その8 殴らせる理由
──ははあ、あの女がいないからだ。
まだ桧山先生のお戻りはない。ただし、健吾が連絡を取り合っているところによると、二学期中には必ず復帰できそうな気配だともいう。一週間しか経っていないのにずいぶん動きが芽生えてきている。
「やたら静かだよな、最近のうちのクラス」
はるみと電話で話をする時、つい本音がぽろっとこぼれてしまう。
学校では徹底して、クールに決めたい。はるみ以外のことでは一切無視の姿勢を取っている。評議委員会も試験期間中は一切休みだ。
「そう。健吾がしてくれたんじゃないの?」
「俺がか?」
あいまいにごまかしておく。はるみが健吾のことを、最近少しずつ頼ってくれていることを感じられるってやっぱり嬉しい。
「だって、クラスに梨南ちゃんがいること、少なくなったから」
──佐賀も気が付いてるのか。
鼻息だけで答えることにした。
「休み時間、いつも二年の女子の先輩が廊下で待ってるでしょ。梨南ちゃんを呼び出してどこかに連れて行くでしょ。私、心配してたのよ。もしかしたら女子にもいじめられてるんじゃないかって」
「お前、あんな女のことで気にすることねえだろ。いなくなったらラッキーだ、無視しろ」
「ううん、健吾、違うの」
誰か側にいるのだろうか。声を潜めてささやき声で。心臓が膨れ上がりそうになる。
「なんか最近、花森さんも一緒にいて、二年生の人たちと遊んでいるみたいなのよ。梨南ちゃんを中心にして、図書室でおしゃべりしてるみたい。どうしてかな」
二年の女子か。
健吾はカレンダーを確認した。立村との対決から一週間。はたして立村が何を思って「一発殴らせろ」と捨て台詞を残したのか。かなり杉本を手なづけることに自信ありげのようだった。
健吾が「一発殴らせてやってもいい」場合の条件としては、
一 杉本梨南をクラスの邪魔にならないように黙らせる。
二 桧山先生を復帰させる。
一はそれなりに成功しているようだ。はるみの言う通り、杉本を二年生の女子たち……たぶん清坂先輩たちか……に頼み込んで、連れ出してもらったりして、健吾たちの目に入らないようにしてほしい、ってことだろうか。 「いいか、佐賀」 「なあに?」 あどけない口調のはるみが電話の向こうにいる。本当はもっと早く、あの女から救い出してやりたかったのに、七年もかかってしまった。もう二度と、おびえた表情のはるみを見たくはない。誰よりもお姫様然としていたはるみでいてほしい。
そうしたら健吾も、ふさわしい男でありたいと思うから。
男として、逃げ隠れしない正々堂々たる人間でありたいと思うから。
「なんでもねえよ」
やっぱりうまく言葉が出なくて、ごまかすことにした。ひとつの決意も込めて。
次の日はテスト答案の返却、および答え合わせが中心だった。期末テストが終わるとだいたい授業も落ち着いてくる。公立はどうだか知らないが、青大附中の場合は高校受験対策をする必要がないので、副読本の問題集を解いたり、先生たちの特別授業を受けたりと、のんびりした時間を過ごすことが多かった。国語の授業中、健吾は先生のひとりごとめいたおしゃべりを聞き流しつつ、杉本梨南まわりの動向をうかがっていた。
──やっぱりそういうことか。
朝一番から妙な感じはしていた。いつもさぼりの常連たる花森なつめ嬢が一緒にくっついてくるのはいいとしても、休み時間毎回二年の女子たちが覗き込みにくる。顔ぶれはさまざまだったけれども、中にはあの清坂先輩と連れの女子もいた。健吾も顔を知らないわけではないので軽くすれ違いざまに会釈する。全くこだわりなく笑顔で答えてくれるのは清坂先輩だけなので、健吾としてはちょっと得をした気分になる。
「新井林くん、今度の試合、また水鳥中学と練習試合するんでしょ」
「なんで知ってるっすか」
「来年ね、水鳥中学の生徒会の人が交流で青大附属に来るらしいんだ。だからちょっと関心ありってことよ。今度情報教えてね」
短いけれどもさらりと流す。
「俺は評議と関係ないっすから」
「そんなこと、言わないで、ね」
ちょっと長めのおかっぱ髪を今日はヘアバンドで留めている。やはり、いい。
──それにしてもな、なんであの男、こんな完璧な彼女を持っていながらあの女なんかに。
いつもながらの疑問を感じつつ、振り返るとはるみが微笑んでいた。 ひとりで、軽く首をかしげて。
「なんだよ、何見てるんだ」
「ううん、なんでもない」
──気にしてるんだったら気にしてるって言えよ。
清坂先輩がいなくなった後、もう少しなにかリアクションがあるんでないかとはるみをもう一度伺った。まったくなし。ひとりで本を読んでいた。
こういう時、いつも気持ちが取り残されてあせるのが健吾だった。
休み時間中杉本がいないだけでもこんなに違うものだろうか。
健吾は靴の紐を結び直しながらシャープの芯を出したりしまったりしていた。
要は杉本がいなくなっただけで、野郎連中はもとより女子たちのからみが一切なくなっていったというのが、驚くべきことだった。健吾も想像してなかったわけではない。昼休み中のバトルや罵りあい、すれ違った時の罵詈暴言。さまざまな言葉が飛び交う中、教室にいるのが苦痛になりそうな空気が漂う。杉本がいるだけでだった。
それが一切消えていた。
誰もいじめることなく、憎むことなく、それこそ相手にすることなく。
スポーツ飲料を一気飲みした後の、すがすがしさというんだろうか。
杉本を相手にしてうんざりして汗をかき、その後体力を補充しようとする時の身体の働き。
「なんか今日は静かだよなあ」
ある先生の言葉が印象に残った。大人でもわかるのだ。当然だ。
「杉本さん、最近どうしたの? クラスにいないね」
クラスの女子たちも杉本のいないところでささやいている。一時期の「杉本さんをいじめる馬鹿男子」という意見がここのところ一気に減っている。あの「土下座事件」もさることながら、杉本梨南がクラス女子にかけていた魔法が一気に解けてかぼちゃの馬車になってしまったってことだろう。
杉本が教室から出て行くやいなや、健吾のすぐ脇に女子たちが固まり、
「杉本さんの噂、しってる? あのさあ」
と、嘘のない情報を交換していた。
「一年の中ではハブにされる恐れがあるから、って二年の先輩たちがみんなで守ろうって決めたんだって。そうだよね、ああいうことあったらねえ」
「杉本さん可愛いんだけど男子から嫌われてるからさ」
「そうそう、杉本さんは女子の先輩には人気あるんだけどな」
健吾に気が付いてすぐにひそやかな声に落とす。手遅れだって言いたい。
肝心の杉本梨南に全く変化がないのが、健吾には解せなかった。
親を土下座させて反省させたにも関わらず、本人はつらっとした顔している。
その辺の心理を理解できるのは立村ぐらいだろう。理解できる方がおかしいと健吾は思う。辛いんだったら泣けばいい、恥ずかしいんだったら真っ赤になればいい。反省しているんだったらはるみに手をついて謝ればいいのだ。こちらは許す気などさらっさらないが、はるみのために精一杯努力してくれるんだったら、一切見てみぬ振りくらいはしてやろう。しかしながらその努力すらかけらもないとなったら。
──いじめてつぶして追い出すことができれば一番楽なんだがな。
あえて自分に課したルールが重かった。はるみのためなのだ。
授業が一段落し、いつものように号令をかけた。全く姿かたち変わることなく、すっくと背を伸ばし、正面だけをじっと見つめている杉本の姿がじゃまっけだった。はるみの後ろから首をしめそうな雰囲気をかもし出していた。三角の白い毛糸ストールをブレザーの上から巻きつけている姿はこっけいだった。
帰りの会は大抵他のクラスの先生が入れ替わり立ち代り担当してくれるのが常だった。どうせたいしたこと話すわけではないのだからと、健吾はすぐに体育館へダッシュできる態勢を整えた。なにせ、来週の試合は強豪水鳥中学との練習試合なのだ。
「よお、みんな、お久しぶりだな!」
聞き慣れていたけど懐かしくなりかけの声が扉開くと同時に響いた。
「桧山先生?」
扉が開いたとたん、第一声を耳にしたとたん、誰もの手が止まった。誰もの言葉が消えた。静寂ってこのことかもしれない。思わず立ちあがった。
「先生、あれ、学校帰ってきたのかよ!」
健吾の叫びを合図に、男子連中が次々に立ち上がり桧山先生に走り寄った。健吾が動いたのだから問題ないのだ、と確認するかのように。
女子たちのひそひそ話もかなりでかでかと響き渡った。取り残された中、はるみはあどけない表情のままでいた。杉本梨南は我関せずといった風に、真っ正面の黒板をにらみつけていた。必然的にあの視線は、教壇に立った桧山先生とかち合うことになるだろう。
「ああ。新井林ごめんな、みんな心配かけたな」
意味ある言葉を発しない野郎連中をけん制しながらも言葉が溢れるのと押さえられない。ががっと叫びたかった。
「今日来るって言ってねかったじゃねえかよ。どうしていきなりなんだよ。ちゃんと来るってわかってたら俺に知らせてくれたってよかっただろ。俺、これでも一年B組の評議なんだぜ」
「ああ、評議はお前だけだってわかってるよ。新井林」
意味ありげに健吾に片目をつぶって見せた。顔がゆがむのはどうしても上手にウインクができないから。でも意味はよっくわかる。男前の桧山先生は男子たちだけに笑顔を見せ、最後にちらっと女子連中へと視線を向けた。当然重なるのは、あの女に向かってだろう。
「明日から、一年B組に復帰するからな、みんな、ありがとう!」
ほとんどの男子連中が教壇の上まで集まってきて、
「せんせ、どうしてた? 二週間大変だったろ」
「なんかさあ、告げ口って頭くるよなあ」
杉本に当てつけるような言葉を真っ正面から口走っているのも丸聞こえだった。そのくらいのことは健吾も大目に見ていた。自分の親が土下座していることがばれても何にも感じない杉本に、そのくらい言っても平気だろう。
「すみません、用がないのでしたら、帰りの会、これで終りでいいですか」
冷たい声が飛んだ。思ったとおり、はるみの後ろの生霊だ。
桧山先生は前髪をかき回し、ふっと鼻の穴を膨らませて見せた。気付かないのか、かちんときた視線がぶつかりあっていた。
「君には用がないから、帰っていいよ」
見事、一言のみ。
「わかりました。失礼します」
杉本梨南が立ち上がり、なめきったまなざしでもって桧山先生を見返した。それが合図だった。他の女子たちが群れるように立ち上がり大きくあくびした。未練を残しているのもいくばくか。
その中でまっすぐロッカーに向かいコートを羽織り一切振り返ることなく去った杉本を見送りつつ、三人くらいの女子がひそひそささやいていた。
のろのろ桧山先生に近づいてきた。どことなくおどおどしている。
「あの、先生」
意を決したように、ひとりが口を切った。
「何か用か」
女子には実に冷たい桧山先生。クールというよりも冷酷だ。
「あの、桧山先生。私たち、あの」
「はっきり言いたまえ。俺は君たちが反省しない限り、人間としての扱いをしたくない」
「反省っていうと」
「佐賀に対して何をしているかを、自覚してないってことだな」
クラスでも居場所がなかなか見つからない顔をしている連中だった。杉本には逆らえず、かといってはるみを無視するのも抵抗がある、結局どっちつかずの偽善者集団。
「どうだ、君たちは反省しているのかしてないのか。してないんだったらこれ以上話すことはない」
「反省、してます」
三人の女子はばらばらにゆっくり頭を下げた。反省のポーズか。
「そういう顔に見えないな。悪いが、君たちにはこれから職員室にきてもらう。そこでゆっくりと話を聞かせてもらう。いいな。この前電話で話したことをよっく、念頭においておくんだな」
冷たく言い捨てた。
いったい三人の女子たちに何が起こったのかは全く健吾も見当がつかない。なによりも、桧山先生が二週間前と同じ自信に満ちた態度であることが驚きだった。健吾にとってはひゃっほうと叫びたいところなのだが、裏表激しいこの先生。
振り返った桧山先生の顔はうって変わってさわやか全開だった。
「じゃあ、お前らも部活に行ってこい。新井林、水鳥中学との試合、がんばれよ」
「まかしとけ!」
健吾は桧山先生の背中を思いっきり叩いた。おどけるように腰をさする桧山先生にもう一度振り返り、廊下を一気に走り抜けた。すれ違う連中の多くが、桧山先生復帰の情報を口にしていたのも耳にした。いろいろあったとはいえ、桧山先生は杉本に引導を渡したのだろう。
周りの女子たちがだんだん変わっていくのも、杉本が教室からだんだん居場所を失っていくのも。正々堂々たるやり方を褒め称える証に見えた。
雪虫のかわりに本当の雪がちらつき始めたこの頃。冷えた空気がだんだん澄んでいく。
たとえ期末試験の結果がやっぱり杉本梨南のトップぶっちぎりだったとしても。健吾なりにはベストを尽くしたのだから。試合がたとえあいかわらずのぼろ負けを食らったとしても、全くの悔いはなかった。
「新井林、お前、すごいなあ」
桧山先生も全く変わることはなかった。ただ杉本に対しては一切眼中にないという態度を強めただけだった。むしろ変化を遂げていたのは他の女子たちだろう。
──いったい何、命令したんだかな。桧山先生。
例の三人組を職員室に呼び出した後のことを、健吾は知らない。噂にも聞かない。
ただ、妙にはるみに対してその女子たちが声をかけ始めたのだけは気がついた。
「なんでかしら。私もわからないけど、『佐賀さん、おはよう』って、わざとらしく言ってくれるの。無視するのは悪いから、返事するけど、それだけ」
はるみも小首をかしげていた。全く無視されていた頃をかんがみると、それだけでも大きな進歩だ。
「そうか、よかったな」
もうすぐ冬休みだ。健吾は帰り際にもうひとつ額に唇を落とした。
「けどな、もし俺に言えないことなんかしたらな」
「そんなことしないわ」
──してくれたっていいけどな。
唇の中で肌をつつきたがる舌先がはがゆい。
「健吾、今、何したの」
上目遣いにはるみが見つめ返す。
「いや、おしおきの稽古だ」
もし、唇の中からはみ出す舌をはるみの口に入れられたら。完全に触れ合えたら。 だんだん自分の中で目覚めていく欲望の一滴。健吾はたまにこらえきれなくなる。
完全に守りきったわけでもないのに、なぜかはるみに対してのみそうしてしまいたくなる。自分のものにしてしまいたいと思う。こんないとおしい相手を傷つける相手をつぶしてやりたい。健吾のエネルギー源だった。
でも、自分は本当にふさわしいのだろうか?
はるみにふさわしい、正々堂々たる態度で杉本をつぶしてやり、あの女をギャフンといわせたかった。けれども、今自分がしていることは、もしかしたら裏の裏なのかもしれない。
──俺は本当に正々堂々としてるんだろうか。
──今までのことって、本当に俺の手で佐賀を守ったってことになるんだろうか。
「冬休みこそ、おしおき、するからな」
思い切ってはるみの額を舌先でぺろっとなめてみた。しょっぱさがちびっと舌の先に残っていた。
──あの女を黙らせることができたら、一発殴らせろ、かあ。
立村の言葉を思い返しながら、健吾は空を見上げた。
まっ黒い空には、冬のオリオン座がくっきりと残っていた。咽の奥にひっかかりそうな冷たい空気を吸い込んだ。肺いっぱいに詰め込んだ。ゆっくりと咽から吐き出した。
──やはり、けじめをつけるしかねえか。
暖房を入れた一年B組の教室内で、だんだん健吾の望む展開が繰り広げられているのを感じていた。杉本梨南の立場がだんだん崩れてきて、桧山先生は全くパワーダウンすることなく復帰し、はるみには一部の女子たちが味方の顔をして近づいてきている。
たぶん桧山先生の策略もからんでいるのだろう。
もしかしたら自宅にいる間に、例の女子たちへ電話して反省させるように仕組んだのかもしれない。杉本の親に、土下座させるような言葉をささやく桧山先生のことだ。そのくらいは平気だろう。それを否定はしない。健吾は絶対にやる気ないが。
ただ、下手したら桧山先生は教師として失格のことをしている。と思われても否定できないだろう。いわば特定の生徒を逆ひいきするようなものだ。杉本のことがいくら嫌いだからといって、孤立させたり無視させたりするような態度は……気持ちは非常によくわかるが……正義ではない。そのあたりで健吾もいい方法がないか、かなり頭を痛めていたものだった。いじめではなくて、正々堂々たるやり方で、はるみから杉本を追い払う方法を。
七年間健吾が手を余していたこと。 たった一週間で。
──あいつ、見事やっちまったってことかよ。
両手を握り締め、健吾はもう一度、口から空気を飲み込んだ。
──あんな男か女かわからねえ顔して、女ばっかり追いかけていて、頭悪そうな顔してる奴がな。まさかなあ。
──今回ばっかりは、俺の負けか。
認めるのが悔しい事実だけど、健吾の腹の中ではとっくの昔に認めている真実。
杉本の味方でいる二年女子たちを利用して、図書館へ保護してやる。
クラスの女子どもがだんだん桧山先生サイドに動きつつあるのを見込んでか。
はたして杉本がどう考えているのかはわからないが、先生たちに騒ぎ立てないところを観ると気分いいのだろう。二年の女子たちにちやほやされているのだろう。今まではほとんど学校へ来ることのなかった花森まで引きずり込んでいる。一年同士、コンビを組ませてまとめて面倒を見るというやり方か。孤立もしないし、先輩後輩の麗しき友愛、とでもいう風にも見えるだろう。
他の連中は、なんで二年女子たちがいきなり杉本にかまい始めたのかわからないだろう。
健吾も、立村とさしで話をしていなかったら想像できなかっただろう。
この状況がどこまで続くかわからないが、このままだと桧山先生は平気のへいざで杉本を攻め立て反省するまで痛めつけるに違いない。大賛成だ。もっというなら、今まで味方でいてくれた女子たちをも一気に引きずり込むつもりだろう。正論だ。はるみに対する無視という名のいじめをやめさせるためなのだ。
しかし、杉本が全く孤立するわけではない。すでに二年女子をはじめとする連中が守ってくれているのだから。という言い訳を用意してあるわけだ。
──あの女がほとんど教室にいなくなっただけで、なんでこうも変わるんだ?
──あの軟弱男、いったいどうしてそこまで読めたんだ?
家まで歩く道のり、天を見上げてオリオン座に手を伸ばした。
──俺は男だ。けじめはつける。
はるみにふさわしい男であるために。
覚悟を決める一夜が明けた。
ほんの少しだけ、道端の雑草につやつやした氷が張っていた。冷え込んだのだろう。
いつものようにバスケ部の朝連に参加した後、着替えもそこそこに健吾は職員室へ向かった。ここにいると必ず、誰かかしらに会う。情報をもらうこともできる。廊下の寒々しい窓ガラスを覗き込んだ。まだ自転車置き場に奴の姿はない。
──ったく、なあにが品山から通ってるってんだよ。ごくろうなこった。
悪態をついてみる。でもいつもの迫力に欠けると、自分でも思った。
「おい、ちょっと逃げんなよ」
どう声をかけるか、予行演習していたけど、やはり一番効果的なのはこれ、だろう。
黒いコートを小脇に抱えた立村が職員室から出てきたのを、健吾は待ち構えた。たぶん廊下にたむろっていたら奴のことだ、逃げるだろうと読んでいた。だから一度背中向けて知らん振りをしていたのだ。でてくるところを捕獲、ってわけだ。
目を見開いて立村は立ちすくんだ。
予想だにしてなかったって奴だろう。いきなり視線を逸らされた。
「新井林、いったいなんだ」
「俺が用あるって言ってるだろ」
「今じゃなくてもいいだろう」
「あんたが言ったんだぜ、『一発殴らせろ』ってな」
立村は黙った。薄い唇に血の気がなかった。ただでさえ生白い肌が透けている。
「ちょっと来いよ」
生活委員の連中が廊下で、遅刻者違反カードチェックの真っ最中だ。邪魔にならないように、というよりも聞かれないようにするため、健吾は顎でしゃくって廊下を歩き出した。片手に社会の副読本らしきものを抱えた立村がついてくるのを確かめた。
「いったい、何を言いたいんだ」
声が冷めている。きっとおびえているんだろうということがわかる。勝ち負けはっきりした一発をかます時はいつもそうだった。相手はがたがた震えているもんだ。立村の顔がもともと青ざめているのかどうかわからんが、健吾が本気でこいつを殴ったとしたら鼻の頭がおもいっきりへしゃげてしまうに違いない。
先生たちが通っていないのを確認し、健吾はポケットに手をつっこんだ。立村の顔を見上げながらぐるぐると相手の周りをまわった。生徒玄関はもう閉まっている。健吾と立村、あと数人の生徒がうろついているだけだった。
「悪いけど、あんたすげえなってまずは、けじめをつけたかったってことだ」
「けじめ?」
繰り返した立村は、また健吾を目で追いながら立ちすくんでいた。
「そうだよ、けじめって奴だ。俺は男として最低の人間になんぞなりたくないからな。あんたがどういう手をつかったかわからねえが、一週間前の公約通り、一年B組は見事に静かになったってわけだ」
敗北宣言、と言われても仕方ない。一晩悩んだことなんだから。 立村はまだわからなさそうにきょときょとと健吾を見つめていた。
「杉本の、ことか」
「そうだ。お見事、さすが本条先輩の命で評議委員長に推薦されるだけのことはあるって、俺も認めてやるさ。あの桧山先生だって、いきなり教室の状況を見てな、『ずいぶん変わったなあ。静かになったなあ』って言ってたぜ。要は、あの女が教室にいることが少ないと、丸く収まるんだってことが証明されたってことだな」
ようやく勘付いたらしく、立村はプリント類を持ち直しため息をもらした。息が白い。もちろん健吾はまだ様子見している。
「そうか、だいぶ落ち着いたか」
「清坂先輩とか、二年の女子の先輩を利用して、よくもまあやるよなあ。思いっきりむかつくが、けどあんたのやり方がお見事だったことも認めてやるさ。俺が七年間苦労してきたことを、あんたは一週間で片をつけてしまったんだ。ま、本当はあの女の口を封じてくれれば一番いいんだが、それ以上のことを俺はのぞまねえよ。まあ、桧山先生も復活したことだしな」
そこでだ、と健吾は口の中で、自分に聞こえるようにつぶやいた。
「今日の放課後、茶室で落とし前つけさせてやるよ」
「落とし前?」
「あんた、おうむ返ししかできねえのか。ほんっと馬鹿じゃねえか。まあいいさ、あんたは俺を一発殴りたいって言ってたしな。この件に関しては俺が全面的に悪うございましたってことで、一発とは言わず、三発くらい殴ってよしだ」
「新井林、あれは言葉の綾だ」
なあにあせっているんだろう。いきなり言葉が早口になってやがる。
「殴らせろって言ってるんじゃねえぜ。俺は殴らせてやるって言ってるんだ。一騎打ちであんたの腕力じゃあ俺とは話にならねえだろ」
どうやら言葉の弾みで「一発殴らせろ」と言ってしまったことを、今ごろになって後悔しているらしい。徹底して責めまくってやろう。腹の底でふふふと笑う声が聞こえる。
「落ち着け、よく聞け。新井林。確かにあの時俺は、そう言ったよ。けど、今の一年B組が丸く納まっているんだったら、無理にそんな、殴りつけようだなんてことはしない。暴力で物事がうまくいくなんて、ガキっぽいことを考えてはいないんだ」
「ほお、前言撤回かよ。ったく、やっぱりあんた、度胸ねえんだな。それともなにか? 俺が騙そうとしてると疑ってるのか? 悪いが世の中、あんたみてえなびくびくした馬鹿男だけじゃないんだ。よっく目の玉おっぴろげて見てみろよ」
自分で蒔いた種が想像以上に成長しているのに驚いているのだろう。立村は完全に硬直していた。唇を血が出そうなほどかみ締め、今にも泣き出しそうな表情を瞬間ちらりと見せた。覗き込む健吾のまなざしを捕らえるのもつらそうだった。
──この、今にもしゃがみこんで泣き出しそうな顔してながら、やることはすげえよな。実はこいつ、噂されているよりもはるかに、頭悪くないんじゃねえか?
健吾は自覚している。
どんなに軽蔑していた相手でも、相手の才能や才知が優れていれば、それはそれで素直に尊敬できる性格だと。 杉本がらみのごたごたが起こった時期でも、立村が英語のエキスパートであり、よくわからん文学書をすらすら読んでいて、しかも卓球の才能があるらしいということを認めていた。はっきり言って、上記三点において健吾は絶対に勝てないだろう。
誰にでもつっかかりたいわけじゃない。今回はきっちりと、立村によって杉本の隔離が行われたから、健吾としては当然、けじめをつけたかっただけのこと。
殴られたら痛いに決まっている。いくら腕力なしの立村だって一応は男だ。力いっぱいやったら健吾の顔にアザができるかもしれない。しかし正々堂々と勝負をかけて、たまたま今回は負けた、だからきちんと反省し受けるものは受ける。
負けた時の落とし前のつけ方すら知らないで、なにが「一発殴らせろ」なのか。
「じゃあな、放課後、茶室の裏で待ってるぜ」
一切言葉を発しない立村に見切りをつけ、健吾は急ぎ一年B組の教室に向かった。全く動かないでいたところみると、立村、たぶん、確実に二年D組の朝の会には間に合わなかっただろう。
教室にて杉本は、一心不乱に教科書を読みふけっていた。振り返ったはるみの瞳に、いぶかしげなものを読み取り健吾は、ふいとそっぽを向いた。
──あいつは、俺の考えていること、最近わかるみたいだな。まあいいか。もしばれたらその時こそ、唇に、おしおきだっておどしとけ。
試合前に似た気合が蘇ってくる。健吾は野郎連中に埋もれてしばらく高揚する心臓を落ち着けるよう努力した。
──今から盛り上がってどうするっていうんだ。人殴ったことないんだろうな。なあに怖がってるんだよ。そんな奴とマジで勝負なんてするつもりねえよ。
一発目が降りかかってきたらこう言ってやろう。せせら笑ってやろう。
──あんた、本気で勝負したことねえってことがよっくわかったぜ。そのこぶしの作り方だとな。