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その6 生まれ持っての理由

 しばらくは静観していた。いくら桧山先生のお許しがあったとはいえ、杉本梨南に対してぶつけた言葉には罪悪感がなきにしもあらずだった。「正々堂々」とした行動ではないと思えてならなかった。

 ──あの女以外には、俺だって絶対にしなかった。

 ──けど、人間としてやったらまずかったんじゃねえか。

 杉本本人は全く感じることもなかったようである。健吾の言葉にどこ吹く風といったように。隣りでスタンバイしていた立村だけやたらと慌てていたのが印象的だった。結局杉本を追いかけてどうなったのだろう。

 唯一変わったことといえば、次の日以降杉本と立村の間がぎこちなくなったことか。杉本が一方的に無視しているといったほうが近い。立村がおどおどとした風に「あのさ、杉本、いいか」と話し掛けるのを、短い数語で「結構です」と遮断する。「立村先輩、立村先輩」とひっついていた頃をが長いだけに関係悪化は目立った。

 ──けど、「もう勝負はついてるだろう」って、なんだよな。

 健吾に対しても、下から出た態度を立村は崩さない。やはり顔色うかがっているという感じでむかつく。

 本条委員長もおかしいと思っているのか、立村の目を盗むようにして質問を突きつけてきた。

「健ちゃん、どうした。なんか一年、面白いことになってるだろう」

「なってねえっすよ」

 詳しい事情を説明するのもなんである。肩を軽く組んで、頭をぐりぐりやられた。

「やめてくださいって。別になにもねえっすよ」

 本条先輩が青大附属を中学卒業と共に退校し、公立を受験すると聞いていた。先生たちの配慮ですべりどめに青大附属への切符は残してくれているようだが、学年トップの成績を保っているこの人のことだ。問題なく合格するに違いない。

「いやな。俺の弟分もかなり落ち込んでるみたいだしさあ。杉本のことでまた、健ちゃん大変だったんじゃねえかなあと、俺は思ったわけだ」

 弟分。やっぱり『本条立村ホモ説』健在なり。

「本条先輩、今更そんなこと言ったってしょうがねえよ。あの女にかまってる暇があったら別のことしてえよ」

「別のことといえば、『週刊青潟大学附属スポーツ』、あれめちゃくちゃ人気だなあ」

 鼻が高い。てっきり「評議の仕事を無視して何事だ!」と怒鳴られるのを覚悟していたが、懐の広い本条先輩。あっさりと認めてくれている。毎週月曜日の朝、健吾が情報を体育系部活の連中から集め原稿を書き、昼までにはるみが記事を清書した後、帰りに張り出す。もう三号目に突入した。他クラスからも記者を志願する奴が増えていて、かなり内容も充実してきているような気がする。桧山先生からも、

「壁新聞だけではもったいない。印刷して全校に配るようなものにしような」

 と、正々堂々応援の言葉を賜った。もっぱら公認って奴だ。

「三年の間でも、運動部の連中は肩身狭かったみたいだけどなあ。あれで少しは安心して自分の部活の証ができるってよろこんでたぞ。お前、バスケ部で疲れきってるってのに、パワフルだよなあ。さすがだぜ。俺の見込んだ奴だ」

 ──だったらなんで評議委員長をあの馬鹿男に指名するんだよ。

 毒ついてもしょうがないので、健吾は頷き返した。感謝の意だ。

「本条先輩はなんで運動部入ろうとしなかったんですか。もったいねえなあ」

「またその話かよ、上下関係の厳しいとこでしごかれたくねえってだけだったぜ。上に立つのはいいけどな、ぺえぺえで納得いかないことに頭を下げるほど、俺も人間できちゃいねかったからさ。球技大会だけで十分だ」

「しごきなんて、今の二年にはねえよなあって思うけど」

「ああ、あれな」

 わかりきった風に本条先輩は反り返って答えた。

「今の二年たちはとにかく後輩を可愛がろうってモットーで活動してるんだと。立村が話してた。ただでさえ運動部は人がいないし、それは不用な体罰とかしごきが原因かもしれない。いいか悪いか別として、とにかく自分らは後輩をあたたかく迎えようじゃないかと意見が一致したらしい」

 ──そういう馴れ合いがチームを弱くしてるってこと気付かねえのか。馬鹿男。

 運動万能、球技大会・体育大会のスターたる本条先輩にはぜひ、バスケ部のキャプテンとして君臨してほしかった。叶うことのない願いだったけれども、健吾はつくづくため息をつきたかった。結局鼻息になってしまったが。

「まあ、もし何かあったら早めに知らせろよ」

「わかりやした」

 健吾の答えを安心気味に飲み込んで、背を向けた本条先輩。二年生たちに任せているのだから、受験勉強にも専念できる。一年生をからかうことにも時間を割く。本条先輩だったら純粋に尊敬できるのにどうして、あの馬鹿男を来年から見上げなくてはならないのだろう。

 その馬鹿男が何をしているか伺うと、無言のまま教室を出て行ったのが見えた。少し落ち込み気味に見えるのは、杉本を間に挟んだ修羅場を知っているからか。懸命にかばうだけかばって、結局何も出来ずに嫌われている情けない奴だ。杉本も気が付かぬうちにいなくなっている。眼中にない。フィルターで杉本の存在を遮断するよう最近は心がけている。人間として認識しないように。

 ──ここまで殺してやりたいくらい憎むってねえよなあ。

 まあ、はるみがいないからいいかってことだった。


 玄関で清坂先輩ともうひとりの二年女子に待ち構えられていた時はさすがに驚いた。だいぶ肩につくくらいの長さで、いつもこめかみにきらきら光るピン止めをつけている。まさか立村がそういうのをプレゼントするほど甲斐性持ちとは思えない。清坂先輩の趣味だろう。側でポケットに手を突っ込んでいるちびっこい女子は、耳もとでそいだ感じのショートカットだった。見た目、女子バレー部にいそうなタイプだと思った。好みのタイプではない。

「新井林くん、ちょっといい?」

「なんっすか。おはようございます」

 清坂先輩の表情にはからからした笑顔が張り付いていた。何か隠しているのだけれども、それを悟られてはまずいというような。もともと健吾は清坂先輩が嫌いではない。立村を捨てて健吾に告白、なんてパターンを一瞬想像してしまった。

「あのね、ちょっと聞きたかったんだけど、昨日、一年B組の帰りの会で、何かあったか教えてほしいなって思ったの」

 可愛い。素直にそう思う。

 はるみが健吾の最頂点に位置してなければアクションを起こしていただろう。立村から奪い取っていた可能性ありだ。

「ちょっとあんた聞いてるの?」

 反対のきいきいした声で突っ込んでくる女子。よく見かける。清坂先輩とは仲のいい友だちらしい。立村ともよく馬鹿ネタかましあっているのを聞いたことがある。失礼な言い草だった。

「帰りの会は帰りの会だったけど」

「その時、また杉本さんのことで一悶着あったんでしょ?」

 ──ははあ、そのことか。

 ようやく話が繋がった。

「清坂先輩知ってるだろ。俺があの女徹底して嫌ってるってこと」

「人間それぞれ好みがあるもん、いいよそんなこと。けど、桧山先生が何か変なこと言ったんだって? 杉本さんのことじゃなくて、桧山先生が何言ったかだけ知りたいの」

 玄関ロビーの柱にもたれ、健吾は簡単に説明することにした。どうせあの女がつっかかっているだけのことだ。たいしたことじゃない。気持ちよく桧山先生があしらってくれたのだからどうでもいい。

「たいしたことじゃねえ。あの女が何を考えたか、いきなり立ち上がって本を叩きつけたんだ」

「本?」

 

 題名まではわからない。ただ杉本が抑揚のない口調で人差し指を差しながら、

「私の母にこの本を渡して読めと言ったのは何か理由でもあるのですか」

 と攻め立てた。健吾の命令で何も手を出さない代わり、せせら笑いが聞こえた。

「君も読んだかな。自分を自覚するためにはきちんと原因を把握するべきなんだよ。お母さんも納得してくれたからな」

 さすが桧山先生。負けない勝負の持ち主だ。容赦しない。偉い。

「しかし、全く根拠の無いことをこのような本でもってあらわにするのはおかしいのではないでしょうか。これを読めば私が頭のおかしい人間であると思うのも無理ないでしょう」

 頭のおかしいどうのこうの、というところでざわめきたったのは覚えている。大共感していたのは男子と、一部の女子。後ろの方で頷いている女子たちがいたが、怖い不良女の花森ににらまれたので黙っていた。

「君には読解力がないのかな。この本にはね、自分の言動を自覚できない子どもたちの原因と対策が述べられているんだよ。杉本さん。どうすれば自分のしていることを客観的に見ることができるかどうか、それを学ぶためにお母さんと話し合ってほしいと思ったからなんだ。いい本だよ」

「そういう根拠がどこにありますか。さらに、母が言ってましたが」 

 次の言葉はたぶん杉本の大げさな表現だろう。「頭おかしいってほんとのことだろ」とささやく奴の声もひとりふたりではない。女子たちも顔を見合わせ唇をゆがませている。

「私を精神病院に連れて行けと言ったそうではないですか」

 爆笑の渦になったのは、みなが納得しているからだろう。よく言ったとつぶやく奴もいた。でも桧山先生だって一応は教師だ。そんな失礼極まりないことを言わないだろう。当然、桧山先生は冷静に対処していた。

「精神病院という言い方はふさわしくない。厳密には精神科・神経科と言う。きちんと勉強してから文句をつけに来なさい。俺がお母さんに言ったことは、この本をふたりでじっくりと読んで、どういう風にすればお互いクラスに迷惑をかけないで人間関係を作ることができるかを勉強してほしい、もしわからないようだったら詳しく説明してもらえる機関があるから相談してみたほうがいい、自分では理解できないことだからご両親と相談するべきだってことくらいだ。君にはその辺も理解できないみたいだね。残念だよ」

「そういうことを平気でよく、親に向かっていえるものですね。言い方を変えれば私が狂っているといわんばかりですが」

「精神科や神経科に偏見を持ってはいけない。社会的偏見で精神科を失礼な言い方で罵る人がいるらしいが、それは間違いだ。君の方があきらかに偏見を持っているね。君の大好きなあの先輩も、それなりのところに通院していることを教えてもらわなかったのかな。それで少しずつこの学校でやっていけるように努力していることを知らなかったのかな」

 ──たぶん立村のことだろうな。

 健吾も精神病院という言葉に反応したひとりだった。深いこと考えずに悪口の一つとして使ってきたからだった。でも素直に桧山先生の言葉に頷いた。これからは「おかしいぞ、精神病院行け」と悪口言うのはやめよう。そのくらいの反省である。

「よくわかりました。そういうことですね。よくわかりました」

 動揺したのか数秒息を止めた後、杉本は皮肉っぽく終わらせた。


「そうかあ、やっぱりね」

 清坂先輩はひととおり健吾の話を聞いて納得顔に頷いた。

「個人名は出さなかったのね」

「けど、あの女が大好きな先輩ったら、ひとりしかいねえし」

 真向かいで派手にくしゃみをするちびっこい先輩。

「別に精神科とか神経科とかそういう話はどうでもいいけど、なんでそういう言い方、するかねえ。杉本さんを知ってる人はすぐに立村のことだって気付くよね。ね、美里、あんた立村がそういうとこ通ってるって知ってたの?」

「そんなのどうでもいいでしょ」

 否定しないところみると、ある程度は事実らしい。

「別にねえ、あいつも隠さなくたっていいのにねえ。あ、でもそっか。桧山先生が知ってるくらいだからうちの菱本先生も余裕で気付いてるってことよね」

「やめなよこずえ」

 たしなめるようにして清坂先輩はもういちど、健吾に両手を合わせた。

「ごめんね、ありがと。やはりこういうことって、評議の新井林くんに聞くに限るね。ちゃんと公平な目で見てくれるんだもん。あ、そうそう。いつも見にいってるよ。『週刊青潟大学附属スポーツ』あれいいよねえ。私も応援してるからね!」

 恐るべし。次期評議委員長の彼女にまでお墨付きをいただいてしまった。

「は、はあ、ありがとうございます」

 情けないことだが呆けてしまった。二階の階段を上がっていくふたりが

「だから、あいつには前科があるからうちらが動いたほうがいいのよ」

「そんな前科だなんて言わないでよ! こずえったら!」

 大声で話をしているのを聞くともなしに聞いていた。


 関係ないことが関係あると気がつくには、まだまだ寒気を吸い込む必要がある。健吾が練習を終えて体育館を出たとたん、いきなり二年の先輩に腕を掴まれた。

「おい、大変だぞ、新井林」

 三年の先輩だ。もちろんしごかれもなにもしない、いい関係の人だ。

「なにっすか」

「今な、職員会議が延々と行われててな、お前の担任が吊るし上げられてるんだ」

「担任って、桧山さんっすか」

「四時からいままでずうっと怒鳴り合いが続いてるんだぜ。まだいるぜ」

 担任の吊るし上げは小学校時代にも経験ずみだ。健吾はいつも先生を守る側だった。今回もそうなるのだろうか。正々堂々と男子たちの言い分を認めてくれた桧山先生がなぜ、そういうことになっているんだろう? この先生、嫌いじゃない。

「わかりました。どこでやってるっすか」

「三階の会議室だ」

 もう真っ暗闇。非常口の赤いランプだけが目立つ程度。健吾はバスケシューズのまま階段を駆け上がった。猫目で、黒い中でも足を踏み外さずにすんだ。


 会議室の前では、別の一年B組連中がたむろっていた。たぶん職員会議の異様な雰囲気をかぎつけたのだろう。全員、男子だった。図書局、放送局、その他運動部で居残っていた連中だった。中には他の連中もいないわけではなかったが。

「健吾、来たか」

「何やってるんだよ」

 図書局員の肩を引っつかんで状況を説明させた。扉から聞こえてくる声が丸きこえだ。生徒がこれだけ集まってくるのだから相当なものなのだろう。

「桧山先生が他の先生にすげえ怒鳴られてる」

「つるされてるってのはわかってる。原因はなんだよ」

「この前、杉本のことで桧山先生が何か言っただろ。精神病院に行けって」

「当然のことだろ? それがどうした」

 微妙にニュアンスが異なるが、面倒なのでそのままにしておいた。

「菱本先生がいきなりわめき出して、桧山先生も怒鳴り返して、二時間修羅場だぜ」

「なんで菱本先生が?」

 ひとりだけの意見では要領を得ないので、もうひとり助っ人を頼んだ。C組の同じく図書局員。健吾が知ったのは以下の事実である。


 菱本先生は二年D組の担任である。二年D組とは知る人ぞ知る、次期評議委員長立村上総を擁したクラスでもある。実際このクラスは学校全体でもかなりまとまりのある運営をされていると聞く。個人的に「清坂先輩のおかげだろ」というつっこみはまず飲み込む。

 たまたま菱本先生は、一年B組において杉本梨南の激しい抗議とそれに対する桧山先生の返答を耳にしたらしい。どういうルートかはわからない。なんで帰りの会の情報を上の階にいる菱本先生が仕入れたのかは謎中の謎だ。

 桧山先生は別に悪いことをしたわけはないと、堂々と開き直ったという。当然だ。

 しかし、菱本先生は杉本の悪行三昧をさておいて、別の言葉でつっこんできたという。

「なんだよその別って」

「ほら、あのさ。有名な話だけどな。二Dの立村先輩のこと」

「ああ、あの馬鹿男か」

「あの人、大学の語学授業を受けてもいいってお墨付き受けてるだろ。すげえ語学できるからって。でもその裏には別の理由があったんだって。もともと数学の頭がないから、それを補充するために別の授業を受けてもらって中学の単位をそろえようとかなんとか」

「んなことできるのか?」

「だから、頭がふつうとは違うんだってことを、病院で診断書書いてもらって証明してもらってとかなんとか言ってたぜ」

 ──そういうことか。

 桧山先生の言ったことがやっと飲み込めてきた。繋がりも。

「けど、それはトップシークレットだったんだってさ。でも桧山先生がたまたま帰りの会でそれっぽいことをちらっと言ってしまったことが原因で、菱本先生がとさかに血を昇らせたってことだ」

 ──別に、何も言ってねえよなあ。

 確かに杉本を知っている奴だったら「杉本の大好きな先輩」イコール二Dの立村上総につなげることが難しいことではないだろう。第一九九もろくにいえないまま青大附属に入学してしまったあいつの自業自得なのだ。それなりの努力をしない限りこの学校ではついていけなかっただろう。病院、行ったかも知れない。精神科か神経科か、そこに通っていたかもしれない。けどそれがそんなに恥ずかしいことなんだろうか。それとも評議委員長として君臨する以上、頭の働かない事実を隠しておきたいのだろうか? たぶんそうだろう。そういう男だ、あいつは。頭が悪いことそのものの事実が決して恥ずかしくもなんともないことだから、桧山先生は堂々と口にしたに過ぎない。隠しておかなくてはならないように、菱本先生も気遣っていたのだろうか? 健吾の知っている菱本先生とは、やたらと熱血で情熱的。スペインでフラメンコのギター弾いている方がいいんでないかと思うタイプである。何がどう勘違いしてそういう話になってしまったのだろう。

 校長、教頭、他の教師たちが憔悴しきった状態で肩を落として現われた。後半の会話はほとんど聞き取れず、健吾も他の連中から話を聞くのが精一杯だった。

六時十五分まで待った。

 会議室の扉が開いた。


「桧山先生、なにがあったんだよ」

 駆け寄った。目が赤い。泣いていたのだろうか。男が涙を流すのはよっぽどの時でないとありえない。一年B組の野郎どもも桧山先生に張り付いていた。菱本先生が唇を結んだまままっすぐ通り過ぎたのだけを闇の向こうに感じた。

 桧山先生ははっとした顔で、健吾たちを見下ろした。

「お前ら、ここにいたのか」

「先生、間違ったこと言ってねえよな。何も悪いことしてねえよな。正々堂々としてただけだよな」

「ずっと聞いてたのか」

「当たり前だろ、先生。あの馬鹿女の親にまた何かねじ込まれたのか? あの女にまた文句言われたのか?」

 桧山先生は答えなかった。図書局の奴の頭を軽く撫でた。健吾の肩を叩いた。作り笑いとすぐわかる、頬のゆがみ。翳っていた。

「早く、帰れよ。風邪引くぞ」

 肩を落としたまま桧山先生は階段に吸い込まれていった。追いかけることもできなかった。目が闇になれた健吾も、息がつまりそうだった。


 なんでそこまで突っ込まれる必要があるのだろう?

 夜十時。親の眼を盗んで受話器を取った。はるみへ言葉を届けるために。

「健吾、夜遅かったのね」

 待っていることがわかる。ささやきだ。どこかをくすぐる。でも今はのめりこめない。慌てて今日の出来事についてしゃべりつづけた。

「どういうこと?」

「だからなあ。なんでだよ。あの女だぜ。自分が狂ってるかもしれないってぱにくって、結局はまた菱本先生に告げ口して、親を利用してつぶそうってたくらんでいるんだ。菊乃先生の時とおんなじだ」

 一通り話を聞いてくれた後、はるみはささやき声で息のこもった事実を告げた。

「違うわ。健吾。私知ってるの」

「なんだよ」

「梨南ちゃんのお母さんは桧山先生に恨みなんて持ってないわ。菊乃先生と違うの。だって」

 体の中に霜が立った。

「だって、梨南ちゃんのお母さん、昨日うちに来てお菓子持ってきたの。うちのお母さんと私にって」

「それがなんだよ。つきかえさねなかったのかよ」

「『うちの娘は生まれつき病んでいるのだと初めて気付きました。はるみちゃんにこんなご迷惑をおかけしていたなんて』って土下座して謝ったの。本当に玄関先で」

「土下座だと?」

 鼻をつんと突き上げたような、どこぞの金持ちを気取った態度。見るからにあの女の親という感じだったことを覚えている。

「そう。この寒いのに、正座して」

「でお前の母さん、けりいれて追い返したのかよ」

「ううんそんなこと、お母さんも私もしない。お母さん言ったの。『うちのはるみはもともと、梨南ちゃんがそういうお子さんだということを知ってお付き合いしてきましたから安心してくださいな。そういうお子さんだとわかっていたから、腹も立ちませんわ』って」

 嗚呼、我がいとしのはるみ。

 健吾が万歳三唱したくなったのはこの瞬間だった。


 親が土下座して頭を下げるなんてことをするくらいだ。桧山先生が何を言ったかは杉本の言葉を辿るしかないが、そうとうきついことだったに違いない。さらにあの本の内容にもよる。杉本は自分が狂っていると決め付けられたと言い放ったが、家族からしたら図星のものだったんではないだろうか。

 健吾は自分がごくごく普通だと思っている。普通の人間が感じるものを感じて怒り喜び泣いているだけだと思っている。しかし杉本はその「ふつう」たる概念が全く理解できないらしい。

 どの先生も杉本を「おかしい」とは言わなかった。おかしいものはおかしい、狂っているものは狂っている、異常なものは異常、ごくふつうにそう言うことが許されないと思っていたらしい。だから健吾ははるみを守るために鬼にならざるを得なかった。大嫌いなやり方だけど、寄せられた想いをどぎつくつき返すやり方しか選べなかった。

 でも、桧山先生はついに一角をつぶすことができたというわけだ。

 ごく「普通」の感じ方を「正義」だと。 

 従わないことは「異常」だと。

 杉本梨南の存在は「異常」であることを。

 ──もしこの世界に杉本が存在していいとするならば、俺たちの「普通」に土下座して初めて許されるってことだよな。桧山先生。

 ごくごくあたりまえのことを言い放ち、土下座させるだけのことに、七年もかかるとは。受話器を置いた後、健吾は母から甘酒を要求した。乾杯したかった。


 あれから一週間近く経つ。

 桧山先生はしばらく学校にこなくなった。

 「体調を崩されて休んでいらっしゃる」とのことだった。本当かどうかわからない。また臨時の先生たちが交代で教室をうろつくようになった。ただ担任を外されているわけではないので、三人目の先生登場はないようすだった。ある程度の噂は広まっているけれども杉本が怖くて誰も口にしないようだった。あえて健吾も聞かれる時以外、無言を保った。

「健吾が信じているなら、きっと桧山先生は帰ってくるよな」

 男子たちの動揺も収まった。大丈夫。正しいことをした人間が裁かれるわけがない。と。


 評議委員の義務として健吾は桧山先生へ電話をかけることにした。クラスの仕切りは健吾の担当で、杉本には一切手を触れさせない。桧山先生へのホットラインは健吾の言葉のみでないと受け付けないだろう。

「先生、大丈夫かよ」

「新井林か、ありがとうな」

 自宅からかけるので、思う存分本音を聞かせてほしかった。

「あんとき、お前たちが並んでいるのを見た時は、嬉しかった。たった三ヶ月しか担任じゃなかったのにな。ごめんな」

「まだ担任じゃねえかよ。溝口先生の復活がなされたらともかく、今は桧山先生の一Bじゃねえかよ」

 男としての規律、完璧な男の勝負ができる奴。たったひとりだけだ。

「本当になあ。お前たちには本当に世話になったよな。新井林、お前といつか、ふたりで酒が飲みたいな」

「今からでもいいじゃねえか。未成年アルコールやばかったら、甘酒って手もあるぜ」

「ありがとよ。ったく、十歳も離れた相手に慰められるなんて先生として失格だ」

 ──お互い様だぜ。

 しけった話ばかりするのもなんなので、健吾はクラスの様子を簡単に説明した後、付け加えた。

「けど、先生のお蔭でいいこともそれなりにあるんだぜ。あの女のことでさ」

「ひどい目にあったよ。やはりお前らが苦しむのがよくわかった」

 曖昧だけれども、相当絞られたということは伝わってくる。ご愁傷様だ。

「おとといあたりからな、小学校時代の連中のうちに、あの女の親がさ、食い物もって土下座して回ってるんだぜ」

「土下座?」

 声が変わった。健吾としてはためらうことなくビールを一本電話線通して流してやりたいところである。親たちからも聞かされている。近所で物笑いにされていることも気付かずにいるのかあの女の家族は。

「あの女が『生まれつき』狂っているのは親のせいです。申しわけございませんって。デパートで売ってるすげえうまいクッキー置いて帰ってくらしいんだ。けど安易だろ。謝って許されるんだったら警察いらねえよな。ざまあみろってほとんどのうちは玄関越しに追い返すらしいんだ。でしかたなく食いものだけ置いてく。いなくなったところでそれをもらってくと。食べ物には罪がないから全部平らげると。そういうわけだ」

「おい、新井林、それはちょっと」

「大丈夫だって、先生」

 慌てた様子の桧山先生。そりゃあ驚くだろう。健吾もはるみから最初聞かされた時は耳を疑った。てっきりはるみの家だけかと思っていた。しかし、六年の時同じクラスだった連中の家、かつて猫事件で追い出した家まで回っているというとこまで知って、かなり絶句したもんだった。ある家では「ちょっと待っててくださいね」と台所へ戻り、調味料入れから食塩を頭からずぼっとかけて追い出してやったという。おとといいきゃあがれ、である。

 もともと無視をかまされている杉本梨南の家だ。馬鹿娘の弱みをさらけ出してしまった以上、日ごとの恨み容赦はしない。償いは、当然してもらわなくてはならない。卒業クラスの親たちはみな、意見を一致させたという。妙に団結力のあるクラスである。

「親でやられたことは親でやり返したっていいじゃねえか。ま、あの女はぜんぜん傷ついた顔もしてねえし、親に土下座させていることにも罪悪感感じてねえみたいだぜ。そんなのは『生まれつき』感じないみたいだから仕方ねえよな。俺は無視するだけだ。けどな、もし桧山先生がまたあの女がらみで学校辞めさせられるなんてことになったら安心しろよ。俺たちが親を使ってたっぷりし返ししてやるからな。先生はちっとも悪いことしてねえよ。普通の奴が普通なんだってことを、ちゃんと言っただけなんだからな。おかしい奴はおかしい奴同士、見えないところで勝手にくすぶってろってことを言っただけなんだからな」

「ありがとうな」

 短く答えが聞こえた。くぐもっていた。動かない声。まるで試合に自分のシュートミスで負けて、周りから責めの視線を受けている時と同じものだった。


 杉本梨南は一切、感情を動かさなかった。 

 背を伸ばし、髪の毛を一切乱さず、授業を受けていた。はるみも健吾も杉本の親が土下座している事実を一切口にしていない。しかし、噂はあっという間に広まったらしい。クラスの女子たちが杉本のいなくなった後に「ねえねえ知ってる?」と情報交換しているとこをを見かけた。他クラスでも似たようなものだろう。だからといってはるみにすぐ話し掛けるような奴はいなかった。まだ曖昧な情報だからへたに杉本を敵に回したらまずいと思っているのだろう。健吾の聞く限り、すべて正しい話なのにだ。素直にこういう情報は信じろよ、そうつっこみたかった。

 しかし、杉本も相当厚い面の皮だ。仮にも親が謝って歩いていることを知らないわけはないだろう。健吾だったらとてもだが正気ではいられない。泣くか謝るか、それとも本当に土下座するか、そのどちらかをしてほしいもんだと思う。許す気なんてさらさらないけれども、この教室で女子たちからの支持をすっぱり失ってくれればはるみが楽になる。はるみの笑顔が教室でも出てくるようになれば、健吾は満足だ。あとは勝手にいじめられっ子グループとつるんでいじけてもらえればいい。ふつうの感情を持って生きている人々の迷惑にならないように。そう、いわば記念写真に載り損ねた、角に貼り付けられた顔写真のような存在としておさまっていればいいのだ。

 ──俺は、あの女が眼中に入らなければ、それ以上のことは望まねえよ。

 ふと思い出した。

 ──あの女の親、菊乃先生のところにもざんげにいったのかな。


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