行く末の終わり
荒涼。
そんな言葉だけがこの世界を形容できる、そう言い切れるだけの景色が俺の目の前には広がっている。
骨を剥き出しにした継ぎ目の無い石の指。
死の吐息を漏らす大地の唇。
芽吹こうとする命さえも腐らせる黒い涙。
かつてあった文明は影だけを落とし、実体の無い夢想をそこに残している。その影でさえ、多くの毒を滲ませてはいるが。
そんな中でも、人というものは逞しいものだ。分厚い防護服を身に纏い、数に限りあるガスフィルターを装着し、なけなしの食料を片手に荒野を行く。進む先には終わりしかないとしても。
「いつまでそんなこと考えてるつもりなの…」
長い髪を揺らしながら、カナが俺の顔を覗き込む。
「この世界が終わるまで、だな」
「馬鹿みたい」
「そんなこと言うなよ」
「そんなこと考えてる暇があったら、食料の一つでも見つけて来てくれる…」
「わかったよ」
渋々と重い腰を上げると、さらにもったりとした動きで防護服を着る。
「あとこれ、忘れないでね」
受け取った散弾銃を肩に担いで、俺は二重扉のシェルターを出る。
「行ってくる」
「うん、気を付けて」
一つ目のハッチが閉じたことを確認してから二つ目のハッチを押し開け、外の世界へ歩み出る。見慣れた荒野。乾いた風。命の欠片も感じられない世界が広がってゆく。
真っ黒な雲を裂いて、眩しい光が降り注いでいた。
中折れ式の散弾銃を構え、辺りを注意深く見回す。人影はない。人の痕跡さえも。
いつものように、隠してあったバイクを瓦礫の下から引っ張り出し、キーを差し込むとエンジンをかける。
どるん、と力強い重音を吐き出す愛車に跨り、だだっ広い砂の平原へと走り出した。
時速百キロを超える速度で駆けていても、辺りへの注意は怠らない。特に気を付けなければならないのは狙撃手の存在だ。遠距離から狙撃され、愛車を壊されては敵わない。オーパーツじみた技術を用いた機械であるバイクを直すことが、俺などにできるはずもないのだ。かつて俺と共に在ったアンドレは機械技術に明るかったが、カナに手を出そうとしたので今では白い砂の底である。
ところで、今日は西の方角へ走っている。
日の沈む方角だが、まだ正午は過ぎていないので眩しくはない。逆に帰りは日暮れなので、同じく眩しくない、というわけだ。
突如、俺の隣で砂が爆ぜた。
銃声は無い、制音器だ。
「ははは、いい度胸だ!」
砂は前方へ爆ぜた。狙われているのは後方から、だ。
ならば、バイクは狙いにくいだろう。何せ、縦に長い影にしか見えないだろうから。
大きく車体を左右へ降り、不規則に、無作為に蛇行して走行を続ける。一瞬前まで居た場所の砂が爆ぜるたびに、俺のタマは縮み上がってしまう。それも仕方のないことだ。俺という人間は元来、肝っタマの小さい男だからな。それに「種ナシ」だし。
さて、そんなことはどうでもいいのさ。問題は狙撃手をどうやって撒くかだ。生憎と、近くに遮蔽物になりそうなものは無く、遥か前方には小高い砂丘と、岩の密林。ミラー越しに見た背後には、幾つかの岩の建築が高く聳えている。日に反射して、きらりと何かが光る。
「馬鹿め、スコープは上手に隠しやがれっての」
俺は嘲笑い、大量の砂を巻き上げながら速度を上げる。
「あばよ、へたくそスナイパー」
砂丘を跳び越えて、俺は廃墟と化した岩の森へと突っ込んだ。
瓦礫の町。岩の塔。煤けた硝子の粉塵。こんなところで防塵マスク無しに息をすれば、人の喉など簡単にイカれてしまう。
旧時代の遺骸は、その一方で、俺たちに恵みをもたらすこともある。俺の跨るバイク然り、長期保存の利く食料然り、銃器然り。俺たちは失われ続ける文明を消費して生きている。繋ぎ止める者がない以上、それは当然のこととして俺たちの意識に根を張っている。
バイクを四角い石塔の空洞に停め、散弾銃を構える。空洞を過ぎる風の音が反響し、わんわんと唸るような音が広がる。バイクの刻んだ轍は舞う砂埃に掻き消され、俺の居ることなど知らない、とばかりだ。
だが、そんな中でも人の痕跡は確かに存在している。誰かの動かした瓦礫は明らかに不自然に欠けていたり、普通には考えにくい場所に転がっていたり、風化の度合いが異なっている。風の無いところには足跡が残っていたりもする。それを見逃さないこと、つまり『気付き』が過酷な環境で生き残るための秘訣だ。
発掘品の散弾銃には、弾を二発までしか装填できない。他に見知った銃器は二桁を越える装弾数を誇るものもあり、こいつがそう恵まれた出自の物ではないことは分かっている。それでもこいつを使い続けているのは弾詰まり率の低さと、取り回しの良さ、そして散弾由来の破壊力だ。脆くなった瓦礫を吹き飛ばすくらいは造作もない。そんな相棒を構えて、油断なく石塔の探索を始めた。
風化が進み脆くなった石の建築は、それでもなお、人の体重くらいは問題なく支えてくれる。中から茶色い骨をはみ出させていても、人の使うもの、としては死んでいない。そんな耐久力に、改めて文明の力を感じさせられる。
石の階段を上り、その途中にあった傾いた部屋に潜り込む。
中には夥しい量の砂が侵入しており、小さな部屋の大半は砂によって埋め尽くされていた。その中から顔を出すのは幾つかの長いテーブル。鍵の掛かった引き出しは壊されて久しく、錆びにまみれたまま朽ち果てるのを待っている。俺は、それをわかっていて、引き出しの中を漁った。
中から出てきたのは薄い紙きれ。それすらも風化し、今に消えてしまいそうだ。
「…これは人か」
薄ぼんやりと紙切れに浮かぶ人の姿。写真と呼ばれる紙の記憶媒体。色の褪せた風景の中に、一組の男女が肩を寄せ合って笑っている。二人の間には、まだ小さな子供…おそらく赤ん坊が抱かれている。
人の営みのあった頃。飽食に生き、あらゆる快を貪り、或いは苦汁を舐めた者たちの時代。それは平等の皮を被った不平等、騙し合いと化かし合い、欲に満ちた『人』の時代。
それは俺の祖父、爺さんが言っていたことだ。あらゆる手を尽くして金を手に入れ、それによって自らの快を手に入れる。しかしだからこそ、人は幸せを夢に見、それぞれに幸せになれたのだ、と。
写真の中の家族は、心から幸せそうに笑っている。俺にはそうとしか見えなかった。
どんな時代にあっても、この笑顔だけは忘れ去られてはいけなかった。そう思わせるに足るだけの力を、そこに感じた。
不意に突風が写真を攫った。
風に揉まれ、誰かの記憶は粉微塵になって掻き消えた。もう彼らを語る物は他にないだろう。それが今の時代なのだから。
風に乗って、誰かの声が聞こえた。そう若くはない。女の声だ。悲鳴のようでいて、そうでない。嘆願か、助けを呼ぶ声か。
銃口をそちらへ向け、砂漠に向かって開いた窓から覗き込む。瓦礫に囲まれた場所、砂塵の中でマスクも無しに叫ぶ人影が在った。
「誰か、助けてください」
そう聞こえた。
行くか迷ったのは数秒だけ。気が付けば来た道を引き返し、建物を出て人影を目指して進んでいた。
砂に紛れるように、吹き荒れる砂塵と共に進む。人影の様子を伺えるところまできて、俺はまず、周囲の警戒をした。あの人影が、囮であることは否定できない。人の良心に付け込んで、物資を奪い取ろうという算段かも知れない。しかし、予想に反してその様子は無く、そもそも身を隠せる場所がほとんどないのだ。何より、人が居るかもわからない状況で、こんな馬鹿げた作戦を実行する奴は子供にだって居ない。
俺は散弾銃を構え、無造作に人影に近づく。
「あんたは何者だ」
散弾銃を、座り込む人影の頭に突きつけ答えを促す。
「息子が、息をしてくれないの」
そりゃそうだ。この汚染されていなくても喉を詰まらせる砂嵐の中で、マスク無しの呼吸をしようなどと言うのは命知らずのすることだ。
「この砂塵だぞ。そりゃそうなるさ」
俺は自分の覆面防塵マスクを指先でこつんと叩いて見せる。
「でも…もう、食べ物も無くって…ぐ、ごほっ」
肌の渇いた子の亡骸は、作り物であるかのように動かない。人形、というものは、実物ならこんな感じだろうか。
「…助けてやろうか」
「……この子も一緒に」
「今更そんな心配するな。ずっと一緒だ、あんたも分かってるだろ」
「よかった…」
放たれた散弾は毛の抜けた母の頭を弾けさせ、ねっとりとした赤色を砂に飾った。
「…気持ちのいいもんじゃねえよ。なあ、アンドレ」
今は亡き友に向かって、俺は独り言ちた。
小さい頃に読んだ本の知識の真似事で、近くの鉄筋を十字になるように折り取って突き立てる。それが何も救わないと知っていても。
石塔の付近には、今も未探索の地下施設があった。小さな家庭用シェルターだったようで、中には数日分の食料が眠っていた。食べられるかは未知数だが、もし駄目でもカナなら何とかしてくれるかもしれない。
今日の収穫を、意気揚々とバイクに積んで、俺は砂漠を走り出した。遠くでは、また銃声が響いたような気がする。俺と関係がないところでの出来事だから、俺は気にすることもない。他人のことは、他人のことだ。俺が口出しする意味も無ければ、口を出されるいわれもない。今を生きるために、他人は奪う対象でしかない。それが今の時代だ。昔も今も、もしかしたら変わらないかもしれない。爺さんは皮肉染みて、そう言っていたこともあるっけな。奪うか、奪われるか。その行為の前では、命も、食料も、身体も、全てが等価値なのかもしれない。
バイクの燃料も残り少ない。調達できないなら、こいつともおさらばかも知れない。
俺たちは、文明を消費して生きていく。
だから、やはり、今は喪失の時代だ。失われていく文明、人という存在。
今までに顔も知らない誰かの遺したものを素知らぬ顔で消費する俺たちを、誰が咎めることができるのか。
消費し、失われ続ける世界。終わりは近いのだろう。誰もがこの終わりから目を背け続け、しかし、そっぽを向いたまま着実に終わりへと歩み続ける。
それでも生きたいと思うのは、きっと人の意地なのだろう。
せめて最後まで生き残り、行く末にある終わりを見るのは俺なんだ、と。
気が付くと月が出ていた。丸い、明るい月だ。そして広がる満天の星空は、俺を言いようのない気持ちにさせる。
心が洗われる、いや、心に響く…違うな。無力感、が近いか。…よくわからない。
それでも嫌な気持ちではない。
この気持ちも失われていくのだろうか。伝えるものが無いのなら。
見えない終わりに思いを馳せるのは、
どこかですべてを諦めているからなのか。
はたまた、
来る終わりに備えんが為、なのか。
どうせ意味が無いのなら、いっそのこと…。