その9 大人になる理由
呼び出したはいいが、はたして奴は来るのだろうか。
──せっかくけじめつけさせてやるってのにな。きっと返り討ちにされるってびびってるんだぜ。あいつ、馬鹿だよなあ。
思い切って練習を休むことにした。テスト後ということもあって、本当だったら気合を入れていかねばならないことだけれども、たまたま風邪気味だったことと、
「試合前だからな、無理するなよ」
という二年生連中の暖かいお言葉に、今回限り甘えさせていただくことにした。
──俺だったら絶対、そんな甘えた態度とらせないがなあ。
都合のいい時だけ利用するのは気が引けたが仕方あるまい。
顔にアザつけて帰ってきたら、かえってお互い、まずいことになるだろう。
立村は次期評議委員長、かくなる健吾は次期バスケ部キャプテン見込み。
お互い、青大附属の花形として生きていくのだから、今の段階で傷をつけたくはない。健吾はかまわなくとも、立村はいやだろう。
まだ三時半を数分過ぎた程度だというのに、茶室の裏手は枯れ木の中に覆われて薄暗くなっていた。わずかに溶けた雪で足下は滑りやすい。石畳の間に垣間見える土が黒々としていた。スニーカーをそのままずぼずぼ入れて歩いた。
茶道の時間に使用する程度の茶室。一年の健吾はまだ、大部屋の和室でみな連なって正座する程度だが、二年になると班ごとに分かれて別棟の茶室にて茶会の練習をするという。和菓子が食える事以外にメリットを感じない健吾としてはどうでもいいことだが。屋根は、足マッサージ用の青竹みたいなのを四角く敷き詰めたものだった。ねずみ小僧ごっこして、よじ登ってみたい衝動に駆られた。
人はいない。決闘するにはいい場所だ。
さすが二年、場所の選定に狂いはない。
──人目につかねえとこで、かつめったに人が通らない場所だもんな。グラウンド近辺だと運動部の連中がたかってるし、学校の中だとどっちにせよ先生どもがわめくだろうしな。かといって学校を出たら近所のうるさい連中にぎゃあぎゃあ言われるしな。自分の保身を得意とする、あの男らしいぜ。
本当だったら一気に叩きのめしてやりたいところだ。残念だ。
健吾は男として、正々堂々を愛する人間なのだから。
掃除当番に当たっていたとしても、だいたい二十分くらい待てばくるだろう。思っていたとおり立村の姿が見えたのは、十五分後だった。茶室近辺に人影はなく、決闘するにはちょうどいい空気が漂っていた。
「待ってたぜ」
「すまない」
やはり腰の低い奴である。健吾はポケットに手を突っ込んだまま、黒いコートを羽織った立村の姿をじっくり眺めた。膝下まである分厚そうなコート。大抵の男子だったら、そんなものを着ようとはしないだろう。ジャンバーが普通だ。
「今なら誰もいねえぜ。さ、好きなように料理しろ」
「新井林、そういうんじゃないんだ。少し話そう」
立村は軽く咳き込みながら、左手を差し出した。
「俺も、あの時感情で口走ったことは悪かったと思っている。でも納まったっていうんだったら、もう遺恨なんてない。これから先は長いんだ。だからもう一度あらためて話をしたいんだ」
「けっ、何いきなり尻尾巻いて逃げる気でいるんだ? あんた、男だろ。男としての約束を守れないでなあにが」
つばを足下に吐き、健吾は真っ正面から立村を見据えた。まだひくひくとした目だ。
「殴ったっていやな思いするだけだ。それより、これから、新井林と佐賀さんがどうすればいやな思いをしないですむか、それを話し合いたいんだ」
「しつこいぜ。俺たちがすっきりできるのは、あの女が青大附属を出て行くことだ。そうしない限り、どんなことがあったってすっきりさわやかって気持ちになんてなれねえって、何度も言っただろうが」
無理難題だとはわかっている。でも、健吾はがまんできない。あの汚らしい顔と、ゆがんだ口元、泥水のような髪の毛、どろっとした瞳。杉本梨南の顔形、かもし出す空気すべてが耐えられない。はるみにしたことすべてをチャラにしたとしても、嫌悪感をぬぐうことがどうしてもできない。どうしてかわからないけれど、本能がそう叫ぶ。
「それはできない、けど」
「ははん、あの女を退学させることができなければ、俺はあの女を許すことなんて永遠にねえだろうし、あんたを認めることだってたぶんできねえだろうな。けどな、あんたは俺のできなかったことをあっさりやってくれたんだ。クラスの平和があの女のいないってことだけで保たれるってことを教えてくれたんだ。悪いがあんたと違って俺は、間違っていることは堂々と認めるし頭も下げる。恨みだってあっさり捨てる。評議委員長としてのあんたを認めるぜ。その誠意を見せたくて、今こうして、ほっぺた差し出してやるってんだ。さ、三発くらいさっさとやっとくれ」
一心太助よろしく、地べたにあぐらをかいて両腕を組んだ。
ふくらはぎに染み入るぬれた感触。足首に直接触れるぬれた土。立村は差し出した手をぶらんとぶら下げたまま立ちすくんでいた。言い返せない奴だ。唇をかみ締めるともう一度小さく首を振った。一歩だけ足を進めた。
「新井林、俺はお前がどうして杉本を嫌うのか、そこまでは想像がつかない。けれど佐賀さんに杉本がしたことを許せないというのだけは共感できる。どんなに杉本がお前たちと友だちになりたくてしたとしても、許せないことは絶対に許せないだろうし、責められないことだと思うんだ」
「つべこべ言うな。繰り返しだぜ」
「頼む聞いてくれ。でも、杉本はどうしてもその気持ちが理解できないんだ。本当はお前や佐賀さんとうまくやりたいと思っているのに、どうすれば喜んでもらえるかが想像つかないんだ。言い訳だと思われるかもしれないけれど、かなりの確率で俺はそうだと踏んでいる。桧山先生が俺のことを引き合いに出して病院に行けって言ったのは、新井林や佐賀さんが杉本のしていることでどれだけ傷ついているか、少しでもいいから理解してくれってことを言いたい、それだけじゃないかって」
「はあ? なに女々しいこと言ってるんだ?」
また一歩、スニーカーの足を踏み出した。少し前かがみに健吾の顔を見下ろすように。
「杉本だってしたくてしてるんじゃないんだ。どうしてもそう思えないから自分のしたいことをするしかないんだ。どうして男子連中がこんなに自分を嫌うのかわからないし、どうすれば嫌がられないですむか想像つかないんだ。俺が今杉本にできるのは、どうすれば周りの人が嫌がらないですむか、そういう言い方を教えたり、佐賀さんが辛い思いをしないで杉本も傷つかないですむにはどうすればいいか、それを考えることくらいだ。俺だって頭が悪いしたぶん、新井林よりはうまくできないかもしれない。でも、せめてお前たちがむかつかないようにするために、杉本をクラスから引き離すことくらいはできる。俺ができるのはそのくらいなんだ。だから」
もう一度、今度はかばんを持ち替えた右手を差し出した。
「頼む、杉本に情けをかけてやってくれ」
健吾はゆっくりと立村のおののき加減な顔をねめつけた。
「情け、かよ」
鼻息で返事した。拒否。当たり前だ。
「御託並べてるんでねえよ。なあにが『杉本だってしたくてしてるんじゃない』んだ? 『友だちになりたくて』だ? あのな、ずっと聞いてればあんた、あの女のことを隠れ蓑にして、好き勝手に言いたいことわめきちらしてるだけじゃねえか?」
言葉に詰まった様子、わずかに背中を引いた。
「『杉本』をあんたの名前に置き換えてみろよ。要するにあんたがどうして清坂先輩や羽飛先輩におべっか使っているかを言い訳してるだけだろ。たまたまあの女がいたから、正義の味方面して俺を開いてにべらべら言いまくってるだけでな。けっ、やり方汚ねえな。せめてやるなら、精一杯あの女をかばえばいいじゃねえか。本当は惚れまくってるから、守ってやりたい、守ってやりたいから俺につっかかる。それだけのことじゃねえか」
一息で言い放った。また首をかすかに振ろうとするが目は震えていた。
「俺だって惚れた女がいる。あんたが杉本をたまらないほど惚れぬいているっていうんだったら勝手にしろってんだ。俺とは関係ねえよ。だがな、俺と佐賀はあの女のせいで六年間、ひどい目にあわせられてきた。それも事実だ。だから戦うそれだけだ。あの女のせいで町を追い出された奴だっている、悪口言われて学校辞めさせられそうになった先生だっている。これ以上俺の大切な奴をあの女の餌食になんてされたくないだけだ」
「わかってるだから」
「わかってねえよ。あんたなあ、自分でどんな顔して言ってるのかわかってるのかよ。あんたは自分を清坂先輩の彼氏でいるってことで安全地帯作って、その上でのそのそあの女を守ろうとしてるってわけだ。たとえ俺がここで、あの女を許すって言えば、ほっとして清坂先輩といちゃつくんだろうな。今あんたが言ったみたいなことを清坂先輩たちに言って、『情けをかけてやってくれ』って訴えて、仲間に納まろうとするってわけだ。けっ、汚ねえな。あんたの顔、今にも泣きそうだぜ。こういう顔してたぶん小学校時代もすごしてきたんだろうな。本品山の浜野さんにも同じ顔して訴えてきたんだろうな。俺だったらあんたを息の根止めるほど殴りつけてやっただろうけど、あえて許してくれた浜野さんの恩も忘れてか。最低だなああんた。けどそれとこれとは関係ねえよ。俺はただ、あんたがあの女を迷惑にならないようにしてくれたから殴ってもいいぜ、って言っただけだ。あんたが男だったらそのくらいの仁義は持ってるだろ」
じんじん染み入る足首への冷え。動かない立村を早くせかしたい。
「そっか、あんたは殴ることすら怖いのか」 きっと目が合い、健吾は一切逸らすことなく一点凝視した。
勝負は目をそらした方が負ける。
立村が一度、唇を開き何かを口にしようとした、が次の瞬間ぐっと健吾の襟を引き出すようにしてゆっくりと手を伸ばした。
──さ、やってくれってんだ。
恐る恐る、こわごわと。
咽仏を触れるようにして、ネクタイだけ引っ張り出した。かがみ込み、目をそらさず。
「本当に殴られるつもりでいるのか」
静かだった。お互い吐く息が白く漂った。
「あんた日本語わからねえのか」
「殴られたら痛いんだ、そんなことされたいのか」
「気持ちいいんだったらマゾだろ」
「新井林、お前」
顎が自然と持ち上がる。ふつうだったら目を閉じるのだろう。でも健吾はさらさらそうす気なしだ。げんこで顎を支えられた格好で、もう一度にやっと笑ってやった。
「そうこなきゃうそだな。あんた、いいかげん大人になれよな」
右手でネクタイを取っているんだから、馬鹿もいいとこ。利き手を使いたいだろうに。やっぱりまともにタイマン張ったことのない奴なのだ。
──この勝負、完全に俺の勝ちだ。
殴られようが、蹴られようが。健吾は勝利を確信した。
襟から伝わってくるものが、やがて震える感覚に変わっていった。立村の手先から来る振動だとすぐに気付いた。気持ちが揺れているに違いない。アホだ。
──ろくに殴ることもできねいで、なあにが杉本をわかってやれ、だ。
おびえる瞳が揺れている。健吾は一切逃げなかった。立村の目がだんだん迷いに変わり、やがてうるみかけていたように見えた。
「ほおら、やれねえのかよ」
気合をつけてやりたいところだが効果なし。ネクタイを握り締めたまま立村が、片膝ずつ付き、つぶやいた声を拾った。
「ああ、できないさ」
健吾と同じ位置に奴の顔が下りている。前髪が震えるようだった。顔を隠すようにして、ネクタイから指を滑らせ、離した。
「お前の勝ちだ。新井林」
そのままうつむき、咽の奥で小さな咳をした。
「最初から勝負はついていたのにな」
か細くつぶやいた。鼻で笑いたい。最初から健吾が言いたいことを、こいつはやっと理解したらしい。自分がいかに弱くて懸命であるかを必死に訴えてきたはいいが、度胸がなくて結局男同士の勝負すら放棄してしまう情けない奴。こんな奴を先輩として認めたくはないが、健吾は大人である以上仕方ないとして許してやろうとしたのにだ。
──勝負、ついてたか。そういうことかよ。
桧山先生と杉本梨南との三つ巴対決に割り込んだ時、立村が叫んだ言葉を覚えている。
──もう、勝負はついているだろう。 あの時はよくわけがわからなかったから流した。でも今、立村がつぶやいた言葉ですべてが通じた。自分がガキだということを、杉本も救いようのないガキだから、許してやってくれたとかばっているに過ぎないということを。
──たまったもんじゃねえよ。ガキがガキだったらガキの溜まり場で遊んでれってことだ。俺たちにかまうんじゃねえ。大人のゾーンに割り込むんじゃねえ。 健吾も、桧山先生も言いたかったのはそのことだ。
──よっくわかったか。ガキのくせに俺たちにちょっかい出すんじゃねえ。
言葉には出さないで、健吾はもう一度鼻を鳴らした。ふがっと、ブタっぽい音だった。
「よおし、わかったそこまでだ。立村、新井林」
靴下がびっしょりぬれていることに気付いたのは、声が聞こえてからすぐだった。立村が即座に振り返り、腰を浮かせた。
「本条先輩……」
健吾は動かないまま、もう一度口を結び頭を下げた。本条先輩が白いジャンバーを羽織ったまま、茶室をバックにふたりを見つめていた。めがねを外したままだった。完全なる無表情。石をひとつ蹴飛ばした後、立村に近づき平手で頬を張り飛ばした。
バランスを崩したのか立村は片ひじをつく格好で倒れかけた。
そいつを無視してすぐに、本条先輩は健吾の肩を叩いた。打って変わって意味ありげな笑みだった。
「新井林、大丈夫か。しんどかったなあ」
「何でもねえっすよ。たいしたことじゃねえ」
殴られたとでも思っているのだろうか。その辺の誤解は解いてやろう。口を開きかけたが本条先輩は目で軽く合図を送ってきた。黙ってろ、って奴だろ。大人同士の意思疎通だ。
振り返り立村が立ち上がると同時に、
「いいか立村。お前がこれから何をすべきかは、わかってるんだろうな」
答えなかった。膝にべったりついた泥をぬぐうこともしなかった。見下ろすように本条先輩の顔をにらみつけていた。健吾の方は全く眼中にないと、よくわかった。
「全く、だからお前はガキだっていうんだ。いつまでも甘ったれるんじゃねえ。悔しかったら新井林が納得するように完璧に片をつけてみろ。それができるまで、俺はお前と一切縁を切る。聞いてるのか」
──おいおい、ホモ説の相手同士だってのに、そこまで言っていいのかよ、本条先輩。
立村の視線は次に健吾へと向いた。涙を雪で凍らせたようなまなざしだった。大泣きするのは時間の問題だろう。
「わかりました。失礼します」
小さく一礼をすると、立村は背を向け全速力で茶室から離れていった。脱兎のごとくとはあのことをいうのだろう。本条先輩と目と目が合い、健吾はようやく立ち上がることができた。
「ま、新井林、少しあったかいところに移るか。ごくろうさんだった。あのくらい言わねえと立村の奴、ちっとも答えねえからな。お前の言う通りだ。ガキはな、自分で自覚するのにどうしようもないくらい時間かかるんだ。ほんっと、腹立つくらいにな」 わざわざかばんまで持ってきてくれた。恐縮だ。
「今の時間だったら、茶室、誰もいねえな。ま、入ろうか」
石畳の色が完全に墨の色と同じ。少し痺れた感覚のある片足を引きずりながら、健吾は本条先輩の後ろを追った。初めて入る本式稽古用の茶室。腰をかがめないと入れないにじり戸を開いて、本条先輩は尻を突き出したまままず入った。健吾も続いた。初めて覗き込む茶室は四畳半で、ちょっと埃臭い匂いがした。畳の上に立った時、じわりと足跡が付いたのが分かった。
「ま、座ろうや」
火の気の無い部屋の畳はからからに乾いていた。畳の真ん中に小さな炉、黒い炭を四つばかり四角くく並べたままだった。
「さすがにここじゃあストーブ焚けねえしなあ」
本条先輩は両手をさすりながら腰をおろした。炉を挟んで反対側にあぐらをかいた。
「本条先輩、あのですね、今日のことなんだけどさあ」
どこまで今日の一件について聞き及んでいるのかわからないが、一応は立村の顔も立ててやろう。余裕がある。
「あ、そのことか。だいたい見当はついている。最近立村の様子がおかしかったから、いろいろ見張りつけてたりしたんでな。まあ、お前とだったら奴の勝ち目はないな。と思っていたから様子見してたんだが。ったく、俺も受験生だってのに、まだあいつの面倒みなくちゃなんねえのかって頭痛くなったぜ」
──見張り、かよ。
さすが本条先輩、鋭い。
「けどな、その点新井林、お前は大人だなあ。ほんと、一年だとは思えねえぜ。ちゃんと立村をあしらって、頭を下げさせたんだからな」
口元をやわらかくして笑った。
「いや、先輩。本当は一発二発殴らせてやらないとって思ってたんだ」
「そうか。あいつだったらお前に本気だされたとたん木っ端微塵だもんな」
本条先輩、すべてをお見通しだ。だから健吾はこの人に勝てないと思うのだ。
顔だけ見たら優男だろうし、下手なアイドル歌手よりもずっと上だろうと思う。青大附中開闢以来の女ったらしという異名だけが先走りしているけれども、本当のすごさをたぶん知っているのは、たぶん健吾かあと、あの立村くらいだろう。
「でもまあ、停学騒ぎにならないですんだ。よかったよかった。立村もたぶん、あの顔見てたら何にも言わないだろうし、自分のやるべきことはさっさと片付けるだろうな。新井林、お前もその点は心配しないでいいぞ」 「別に心配なんてしてないっすよ」
なんで、立村をここまで貶した発言をするのだろう。健吾は少し不気味に感じていた。一応は「本条・立村ホモ説」とささやかれた相手だというのに。実はカモフラージュだったのだろうか。もともと本条先輩は健吾をひいきしてくれていたし、杉本を絡めた問題についてもなんとなく、健吾よりの立場を保ってくれていた。しかしながら本当のところはどうなのだろうか。この人の命令には絶対に逆らえないとわかっているからこそ、次の言葉に用心したかった。
「そうだな。お前がいるから次期評議委員会は安泰だ。まあな、杉本のこととかでお前が頭痛くなるのもよおくわかるし、その辺は奴に少し考えるよう言っとく。全くガキを相手にするのはほんと、疲れるなあ」
両膝をV字に立てて両手を乗せた。
「で、本条先輩何を言いたいんっすか」
「さすが、匂いをかんでるな」
健吾が身体を反り返らせるようにして言葉を待つと、本条先輩はうんと頷いた。
「相談なんだが、お前、ああいうガキをうまく扱って青大附属の評議委員会を利用するってのはどうだろう? 今の果し合いを聞いた感じだと、どうみてもお前の方が上だ。立村を委員長にすることについてはもう決まったことだからひっくり返すことができないが、来年以降はお前が影の委員長と言っても過言じゃない。あのぼおっとした立村をうまくあやしながらやれるのは、新井林、お前しかいない」
「あやす?」
どこまで本気なんだかわからない。まゆつばで聞くしかない。ぐいとにらみつけた。威嚇のポーズだ。
「そうなんだ。新井林、お前も知っての通り、立村は見た目以上に本当にガキなんだ。まあそういうところが俺は嫌いじゃないし、弟分にしてるところでもあるんだが、だがな。あれじゃあまだまだねんねのまんまだ。お前の心配してくれている通り、下手したら杉本あたりを次期評議委員長につけようとしたり、かなり肩入れしすぎてしくじったりしそうな気がする。ただでさえ青大附属の評議委員会が立場弱い形になっているのに、そんなことでぶっこわしたら大変なことになるってわけだ。まあな、杉本がらみの問題については、俺もあまりかかわりたくない。この辺は、男の本音だ」
にやっと笑う。飲まれないようにしなくては。防御。
「だが、俺なりにあの甘ったれがこれから先ひどい目にあっていくかを考えると、非常に胃の痛い気がするのも確かなんだな。特に杉本あたりに利用されないとも限らない。ということで頼みの綱は、新井林、お前だけなんだ」 「冗談じゃねえ、俺はお情けであいつを許してやったんだけど」「いやいや、そういう器を持っているお前だからこそ、あえて頭を下げて頼みたいとこなんだよ。お前は大人だ。ずっと、俺と対はってしゃべることのできる、数少ない後輩だ。あの『青大附属スポーツ新聞』だって、今は全校に配ろうという方向に進んでいると聞くぜ。俺たちの盲点だったとほんと、思う」
──ちくしょう、忘れてたぜ。
いまだに勝ち星を挙げられないバスケ部の実情に思いを馳せた。
「だが、今の段階では委員会最優先主義がまだ続いている。俺が卒業して、立村が仕切り終わるまではたぶんこのままだろう。せっかく委員会が部活の要素を持っているんだったら、どうだ、新井林。お前この状況を利用してやろうって気にはならねえか」
「俺は一からこしらえるのが好きですから、そんなのどうでも」
「もちろん仕切りが新井林ってのは決まりだ。ただ、せっかく写真関係とか、新聞関係とか、得意な委員会が存在してるんだったらそこから逸材を引き抜くとか、記事が得意な奴がいたら利用するとか、そういう風にしていくとだいぶ楽になるぞ。やっぱりチームプレイも大切だ。俺が思うに」
以下、本条先輩の提案。
「来週の終業式前までには立村もそれなりの提案をしてくるだろう。杉本がらみのうざったい問題についてはお前の判断に任せるにしてもだ。とにかくお前のやりたいこと、委員会主義から部活最優先主義にしたいっていうんだったら、どこまで立村から有利な条件を引き出せるかを計ってみたらどうだろう」
「なんすかそれ」
「ねんねでも立村のネットワークはすげえよ。俺も絶句したんだが、あいつは本能的に人を利用するのが得意なんだ。健ちゃん、あんたと女子以外はな」
「女子以外?」
「あいつの弱点は女子受けが悪いってことなんだ。同学年の野郎連中は立村からなんらかの恩義を受けているらしくてさ、あいつの頼みは大抵聞いてもらえるらしい。今回の一件もそうだ。俺が聞き出したところによると、今回の杉本の件、あいつが動く前に清坂が情報を仕入れて、菱本先生に抗議しに行ったらしいんだ。清坂ちゃん、あれでもあいつに惚れ抜いてるからな」
「嘘だろ、ってか、なんすか。清坂先輩が抗議って」
「ほらあっただろ。立村が病気だとかなんとかっていう話。あいつがガキの頃から生まれつき数学の頭が弱くて、なんかの施設に通ったことがあるっていうことをさ。本人としたら言われたくなかったろうな。でもまあ、その代わりといってはなんだけど大学の講義を受けられる試験を通ってるから、みなとんとんだと思っているみたいだが」
すっかり忘れていた。そうだ。きっかけは桧山先生と菱本先生の戦いだ。
「そうっすか」
「雑魚どもが騒ぐほど、内緒ごとってわけじゃあない。けど、あまりおおっぴらに言いたくないことも想像はつくわな。本当に桧山先生が杉本に病院に行け発言をしたかどうかはわからんけれども、そこに自分の彼氏の見られたくないところを引き合いにだされたら、清坂ちゃんのことだ。ぶっちぎれるだろう。お前だって、彼女には、そうだろ」
はるみの顔を思い浮かべる。大きく頷いた。
「そういえば、清坂先輩、俺にそのこと聞きに来てました」
「そうか。じゃあ完璧だ。つまり立村をかばうために彼女たる清坂がひとりで動いたってわけだ。菱本先生も熱血だから燃えまくる。桧山先生をいじめるいじめる、で、ああいうことになったってわけだ」
──清坂先輩がかよ。嘘だろ。
どう考えても、立村にあの清坂先輩が惚れぬいているというのが信じられない。何かの間違いかと思っていた。しかし本条先輩の言葉は絶対だ。動かない。
「さすがにそのことに気が付いた立村は悩んでたなあ。もちろん口には出さねえけどな。さっそく菱本先生のところに行って、『自分のことで桧山先生が迷惑をこうむっているのなら、謝るからなんとかしてくれ』みたいなことを言ったらしい。これも清坂ちゃんが話していたことだがな。あいつと菱本先生、二年来のバトルを繰り広げてたみたいだけど、ひたすら頭を下げて謝って。菱本先生もそれにほだされたかどうか知らんが、まあ桧山先生復活となったのにはその辺にも理由があるらしい。と、俺はある筋から聞いている」
背筋が寒くなったのは、部屋が冷えているからではない。
──まじかよ。あいつ、そこまでしたのかよ。
ひとつならともかく、ふたつも負けた。
健吾の出来なかったことを、立村上総はやってのけているというわけだ。
唇が切れて痛い。健吾はそっと口をぬぐった。
「だから立村は、使いようによってはかなり有能な駒であることも確かなんだ。俺が想像つかないやり方でもって片をつけることも多かったが、なによりも、あいつが動く前に周りの連中が喜んで手伝ってくれるだけのオーラを持ってるんだ。なんでだろうな。どんなにあいつがへまやらかしても、周りがうまく治めてくれる、いや、治めないとまずいとして動いてくれるんだ。俺も無意識のうちに使われた、その口だ」
──ははん、ホモ説はそこから来てるのかよ。
「だからな、俺としての提案なんだが、新井林がうまくあいつを操って、評議委員長としての立村を利用したらどうかってことなんだ。残念ながら腕力勝負では役立たずだが、人間関係をうまく操る腕は俺以上だ。俺もあいつを敵に回したらどうなってたか、今でも恐ろしい。第一、小学校時代あれだけやばいことをやらかしておきながらいまだに、復讐されてないってところがあいつの怖さだろう。野郎限定大目に見てもらえてしまう能力は、ありゃあ天性のものだぜ。使わない手はない。杉本を片付けることについても、新井林、お前の出方によってはあっさり処理してくれるかもしれない」 「はあ、処理だって」
「そうだ。まあもしだ。俺が健ちゃんの立場だとしたら、決闘なんてあっさりけりのつくことはしないわな。まず、うまくあいつから交換条件を引き出す。杉本をおとなしくさせるかクラスの邪魔をさせないかさせてってことか。今回は。そしてそれをやってくれるんだったら、立村に協力するという譲歩をする。駆け引きってやつだな」
「俺そういうの正々堂々としてないから、好きじゃねえっすよ。やるならすっきり力でけりつけたいですよ。負けてもいいから」
「いやいや、それだったら相手を恨ませるだけで、それ以上の進歩がねえだろ。そこんところはな、健ちゃん大人になって、立村の吐き出せるものを全部吐き出させちまえ。うまく機嫌を取っていけばあいつも、何とかしようなんとかうまくやろうと努力してくれる。あいつは保身に回っているように見えるけれども、いざとなったら退学も辞さない性格だ」
──本当かよ。
「あ、健ちゃんお前、嘘だと思ってるだろう? そうだよな。疑うよなあ。でもな、本当なんだ。あいつの伝説パート2知ってるか? 今年の夏休み宿泊研修の時、立村は何を考えたか菱本先生とバトルやらかして、大法螺ついてバスを抜け出すという荒業をやらかしたんだ。本人には理由がちゃんとあったし、菱本先生もその辺大人だから流したらしいが」
「それってほんとっすか」
「ああ、本当だ。俺は事件前日に、あいつから電話で相談受けたからな。やめれって言って置いたんだが、全く効き目なしだ。いったん決めたら退学だろうがなんであろうがやることはやる。そういう特攻隊的性格を利用しない手はないだろ」
初耳だった。あの昼行灯めいた顔をして、マネキン人形と一緒に混じっていても見分けつきそうにないあの面が、そこまで悪さしていたとは思えない。
単なるたらしかと思っていたが、本条先輩の話を聞く限りそうでもないらしい。健吾には想像つかない何かがあるらしい。
「そうなんだよ、立村は怖いんだよ。ガキだから何やらかすか想像つかないんだ。そこでうまくコントロールする大人が必要なんだ。本来だったら清坂ちゃんあたりが適任なんだが、今回の杉本事件のことを考えると第二のコバルト爆弾にならないとも限らない。となると、下級生ながら、新井林、お前しかいないんだ。大人になって、あいつを操れるのは健ちゃんしかいないんだよ。俺の頼み、聞いてもらえないか」
深々と頭を下げる本条先輩。健吾は足の親指をもみながらつぶやいた。
「大人になるって、どういうことっすか」「今日のことだって立村のようなガキには相当の打撃を受けたはずなんだ。死にたいと思ってるだろうな。悔しくて今ごろ泣きじゃくってるだろうな。そういう奴なんだ。けど、そういう時がチャンスだろ? 健ちゃん、正々堂々だけが勝負じゃないんだ。うまく駆け引きするのもこれからは必要だぞ。特に、立村みたいな奴なガキとやりあっていくにはな、力勝負だけじゃあ話が通じないんだ」
正直なところ、むかついた。本条先輩の言い分には納得するところもあるけれど、でもいわば「立村をそれなりにおだてあげろ」ってことを言いたいだけなんじゃないだろうか。思いっきりけなしまくっているけれども、その裏でなんとかしてやろうと努力している本条先輩の姿が見え隠れする。自分でもおっしゃっている通り、本条先輩は立村の持つオーラのようなものに操られているだけなんではないだろうか。
──冗談じゃねえよ。あんな奴になんて誰が誰が。
健吾がつぶやきつつも、あきらめかけていたのは、むしろ本条先輩のオーラの方だった。
「繰り返すが、俺は杉本のことについては全く口出しする気はない。やっぱりあれは本音として許しがたいことだろうしお前を止める気はない。そっちの問題は立村の出方を待つなり、たたきわるなり好きにしろよ。だが、立村とだけはうまくやった方がいい。機嫌をうまく取っていけばかならずあいつはお前の味方になるだろう。そうだ、健ちゃん。そこまで疑うんだったら、一週間大人の目で、立村がどういうことをしてきたかを洗い出してみたらどうだろう?」
「大人の目? 俺はずっとそうしてたっすよ。ばかにすんなってんだ」
「いやいや、新井林、意外とそうでないかもしれねえぞ。あいつはうまく昼行灯の顔で通しているが、やってきたことの多くは確かにすげえもんだ。よっく様子を覗いてみろよ。驚くぞ」
「そうすかねえ」
「最初からガキなんだと思って見ていたら、結構やることをやる奴かもしれねえぞ。とりあえず来週以降に立村がどういう提案をするか待ってみて、それからあいつをどう扱うか決断してもいいんじゃないかってことだ。新井林、お前は大人なんだ。大人の目でこの問題を処理するなら、どうすればいいかってこと、絶対わかるはずなんだ。俺が保証する」
炉の中の白い灰を覗き込み、本条先輩は大きくくしゃみをした。
「ちくしょう、寒すぎ。健ちゃん、場所変えよ。これからバスケか?」
「いや、休むって言ってあります」
「じゃあ食い物おごるか。俺も暇だ」
──公立の試験勉強しねえのかよ。
頭の中で、「お前は大人なんだ」と繰り返す声がする。本条先輩が先ににじり戸へ身をかがませた後、健吾は前に突き出されている尻をけとばすかどうか迷った。結局黙ってついていき、大学の学食でとんかつ定食をおごってもらうことにしたのは、自分が「大人」であるかどうかを認めたかったからかもしれなかった。全く関係のない馬鹿話に移っている中、健吾はひたすら、「大人」の二文字にこだわりつづけていた。
──俺は「大人」なのか?
──あの馬鹿男なんかよりも大人なんだよな。
──だったら、やっぱり本条先輩の言う通り、正々堂々というやり方だけじゃ、だめなのか?
ネクタイに手のかかったまま、立村が瞳を揺らしながらつぶやいた言葉が重なっていた。
──最初から勝負はついてたってことか。もう俺の勝ちならば、これからどうすればいいかってことかよ。ガキを相手にするには、どうすればいいか、これから考えねばなんねえのかよ。
唯一、「大人」だと思える本条先輩の話を聞きながら。