その12 正々堂々たる理由
杉本に近づく女子も減った。かといってはるみとしらじらしく仲良くすることもなかったが。みな、桧山先生の言葉ひとつにおびえ、男子連中のけん制にうつむいていた。男尊女卑なクラスの完成だ。
いじめ問題についてはあっさりけりがついたように見えるのだろう。いじめの先鋒だった杉本を絞り上げて、立場をなくしてしまったのだから。叩いていたものが一転、あまされものになったというわけだ。
もっとも杉本も再起不能のどん底に突き落とされたわけではない。二年の先輩たちは相変わらず杉本を図書室に連れ出しているし、あれ以来サボり不良女の花森なつめがしっかり学校に来るようになり、杉本を陰日なたなく見守っている。
この女の問題まで片付けてしまったんだから、桧山先生の評価はうなぎのぼりになって当然だ。
──まあこんなもんだろ。先生。
もちろん健吾も、杉本の復讐心がいかに恐ろしいものかを身をもって知っているから、手を抜く気はない。断言した通りいじめという手段は取らないが、少しでも変わり身を見せたらその時はいかなる手を使ってもぶっつぶす用意がある。 ガキが何をするかわからないのは、よっくわかっている。
大人の自分が徹底して大人の憲法を貫くに尽きる。
終業式後はクリスマスイブということもあって、かなりプレゼントの話題で盛り上がっていた。ちなみに健吾の場合、新しいスニーカーを買ってもらう予定だった。はるみの家ではおとなしくケーキを食べるだけらしいとのことだが。
「行くだろ」
「うん」
約束していた通り、はるみとふたりで、この日は菊乃先生の家へ遊びに行くことになっていた。公認の恋人同士なのだから、せっかくだし甘いひと時を提供したい、とのお言葉だ。ちなみに赤ちゃんはすでに生まれて二週間くらいとのこと。今はお家でねんねしているとのことだった。
「赤ちゃん、女の子だったんだって」
「けっ、つまんねえの」
健吾はかばんを持ち替えて、人目を気にした後、そっとはるみの手を探した。拍子にコートを触る格好となり、どうやらそこがお尻だと気付いて慌てて離した。あたたかかった。
「わりい、間違った」
はるみは黙ってその指を握り返してくれた。
「佐賀、どうした」
「髪、ほどいていい?」
学校からだいぶ離れ、近くには誰一人青大附属の連中が見当たらなくなった。菊乃先生のアパートの前で、立ち止まった。
「貸せよ」
複雑な手まりをこしらえたようなはるみのお団子髪。中華娘風のこしらえだ。毎日どういうやり方で編み込んでくるんだろう。健吾はピン止めを指先で探し、はるみの黒髪をぱさりと下ろした。肩を握りこぶし程度隠す長さに広がった。少しパーマをかけている風にさらさらと揺れた。
待っていてくれた。赤ちゃんの泣き声が響き渡る桃色の部屋で、おなかをぺたんこにした菊乃先生がさっそくふたりを中に入れてくれた。もちろん、旦那はお仕事なので家にいない。まずは赤ちゃんを覗き込み、名前を聞いたり、べろべろばあしたりと遊んでみた。はるみは楽しげに菊乃先生の側で笑いつづけていたが、健吾としては、
「人間、猿から始まったってほんとだよな」
というのが本音でもある。髪の毛がほんのわずかだった。
「あらら、健吾くん、来年まで待っててよ。きっと髪長くなって、私似の美人になっちゃってるから。今言ったこと、後悔するかもよ」
「赤ん坊にもえるかよ」
ちょんとつつかれて、ふたり炬燵に入った。申しわけ程度のツリーが窓辺に飾られていた。緑色のランチョンマットに赤のコースター、ワイングラスが用意されている。はるみを窓辺に座らせ、健吾は直角右側であぐらをかいた。鳥のから揚げ、イチゴケーキ、シャンパン、三人では食い切れそうにない量の料理が並んでいた。
「じゃあ、琴が寝てる間に、まず食べちゃいましょう」
おなかが落ち着いたのか、琴ちゃん……赤ちゃんの名前である……はベビーベットの上でおとなしくねんねしている。三人、しーっと指を立てながら、さっそく食べることに専念した。腹すかせてきて、正解だ。
腹がくちくなったところで、シャンパンを開けた。ひそかに期待していたのだけれども、やっぱり子ども用の甘いノンアルコールだった。はるみが黙ってすすっているのを見て、なんか落ち着かなくなった。
「佐賀、俺に」
「なあに?」
「もうねえんだ」
言われている意味がわからないみたいだ。はるみはきょとんとしたまま菊乃先生を見て助けを求めた。
「やあねえ、亭主関白今からやってどうすんの。しょうがない。今日は私がサービスしてあげるから」
今度は軽く拳骨で叩かれた。菊乃先生が注いでくれた。そんな怒られることしていないつもりだ。うちでいつも母が父にしていることを、なんとなく、やってほしかっただけだ。
「ね、でも、健吾くん、本当に二学期は大変だったらしいねえ」
「なんとか一件落着しそうな気配だし」
健吾はさっそくシャンパンを飲み干した。テンションが上がってきた。
「あの女、結局、負けてやんの。ざまあみろってんだ」
「あの女って、杉本さん?」
はるみと目を合わせて頷きあう。
「桧山先生がさ、みんなの前で言い渡したんだ。杉本を来年の評議委員から下ろすってな。評議として選ばれる価値がないからなってな」
「きゃあ、偉い! よく言った!」
手を叩く菊乃先生、むせこんでいる。
「佐賀を無視したりいじめたりしてるくせに、評議委員なんてやらすわけいかねえってな。で、クラスの女子連中にも、もし手を貸す奴がいたら、おしおきするぞって言い渡した。先生かっこよかったぜ」
「ほんとよねほんとよね」
「けど、俺としちゃあなんか、一方的過ぎるってのと、やっぱし大人としてもう少し冷静になろうと思ってさ」
ちょっときざに決めてみた。
「なによ、気取ってないで教えなさいよ」
肩をゆさぶられ、何度か左右に揺れた。
「来年の三月まで猶予やるって言ってやったんだ。お情けでさ。もし三ヶ月で佐賀や桧山先生にざんげして許してくれって言うようだったら考えるが、もし反省しないんだったら、桧山先生の言うとおり保健委員に回ってろってな。けど、保健委員の奴は露骨にいやな顔してたなあ」
「ふうん、保健委員にするって、でも、そうなると、困るねえ」
いたずらっぽく菊乃先生がにやつく。
「なに困るんだよ」
「保健委員って、具合悪くなった人を連れて行く係でしょ。保健室の当番もあるでしょ」
「よくわからねえよ。青大附属では医者になりたい奴ご用達の委員会らしいけど」
今度は膝をぽんと叩かれた。
「みんな、具合悪くなっても保健室いけない人が増えそうね。杉本さんに連れていかれたら、さらに病気悪化しそう」
もっともだ、健吾は爆笑してうつぷした。はるみが困ったようにうつむいている。
「けど、俺なりの考えとしてさ」
あまり下品に走るのも、ガキっぽいので健吾は背を伸ばした。
「あの女はどうしようもなく、ガキだってことはよおくわかった」
「私の言ったとおりでしょ」
菊乃先生も胸を張る。
「俺がそう思ったんだ。絶対」
はるみに横目を使い、健吾は鳥のから揚げをもうひとつ放り込んだ。
「ふつう、あそこまで桧山先生がな、反省しろって言ったら泣くか謝るかするだろ。ふつうの感覚持ってる奴だったらそうだよな。なあんも言わねえんだぜ。ただ、にらんでるだけ。ただ、口尖らせているだけ。あいつ、人間の感情ってまともにねえなって、ほんっと思ったぜ」
「だから言ってるでしょ、普通じゃないのよ、あの子はね」
両肘をついてあむあむとケーキをほおばる菊乃先生。
「六年の時だっていっつもそうだったじゃない。一点しか見つめないで、あの世を見つめているような目で、棒読みでしゃべってるじゃない」
「俺も本能で思ってた」
「うちのお母さんも、梨南ちゃんは小さい頃からおかしいって言ってたわ」
はるみが口をやっと開いた。
「でしょ、ねえ健吾くん。クラスの女子たちはどうなの? あれだけ怒られてまだ、杉本さんの味方っているの?」
「いる、ひとりだけ、すっげえ不良」
「花森さんのことね」
結局花森が、杉本を取り囲む女子たちを一喝して教室から連れ出したのを見た。
「でも、ほとんどの女子は、もう桧山先生がおっかねくて、これ以上杉本の側にいるとやばいってことで、離れてるみたいだ。当然だよな」
「ふうん、桧山先生だったっけ? 担任の若い兄ちゃんにも言っておいたのよ。杉本さんの行動に同調している人たちも、まともな神経の人だったらだんだんあの子がおかしいと気付くはずだから大丈夫ですよってね」
──担任の若い兄ちゃんって、菊乃先生とそう歳変わらねえはずだぜ。
健吾は声に出そうとして、飲み込んだ。
「先生、ちょっと待った」
はるみにも目を向け、健吾は尋ねた。
「なんで桧山先生のこと知ってるんだ?」
「だって会ったもの、ね、はるみちゃん」
完全に事実と認めた顔でうなだれるはるみ。一言も聞いていない。
「健吾くんから話を聞いてね、大切な私の教え子たちが悩んでいるなら一肌脱がなくっちゃってことで、はるみちゃんに頼んであわせてもらったのよ」
──なんで何も言わなかったんだ、佐賀。
氷柱が折れたような音が、芯に響いた。
はるみは黙ってうつむいていた。
「前から不思議に思ってたのよ。どうしてあの子が青大附属に受かったのかなあって。健吾くんたちから話は聞いていて、先生も大変だろうし、でも私はもう小学校の先生じゃないからと思って。それではるみちゃんにお願いして、一度杉本さんのことについてご相談したいということを話したの」
──だからなんで、俺に言わねえんだよ。
あとのおしおきが怖いんだろう。たっぷり、してやる。
「健吾くん、はるみちゃんをいじめちゃだめよ。私が頼んだことなんだから。それで桧山先生と会って、はるみちゃんを交えていろいろお話を聞いたの。たぶんはるみちゃん、途中からわけわからなかったと思うんだけど。杉本さんの場合、小学校の頃から問題行動が目立っていたので、そういう人にふさわしい学校に行かせた方がいいんでないかしら、ってことまで話したの。ありのままのことを話しただけよ。ちゃんと本も渡してあげたんだから」
──本?
わけがわからない。菊乃先生は本棚から一冊の教科書みたいな厚みの本を取り出した。
「難しくない本なんだけど、もしかしたら杉本さん、これじゃないのかなあって思ってね」
題名は『ふつうに見えない子どもに教師・親がやらねばならないこと』
「そのものずばりじゃねえか」
健吾はそれだけ口にした。
「でしょ。健吾くん。この本少し過激なこと書いているんだけど『クラスの和を乱したり、人の言うことを聞けない子どもには、断固とした態度で挑まなくてはなりません。ふつうの感覚を持つ子ども達の迷惑になる以上、教師はその子どもに対して、これ以上は受け入れられない旨の線引きをするべきです』ての。私も先生だった頃はなあなあにしちゃっててまずかったなあとは思うんだけどね。でも、杉本さんの家に恨まれてから私、学校辞めさせられたようなもんだからねえ」
はっとした。あかんぼが腹に入ったからじゃないのか。
「本当はね、健吾くん、はるみちゃん。私ももっと先生のお仕事したかったのよ。でもね、教育委員会に思いっきりにらまれて、ちょうどタイミング悪く琴がおなかにできちゃったでしょう。先生たちってねえ、結構性格悪いのよ。あのことさえなければ、ちゃあんと一年休みを取って、琴が大きくなってから小学校に戻るつもりだったのに」
まだ後遺症が残っていたと、初めて知った。
「今、先生じゃなくなったから、桧山先生にはお話できたようなものよ。私がうっかり杉本さんの親に言ってごらんなさい。私が水商売して作った子なのよ、とかさんざん噂流されて、青潟追い出されるかもしれないもの。でも、桧山先生ってしっかりしてるよね。ちゃんと私の話聞いてくれて、納得してくれたの。『わかりました。佐賀さんが苦しんでいるのは気付いてました。僕は佐賀さんとクラスの全員を守るために、戦います』って言ってくれたのよ。やっぱりねえ、ふつうの人は、気付くのよ」
ふつう、ふつうと連発する菊乃先生に、なぜか胃がおかしくなるようなものを感じていた。から揚げ食いすぎただろうか。健吾は一度トイレを借りることにした。はるみに話し掛ける声だけが聞こえる。
「けどそうよね、はるみちゃん。杉本さんは自分が正しい、自分が素晴らしいと信じて、実はみんなから嫌われていることに気付かないのよ」
はるみがか細く答える声もする。耳を澄ませた。
「先生、あの後、梨南ちゃんのお母さんにあの本貸したみたい」
「あらら、そうだったの」
「うん。梨南ちゃんのお母さんを学校に呼び出して、証拠の写真とか、録音テープとかビデオとか、そういうのを全部見せたんですって。私、いじめられた記憶ないのだけど、でも、梨南ちゃんのお母さん泣いちゃったらしいんです」
「今更自分の娘がしたことに気付いてどうするってのよ。早く気付けよばか親って感じよね」
トイレの水を細く流し、健吾はさらにドアへ耳をくっつけた。自分が出て行くと黙りこくるかもしれない。
「これ以上私のことをいじめたり、桧山先生に口答えするようだったら、青大附属を退学にしますよ、って脅して、そのあと優しく言ったんですって」
「なになに?」
「菊乃先生の言ってた本を渡して、『もともと小学校の頃から梨南さんはおかしかったらしいので病院に行けば直るかもしれません』って言ったんだって。『本人が悪気を持ってやっているのだったら退学してもらうけど、生まれつきの病気とかだったらしかたないので面倒みます。病院に連れて行って証明書を出してもらってください』とかも言われたって、お母さん言ってた。梨南ちゃんのお母さん、それから三日くらい、小学校時代の人たちの家にお菓子もって土下座して回ったんですって。うちに一番先に来て、私にしたことを謝って、許してくださいって」
「はるみちゃんのお母さんは、許したふりしたの」
「『梨南ちゃんは、そういう子だから仕方ありません』って言ったの。そうしたらずうっと、梨南ちゃんのお母さん泣き出して、学校で先生に言われたことをひとりでジャべり続けてたの。お母さん話聞いてたけど、あとで言ってた。『生まれつきだったら、どうしようもないですよね』って」
──そういうことか。
つながるつながる。頭の中でぷちぷちと切れる音がするようだ。
「実際この本に書いていることは、私からするとどうかな、ってまゆつばものなんだけど。もし琴にこう言うことを言われたら、きっと先生にたんか切って転校させるわ。うちの娘をばかにすんなってね。でもあの親にはそのくらい言わないとわからないのよ、あそこのうちは普通じゃないんだから親も娘も」
「梨南ちゃんはまだ病院に行ってないみたい」
「あらら、大騒ぎしておいて?」
「梨南ちゃん、学校ではつんとすましてる。お母さんに何度も病院に行くように言われてるらしいんだけど、『私は狂ってない、私は間違ってない』と言い張って、お母さんとも最近口を利いてないらしいの。病気でないってことになったら梨南ちゃん退学させられるから、お母さんは必死になって病気なんだってことにしようとしてるんだけど」
「認めるのが怖いのね、赤ちゃんばぶばぶ。うちの琴の方がまだましかしら。まだご機嫌いい時はにこにこするもんね」
べろべろばーと、菊乃先生ははしゃいで笑った。
「やっぱり、単純に信じちゃったのね。半分以上大嘘ばっかりなのに、あまりにも自分の娘のしていることと病気の内容がおんなじだから鵜呑みにしちゃったのねえ。少しはお勉強しなさいって感じよね。ま、あとは杉本さんの家でいろいろ修羅場くぐってもらえればいいのよ。親のしつけのせいだったら退学だし、病気のせいだってことになったら学校にいられる限りそれなりの扱いをされるし。さあて、どっちを取るのかしら。はるみちゃんへのいじめがなくならないようだったら」
ぐふふ、声を押し殺して。
「青大附属は、私立ですから梨南さんは公立に転校することは簡単なんですよ、って、桧山先生言ってたの、覚えてる?」
──そこまで言うかよ。
もし菊乃先生やはるみの言うことが正しければ。
とうとう桧山先生は、杉本梨南に対して、いや、杉本梨南の親に対して十分すぎるほどとどめを刺したということだ。 『クラスの和を乱したり、人の言うことを聞けない子どもには、断固とした態度で挑まなくてはなりません。ふつうの感覚を持つ子ども達の迷惑になる以上、教師はその子どもに対して、これ以上は受け入れられない旨の線引きをするべきです』
杉本がいつぞや本を叩きつけて抗議したことがあったけれど、ネタはたぶんその本なのだろう。『精神病院』うんぬんという言い方だったが、はるみの言葉を信じる限り、実際それに近いことを口にしたのだろう。どんなに桧山先生が怒っても、のれんに腕押しだった現実を見れば。
しかし、菊乃先生がはるみに手引きさせ、桧山先生に話をしたというのは初耳だった。菊乃先生はかなりおなかが大きかったはずだ。
そこまでして桧山先生に杉本の悪口を言いに行く意味って。
はるみもなぜ、健吾に一言も言わなかったのだろう。
今聞いたことが本当だとすれば、健吾はすべてを否定しなくてはならなくなる。健吾の持つ「正義」「正々堂々」がすべて覆されることになる。ずっと守ろうとしてきた、ふたりの「正義」が泥にまみれてしまうことになる。
白い雪に泥のしぶきがかかったような、そんな冷たさに。
──桧山先生があの女の親に言ったことは間違ってねえよ。あの女のせいでクラスが大迷惑だってのは、すげえわかるし、あのままだったら佐賀が傷つくってわかってた。あの女の親が大泣きして土下座して歩いたってのも、ざまあみろってのが本音だ。塩かけたって当然だ。けど。
一週間前までだったら平気で罵れたはずなのに。違う粘着力のある言葉が身体をうごめいた。動けなかった。
──でも、菊乃先生、違うだろ。その本、嘘っぱちだったって知ってたんだろ。
汚点。
菊乃先生にも、はるみにも見たくなかったもの。
杉本梨南を染めている汚い色。
同じものを健吾は見つけてしまった。
「あら、遅かったねえ、おなか大丈夫?」
上機嫌の菊乃先生はまだけらけら笑いながら、シャンパンを手酌で注いでいた。はるみがちろっと健吾を見上げたが無視した。目で感情を読まれるのが恐ろしかった。
「菊乃先生」
健吾は正座した。
「なあに、かしこまっちゃって」
「今の話、全部ほんとかよ」
目をそらさなかった。健吾の方をきょとんと見つめた菊乃先生は、すぐにまぜっかえすがごとく、
「やだなあ、みんな聞いてたんでしょ。はるみちゃん話してなかったの?」
「聞いてねえよ! なんでだよ!」
はるみの方を向いたら何をするかわからない。こらえた。わめきたいのを必死に押し殺した。
「菊乃先生さ、さっきの本、大げさに書かれた本って言ってたよな」
「ずいぶん詳しく聞いてたのね」
「黙れ、話せよ。内容かなり嘘っぱちってことだよな」
戸惑ったように菊乃先生はテーブルクロスをもみもみした。
「そうよ。私、心理学の本って結構読んでるんだけど、本によって書いていることって違うの。大きくなったら分かると思うけれどもね、本を書いている人によって、価値観というか、信じるものが違うっていうのかな? ある人は杉本さんみたいな人を優しく見守ってあげましょうと唱えてるし、またある人はさっさと追い出しましょうって話してるの。もちろんどちらの方にも言い分があるんだけど、本当だったら杉本さんを許しましょう、って言ってあげたほうがいいのはわかるのよ。私だって人の親だもの。自分の子どもにはそうしたいわ。でもねえ」
はるみと再び目を合わせて意思疎通。ぶっちぎりたかった。
「そんなこと言ったら、さらにあそこの親、開き直るじゃない? 自分の娘はがんばっている、一生懸命。だから問題なのは学校なのよ、とか言いかねないじゃない? 守ってあげない桧山先生が悪いのよ、いじめられるはるみちゃんが悪いのよ、うちの梨南姫が一番なのよ、って言い出しかねないじゃない」
健吾は頷いた。
「問題の解決になんてなんないのよ。嘘でもいいから爆弾を落として、ショックをたっぷり受けて、それからなんとかしてもらった方がいいと私は思ったの。もちろん杉本さんがおとなしくなって健吾くんやはるみちゃんの邪魔にならないところに追いやられれば完璧だけど、まずはたっぷり罰を受けてもらわなくちゃ。いじめをしている張本人として当然よ。どうしたの健吾くん、杉本さんのこと、死ぬほど嫌いだったでしょ」
「ああ、ゴキブリだと思うぜ、あの女は」
──それは変わらないさ。
「けどな、菊乃先生、それって、やり方汚ねえよ」
手が震えた。まずい、また感情が高ぶってしまう。
「健吾、どうしたの」
「黙ってろ!」
肩を震わしている隣りのはるみを無視して、健吾は怒鳴った。
「そりゃあ、俺はあの女死ねばいいと思うさ、見るだけで吐きそうになる女なんてこの世であいつだけだ。国家権力で抹殺されてもなんとも思わない女だ。けどな、俺はあんな女と同じやり方で勝つのはいやだったんだ。先生、知ってるだろ? 俺、ずっと青大附属に行ってから『いじめをしない、正々堂々』と勝負したいって。あの女の悪事を全部さらけだして、自分で土下座して謝らせるところまでさせて、最後は他の奴らから軽蔑されて罰せられるのがベストだって。だから、俺はずっと正々堂々、誰にも文句つけられないやり方をしてきたつもりなんだ。ずっと、そうだったんだ、けど、けど」
目を腕でこすった。カフスボタンがひっかかって痛い。
「菊乃先生してること、あの女とおんなじじゃねえかよ!」
声が震えて、たんがからみそうだった。鼻水がじゅるじゅる流れた。
「いいさ、あの女は何言われても感じないみたいだから、それくらいされるのが当然だと俺も思う。けど、あの親が土下座して謝ってるのって、菊乃先生が言う、嘘っこき本の内容でショック受けたからだろ? 嘘の情報読んで、自分の娘が狂ってるんでないかって泣いてるんだろ」
「全く嘘ってわけでもないのよ。内容がセンセーショナルかなってことだけ」
「関係ねえよ。菊乃先生、あの女の親を騙したことになっちまうよ。菊乃先生まで、あの女と同じ奴になんてなってほしくねえよ。俺は菊乃先生もはるみも、あの女と同じレベルにしたくねえんだよ!」
しばらく言葉よりも涙で壊れそうになりながら、健吾はティッシュを何枚か消費した。ごみ箱がだいぶ一杯になった。雰囲気は湿り、時々琴ちゃんが泣きじゃくるのが聞こえた。健吾の分、何倍も声を出して泣いてくれていた。
あやしながら菊乃先生は、もう一枚ティッシュを渡した。
「健吾くん、落ち着いた?」
「ばかやろう」
くぐもった声でしばらく健吾はつぶやいた。
「健吾くん、正義感強いのはわかるよ。とっても真っ直ぐだってわかってるわよ。でもね、正々堂々なだけでは、人を反省させたり、まともにしたりすることは出来ないのも、わかってね」
──言い訳すんなよ!
涙で目が曇り、隣りのはるみを覗く。すっかりうなだれたままだ。健吾を見るのが怖いのだろう、膝真っ正面でうつむいていた。
「もし、私があの時、杉本さんの親あてに話をしたとして、はたしてうまくいってたと思う? 正々堂々と、健吾くんの言う通りにそういう本を渡して、杉本さんの親に話をしていたら。反省するわけないでしょ」
「ねえよ、ねえけど」
「そうしたら、かえって桧山先生は逆恨みされたはずよ。はるみちゃんにいじめられた原因があるんだから、うちの姫に間違いはないわって、開き直られて、どんなに桧山先生が口すっぱく行っても聞く耳持たなかったはずよ」
──わかってるわかってる。
耳をふさぎたかった。でも菊乃先生は続ける。
「でも、ちゃんと桧山先生は正しいことをきちんと、冷静に説明してくれたみたいよ。はるみちゃんの話だと。そして、杉本さんのお母さんは素直に反省して、娘をなんとかまともな人間にしようと努力しているみたいよ。自分の娘が親友づきあいしてた子をいじめまくり、クラス全体で無視するなんて、どんなに言い訳しても許せない。その原因がもしかしたらご自分のしつけなのか、それとももともとの性格からなのか、それは調べないとわからないわ。でも私たちふつうの人にはそんなこと関係ないでしょ。はっきりしているのは杉本梨南という子が私たちにとってゴキブリだってこと。彼女のご両親には、おもいっきりハエたたきで叩いて見せ付けてやらないと、気付かなかったってことよ。ゴキブリの生命力ってすごいんだから」
──だから許されるって正当化してどうするんだよ。
「健吾くん、よく聞いて。大人になるっていうのは、正々堂々とすることだけじゃないのよ。もちろん間違ったことをするのはよくないけれども、黙っていたらはるみちゃんが杉本さんの餌食になってしまうとこだったのよ。守るためには、鬼にならなくちゃだめなのよ。口で言ってもわからない人には、頭を使って攻撃するのも当然なのよ。知恵者でなくてはならないのよ」
大人になるということ。
混乱してきた。本条先輩の言う、「大人」の眼が違う 。
汚いことを場合によってはしなくてはならない「大人」。
はるみを守るためにはそれをしなくてはならなかったこともある。
杉本と、立村次期評議委員長を間にしてにらみ合った時。
かつての想いを刺激するような言葉をたっぷり浴びせた時。
でも、決してもうそういう汚い手は使わないと決めていた。
はるみのために。はるみにふさわしい男であるがために。
──それだけじゃだめなのかよ。
涙は止まらなかった。
「先生、頼む、聞いてくれよ」
声がひっくり返り、健吾はしゃくりあげながら続けた。
「あの女の親をインチキ本でもって騙したことだけは謝ってくれよ」
「何言ってるの、当然のことをしてあげただけじゃないの」
「謝る必要ないなら、せめてさ」
鼻水を何度かすすった。
「これから俺たちのクラスの連中に電話かけて、もういいかげん杉本の家を馬鹿にしあったりするのはやめようとか言って、治めてくれよ。そうすりゃ、先生は心の広いすっげえいい人なんだってみんな思ってくれるぜ。あの馬鹿女の親を許してやったすばらしい人なんだって思ってくれるぜ。俺にもそう、思わせてくれよ。だって、俺は」
はるみを見つめて、咽から吐き出すように。
自分の発する言葉が熱すぎて舌が焼けそうだ。
「俺も、今まであの女をはじめ、さんざん馬鹿にしてきた連中にしてきたことがいじめだったとしたら、土下座する覚悟はあるんだ。反省して、涙流して、もうしないって思うことはできるんだ。それに、自分の頭が普通と違うとわかって、どうしようもないとわかってて、それでも必死に努力する奴だっているんだって、最近知ったんだ。自分の性格に問題があったとしても、最後の最後で悪かった、なんとかしたいって思う奴だっていないわけじゃないんだ。どんなにシュートしても決まらなくて苦しんでる奴を物笑いにするなんて、絶対にしたくないんだ。だから杉本が奇跡的に佐賀に向かって頭を下げるかなにかしたら、俺は許してやる。挨拶くらいはかましてやる。すっげえやだけど、でも、俺は人間になりたいんだ。だからお願いなんだ、菊乃先生、謝っているっていう杉本の親を許してやってくれって、他のおばさん連中に頼んでやってくれよ。ゴキブリを焼き殺すんでなくて、外に投げ捨てる程度にしてやってくれって言ってくれよ。そうしたら」
菊乃先生の瞳は揺れなかった。六年の時の健吾たちを見つめている、先生のまなざしと一緒だった。いくら頼んでも、無理かもしれない、そう思った。
「菊乃先生をあの馬鹿女と一緒にしたくねえんだよ!」
すっかり宴がしらけてしまったので、健吾は立ち上がった。
「また、落ち着いたら来てね」
答えなかった。菊乃先生は果たして電話をかけてくれるのだろうか。どこかで健吾はあきらめていた。どんなに泣いても訴えても、菊乃先生は完全に先生の目に戻ってしまっていた。子どもの言うことなんてかまってられないわという風にだった。
「あら、はるみちゃんは置いてくの?」
慌てて荷物をまとめているはるみに首を振った。今日はひとりで帰りたかった。
「ごちそうさまでした」
やっとそれだけ口にした後、健吾はゆっくりとアパートのドアを締めた。
菊乃先生の顔は、困っていたけれどもやったことを後悔しているようなものではなかった。
──勝負はついたさ、ああ、あの女とは勝負付け終わったさ。俺は大人だと思ってあの女に情けかけてやったんだ。けど、そんな裏工作があったなんて、しかも佐賀の奴、何にも言わねえで。
怒ったってしかたないと分かっている。でもどこにぶつけたらいいのかわからない。健吾は足を何度かこすりつけるようにして雪道を歩いた。
杉本の親には同情なんてしてやしない。
ただ、健吾のやり方に汚点がついてしまったことが許せなかっただけだ。
なにも土下座して回るというおまけがつかなくても、健吾は杉本だけを正々堂々たたきのめせたはずだ。頭がおかしいんだよ、という匂わせぶりがなくても、杉本を言葉と態度の二通りでどん底に突き落とせたはずだ。たとえ感情に響かなかったとしても、クラスの女子たちから支持を失っているのは明白だ。していたことがすべて間違いだったと思われているのも確かだった。頼みの綱である立村次期評議委員長から三行半を突きつけられているのも、知らないだろうが本当のことだ。保健委員の連中には同情禁じえないが、評議委員から引きずり下ろされたということには変わりない。どうせ来年の二学期以降は、反省の色を濃くしない限り……濃くしたとしてもわからないが……委員そのものに選んでもらえないに違いない。
それに、桧山先生は、親に向かってはっきり「退学」も匂わせたという。
そうしてくれれば万万歳というのが健吾の本音だ。
でも、それは杉本ひとりの罪であり、親とは関係ないだろう。
少なくとも親は、土下座してあやまり、少しでも娘を真人間にしようとし始めているのだ。
あの立村次期評議委員長が、自分のみっともない過去を反省し、自分のプライドをずたずたにして健吾に頭を下げたように。杉本に情けをかけてやってくれと、屈辱をもって耐えていたように。
──努力している奴を、いくら馬鹿だと言ったって、踏みにじる奴になんてなりたかねえよ。
はたして杉本がそれに気付いているのかどうかはわからない。しかし、親があれだけ泣き伏していたということを考えると、そうとう家では修羅場が巻き起こっているに違いない。
──桧山先生ははったりをかませない人だな。退学させようとしたら、本気でさせるな。絶対に。
杉本が泣いて許しを請うかしない限り。心底悔い改めて、はるみのパシリにならない限りは。現在も街ではさんざん物笑いの種になっているのだ。全校生徒から同じ制裁を加えられて初めて、桧山先生は情けをかけようと思うだろう。それまでは一切、許しはしないだろう。
──それは正しい。当然だ。けどさ。
「健吾、待って」
ぎざぎざに切り裂かれた風の中、聞こえていた声。
健吾は無視して歩きつづけた。
「健吾、お願い、話、聞いて」
背中に飛びつく温もりを、健吾は振り払った。長い髪と一緒に頬を張った。
顔を覆って泣きじゃくるはるみがいた。
しゃくりあげるように、しばらく口元を押えるようにして。
「私、私」
「ばかやろう!」
泣き顔を見つめる。目がうるみ、にごった風に見えた。
「なんで俺に言わねかったんだ!」
「ごめんなさい」
「謝るよりわけだわけ。お前、俺のこと信じてなかったのかよ」
「健吾、私」
はるみは口に髪の毛をくわえそうになりながら、払いつつ近づいてきた。健吾の熱気に一歩たじろいだが、思い切ったようにまた進んできた。
「俺が正々堂々、命かけてお前守るって、あれだけ言ってもわからなかったのかよ。あの女とおんなじ汚いやり方なんてしねえって、あれだけ言ってたのに、お前と菊乃先生がしたこと、杉本と同じことなんだぞ、なんでだよ、ばかやろう」
ばかやろうと口走りながら、健吾ははるみの肩を揺さぶった。再び涙が込み上げてくる。ふたりで顔をあわせて泣きじゃくるのを、通りすがりの人が奇妙そうに眺めていく。もう他人様なんてどうでもいい。とうとうふたりは雪道のど真ん中でしゃがみこんでしまった。足に力が入らなかった。
「健吾、聞いて」
一方的健吾の罵声を聞き終わり、はるみが髪の毛を押えながら健吾を見つめた。だいぶ瞳が落ち着いていた。
「私、健吾が私を守ろうとしてくれたこと、知ってた。だから梨南ちゃんとも離れなくちゃって思ってた。私、梨南ちゃんのこと今でも嫌いじゃないし、お母さんが言う通り生まれつきかわいそうな子なんだから、優しくしなくちゃって思ってる。でも、健吾が私のために一生懸命なのに、梨南ちゃんのことを大切に、って思うのが悪いような気、してならなかったの」
「いいかげんにしろ。お前あの女に無視されたって」
「ううん、だからこの前話したでしょ。梨南ちゃんは、自分で自分がわかんないかわいそうな子だって。私、小学校の頃からなんとなく、そうなんだって思ってた。みんなふつうの子と違って、梨南ちゃんだけ変だと思ってたの。みんなが物笑いにしてるのを自分を誉めてくれていることなんだって思い込んでたり、健吾の……知ってるよね」
──繰り返すな。
肩を力なく揺さぶったがはるみの口をふさぐことはできなかった。
「あれね、他の先生が教えてくれたの。小学校に入学した時記念撮影で、健吾が私にずっとくっついていたから、梨南ちゃんが泣きじゃくってしまってどこかいなくなったってこと。覚えてないよね」
──覚えてるわけねえだろ。
「私もほんの少ししか覚えてないの。梨南ちゃん覚えてないらしいし。でも他の先生はあんなに激しく泣きじゃくった梨南ちゃんを見たのはあれが最初で最後だって言ってた。梨南ちゃんのお母さんも、同じこと話してたの。確か、あれからだよね。健吾のことを目の仇にするようになったの。私をひとりじめしようとするようになったの」
──きっかけなんて知らねえよ。俺が覚えているのは、顔を見た時から吐き気がして寄りたくないと思っただけだ。 「なんとなく、健吾のことが大好きだったんだなって、大きくなってから思ったの」
「けっ、へどが出るぜ」
「だから、変な虫を靴に入れられてしまった時、梨南ちゃんを健吾が突き飛ばした時、もう私、梨南ちゃんに嫌われるのはしかたないんだって思ったの。すごく淋しかったけど、私、どうしても梨南ちゃんを選べなかったの。健吾が大切にしてくれればしてくれるほど、私、どうすればいいかわからなかったの」
「だから俺を信じろってあれほど」
「ううん聞いて。でも私、もう梨南ちゃんと友だちにはなれないってあきらめようと思うの。だって健吾が私のことをあれだけ必死に守ってくれるんだもの。私も、大切なことを、捨てようって思ったの」
──大切な、こと?
初めて健吾ははるみに目をやわらげた。立ち上がり、手を下ろした。髪の毛が一本指にからまったままだった。
「健吾のために、私も梨南ちゃんに対して鬼になろうって決めたの。私、健吾を守りたい」
──俺を守りたいって、おい、佐賀、正気か。
はるみを何度もじろじろ眺めた。嘘が隠れてないか、必死に探した。でも正真正銘、はるみの声も顔も言葉も、真実だと体に響いていた。
「健吾、たぶん梨南ちゃんに逆恨みされてると思う。梨南ちゃんのことだから、きっと別の方法で歯向かってくると思うの。梨南ちゃんは、好きってことを嫌がらせすることでしか表せない子だって、健吾のことをまだ想っているのなら、いやがらせもエスカレートすると思う。菊乃先生もお母さんも、桧山先生も同じ意見よ。だから、私、梨南ちゃんがふつうの言葉で好きと言えるようになるまで、どんどん私のやり方で責めていくつもり。大丈夫。私、梨南ちゃんに向かって何を言われても、かわいそうな子としか思わないから」
すすり泣くはるみを、健吾は手のひらでさすってやった。さっき思いっきりはたいた場所だった。
「痛かったか」
「うん」
「反省してるか」
「何を?」
「俺に嘘を言ってたこと、俺に隠し事してたこと、俺に菊乃先生のたくらみを教えなかったことを」
威厳を保ちたくて、両腕を組んだ。
はるみは頬にある健吾の手を押えるようにして、頷いた。
「本当だな、もう二度としないな」
「うん」
「俺に隠し事しないな。俺のこと、信じるな」
「うん、信じる。健吾のこと、信じる」
「証拠、見せてみろ」
はるみが戸惑うのを健吾は強引に引き寄せた。人が見てようがかまわなかった。いつものような、額だけに唇をなぞらせるのではなかった。
「おしおきだ。覚悟しろよ」
舌を思いっきり唇の中に押し入れた。歯にぶつかったけれどこじ開けた。息が続くまで、からめたままでいた。
はるみを家まで送り届け、もう一度いつもの額への挨拶を交わし、健吾はクリスマスプレゼントの待つ自宅へと向かった。
──かわいそうな子、か。確かにな。
悪いことをしているのにはるみのような反省をしない。
それどころかさらに逆恨みしている。
もっと言うなら、自分のプライドを捨ててまで頭を下げている立村次期評議委員長のことすら、気にかけようとしない。
はるみが精一杯、杉本のことを心配しているのに……哀れんでいるのかもしれないが……全く、許すことすらしない。
どうしようもなくガキなのだ。
そういう中途半端な杉本梨南が健吾はどうしようもなく不快だった。存在そのものがいやだった。想いをかけられているということ自体が耐えられなかった。でも、立村次期評議委員長の言うとおり、杉本は周りの連中がどんなに思いやっても、気付くことができないのだろう。頭の中がどうのこうのというのはともかく、変わることすらできないのだろう。大人になるということすら理解できないのだろう。桧山先生がしつこいくらい「君は理解しているのかな?」と繰り返したのも、今ならわかる。
──勝負はもうついている、か。
反省の色すら見せず、戦いを続けようとする杉本梨南。
大人の振る舞いすら拒否する、哀れな女。
──俺がはるみを守ろうとするのと同じく、あんたが杉本をどうやって変えていくのかをとっくり拝見させてもらおうか。あんたは努力してるよ。ふつうになろうって涙ぐましいことしてるよ。だから許されてるんだ。杉本に、そこまでさせることができたら、そう思わせることができたら、俺はあの女にやさしくしてやれるかもしれない。そうだよ。俺がこれから、あんたと評議委員会でやっていきたい、そう思うようにな、立村さん。
健吾は家に入る前にもう一度空を見上げた。闇は雲に覆われてにごっていた。
──俺は、正々堂々、大人になってみせる。
──終──