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その5 鬼になる理由

 いきなり桧山先生から電話がかかってきた時は焦った。なにかまずいことやらかしたかと冷や汗ものだった。ちなみに英語の試験問題を横流ししてくれたわけではない。

「新井林、試験が終わってから悪いが生徒指導室に来てもらえないか」

 軽い挨拶の後、雰囲気を壊さぬままに頼まれた。

「へえ、なんか俺、悪いことしたっすか」

 実力試験終了後すぐバスケ部の練習が再開だというのに面倒なことだ。

 思いっきりいやそうに答えてやった。

「本当にお前もいやだろうなあとは思うんだが、どうしてもやってもらわないと先に進めないんだ。唯一頼りになる評議なんだからな、お前」

 言い方に何かどろっとしたものがある。ぴんときた。学校で話さずに、わざわざ家に電話をかけてきたということは、クラスの連中にばれたらまずいことなんだろう

「あの女がらみかよ」

「あの、女か。鋭いな」 

 否定しないということは、きっとそうだ。風呂に入ったばかりなのに一気に湯冷めしそうだった。健吾はタオルで髪をこすりながら受話器にため息をついてやった。

「で、何やれっていうんだよ、先生」

「お前が杉本に対して言いたいことのすべてと、佐賀に対して彼女がしてきたことを、思う存分彼女を目の前にして言い放ってもらいたいんだ。しんどいだろうが」


 ──やっぱりな。

 やるべきことをすぐに悟った。

「いくらでもやってやるぜ。手加減した方いいのか?」

「いや、思う存分遠慮なく。その辺はお前に任せる。かなりきつい言い方しないと理解できないらしいからな。彼女はふつうの人とは違う理解力の持ち主だからな」

 鼻で笑う声。仮にもあんた教師だろと突っ込みを入れたい。いくら健吾あの女……杉本梨南……をゴキブリ扱いしているとはいえ、ちょっとまずいんではないだろうか。もっとも杉本に言いたい放題ぶつけて土下座させられればそれにこしたことはない。ざまあみろと思うだけだ。ただし一切許す気はない。正々堂々、桧山先生とはるみの目の前できちんとした制裁を与えて三年間、地獄を見させてやるのが健吾の願いだ。いじめなしでも、クラス全員からの堂々とした冷笑と軽蔑、濃縮して浴びせることは決して間違っていない。

 ──佐賀の傷ついた六年間は戻ってきやしねえんだ。

「俺、一度、評議の席であの女とタイマン張ったんだけどなあ。またやるのかよ」

「頼む、新井林」

 おかげで試験勉強よりも対決計画を立てる方に力が入ってしまった。

 ──しくじった。次の日の試験はぼろぼろだぜ。


 桧山先生の電話が終わってからすぐバスケ部のキャプテンへ「諸般の事情で練習遅れる」旨連絡を入れた。二年の先輩たちは温厚な方々だから、いやみひとつ言われることなく受理してもらえた。「青大附属スポーツ速報」の効果もあるのだろう。いつもぼろ負けの運動部だけれども、健吾とはるみがこしらえた壁新聞の力で、少しずつ生徒たちの関心が高まっているようだ。一年B組前廊下で指差しながらじっくり読んでいる女子たちを、最近良く見かける。

 ──でもまずはゴキブリを退治か。


 健吾は小学時代のアルバムを取り出した。

 小学校時代の写真はみな青い表紙のやたら重たいアルバムに挟み込んでいる。中からはるみがアップになって写っているものを十枚はがした。左隣をおどおどしながら見つめている写真ばかりだった。選んだわけではなかった。なぜか同じ感じのものばかりだった。

 次に手元の簡易アルバムブックを取り出した。現像しに行くとくれる安っぽいものだった。ぺらぺらした表紙を開くと、そこには健吾の映したはるみの笑顔が続いていた。ふたりで出かけた時、学校でふたりっきりになった時のものばかりだった。笑えと命令したわけではない。いつも、健吾を見つめる時の顔がそれだった。

 一枚、髪が乱れていたものがある。

 帰り道、街路樹の陰で髪の毛をほどかせた時、思わずシャッターを切ったものだった。

 ──違いが分かるよな、ふつうはな。

 小学校時代の陰気なはるみ写真を、もう一冊の簡易アルバムブックにしまいこみ、健吾はかばんに入れた。戦いの前の緊張か、ぶるると震えが走った。

 

 ひとつの賭けだ。

 健吾は今まで、たくさんの女子たちと接してきた。むかつく女、いやなタイプ、苦手な女子、たくさんいた。一応男である以上何度かは、「好きです」の言葉を聞かされてきた。もちろんはるみのことがあったから一度も頷いたりはしなかった。でも、どんなにむかつくタイプの女子であっても、その気持ちを踏みにじってやろうと思ったことはなかった。

 そう、あの女以外は。

 ──俺のことを気に入ってくれるのがどうしてだかわからねえよ。でも、他の女子にだったら、どうもありがとくらいは言う。言ってから断る。それが男の礼儀だ。あとは普通に話すだけだ。それだけだ。

 菊乃先生もはるみも、口々に言う。

「杉本さんは健吾くんのことが好きだったのよ」

「梨南ちゃんは健吾のことがきっと好きだったの」

 ──だから佐賀や菊乃先生を踏んづけて許してもらえると勘違いしてるのか。あの女は。

 徹底して憎んでもらえればそれにこしたことはない。叩くのめすのに遠慮はいらない。

 でも、健吾のアンテナでも、杉本梨南の隠れた電波をキャッチすることがないとは言えなかった。吐き気がするほど認めたくない事実だったし、杉本の行動はまず、好きな男子にするようなことではなかった。怒涛のごとく罵るあの態度に「好意」を認めることはできなかった。ただはっきりしていたのは、はるみや菊乃先生を大切にしたい健吾の気持ちを、杉本は蛇蠍のごとく嫌っていた、そこのところだった。

 もし、周りの人がいうように、杉本の本心が健吾への想いにあるとしたならば。

 健吾はためらうことなく、はるみのため、菊乃先生のために、鬼になる。

 正義の戦いでなかったとしても、血みどろになって杉本梨南を殺す。息の根を止める。

 泥水をたっぷり被ってやる。


 次の日の試験は瞬く間に終わった。もともと健吾は学年十番以内をキープしている。一度も杉本以上の点を稼いだことがないのがむかつくが、こればっかりは当日の調子なのでしかたない。学年一番を続けている杉本のことを一切誉めない担任たちっていうのも妙な話だが、きっと天狗の鼻をへし折ろうとする目的なのだろう。いつも健吾の時だけ頭をぐりぐりされ褒めちぎってくれた。しくじりはなかったが、それなりにいつもの順位は稼げるだろう。

 ──まあまあってとこか。

 女子側を見ると、はるみがおとなしく帰りの準備をしていた。薄めの茶色いコートを羽織、耳に手を当ててお団子髪を整えている。例に寄ってクラスの女子たちははるみに一言も声をかけない。杉本の指示か、それとも個人的不快感か。その辺は追求しない。

「なにぶりっ子してるのよ」

と聞こえがしにつぶやく女もいる。健吾としてはあとで締めてやりたいところだが、はるみに止められているので今日のところはがまんした。

 はるみを手まねきした。

 はるみの近くに寄るといやおうなしに、ポニーテールの女と顔を合わせる羽目となる。やるならタイマン勝負の時だけで十分だ。

「健吾、これからバスケ部?」

「いや、もう一発勝負がある。帰ったら電話するからな。変なところいくなよ」

 はるみはこくっと頷いた。耳もとの後れ毛をいじりながら、桃色の唇を薄く開けた。

「それと土曜日、練習終わったらお前のうちに迎えに行くからな、その時に、この前菊乃先生にばらした落とし前、つけるから覚悟しとけよ」

 菊乃先生に「いやあねえ、妬けちゃう」といわしめた、あれのことだ。

 わかっているのかほのかにはにかむはるみ。知らん顔して健吾はつぶやいた。

「じゃあ、行け。あの女に絡まれる前に」

「私、何も怖くないのに」

 今度は健吾が全身硬直する番だった。

「怖いのは、健吾のおしおきよ」


 お仕置きをひそかな楽しみに取っておいて、健吾は三階の生徒指導室へ向かった。ここはかなり奥まったところにあるのだが、あまりいいことで使われたことがない。成績の悪い奴が呼び出しを食らうとか、自殺寸前の追い詰められた奴が先生に相談するとか、健吾には全く縁のないことばかりだった。完全に防音されているそうなので、多少ぶっちゃけた話をしてもばれないらしい。

 今回はハエたたきとしての入室だ。

「新井林です。入ります」

「よし、入れ」


 まだハエもゴキブリもいなかった。扉を開けてまっすぐの窓からは、裸の木々がやせ細っているのが見えた。外は曇りでへたしたら夕方雪が降るかもしれないとは天気予報より。細長いガラスのテーブルが低い位置なので、腹の部分まで丸見えだ。足をおっぴろげて悠々とひとりがけのソファーに腰かけている。桧山先生はまだくつろぎ態勢だった。テーブルの上には、黒い綴じ紐で硬い表紙のついた、出席簿のようなファイルが載っていた。表書きに英語の筆記体でなにやら書いてあったが気にしなかった。英語はどうせ嫌いだ。

「俺、どこに座ればいいっすか」

「隣りに来いよ。やはり味方が側にいないとな」

 含み笑いをした後、桧山先生は両腕を組んで背中をのけぞらせた。健吾が長いソファーの端、桧山先生の向かって左隣りに身を沈めると、いきなり膝を叩かれた。敏感な部分でくすぐったかった。

「今日は思う存分本音を言ってしまえ。担任として、俺が許す。傷つくかどうかなんて考えるな。お前の考えていることをすべて言い尽くせばいいんだ。暴れられたらその時俺がなんとかする。まあこれでもし杉本が反省しないようだったら」

「あの女が反省するわけねえよ。六年間俺がどれだけ」

「ふつうの女子ならともかく、あの杉本だからなあ」

 「あの杉本」という部分をゆっくりと、余韻残すようつぶやいた。

「仮に彼女が土下座して謝ったらどうする?」

「するわけねえだろ。しても俺は許せねえよ。俺よりも佐賀の立場が問題だ」

「そうだな。簡単にはいかないよな」

 健吾は時計を覗き込んだ。一応二年のキャプテンには連絡してあるとはいうものの、早く体育館に行きたいのもまた事実。三日からだを動かしていないと足がなまりそうだ。数回足を踏み鳴らし、健吾はひょこっと尋ねてみた。

「先生、あのな」

「どうした新井林」

「先生、どうしてあの女を嫌うんだ? 俺と同じ理由かよ」

「俺は担任だぞ、そんなことするか」

「だってさ、目がそう言ってるぜ。ゴキブリを叩き潰したいって」

 物言わず、肯定の意。桧山先生の唇が一瞬への字を描き、すぐに戻った。うまい。

「ゴキブリは、苦手だな、確かにな」

 ミニアルバムを取り出した。健吾だけが知っているはるみ表情が満載だった。自慢したい気持ちと、よその誰かに取られるんでないかというおののきも感じていたりする。自分でもそれが女々しくてうざったい。

 だから明日、おしおきを敢行するってわけである。はるみの、無意識にかもし出すふわふわした空気が、よその馬鹿なハエを近づけてしまいそうだから。

 ノックが響いた。

「入りたまえ」

 健吾への言葉とは全く違っていた。ゴキブリ相手専用の言葉遣いで桧山先生が答える。

 ねじまき人形のように四十五度、ぴくと頭を下げた制服姿の女子がひとり、姿を見せた。直角に振り返り扉を閉めた。音は立てない。

 ポニーテールのぶっとい髪の毛がむかむかしそうだった。隣りの桧山先生は、まさにゴキブリを叩き潰す寸前の気迫でもって、杉本梨南を迎えていた。


「戸口の椅子に座りたまえ」

 野郎ふたりの視線にむかつきを隠せない様子だったが、おとなしく杉本は腰掛けた。桧山先生の向かいで、一対一。健吾の方を見下すようににらみ、すぐに逸らした。目と目が合うだけでも気持ち悪いので一切無視していた。桧山先生も一瞥後、わざとなのか健吾の方のみに顔を向けて言葉を続けていた。両手を膝に置いたままの杉本は、相変わらず感情のない瞳を向けていた。。

「今日来てもらったのは、杉本、君がどこまで今のクラスについて理解できているかを知りたかったんだ」

 ちらっと見てはすぐそらし、話す時は仕方なく顔を見る。いかにもゴキブリ用のまなざしだ。大人としてはまずいんでないかと健吾は心配になったくらいだった。

「決して君を責めたいと思っているわけではない。理解できているかどうか、それだけだよ」

 ──理解、できてる?

 よくわけがわからない。杉本も言葉の意味が理解できないようすで黙ったまま座っていた。

「俺の言っていることが、わかるかな。わからないなら素直に言っていいんだよ」

 馬鹿丁寧だった。近所の幼稚園児を捕まえて、「あのね、わかるかな?」と赤ちゃん言葉を使っているのと似た空気が漂った。正直、こっちも気持ち悪い。

「わかるんだよね、どうかな」

 針金の声で杉本は答えた。一切視線を逸らさない。これも怖い。

「わからないのでしたらとっくに口にしています」

「そうか。それならまず、新井林からすべての説明をしてもらおうか。新井林はよく一年B組の実情を知っているから、君にもわかりやすく話してもらえると思うんだが」

「なんで新井林なんかとまた話をしなくてはならないのですか。六月に三年の本条先輩を仲介役にしてけりをつけました。委員会を私が、クラスを新井林が担当するということですべて終わったはずです」

 鼻でせせら笑う桧山先生。隠そうともしない。これは露骨だ。

 ──おいおいどうするんだよ、先生。この女何するかわからねえぞ。

「いや、状況を理解できれば、君も考え直してくれるのではないかと期待しているのだが」

「いまさらくだらないことで時間をつぶされるのは迷惑です」

「いや、ちょっと待て。もうひとり、話を一緒に聞いてもらわなくてはならない人がいる。新井林だけでは君も落ち着かないだろう? 一番君が、信頼している人だよ」

 以上ここまでの、保父さん感覚の語りかけは終わったらしい。ほっと一息つき健吾も椅子にのけぞった。誰が来るんだかわからないが、杉本の信頼している相手とならあまり健吾とも相性が合わないだろう。

 桧山先生は時計を見た。

「先生誰だよ、それ」

 好奇心には勝てず、桧山先生のブレザー袖口を引っ張りながら尋ねてみた。

「もうじき来るよ」

 二十四歳の大人声で桧山先生は答えた。

 返事をしかけた時に杉本が割り込み、一気に言葉が変わる。

「私は何も悪いことをしていませんし、ここで新井林を相手に話をする必要はありません」

「君が理解できなくても、一年B組のためには君が理解してもらわなくては困るんだよ。わかったかな、杉本さん」

「命令される筋合いはありません」

 頑なに言葉を返す杉本をあしらっている。全く桧山先生は動じなかった。最初から覚悟を決めて「杉本幼児扱い作戦」を実行しているのだろうか。健吾が桧山先生を認めている理由は、健吾とその他まともな男子連中の持つ「正義」を正面から評価してくれることだろう。正々堂々と対決すること。汚い手を使わないこと。クラスのいじめを打破すること。そのために杉本梨南と戦っていること。桧山先生はそれを「正義」として受け取ってくれている。ミーハー受けする一面を持ちながら、女子の陰湿なやり口を許しがたいとばかりにぶち壊している。決して杉本のやってきたことを許さない。反省するまで徹底して拷問しようと覚悟を決めている。いろいろ悪口を言われているのかもしれないが、健吾としてはその姿勢が潔く思えた。

 言い合いがエスカレートする前に、再び扉を叩く音が聞こえた。

「先生、誰か来てるぜ」

 ちょうどいいところで合いの手だ。健吾は杉本の顔を見ないようにして扉が開くのを待った。

「よし、入りたまえ」


 ──見たくねえ奴だぜ。なんであの男が来るんだよ。

 片腕に焦げ茶のコートを抱えるようにして、恐る恐る部屋の中を見渡し、桧山先生、健吾、最後に杉本の顔を見つめて、

「桧山先生、この前お話で伺ったものをいただきに参りました」

 気持ち悪いくらい敬語を使いやがった。立村上総の登場だ。次期評議委員長で、杉本梨南の全面的味方。もっとも信頼されている相手、ときたらこいつしかいないとどうして気付かなかったのだろう。自分のあんぽんたんぶりに腹がたった。もちろん視線を投げただけであとは無視した。

「ああ、ちょうどいいところに来てくれたね、立村くん。悪いんだけどな、ちょうど君の後輩ふたりの意見を聞いてもらう時間があるかな。俺の卒論はここにあるよ。時間あるだろ? 君は部活に入っていなかったはずだよな」

 畳み掛けられ、困ったように立村は首をかしげていた。ガラスのテーブルに載っていた出席簿みたいなものは、どうやら立村に渡すべきものだったらしい。次に杉本の顔をまじまじと見つめた後、扉側のソファーに腰を下ろした。健吾と同じソファーだが、端と端。埋まったという感じだった。膝にコートを畳んだまま抱えていた。

「僕がいていいんですか。真面目な話し合いをされているんじゃ」

「杉本、立村くんがいた方がいいだろ?」

 答えず黙って桧山先生をにらんでいる杉本の顔。少しだけ険しくなったようだった。健吾としては素直に本音を言うに限る。

「俺はやだね」

「新井林、日本語がわかる人がある程度いないとまずいだろ」

 落ち着いた風に立村は杉本とささやきあっている。いかにも女のご機嫌を取る太鼓持ちといった風情だ。気持ち悪い男だ。そんなに杉本のことを気に入っていたらなんで清坂先輩と付き合っているんだか。こういう優柔不断さがうざったい。だからこいつのことが大嫌いなのだ。


 健吾の言い分についてはいまさら繰り返す気もなかった。あの女だって過去の戦いで使った言葉には免疫もあるだろう。

 桧山先生は過去の悪行三昧についてとことん追及せよと言うけれど、なんの意味があるというのだろう。根本的に言葉が杉本には通じないのだ。日本語の通じない外国人と同じだ。どんなに

「佐賀はるみをいじめるのをやめろ。無視するのを止めろ」

と訴えたところで杉本はどこ吹く風といった顔で無視したのだから。

 今、杉本がはるみに無視以上のことをしないのは、健吾がにらみを聞かせているからに他ならない。


 ──あまり俺も汚いやり方をしたくはねえよ。ただな、俺は佐賀を守りたいだけだ。

 ずたずたになるであろう杉本がかわいそうだとは思わない。惚れた弱みを突いて八つ裂きにしてやろうとすると、きっと自分が汚れるだろう。はるみを守るため、正義を捨てる。でもその一方ではるみに「健吾はやり方が汚いのね」と軽蔑されるリスクも負っている。

 健吾は迷っていた。

 手元のアルバムを開くことをためらっていた。

 杉本以外の女子には将来も絶対しないだろう。打ち明けられた思いは、きちんと誠意を持って返したい。男として、人間として。でも杉本だけは別だった。女ではない。「想い」でもって健吾の大切な相手をずたずたにした奴だ。ひとりは六年間おびえた顔を写真に残しつづけた。ひとりは教師として学校を追い出されそうになり、結局傷のいえぬまま退職した。

 六年間どれだけ、この女の放射するエネルギーによってはるみと菊乃先生、そして健吾が苦しめられてきたかを思い知らせる番がきている。はるみを健吾から取り上げ、いやというほどどろどろの感情を健吾に湧き起こさせ、存在を忘れられないくらい押し付けてきたあの女を。

 健吾は立ち上がり、杉本を見下ろした。

 全く表情の変わらないふたり。特に立村は状況を把握していないのか、きょとんと敵意なしの顔で見上げていた。健吾の怒りを冷静に受け止めるとは、いい度胸である。いつまで続くのか。


「これを見ろ」

 二冊、アルバムブックをテーブルに投げ出した。近づくと感染しそうだった。

 テーブルから片手で立村の前に滑らせたが。立村がそのまま杉本に手渡した。杉本がぱらぱらとめくりすぐに閉じた。

「新井林が撮った写真を見るのに何の意味があるのですか」

「よく見比べてみろ。一冊目は小学校時代、二冊目は中学時代。中学のものはみな、俺が撮ったものだ」

「変態、悪趣味だわ」

「ああ、惚れた女の写真を撮るのが変態のすることならそう言えばいいさ。だがな、小学校の時と中学の時とどのくらい差があるかを見てみろ。表情ひとつひとつをよっく眺めてみろよ」

 杉本が言い返そうとしたのを無視して、桧山先生が入った。

「悪いが、先に俺が見ていいか。愛のカメラマン新井林の腕をとくと拝見したい」

「別に、いいっすよ」

 杉本が見るのもうんざりといった風に立村へ返した。そこから斜めに、できるだけ健吾の方を見ないようにして桧山先生へ手渡す立村。数度黒い出席簿もどきに手を伸ばしていたが、度胸がないのだろう。そのまま引っ込めた。こういう気の利き過ぎるところがうっとおしい。だから本条先輩を相手に「ホモ説」をささやかれるのだ。

 ゆっくりとページをめくり、一枚に目を留めては健吾の顔を見上げる。何度も規則正しく顔を上げては見、見ては上げる。うさんくさい感じがして健吾は目をそらした。決してまずいところでなんて撮っていなかった。

 修道院の前、家の前、公園、美術館前。ポーズは取らせていない。素顔で十分である。

「佐賀もこういう顔、するんだなあ」

「幼稚園の頃、ずっとそうだった」

 吐き捨てるようにつぶやいた。人になんか見せたくない。独り占めしたいものばっかりだ。

「愛が詰まっている第一冊目を置いて、さて二冊目か。うーん、雰囲気ががらっと変わるな」

 当たり前だ。健吾は答えなかった。桧山先生には健吾の思惑が見事に通じたらしい。満足だ。正常な男の機能があれば、気付くものばかりだろう。気がかりなのか杉本に小さな声で話し掛けているだれかさんとは大違いだった。

「どう思う、先生」

「暗いなあ。雰囲気がこわばっているというか」 

 一緒に映っている写真はすべて、はるみのこわばった頬と目の寄れた感じが目立っている。とにかく一緒にくっついていたい、いやくっつかないと何されるかわからない。ほとんどしゃちほこばって、笑み一つこぼしていなかった。石像の仏様に似ている。

「先生も、そう思うか」

 聞こえるか聞こえないか程度にささやいてみると、

「この差はいったいなんだってことだな、新井林」

「そういうことだ。じゃあ続けるぜ」

 健吾は立ち上がりもう一度二冊のアルバムを広げた。曖昧な顔のふたりによく見えるよう突きつけた。

「この写真の違いはどこだ、答えられるかよ」

「違う写真に決まってるじゃないの」

 全く動じない。杉本の口調は棒読みで上下がない。側ではらはらしながら見つめている立村。杉本の手を覗き込み、もう一枚にふれてみてはすぐに話す。一応見比べてはいるらしい。男だったらきちんと手にとってじっくり見ろと言いたかった。

「両方とも佐賀の写真だ」

「下品ね、男の本能丸出しで品がないわ」

「ああ、俺はもともと下品だ。どこかの誰かとは違って、上品ぶってにこりともしない写真ばかり残したりはしないんだ。ちゃんと見るべきものを見て、力の抜けた写真だけ、この中には入ってるんだ。良く見ろ」

 はるみのおびえた顔を健吾は上から指差した。

「たぶんそばにはお前がいるんだろうな。杉本、いつも言ってたな。佐賀に向かって『写真を撮る時笑うと下品な人間になってしまうから、きちんと口を閉じて、正面を見なさい』ってな。菊乃先生あとで大笑いしてたぜ。写真は笑顔で撮ったものが最高なのに、お前みたいなのは非常に損してるってな」

「結婚するまえに子どもを作った人に言われたくないわ」

 かなりぎくりときた。女のくせにここまで言うとは杉本梨南、下品もいいところだ。

 同じように野郎ふたりも息を呑んでいた。特に立村、あまりなれていないんだろう。清坂先輩、させてくれないだろう。当たり前だ。ここで突きつけるのが健吾の答えだった。

「じゃあ聞くが杉本、お前これだけ人に好きになってもらったことあるのかよ」


 杉本以外の女子には決して使わないだろう手。

「佐賀や菊乃先生のように、自分が好きな相手に好きだって言われたこと、本当にあるのかよ。親以外に、惚れられたこと、あるのかよ」

 この女を憎むからこそ使う切り札。健吾は立ち上がりぐっと杉本を見下ろした。ついでに不安定な顔で全員の顔を覗き込む立村にも。

「ばかじゃないの。よく恥ずかしくもなく言えるものね。下品な人間と話すと口が汚れるわ」

「かわいそうに、誰にも好きになってもらわないで、お前は生きていけるってわけか。佐賀のように笑顔でいられるってわけか。言っとくがな、他の女子はお前のことを好きでもなんでもないんだぞ。ただ変わった動物を見てよろこんでいるだけだって、菊乃先生も言ってたぞ」

 桧山先生に習って柔らかく、幼児相手の言葉で責めた。全く落ち着きを失わない杉本は、眉間に力をこめて言い返してきた。上等だ。

「恥を知らない人間と話す必要はないわ。先生、こんなくだらないことで呼び出したわけですか」

「新井林、続けろ」

 やめろといわれても続けるに決まっている。健吾は鼻の下をこすり、もう一度凝視した。立村だけが首をきょときょとさせている。杉本を覗き込み、健吾を見上げ、繰り返した。こいつの言葉が怖いとは全く思わないけれども、波が上げ潮になりそうな予感がした。

「いいか、佐賀はな小学校時代、いつもこんな顔をしてたんだ。俺は何かがおかしいと思ってた。まあ何もしなかった俺が悪いとはわかってるさ。お前が佐賀を守ってやっていたふりをして、こき使っていたことを見逃していたさ。傍観していた俺も犯罪者だ。卒業してお前から離れるようになって初めて、佐賀は俺を見て笑うようになったんだ。お前と話をしなくなったとたんにだ」

「あんたがはるみにのめりこんでいるのはわかったわ。でもそれと私と関係ないわ」

 杉本は動かない。変わらない。ぶち壊すことにためらいはなかった。こなごなにしてやりたい。

「俺はただ、佐賀の笑顔を守りたい、それだけだ。佐賀がおびえる何者かをおっぱらいたい、それだけだ。だから他の女子連中については許してやった。お前が佐賀を傷つけさえしなければ、俺は何一つ手出しはしねえ。勝手に来年評議委員長になっていただいてけっこうだ。だがな、一年B組現在の状況はなんだ? 佐賀はクラスの馬鹿女子たちからシカトされ、馬鹿女子たちはお前の言いなりだ。あそこは魔女の巣窟だ」

「私は何もしていない。新井林が勝手に捏造してるだけよ」

「ああ、そうさ。俺が佐賀にべたべたしすぎるからだって言うな。だがな、もし俺が他の奴みたく、遠くから見ているだけだったらお前が何しでかすかは想像がつく。また佐賀を自分の手下のようにこき使って、写真を撮る時は口をゆがめて人をにらみつけるような顔をさせる。下品だ、馬鹿だ、馬鹿男子と付き合うなんて最低だ、とさんざんわめき散らされる。冗談じゃねえ」

「はるみが私を裏切ったから無視しているだけなのに、何か文句があるの」

 とうとうこの女の本音を引っ張り出した。結局、はるみに裏切られたと勘違いしているだけなのだろう。本当ははるみが健吾によって救い出されただけなのに。ここで健吾は人差し指を杉本の顔正面に突き出した。指先のレーザー光線ですべて消えてなくなるように。

「裏切った、かよ。たまったもんじゃねえな。俺はただ、佐賀と付き合いたかっただけだ。しゃべりたかっただけだ。それだけできればあとは十分だ。お前には関係ないだろ。クラスの女子たちに無視させることはないだろ」

「無視させてなんていないわ。みな私に賛成してくれているだけよ。あれだけかばってあげたのに最後の最後に私を裏切って、傷つけて、失礼なことをしたはるみに対しては当然じゃないの」

「かばってあげた、かよ。かばうなんて言葉は大嘘だ。佐賀はずっとおびえていたってことがこの写真で判明しただろ。お前は親を使って菊乃先生をつぶそうとしたり、俺の友だちをふたり、街から追い出したりやりたい放題してたよな。ああ、死んだ猫を三匹お前の家に投げ込んだのは確かに悪かったさ。けどな猫と人間の家とどちらが大切なんだよ。仕事取り上げて追い出すってほど許しがたいことか」

「当然の報いよ。馬鹿な人間に対する正義の鉄拳よ。気付かないでいる人たちがばかなのよ。鵜呑みにしている新井林、あんたが一番馬鹿なのよ」

「そういう馬鹿な相手をどうしてお前は追い掛け回してたんだ?」。

 さっと引き抜いた切り札。見事に決まった。言葉が止まったのが何よりもの証拠。

 そして、隣りの立村がぽかんと口を開けて杉本を向いたことも。

 ──まさかこいつも見抜いていたのかよ。

 自分だけのうぬぼれではない。誰もが認める事実だと、健吾が納得した瞬間だった。


 たとえ杉本の顔色が変わらなかったとしても、健吾の感情センサーがすべてを見抜いている。傷つかないはずのない言葉を、習うともなしに知っていた。鬼が取り付き、悪魔の言葉を唱えさせていく。自分でない、怒りの言葉が勝手に口から飛び出していく。指を力いっぱい鼻の頭に向かって差しつづけた。

「周りは言うな、俺にお前がほれていたから、くっついている佐賀を引き離そうとしたとかなんとかな。悪いが俺は、女の振り方は十分マスターしてるぜ。佐賀以外の女子からつきあいかけられたらきちんと、俺なりの礼儀でもってごめんっていうな。ああ、それが普通だ。つきあえねえけど人間嫌いじゃねえってことだ。だがな杉本、お前のことだけは顔を見た時からへどが出るほど嫌いだった。いいか、お前みたいな女に好かれるとしたら、俺は気が狂うほど気持ち悪かったんだ! うわさが立つだけでも耐えられねえんだ。まあそういうことはありえないと思うがな。それだけでも俺は神経がそそり立っていたんだ!」

 健吾が知っている直感の事実。

 それが、という風に、

「ちょっと顔が人間らしい造型しているからといって何を勘違いしているのかわからない。立村先輩よりもましなことがそんなに自慢したいことなのかしら」

 ──やはり、そうか。

 はるみから聞いていた。七年間、気が付いていたけれど思い出すのもいやだった。

 ──顔、かよ。こいつ顔以外で男を判断できない奴なんだってな。

 好きになってもらえればそりゃあうれしい。今、杉本にも話した通り、健吾は小学校の頃から何度も告白をかまされてきた。はるみのことしか考えられなかったからきちんと断ってきた。でも嫌いな女子だとは思わなかった。

 でも、杉本だけは別だった。

 あの女に好意をもたれることだけはいやだった。

 好きの裏返しの意地悪なんて、そんないやらしい言葉を聞くだけで吐き気がした。

 ──菊乃先生、わかるだろ。あの女に俺は殺されるとこだったんだ。だから今復讐してやるんだ。

 おなかの大きな菊乃先生、はるみの笑顔、守りたかった。

「ああ、お前の好みの顔らしいな。だが俺はお前がこの世で一番憎い。殺してやりたいくらい憎い。抹殺してやりたいくらい憎い。佐賀をいじめる女が一番憎い」

 お化けが背中におぶさっているようだった。健吾の一番深いところから出ている真実の声。人の片想いを利用するなんて汚いことを絶対にしたくない。他の子にはできない。でも、この女の感情を抹殺するためには手段を選びたくない。

 はるみのためになら、健吾は鬼になる。

「一生お前を好きになるようなことは、絶対にないだろう。世の中の男でまともな男は誰一人として」

 動かない瞳、答えない口。能面だ。毒を垂らしていく鬼だった。


「新井林、もう止めてくれ!」

 いきなり立ち上がったのは立村だった。唇が何度か震えていたのを見ていた。

 後ろを振り向くと桧山先生が夢から覚めたように慌てて背筋を伸ばしている。ずっと前かがみになって健吾と杉本の対決を見据えていたに違いない。健吾からも鬼が逃げた。

「なんだよ、あんたには関係ねえだろ」

「頼む、もうやめてくれ」

 形を崩さず、立村は真っ正面からじっと健吾を見つめた。見据えたというには敵意が感じられない。ひるんだ。次の言葉が本当に立村から出たものとは思えなかった。

「もう、勝負はついているだろう」

 健吾に隙が見えたのだろう。立村は一歩歩み寄った。

「俺も今まで杉本の話を聞いていただけだし、お前らがどういう繋がりでいろいろいがみあってきたのか一方的にしか知らない。実際見ていないから判断もできない。だが、新井林が恨みを持つ理由は理解できるつもりだ」

「口先だけでよく言うぜ」

「杉本が佐賀さんに対してしたことは、あきらかに悪いと思う。たぶん杉本は純粋に善意だったと俺は見ている。でもそう思えない人だっているのもわかっている。新井林、そういうことだろう?」

 穏やかな口調は変わらなかった。評議委員会で本条先輩を相手にしているのと同じだった。

 椅子に座ったまま初めて杉本の表情が揺らいだ風に見えた。かすかに横を向き、立村の背中を冷たく見つめるだけだった。健吾や桧山先生がいくら言葉をぶつけても一切封じ込めていたのに、なぜか立村の言葉には反応する。健吾の呪文から解き放たれたようだった。

 鬼を呼び戻したくて健吾はどもりながら続けた。だらしない。情けない。

「善意であろうがなかろうが、佐賀が六年間ひでえ目にあってきたのだけは確かだ。あんた、もしこの女のしてきたことが善意で本当に佐賀を守るためだったとして、許すことができるかよ。なんとかのためだったら許されて当然だと思っているんだろうな。悪いがそんな甘ったれた料簡は通用しねえよ。傷ついたのは佐賀なんだ。この女がどんなに土下座したって佐賀の六年間は戻ってこねえんだ」

「だから杉本は制裁を受けてるだろう」

 語尾が強まった。片肩を落とし、背の軸を斜めにし、立村は健吾の顔を覗き込んだ。猫のまなざし。捨てられた子猫の顔。怖気たった。足を踏ん張った。

「小学校時代のことは新井林、君の考えが正しいと思う。だけど、それと今杉本に言ったこととは別だろう。新井林が杉本を好きになれないのはわかった。でも、わかりきっていることをなんで今さらひっぱり出す必要があるんだ」

 鬼が逃げる。立村の言葉と一緒に「正義」を唱える声が戻ってくる。耳をふさいでしゃがみこみたい。でも男の意地、できない。あえいだ。

「なあ桧山先生、なんでこいつなんかをつれてきたんだよ。学年違う相手をなんで」

 いいかげん立村の言い分に反応するのもおっくうになってきた。言葉が見つからなくなりそうだった。健吾はもう一歩足を引きながら後ろの桧山先生に助け舟を求めた。軟弱でもやはり立村は二年だ。一年の差は健吾が想像していたよりも大きい。怒鳴ったり殴ったりするなら健吾ものせてしまうのだろうが、言葉で必死に食い下がってくる相手を簡単に払いのけることはできなかった。


 桧山先生は健吾にも、杉本にも使わない大人の言葉で答えた。

 両手で手すりを掴んで、「うっ」と息を止めた声。スタンバイしたのだろう。

「立村くん、ありがとう。新井林も座れ。やはり君は次期評議委員長だな。きちんと一方の意見だけを取り入れず、公正な立場で判断してくれているな」

「なんでこいつなんかにありがとうだなんて言うんだよ」

「いやな、今日は新井林とふたりで杉本に、一年B組の現状について理解してもらうつもりだったんだがな。たぶん杉本には理解できない言葉の羅列ではないかと思ってなあ。一番杉本が信頼している立村くんと一緒だったら、きっと杉本も少しは理解しようと努力してくれるんでないかと、期待していたわけだ。本当の目的は立村くんに俺の卒論を読んでもらいたかった、それだけだがな」

 はは、と話言葉のまま笑った。「理解」言葉のリフレインが健吾の頭にこびりついて離れなかった。どうしてかわからないけど咽に骨がひっかかったまま取れない違和感がある。

「杉本、新井林の言い分は言い過ぎだったかもしれない。小学校時代のことについては今更何も言わない。だが新井林の言うとおり佐賀が苦しんできたことも事実だ。佐賀が杉本によって『いじめ』られていることも立村くんを始め全ての人が認めているのも確かだ。いいかげんここで、自分の非を認めることはできないか? 自分が何をしてきたか、これだけ話しても理解できないか?」

 杉本は軽蔑しきった風に、一切表情を変えなかった。まず立村の顔をまじまじと覗き込み、強くにらみつけた。健吾のことは一切眼中にない。鬼がまだ顔に張り付いているのかもしれない。そして最後に桧山先生と一対一のお見合いをした。

「ばかばかしい。理解するもなにも、新井林の一方的な話を聞かされているだけです。こんなくだらないことに付き合わされる暇があったら、家で勉強します」

 もういちど、立ち上がったままの立村に向い、

「立村先輩、新井林と私との勝負はまだついてません。勘違いしたこと言わないでください」

 言い捨てると同時にかばんを抱えた。コートを腕にかけ、ぜんまい人形のお辞儀をした後慇懃に扉を閉めて出て行った。健吾と杉本梨南との対決は五分五分。立村によって水入りとなってしまい現在勝負は預かり。ただし尻尾を丸めて逃げ出したのが杉本梨南の方であるとは、健吾と桧山先生共通の見解ではないだろうか。

 立村はしばらくしまった扉の方を向いていた。ぽかんと口を開けたままだったが、すぐに桧山先生の方へ向き直った。座ったままの桧山先生が卒論を手渡そうとするが、立村は首を振った。かなり慌てている。動揺している。

「すみません。明日、先生の卒論直接職員室に取りに行きます。今日は邪魔してすみませんでした」

 同じく頭を下げて飛び出していった。女狂いの立村のことだ、杉本を追いかけていったのだろう。また喫茶店に連れ込んで機嫌をとろうとするのだろうか。


 一切言葉を発しなかった桧山先生が、戸の閉まる音と同時に笑い出した。たぶんその声は杉本の耳にも聞こえていたことだろう。

「やっぱりなあ、『理解』できなかったみたいだなあ。なあ新井林」

「俺ももうこういうことしたくねえよ」

「まだ杉本が人間として話を理解できるかどうか試しただけだ。悪かったな新井林。しっかしつくづく思うよ」

 健吾の肩を叩き、耳もとにささやいた。

「普通の会話が通じない人間と話すのは大変だな。よく新井林もがんばったもんだ。まあ、ジュースでも飲んでけや。俺も少しまともな日本語でふつうの会話をしたいぞ。つきあえ」


 健吾はほとんど聞いていなかった。立村が発した縋るような瞳だけが心のどこかにひっかかっていた。

 ──なんであいつ、『勝負はついているだろう』なんて言ったんだ?

 まだ先が長いと分かっているのは健吾の方なのに。

 

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