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その7 黙らせる理由

 巷ではかなり大げさな情報が流れているきらいがなきにしもあらず。杉本梨南の家庭が崩壊寸前らしいとのことだった。健吾の知る限り、同情する声はほとんど聞こえてこない。誰も犯罪を犯したわけではなく、ただ「当然」の行為をしているにすぎない。近所の井戸端会議でも、せせら笑いと一緒に語られているらしい。

 もちろん詳しい状況は健吾の知る限りではない。なんで杉本の母親がクッキーの詰め合わせを持って謝っているのか、理由もまちまちだった。桧山先生が杉本の親に対して「精神病院に行った方がいいのではないか」という発言をしたらしいということ。そして親が素直に納得して……たぶんあの本に書いてあるのがそうだったんだろう……娘の身代わりに泥を被りにでかけていった。そう考える方が自然だった。

「やはりね、頭のおかしい子だってみんな話してたものねえ。学校の成績がよいからといって、ねえ」

 要するに杉本梨南は「学校の成績では図れないおかしい部分を持って生まれた子ども」だということが証明されただけのことだ。健吾たちが無意識のうちに嗅ぎ取っていたことを、ようやく親たちも桧山先生のおかげで証明され、堂々と罵る資格を得た。それだけのことだ。

 嬉々として電話で杉本一家の悪口をしゃべりまくる母を横目に、健吾はあらためて誓った。

 ──俺は母ちゃんみたいに、相手の弱みを握ったからっていって、もう二度とそれを武器になんてするもんか。俺は正々堂々と勝負してつぶすんだ。

 もう二度と、したくない。

 はるみに誓って、汚い奴にはなりたくない。

 杉本梨南のように大人を利用する奴は、結局大人たちによってしっぺ返しを食う。

 ──俺はあの女と同じレベルなんかにはなりたくない、それだけだ。

 青大附属が健吾たちの小学校学区に近いこともあり、すでに学校にも噂は流れていた。噂というよりも、真実そのものだ。薄まっていない事実だった。

「一年の杉本さんの親は、小学校時代、担任を変えるよう教育委員会に持ちかけたらしいよ」

「でもそれで顰蹙かって村八分なんだって」

「しかもさ、桧山先生に精神病院行けって言われたらしいよ。当然だよな」

 噂は眉唾物というのがお約束だがぴたりと言い当てている。

 ──当然だよな。ざまあみろだ。

 心で毒づくものの、健吾としては汚いことをしてしまった気持ちが残っている。

 あの女と同類なんじゃないかという気持ちがしないでもない。うざったい。

 ──まあ、とにかく、桧山先生が戻ってくるまでってとこか。


 相変わらずクラスの野郎連中には、杉本を無視する以外の報復を行わないよう申し合わせてある。全く顔色を変えずに教室で同じ空気を吸い、休み時間も不良女の花森なつめとふたりで語り合っている様子。少しずつだが一年B組の女子たちも、遠巻きに眺める気配ありだった。健吾の方にだんだん風が向いてきているのもまた確かなこと。あとははるみにもう少し、居心地のいい場所ができるといいのだが。

 桧山先生の代行は、まだ決まっていないらしい。一週間が経つ。十一月も終りに近づく。


 もやつく気持ちを切り替えるため、健吾は毎日体育館でシュート練習に打ち込んだ。なんとしても、「週刊青大附属スポーツ新聞」を軌道に乗せねば。少しでも、委員会中心体制から部活動最優先主義への変革を掲げねば。


 給食のコッペパンをかじりながら健吾は体育館に向かった。教室のストーブにあたりながら縮こまっているよりもバスケットボールを追っかけている方が気もせいせいする。すでに二年の連中が固まってじゃれついているけれども、知り合いの先輩が混じっている時は健吾もチームに入れてもらったりする。運がよければ、だが。

 十一月の下旬になると、今度は期末テストの準備で忙しくなる。そのくせ二年生評議連中は、冬休みに製作する予定の演劇ビデオ「奇岩城」準備で忙しいらしく、図書室でたむろっていることが多い。仲のよろしいことだ。立村次期委員長の命で、今回は二年生オンリーの作品にするらしい。一年生としては楽だ。肉体労働でこき使われる程度だろう。そのくらいだったら義務として手伝おうとも思うが、恥ずかしい演技をさせられるのだけはごめんだった。一学期の全校集会でもう懲りた。

 率いるのが立村次期評議委員長だ。杉本をおだてて何か手伝わせる可能性もある。また付き合わされるのもたまったもんじゃない。


「新井林、ちょっといいか」

 呼び止められるのは体育館に入る前が一番多かった。

 新井林健吾捕獲にはもっとも適した場所だと思われているのだろう。

 声の主が主だったので無視して敷居をまたぐと、声も一緒に追いかけてきた。

「悪い、少しだけつきあってくれないか」

 ──しゃあねえなあ、馬鹿男が。

 肩をすくめながら健吾は振り返った。予想通り、ネクタイとブレザーを隙なくきっちりと身に付けた立村上総が立っていた。片手をズボンのポケットにつっこんでいる。体育館の中ではすでに、二年生連中がバスケボールと共に燃えていた。

 次期評議委員長様はお仲間と混じるつもりがなさそうだった。無視しようとする健吾の後ろを二歩ほど離れてついてきた。バスケのコート真っ正面に向かって、壁にもたれた。奴も真似しやがった。

 手が冷たい。軽く息を吐きかけた。

「なんか用かよ」

「うん、少しだけ、時間もらえるか」

「話したいことあるならさっさとしゃべれよ。俺だって忙しいんだ」

 こいつについては一切先輩と崇めるつもりなし。当然敬語も使わない。他の二年生には、男女問わず一応は、ですます体を使うけれども、立村に対してはそんな白々しいことをしたくなかった。

 腰の低い立村は怒らなかった。かすかに微笑みすら浮かべている。素直な口調で、

「あの、この前のことなんだけどさ」

 いきなり切り出した。

「あれそれこれどれなんて使うんじゃねえよ。女々しいぜ」

 鼻を思いっきりすすった。たんが出そうだ。風邪引いている。

「あの、桧山先生とのことなんだけど」

「なんでてめえなんぞが一年B組の問題にに顔出すんだよ。関係ねえだろ」

 給食で食ったカレーうどんを吐きそうだ。立村、こいつがいなければ、桧山先生も自宅謹慎みたいなことにはならないですんだのだ。こいつが不必要に杉本をかばおうとしたことが、なによりもの発端だろう。しかも今だに杉本からは露骨に避けられている。哀れな奴だ。

「俺もまずかったと思うんだ。あやまる。で、言い忘れてたんだけどさ」

「あの女にあやまれってか。冗談じゃねえぜ。てめえもそのくらいのことはわかるだろ」

「あやまれなんて言わない。新井林、お前の言いたいことは、俺もよくわかるつもりなんだ。だから、その点については杉本が悪いと思うんだ」

 扉脇の木目にもたれて、健吾はけっとつぶやいた。

 ──この男、だから優柔不断だっていうんだ。

 隣りあい、健吾に寄り添おうとするのを払いのけたかった。なで肩で髪の毛もどこぞのぼっちゃん風だ。目がどうしてこうもきょときょとしているんだろう。まるで猫だ。

「あのなあ、俺は別にあんたが杉本をかばいたいのを止めやしねえよ。ただな、なんで俺にそうも無理やりかまってくるんだ?」 「かばうってわけじゃないんだ。頼む、聞いてくれ」

 言葉と同時に、シュートミスでボールが健吾の真上を直撃した。幸い、外れた。だから二年はどへただというのだ。

「立村、入るか?」

 声をかけたのは羽飛先輩だ。

 さっさと行っちまえ、と健吾としては言いたい。

 立村は片手でいやいやをして、拾ったボールを投げ入れている。しつこく健吾に付きまといたいらしい。やっぱりこいつ、「ホモ説」誰でもオッケーって奴じゃないだろうか。別の意味でちょっと怖くなった。健吾にはその気がない。顎を下げて見下した。

 一応上級生でありながら、自分の鼻くらいのところまでしか背がないのは中学二年の男子として、かなり不利だろう。

「じゃあなんか俺に用あるのかよ」

「例の、そのことなんだ。ちょっと外出ないか」

 立村はもう一方の手もブレザーのポケットに突っ込み健吾の前を横切った。軽く肩を上げて、誘うように。態度だけは先輩面している。体育館を出て、外で話したい、そう言いたいのだろう。右反対側のグラウンドへ続く出入り口へと足を向けた。

 中靴のまま、健吾は立村の後ろをついていくしかなかった。

 体育館真向かい青銅色の扉はグラウンドに繋がっている。指先で掛け金をはずし、立村は振り返った。横顔が異様に白かった。

 ──気持ち悪い顔だぜ。ったく男か女かわからねえよな。

 杉本に似た表情だった。


 雪虫が飛び交っていた。今年一番の寒さだった。紫色の目がついた白い綿がまとわりついている。雪虫というけれど単なるアブラムシの一種だと聞いたことがある。健吾は払いのけながら、唇を尖らせた。

「寒いから早くしろよな」

「ああ、わかってる」

 コンクリートの踏み台に、立村は目を落とし、健吾に頷いてみせた。よくわからないことをする男だ。

「この前は邪魔して悪かった」

「だからなんであんた謝るんだよ。あんたには関係ねえだろ」

 ──関係なくないか。

 桧山先生をどつぼに落としたのは、こいつのネタがきっかけだったのだから。目の前にふるふると雪虫が落ちてくるのを払いのけながら健吾は見据えた。

 話をするのも恐る恐る、健吾を怒らせないようにと様子を伺うまぬけ面。

「桧山先生のこととは別として、新井林、佐賀さんと、杉本との間に何が起こったのかはだいたい調べてわかっている。お前を責める気はない。頼みたいことがあるだけなんだ」

「頼みたい? やっぱりあの女を許せってか」

 ゆるく、首を振った。

「違う。お前が杉本を許せないのは当然だ」

 フェイントかけられた。びくっと退いている自分がいた。

 ──この男何考えてるんだ?

 健吾はしばらくまじまじと立村の目をにらみつけてみた。目をそらさなかったのが意外だった。立村がゆっくりと呼吸を整えながら言葉を続けた。

「杉本は決して悪意があったわけじゃないと思う。でも受け取る側としてはむかついて当然のことをされたんだから、嫌って当然だと俺は思う。許せだなんてことは、絶対に言わないよ」

 片方の耳でボールが跳ねる音を、片方の耳で風の吹き付ける音を聴く。

 立村の声が、冷たい空気の中びんと響いた。

「新井林、いったい杉本がどうすればお前たちの迷惑にならないかそれを教えてほしいんだ」 「はあ? 迷惑にならないか、だと?」

 言っている意味がわからず聴き返した。読めない。

「杉本をできるだけお前たちの迷惑にならないようにするよう説得してみるつもりなんだ。必ずしも頷いてくれるとは思わないけれど。けど、お前や佐賀さんや、一年B組の連中をこれ以上傷つけない方法を、なんとか探したいって思ってる。一番公正な目で見られる新井林、お前の意見を聞きたいんだ。許せないのにあえて、杉本をいじめさせないように命令している、お前ならきっとわかってくれると思ったんだ」

 唇をぎゅっとかみ締めながら。いつのまにか立村はポケットから両手を出して軽く握り締めていた。


  目の前で鼻くそをほじって投げつけてやりたい気持ちだった。健吾は黙って立村の言葉を聞いていた。妙に持ち上げる態度が気味悪い。ずっと評議委員会では健吾を冷たい目で見据えて、あえて無視するような態度をとっていたくせにだ。

 先日の杉本VS桧山先生、新井林健吾の対決でもそうだった。

 ずっと立村はそれぞれの顔を覗き込んでおろおろしていたくせに、いきなり立ち上がって言った言葉がふざけている。なあにが「もう、勝負はついているだろう」だ。

 ──だからてめえはついてるかついてないかわかんないオカマ野郎っていうんだよ。

 健吾の目が腐ってなければ、立村は杉本梨南と清坂先輩のふたりを両天秤したくてならないのが見え見えだ。次期評議委員長としての自分を守るために清坂先輩におべっかを使い、男としての本能を丸出しにして杉本のホルスタイン的な胸を触ろうとする。周りの口さがない噂を封じるため、ありとあらゆる手段を使ってみなのご機嫌を取ろうとする。健吾だけだ。騙されてないのは。「ひたむきで一生懸命で、繊細で」誉め言葉を隠れ蓑にして、小学校時代からなる腐った性格を隠そうとしているわけだ。

 本当はいじめられたことを口にも出せず、汚い手で相手を突き落とし、しつこく女子を追い掛け回し、自分のことばかり守ろうとしていざとなったら本当に好きな相手の杉本を守ろうという顔をして、健吾にまとわりつこうとしている。

 いや、もうひとつ。気になることがある。

 健吾は片足を軸にして、立村の方へ斜に向いた。威圧する時に、よく使う格好だ。

「俺の方からも聞きたいんだが、なんで菱本先生があんたの頭のどうたらこうたらで、うちの担任を怒鳴り散らしたんだ? その日な、清坂先輩が俺にその話を聞きに来たんだけど、それっててめえの魂胆か?」

 立村がうつむいた。答えに窮している。当たり前だ。嘘じゃない証拠だ。

「杉本と桧山先生のバトル中、たまたま出てきたぜ。確かにな。杉本の大好きな先輩も精神病院かどっかに通ってるとかなんとかな。話を聞いてりゃあ、そりゃあ誰のことかは想像つくだろうな。うちのクラスのアホどもがどこまで気がついたか知らねえが。けどな、桧山先生こうも言ってたんだぞ。精神科とか神経科とか、そういうところに通うことで人を馬鹿にすることはいけないってな。悪いがあんたが想像しているほど人を馬鹿にしたネタなんかじゃない。あの女のことは別として、何もあんたがびくびくして秘密ばらされたって焦ることねえじゃねえか」

 さらにうつむいたまま動かない。身を守ろうとすると、大抵おとなしい野郎は身体を石にして凍りつくもの。でもそういうのは言葉のハンマーでぶち壊せば一発だということも、健吾は経験上知っている。

「しつこいようだが、あんたがそういう病院に通っているかどうかなんて関係ねえよ。俺の友だちだってたくさん、頭の悪い奴とか、ちょっとねじが緩んでるとか、そういう奴一杯いる。人間性をそんなことで貶すような、くそな人間じゃねえ。ただ、本当のことをばらされてあせって、彼女を利用して桧山先生をぶっつぶそうとした、その魂胆が許せねえんだ。ほおら、嘘だったら言い返してみろ。けっ、てめえなんぞ、所詮杉本とおんなじ人間なんだな」

 言い返されたらどうしよう、と思わないわけでもなかった。はったりだったから。

 でも立村は自分の身体を凍らせるようにして黙り続けていた。

 ──結局、言い返せねえでやんの。最低男。


 たぶん、健吾の推理が当たっていれば。

 ──こいつ、杉本から例の発言について告げ口されたんだな。思いっきりネタをゆがめられた感じで聞かされて切れたんだな。そりゃそうだ。次期評議委員長様が実は、そういう病院に通っているとか噂されたらやだなって思ってるんだろう。本当は桧山先生がそういう差別しちゃなんねえぞってこと言ったのを知らないでだ。自分の悪いところをばらされるんじゃねえかってあせったんだろうなあ。けど、自分で抗議する度胸もなかったから、清坂先輩を通して菱本先生へ報告させたってわけか。それだったら自分は被害者面してられるもんなあ。さすがだぜ。そういう悪知恵は働くぜ。周りは騙されてるに決まってる。けどな。

 健吾はつばを飛ばしてやった。最大の侮蔑。

「よその先生や二年、三年連中は騙せたかもしれねえな。けど、俺は騙されねえからな」

 一歩、近づいてやった。

「嘘じゃねえんだろ。本当のことだろ、嘘だったらここではっきり言えるはずなのにな」

 ぎりぎりまで接近して覗き込む、前髪に隠れていたまなざしは静まっていた。答えが聞こえた。

「ああ、本当のことだ。微妙な違いはあるけれど、桧山先生が言ったことは本当だ」

 雪虫が頭の上にフケ状の塊になり留まっている。つぶしてやりたかった。アブラムシ。

「じゃあ、なんとかしろよな。桧山先生は今、てめえと杉本の汚いやり方によって、学校追い出されそうになってるんだ。本当のことをたまたま口滑らせただけでだ。あの先生くらいだ。男としてふつうのことしてるのは。それを、あんたが自分の身を守ろうとして、自分にみっともないことをばらされたくないからって言って、自分の担任を使ってつぶそうとするんだもんな。やり方、こういうのを最低っていうんだぜ。俺より一年早く生まれてるくせにな、分かってねえのかよ」

 健吾は畳み掛けた。立村の瞳が伏せ目のまま揺れるのをしっかと見据えた。言い訳あるならなんでも言えばいい。正々堂々、言い訳するのだったら健吾は正面から受け止めてやる。きちんと言い返す自信を持っている。

「そのことについては、俺は言い返すつもりはない」

「ふうん、認めるんだ。本当のことって認めるんだ」

「だけど、それは俺のことだけであって、杉本とは関係ないだろ」

 すうっと顔を上げ、健吾を見上げた。

「噂された通り俺は生まれつきの馬鹿だから、他の人たちと違って指使わないと計算できないとか、九九を言うのがやっととか、そういうところがあるのもわかっている。それは認める。そういう関係で、専門の施設に通ったことがあるのも本当のことだ。だけど、それは俺自身のことであって、杉本とは関係ないはずだ。俺についていろいろ言われるのはもう慣れているからかまわないけれど、それと杉本を重ねるのだけはやめてくれ。杉本をこれ以上、関係ないことに巻き込むのだけはやめてくれ」

「じゃあ自分でかたを付けろよ。桧山先生の言ったことが本当のことだから、意味不明の自宅謹慎処分を解いてやってくれって、あんたの担任使って頼み込めよ」

「それは、もちろんする。それは俺が悪いから」

 そこでまたうつむいた。なんで肝心要のところで瞳を逸らすのだろう。杉本のことに関してはじっと健吾を見つめるというのに、この差がわからない。

 ──言いたいことあったら、はっきり言えっていうんだ。ぶっころしてやりたいぜ。

 再び目を足下に落とす立村に、だんだん健吾の咽がぶっこわれそうになる。まだ一筋、「こんな奴でも先輩なんだ」と押さえているのに耐えられない自分。片手をぐるんと回し威嚇しなおした。ふっと目を上げた立村に吐きかけてやりたかった。

「過去も同じような汚いやり方で、本品山中学の浜野さんをつぶしてきたそうじゃねえかよ。女を追いかけまわしたり、清坂先輩と羽飛先輩に取り入ったり、本条先輩にごますったりってな。あんたの噂、青大附中内に鳴り響いてるんだけど嘘と言い切れるのか、てめえは。そんな裏で手を回すようなやり方をするのは、人間として最低じゃねえか」

 罵りながら、立村のこぶしが握り締められているのに気付き、一歩離れた。

 思ったとおり立村は、健吾に視線を向けずに、地面を見つめたまま言葉を発した。

「新井林、俺のやらかしたことについては言い訳しない。けど、これだけは言わせてくれ。なんでお前、杉本の気持ちを知っててあんなこと、言ったんだ? あれは反則だろ」

 ──反撃かよ。か弱い奴だぜ。

 余裕を持ってかますことくらい、健吾にはお茶の子さいさいだった。


  立村はまだ目を上げない。

「杉本は必死なんだ。信じられないかもしれないけど、杉本はお前とふつうに必死に話をしたかっただけなんだと思うんだ。ただ、それがどうしてもうまくいかないというか、言葉が通じなかっただけなんだ。許してやれとは言わない。杉本をこれ以上追い詰めないでくれ。お前や佐賀さんに迷惑をかけないですむどんな方法でも考えるから」

「追い詰めてなんていねえよ。あの女が勝手にちょっかいかけてくるだけだ」

「わかってる。その話はよくわかる。でもあのままだと杉本は自分を追い詰めてしまうかもしれない。自分ではどうしようもないって気付いてないんだ。けど、きっとあとで後悔する。どうして自分でそうできなかったのか気付いて泣くしかないんだ。そういうもんなんだ。だから」

 ──だったら顔上げて土下座しろよ。

 同い年だったら急所蹴り上げて悶絶させているはずだ。殴りたいのをがまんする。

「じゃあ、聞くけどな。あんた、小学校の頃にいじめられてきた奴らに同じこと言われて、許してやってくれって言われたら、許せるのか?」

「許せるって、なにを」

 ようやく顔を上げた。口半開きで、ふっと気が付いたように健吾の鼻あたりに視線が留まった。

「あんたが言ってるのはそういうことさ。情け、かけられるのかよ」

「新井林、どういうことだ」

「勝手に自分がいじめられたと思い込んで、犠牲者ずらして、結局努力もしねえでかわいそうがっているなんて最低だな。男としてまずみとめられねえよ。いったいあんたのどこが良くて、本条先輩は評議委員長になんか指名したのか、俺には理解できねえよ」

 また目を伏せる。小声でつぶやく。

「そうだな、俺も自分でそう思う」

「ふうん、認めるのかよ。俺はな、杉本の頭が生まれつきおかしかったとしても、それはそれで人の個性だと思う。勝手にしてろってんだ。ただ、まともに生きている俺たちに向かって、よけいなことをしたりするのだけはやめろって言ってるだけだ。俺や佐賀のように普通のことをして普通に話しをしている奴に対して、異常なやり方でかみついてくるのだけはやめろってだけだ。それぞれてめえみたいな汚い同類同士でたむろってろってんだ」

 健吾はゆっくりとつぶやいた。

「だから杉本も必死なんだって」

「必死ならせめて俺たちとかかわらないようにしてもらえればいいだけのことだ。だから俺はいじめもしない、他の男子たちにも手出しさせないように命令させてるってんだ。普通の世界ではそれが常識だ。当然のことだ。本当だったらとことんリンチされても仕方ないことをあの女はしているが、それでも俺たちが手を出さないのは『紳士』でありたいからだ。文句あるか。あの女がいじめている事実を桧山先生は認めてくれたしな」

「ああ、わかるよ新井林。だから佐賀さんに対することについては、俺も納得する」

「あんた、そこまで認めるならな」

 健吾は怒鳴った。口から吐き出される息で、一気に雪虫が死滅しそうだった。

「あの女を黙らせて見ろ」

 立村の目に明らかな動揺が走った。首が不安定に揺れた。

「黙らせるって、どういうことだ」

「色仕掛けであろうが、殴ろうがそんなの勝手にしろ。それができたら俺はお前のことを先輩として認めてやるぜ。必死にかばおうとして、相手に振られて、それでいて自分の相手におべっかつかうなんていい根性だよな。へこへこ頭下げている暇があったら、あの女を黙らせろ。どうせそんなことできるわけねえのにな」


 しばらく立村は黙っていた。ばしんとボールをドリブルする音が足の裏から響いてきた。本当だったら混ぜてもらいたい。へたなチームでも健吾が入ると一気に動きが激しくなるところをこの男に見せ付けてやりたい。いつも足を引っ張るのが、この立村であり杉本なのだ。健吾のやりたいことをすべて邪魔するのが「異常」な連中なのだ。

「わかった。新井林」

 立村は頷いた。静かに横目で健吾を見つめた。

「もし、杉本が一年B組の迷惑にならないようになったら、のことだが」

 言葉は震えず、平常のままだった。

「放課後、茶室の陰でお前を一発殴らせろ」


 火がついたのかもしれない。肩も震えず、ポケットに手をつっこんだまま。ピアノの鍵盤を叩いていてもおかしくない骨ばった指。健吾はいままでけんかで負けたことがない。大抵のすのは余裕だった。背丈の差、筋肉のふくらみ、圧倒的な体力の蓄積。すべてにおいて立村に負けるところはない。一発くらい殴られたところで、たいしたことはあるまい。

 かなりびびっているのではと健吾も覗き込む。

「ふうん、一発でいいのかよ。もしも条件みたしたんだったら」  

立村の鼻先にゆっくりと、右の拳骨を、親指出した格好で突き出してみせた。

「腕力の差もあるし、俺がぶっ倒れるまで殴ってよしだ。できればな」

「その言葉、忘れるな」

 腕時計を覗き込み、立村は唇の端をかすかに緩ませ戸口を指した。

「もう、五時間目が始まって二十分経っている。さぼるなり教室に戻るなり、勝手にしろ」


 ──やべえ、もう休み時間終わっちまったのかよ!

 体育館でばしばし音が鳴っていたのは、女子バレーの練習だったらしい。慌てて一年の廊下へ駆け込み健吾はもう一度グラウンドの戸口を振り返った。

 立村はいなかった。


 健吾の言いたい放題の言葉を、九割立村は否定しなかった。

 上級生として許しがたいであろう言葉を、すべて立村は受け入れて、飲み込んでいた。

 だから健吾は思う存分罵詈暴言を吐いた。ぶちまけた。罵った。

 おびえていたのかもしれないし、事実を突きつけられて追い詰められていたのかもしれない。けれど、もうひとつの可能性に気が付いて、健吾の背中に氷の柱が刺さった。

 ──あの女を黙らせる自信、あるのかよ。あの野郎。

 健吾が七年の間四苦八苦してきたことを、立村はやり遂げる自信あるのだろうか。

 あの女によってかき回されてきた一年B組を、健吾とはるみの手に取り戻し、杉本は嫌われ者の女として身体を小さくして。でもいじめは決してしない一年B組。桧山先生も戻ってきて、めでたしめでたしになったとしたら、健吾は立村を次期評議委員長として、いや、男として認めなくてはならなくなる。たとえどんな汚いことをしてきたとしても。

 かすかに漂った立村の余裕めいた匂い。カフスに一匹張り付いていた雪虫をつぶし、健吾は頭を思いっきり振った。言いたいことを言い放ち天敵立村上総を貶めたはずなのに、なぜか雪虫がまだ身体に引っ付いているかのようだった。


 ──ああ、あんたがもしあの女を黙らせることができたなら。俺はあんたに徹底して叩きのめされてやるさ。徹底してあんたのしもべになるさ。あんたを男として認めてやるさ。

 つぶやいてみて、少し気が楽になった。健吾のモットーは「正々堂々、潔く」なのだから。  

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