりお願いしている自覚はあります。けれど、どうか引き受けて戴きたいと願っております』
丁寧な文字で書かれたそれを読み終えて、アーマニの心にあったものは、寂しい思いと同じだけの、不思議な落ち着いた気持ちだった。
判っていた事ではあったけれど、やはり妻にも母にもなれないようだ。
それでも、愛しい方の孫娘の力になるという大切な役目を言い付かる事は出来た。
それを果たすことになんの異議も疑問もない。
「クレア様だけでなくユニス様のことだって。かならずお二人を守ってみせますわ。お二人の、心の祖母として」
アーマニは、その手紙を胸に自らに誓った。
「アーマニ殿下。いつもの手紙が届きましたよ」
「ありがとう」
笑顔で受け取る。待ち望んだそれは遠い遠いトリントン王国にいるリィン様から届く手紙だった。
「ふふふ。ガイル様はいま、東の島国へと向かわれているのね」
ガイル様の娘、といってもアーマニよりずっと年上だ。姉姫アマーリエよりも年上のリィン・リーディアルその人は、弟アルベールの未来の義理の母でもある。
「あーあ。いいな、アベルは。ガイル様をお祖父さまと呼べるのだものね」
アーマニとしては祖父ではなく夫と慕い傍に侍りたいのではあるが。
本人の許可が出ない限りそれを無理強いすることはできない。
「あとで、アベルの未来の后の新しい絵姿を確認しにいかなければね。ガイル様にもっと似てくるのかしら。…あら? これはどういうことかしら」
いつにない走り書きで書かれた追伸に目が行く。
同封されていたもう一通の封筒を確認すれば、差出人こそリィン・リィーディアルではあるものの、宛先はアーマニではなかった。
油断して確認しないまま開けたりしないで良かったとホッとする。
「『追伸:どうかお預かりください』 この封書について書いてあるのは、やっぱりこれだけなのね?」
くるくると封書を手に取り、日に透かしてみたりしてみても、当然だけれど中身はさっぱり判らなかった。
「これ…中身はなんだろう。リーディアル侯爵家の紋章にリィン様の名前が組み込まれているということは、これは個人封緘よね。宛名は『ユニス・リーディアル』と『クレア・リーディアル』のふたつの名前が書いてあって、侯爵家ではなくリィン様個人のもので封がされている、というからには、私が勝手に開けて中を確認する訳にはいかない、のよね?」
個人封緘のある封筒。それは世界共通の親書の書式だ。
宛名にない人は開けてはいけないものである。
つまりは、その宛名にある名前の本人しか開封を認められていないということだ。手紙にはクレア嬢の名前もあったから、兄妹のどちらかの立会いの下に開封、ということになるのだろうかとアーマニは思案した。
内容も、リィン様の走り書きの様子も気にはなるけれど、自分の好奇心で愛する人の娘であるリィン様の信頼を台無しにする訳にはいかない。
「預かるだけ…でも宛名にお二人の名前があるということは、クレア様かユニス様に直接お渡しできる日までということかしら。そうね、お会いするその日まで、お預かりしていること自体を誰にも秘密にしておきましょう」
ガイル様の忘れ物。あの日貸して貰ったまま返さなかった白いハンカチを入れた宝箱の一番下に、アーマニはそっとその封書をしまい込んだ。
そうしておいて、もう一度、リィンからの手紙を読み直す。
そうしてその手紙を胸に抱き目を閉じた。
「…判りました。このアーマニ、例えガイル様に選んでいただけなくとも、心を捧げると決めた方の娘、母になろうと心に決めた方からの願いを必ず叶えてみせましょう」