天上無双
窓から入るまばゆい光で目が覚めた。
朝だ。
いつもの癖で時計を確認しようとする。が、近くに時計はなかった。そういえば住み慣れた我が家ではなかった。天国に来たというのはやはり夢ではなかったらしい。
昨日は家に帰ってからマリエルが眠り目をこすりながら作ってくれた晩ご飯を食べ、その後マリエルはすぐ部屋の扉にカギをかけ寝てしまったので、俺もすぐに眠りについた。ちなみに夕餉の献立は白飯に味噌汁、ひややっこにほうれん草のおひたしと質素なものだった。肉はないらしい。元高校球児の腹が満足したとは言えないが、味がすごくよかったので舌は大満足だった。
俺は朝食のメニューに期待しながら寝巻を着替え、自室のドアを開けた。
「おおマリエル、おはよう」
台所ではエプロン姿のマリエルさんが料理をしていた。
「ふあ? ああ、新井か。おはよう」
「なんか眠そうだな」
「眠くなんかない」
「朝弱かったりする?」
「弱くない」
と、マリエルは言い張るが、やっぱり目はとろんとしている。
「意地っ張りというかなんというか」
「むー、そんなことどうでもいいの。今ごはん作ってるんだからおとなしく座ってなさい」
「はいよー」
俺は素直にマリエルの指示に従った。なんかこういうの新婚さんみたいでいい。
一分ほどのち、マリエルがいくつかの皿を乗せたお盆を持ってきた。そしてテーブルに料理と箸を並べていく。また和食である。白飯と味噌汁、それに卵焼きと小松菜の胡麻和え。鶏肉はないのに卵はあるのか……?
「これはまた美味しそうな朝食だな」
美幼女が作ったからだろうか。余計輝いて見える。
「百年練習したからね」
「年季が入ってますな」
姿かたちは幼女でも中身はおばあちゃんだ。
マリエルが料理を並べ終えて、俺の向い側の椅子に座った。俺とマリエルはほぼ同時に手を合わせる。というかマリエルの方は手を組む。
「いただきます」
と、俺が言うのと同時にマリエルはお祈りを始めた。そういえば昨日の夕食でもお祈りをしていた。俺はいつもの流れで箸を持とうとしていた右手を止め、お祈りが終わるのを待った。
「アーメン」という言葉でお祈りを締めくくり、マリエルはやっと箸を手に持った。それを確認してから俺も箸を持つ。
「別に否定するわけじゃないが、毎回そのお祈りするの面倒じゃないか?」
俺は味噌汁をすすりながら質問した。
「私たちにとっては普通のことなんだよ。新井がやってる『いただきます』ってやつも、日本人にとっては当たり前のことでしょ?」
「そういやそうだな。習慣っていうか、やるのが当たり前になってる」
「でも何かの宗教に入ってる人や日本人以外でそういうことをするのは珍しいんだよ」
「え、そうなの? どこの国でもやると思ってた」
「いい習慣だと思うよ。私たちのお祈りは神様に対してだけなんだけど、日本人みたいに食べ物にも料理を作った人にも感謝できるのは素敵なことだと思う」
マリエルはもう一度手を合わせて「いただきます」と言ってから卵焼きを口に運んだ。
「神様と言えば、今日はお仕事もらいに行くからね」
マリエルは突然思い出したように話し始めた。
「ああ、とうとうハローワークに通い始めなくちゃいけないのか」
働きたくないでござる。
「いやいや、ハローワークじゃないよ。もうお仕事の種類は決まってるから、神様のところに行ってそれを聞くだけ」
「職業選択の自由とか完全無視なんだな」
「まあ、そんなに種類があるわけじゃないからね」
「そういえば家康もなんかの仕事で連れてかれてたよな」
俺は昨日のテニスで知り合った小太りのおっさんを思い浮かべた。
「あれは政治家だね」
「天国にまったく似合わない職業だな……」
まさか楽園でドロドロの権力抗争とかやってんのか? たしかにあのおっさんは腹黒そうだったが。
「まあその話はまた後にしよ。ごはんが冷めちゃう」
「おお、そうだな。じゃ、改めていただきます」
俺はマリエルへの感謝をこめて手を合わせた。
「いただきます」
マリエルも俺の後に続いて言った。
朝食の後片付けを終え、俺たちは仕事をもらいに行くために家を出た。現在は家の前にある東京ドーム一・五個分くらいの広大な樹海を抜け、ヨーロッパの街並みをひたすら歩いている。
「ところで、神様ってどんな人なんだ?」
ただ歩くだけではつまらないので適当な話題を振ってみる。
「どんな人。うーん、そうだな。かっこいい人、かな」
「かっこいい人?」
「うん、なんてったって神様だからね」
マリエルは笑いながら答えた。
しばらく雑談しながら歩いていると森林に囲まれた大きな城が見えてきた。西洋風の造りで、全体的に白い。おとぎ話なんかに出てきそうな綺麗な城である。
「あれが神様の住むお城」
マリエルは足を止め、その真っ白な城壁を指さした。
「ノイシュバンシュタイン城だよ」
「ノイ……なんだ?」
ノイ、シュタイン? フランケンシュタイン?
「ノイシュバンシュタイン。ドイツにあるお城の名前だよ」
「そのドイツにあるノイなんとか城がなんでここにあるんだ?」
「神様が気に入ったからって八十年ぐらい前に作らせたんだって。ガウディ―とか藤堂高虎とか呼んで」
「気に入ったってだけでこんなでかい城を作らせるのか」
なんというブルジョワ。いや、神様だから当然かもしれんが。それとガウディ―と藤堂高虎って国も時代も違うのに二人でしっかり設計できたのか?
「さ、神様も待ってるから進むよ」
そう言うと、マリエルはどんどんと森の奥に進んでいった。
「お、おう」
俺も遅れないようマリエルの後ろをついていった。
森の中に作られた無駄にグネグネしている一本道を歩いていくと、城がだんだん近づいてきた。近づくにつれて城の雄大さが増していく。一本道が途切れると、今度は開け放たれた大きな城門が現れた。その城門をくぐり、さらにしばらく歩き、小さな階段を上るとやっと本丸に到着した。
「遠くね……?」
「まあ、たしかに遠いね。でももう一息だよ!」
「……ちなみに聞いておきますが、もう一息って具体的にどれくらいですか?」
「四階までらせん階段を上ります」
「ですよね……城の大きさを見たらそんなことだろうなと思ってました……」
足が痛い。アメリカンノックを受けた直後みたいだ。いや、それは言いすぎか。おそらくあれに勝る疲労は今後ない。運動不足だからかもしれん。これからもう少し運動しよう。
赤じゅうたんが敷かれた廊下を奥まで進み、古めかしい調理場の前を素通りした。右側に長いらせん階段があった。らせん階段を手すりにつかまりながら四階までよじ登ると、大きな広間が現れた。
「ここは控えの間。このすぐ隣に神様がいる玉座の広間があるよ」
「階段長すぎだろ……」
俺は立ち止まって息を整える。
「もう、情けないな。男なんだからしゃきっとしなさい。私は全然平気だぞ」
「お前は飛んでたからだろうが! どんどん先行きやがって!」
「飛べない新井が悪いんだよ。ほら、先行くよ!」
「待て待て、息ぐらい整えさせろ」
と、要求するがマリエルは待ってくれなかったので頑張って歩くことにした。
マリエルが木製の立派なドアを開けると、先にはきらびやかで豪華絢爛な部屋が待っていた。全体的に金色の広間である。壁には中世的な絵がたくさん描いてあり、庶民的な感覚からすると悪趣味とも感じられる。秀吉的嗜好だ。
「あらマリエル、遅かったのね」
一面のきらきらに圧倒されていると、マリエルを呼ぶ声が聞こえた。どこかで聞いた覚えがある。
「神様!」
マリエルはパタパタと走りだし、これまたキラキラした机といすに座る女の子に抱き着いた。つまりこの女の子が神様である。かっこいいというよりは綺麗な女の子だ。
「会いたかったわマリエル」
神様はマリエルの頭をぐりぐりと撫でている。というかあの女の子ってたしか。
「審判のときの……」
そう、天国に来る前の審判で基準のよくわからない審査をしていた女の子にすごく似ている。
「で、そこのあんたは何?」
「扱いが違いすぎる!」
いきなり恐喝するみたいな口調になったぞ。
「私が担当している人間の新井隼人です」
小さな白い手を頭に置かれているマリエルが俺の代わりに説明した。
「ああ、あんたが……」
と、言いながら神様は俺を一通り眺め、ふっと鼻で笑った。
「馬鹿にしてんのかてめえ!」
いきなりなんだこいつ! 失礼すぎるぞ!
「マリエル、あの猿にひどいことされてない?」
「おい、最初の意味深な発言も含めてまるまる無視すんな。そして俺は猿じゃない」
今のところ俺とあんたの間で一度も会話が成り立ってないぞ。こっちが投げるボールを全部叩き落とした上でクルーン並みの速球を頭めがけて放ってきやがる。
「ごめんなさいね。本当はマリエルにあんなのの世話をさせたくなかったんだけど、適当にダーツなんかで決めたのが悪かったわ……」
「全面的にあんたが悪いじゃねえか!」
そんな日テレ的な決め方をしたことがそもそも間違っている。
「あの神様、そろそろ本題に……」
神様の質問に生返事を繰り返していたマリエルが口を開いた。
「ああ、そうね。本当はずっとマリエルをなでなでしていたいところだけど、仕方ないわね」
神様は俺の方に向き直った。マリエルを膝の上に乗せたまま。
「初めまして。いや、久しぶりか」
「てことはやっぱりあんたは審判のときの人か」
「そ、私は天国を統べる神。神様と呼びなさい。それかゴット」
「いや、普通に神様で」
日本語の会話の中でゴットとか不自然すぎる。
「あら、天照大神とかでもいいのよ?」
「いや、普通に神様で」
呼びづらいわ。
「ていうかそんな西洋風の顔立ちで日本の神かよ」
「私は別にどこの神とかないのよ。もっと言うと世界各地で信仰されている神はすべて私。イエスもヤハウェも」
「なんだその衝撃の事実。各地で聖戦とかしてる人が聞いたら本気で絶望するんじゃないか?」
「まああれは正当な指導者が誰かって争っているんだけどね。それにしても嘆かわしいわ。大事なのは誰が指導者かじゃなくてどの神を信仰しているかだし、他人が他の神を信仰していても気にしなければいいのに。まあこういう話は一面的な倫理観で語ることはできないのだけど」
「おい、いつの間にか何かを風刺した会話になってきたぞ」
「あなたが茶々入れてくるからじゃない。まあいいわ、本題に入りましょう」
神様は一度目を閉じ、また開いてから話し始めた。
「新井隼人、あなたはこれから天界防衛軍に兵隊として入りなさい」
「まさかの徴兵令ですか!?」
突然の赤紙である。今にも『おめでとうございます!』とか言われそうだ。
「ていうか、天国で何と戦うんだ!?」
「そんなの悪魔以外に何がいるのよ」
「いや無理だって! そういうのは戦闘経験ある人じゃないと!」
「基本的には戦闘経験のある人に割り当てるんだけどね。ちなみに悪魔との戦闘で負けると魂もろとも消えちゃうから気を付けてね」
神様は爽やかな笑顔で言い放った。
「そんな危険ならなおさら俺の役目じゃないだろ!」
そんなことは素直にエクソシストに任せるべきだ。日本でのうのうと野球とゲームにいそしんできた高校生には荷が重すぎる。
「ああ、これでマリエルが帰ってくるわ」
「あんたまさかマリエルを取り返すために俺に消えろって言ってんのか!?」
なんだこのお国のために死ねみたいなの。
「あら、私はそんなことまったく言ってないわよ」
しかし神様の目は期待に満ち溢れていた。黒い、黒すぎる。新入社員の命をなんだと思ってるんだ。
「ああよかった。マリエルに童貞の世話をずっとさせるなんてかわいそうだもの」
「そ、それは関係ないだろこのビッチ女!」
「残念、私はまだ処女なの」
「似たようなもんじゃねえか!」
「処女は美しいけど童貞は憐れなの。わかる?」
「差別だ!」
男尊女卑ならぬ女尊男卑である。天は人の上に人を作らないんじゃなかったのか。
「そんなことより、ゴリエル少佐にはもう話してあるので今から挨拶に行ってきなさい」
「無理だ! 拒否する! こんな暴君の下で働けるか!」
「はいはいあなたに拒否権はないからねー」
「パワハラだ!」
「マリエル、連れて行ってあげなさい」
神様は俺の訴えを完璧に無視した。これが現代社会の暗部か……。
「はーい」
マリエルは神様の手から離れてトコトコとこちらに歩いてきた。
「新井、行くよ」
マリエルが両手で制服の袖を引っ張り、退室を促してきた。
「すまんマリエル、俺はここで交渉を続けて待遇改善をしてもらわないといけないんだ。そして現代社会の闇に一石を投じる義務があるのだ!」
「ええと、よくわからないけどそんな義務は負ってないと思うよ」
マリエルは冷静にツッコんできた。
「ほら、私も神様に逆らうわけにはいかないんだから、早くゴリエル少佐のとこ行くよ」
今度は両手で俺のお腹辺りを押してきた。
「わ、わかったよ……」
マリエルの名誉もあるので、ここはいったん引くことにした。
神様の居城を後にした俺とマリエルは、俺の上司となるゴリエル少佐の下に向かった。ゴリエル少佐はノイなんとか城下の森で演習を行っているらしい。
「人っ子一人いないんだけど……」
目の前に広がるのは木々がうっそうと生い茂るだけの光景。人っ子どころか動物の存在すらなさそうだ。
「ゴリエル少佐って結構、目立つ人なんだけどなあ」
俺を先導して歩くマリエルは周りを見渡しながらつぶやいた。すると突然、地鳴りのような怒号が響き、直後に大きな爆発音が轟く。
「本多平八、推して参る!」
「なんだ戦争か!?」
俺とマリエルが爆心地に駆けつけると、そこには頭に鹿みたいな角を生やした黒い甲冑の大男が立っていた。バスケットボールを片手で鷲づかみできそうな大きさの右手には馬鹿でかい槍を携えている。
「……マリエルさん、まさかあのおっかなそうな人がゴリエル少佐でしょうか?」
「たしかに目立つけどあの人じゃない」
マリエルは大男には目もくれず、あたりをきょろきょろと探している。
「なんだお前ら、今は演習中だから立ち入り禁止だぞ」
大男の迫力に気圧されていると、後ろから低い声が聞こえた。振り返ってみると、これまた甲冑の男に負けないくらい大きな男が立っていた。スキンヘッドに黒いサングラス、服装は黒のアンダーシャツに迷彩柄のズボン。そして白い羽と輪っか。まさか……。
「あ、ゴリエル少佐!」
「やっぱりあなたがゴリエル少佐ですか……」
つまりこの軍人ルックに羽生やした謎の組み合わせの男が俺の上司となるゴリエル少佐である。たしかに目立つ人だ。
「なんだ、マリエルか。ということはその男がうちに入隊する新井隼人だな。神様から話は聞いている」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「今ちょうど戦闘訓練をしているところでな。あの日本製の鎧を着た男は本多忠勝だ」
「忠勝!? 忠勝ってあの東国無双の!?」
「ああ、うちのエースだ」
「忠勝いるならほかの連中いらないんじゃないですか……?」
あと呂布でもいれば余裕な気がする。まさに無双だ。
「まあ忠勝のことはいい。たしかお前は戦闘経験がないんだったな」
「はい、すいません」
「よし、とりあえずお前はこれ持っとけ」
ゴリエル少佐は右手に持った何かを差し出してきた。
「……」
ゆうしゃは ひのきのぼうを てにいれた!
「て、これただの棒じゃないですか!」
どこからどう見ても棒である。柄に縄的なものが巻かれているが、やっぱりこれは棒である。
「それは勇者のみが持てる最強の武器じゃないのか?」
「勇者が持たされるただの棒です」
どこをどう勘違いしたらそうなるのか。
「まあいいだろ。神様から聞いた話じゃ野球やってたらしいし」
「こんなどこに芯があるのかもわからない棒と芯がめちゃくちゃでかい金属バットを一緒にせんでください」
こんなバットでは詰まってダブルプレーになるのが目に見えている。いやむしろ空振る。
「軍隊ってもっと近代的な武器ないんですか!? 機関銃とか!」
「そんなの弾薬だけでどれだけの資源がいると思ってんだ。素人に渡すぐらいなら俺が使う」
ここでも資源不足の波がきているのか。ていうか資源ってなんだよ。機関銃にも食料にも同じ素材が使われてるのかよ。
「とりあえず素振りでもしてみろ。俺が見てやろう」
ゴリエル少佐は三歩ほど下がり、腕組みをした。
「じゃあ、適当に振ります」
俺は棒を正面に構えた。そこから右手方向に引き、左を向きながら左足を上げる。そして左足主導でバットを思いっきりレベルスイングで振りぬいた。イメージ的にはスタンドインである。
「いや待て。なんだその素振り」
「俺としては完璧なスイングだったんですが。真ん中高めのストレートを狙い撃ちです」
「いやそういうことを聞いてるんじゃねえよ。なんで戦闘訓練で野球の素振りをしてるんだよ」
「はっ、また知らぬ間に野球をしていた!」
デジャヴである。
「うむ、根本的に戦闘経験がなさすぎるな。仕方ない。おい、忠勝」
ゴリエル少佐は振り返り、後ろで槍を振り回しながら人をゴミのように吹き飛ばしている忠勝を呼んだ。
「何用でござろうか」
「ああ、こいつにちょっと稽古してやってくれ」
と、言いながらゴリエル少佐は俺を指さした。……俺!?
「承知仕った。されば少年よ! 我が蜻蛉切りにて相手いたさん!」
「待て! タイム! なんでそうなった!」
「戦闘中に野球をしているようでは危険だからな。演習でもなるべく実戦を取り入れる」
「だからってなんでその相手がいきなり忠勝、いや忠勝様なんですか!」
無理だ。蜻蛉切りとひのきの棒だけでありえないハンデなのに無敵の東国無双とただの野球部員ではお話にならない。きび団子だけ持ってそこら辺の子供が鬼の巣窟に乗り込むようなものだ。せめて犬と猿と雉くらい仲間に入ってくれ。
「マリエル助けてくれー!」
援軍要請を出してみるが、マリエルはすでに遠くで観戦する体勢に入っていた。
「フレー、フレー、あ、ら、い」
「しかもなんでそんな棒読みなんだよ」
そこはもうちょっと感情入れてくれなきゃ萌えないだろ!
「あの、逃げるって選択肢は……」
俺はゴリエル少佐に向き直った。
「構わんぞ。逃げられるならな」
「なら、急いで退散させていただきます」
「敵に背を向けるなど、言語道断!」
俺が『にげる』を選択しようとした瞬間、背後よりすさまじい殺気を感じた。振り向くと、イノシシのごとき勢いで突っ込んでくる蜻蛉切りが。
「敵じゃねえ! です!」
忠勝に敵対しようなどと考えるほど馬鹿ではない。忠勝に立ち向かってはならない。
「て、のわっ!?」
俺は前を向いた瞬間、左足で急ブレーキをかけた。目の前には行く手を阻む巨大な岩壁が。
「なんかすごくあっさり追いつめられた!」
開幕十秒でいきなり絶体絶命である。
「もはや逃げ道はなし! いざ尋常に勝負!」
忠勝が重い甲冑をガチャガチャと鳴らしながら猛追してきた。こうなれば仕方がない。打って出るしか俺が生き残る道はない。マリエルも相変わらずフレフレ言ってるだけで助けてくれないし。
俺はゆっくりと忠勝に正対し、ひのきの棒を構えた。
「俺はお前を、全力で打ち返す!」
「その心意気やよし! されば拙者も全力で応えん!」
忠勝はさらにスピードを上げ、俺に向かってきた。もう俺たちの間には敵や味方といった概念は存在しない。俺たちはそう、まさに一個のもののふともののふ。いや、投手と打者なのだ。マウンドに立ち、打席に立った瞬間から戦うことを宿命づけられた……。
「て、やっぱ無理っす!」
俺は鬼のような形相で突進してくる忠勝の横薙ぎをすんでのところで緊急回避。夏の甲子園球児並みのヘッドスライディングで横からの一撃をかわした。
「マジで死ぬかと思った……。いや死んでるけど」
イメージ的には顔面近くに藤川球児の火の玉ストレートが来た感じである。
「ほう、あの一撃をよけるとは、悪くない反応だ。忠勝が手加減していたとはいえ、筋はよさそうだ」
ゴリエル少佐が忠勝の右側に歩いてきた。
「あれで手加減してたんすか……」
「もし忠勝が本気だったらお前は構える間もなく切り裂かれていただろうな」
「瞬殺ですか」
さすが東国無双。戦いの準備すらさせないのか。
「まあしかし、それだけ動けるならもう少し本気を出してもいいんじゃないか?」
「え、それ以前にまだこれ続けるんですか!?」
これだけ実力差が開いてることがわかったのにまだやるのか!?
「当然だ。忠勝もやる気みたいだぞ」
忠勝はかかってこいという感じで蜻蛉切りを構え直した。
「ま、マリエルさん、今度こそ本気で援軍を……」
しかしマリエルは『信じているよ新井』と書かれたボードを掲げて応援しているだけ。助けてくれる気はないらしい。というかそんなボードどっから持ってきた。
俺は援軍をあきらめ、すぐさま後ろを向いた。そして間髪入れずに走り出す。天国に似つかわしくない漆黒の鎧武者から逃れるため、俺は道なき道をひたすらに走ったのだった。




