その11 静まり返った理由
世の中みんなガキばっかりってことだ。健吾が青大附中で得た真理とはそれである。ここは一部の出来た大人を除いては、みなおしゃぶり加えてばぶばぶ言っているか、水色のスモッグを羽織って走り回っている幼児に過ぎない。その中で一歩でも早く、大人になるためには、気付かなくてはだめだってことだ。ガキがガキでいることのくだらなさ、情けなさを鏡で見て、きゃあと尻尾巻いて逃げだなくてはならないってことだ。
立村との話し合いが、結局健吾の優勢勝ちで終わったのをきっかけに、ゆっくりと風車が回り出したような気がする。それまではずっと健吾がひとりで立村を罵りつづけていたのだけれども、あえて自分を「ガキ」だと自覚したのか、わざわざ自分から風を起こしてくれるようになった、というのか。
──俺が、評議委員長か。
立村ももちろん、平常心ではなかったに違いない。健吾があえて「立村さん」と呼びかけた時、明らかに動揺していた。ちょうど鐘が鳴ったから、それ以上の展開はなかったけれども、でも確かに健吾は立村を見下ろすことができたと思う。軽蔑の気持ちなく、ただ、懸命に涙ながら訴える幼稚園児を見下ろす、保父さんのように。
蹴りを入れずに見下ろすことは、気持ちいい。
怒鳴らずに、あっさりと許してやることは、楽だ。
図書室を出て行ったと同時に、健吾の周りで別の風車が回り始めたことに気付くのはすぐそこだった。英語の授業は桧山先生だった。ほとんど授業はぬるま湯状態だった。予習も手抜きのままだった。
「起立、礼、着席」
健吾の号令で、みなだらだらと一礼をする。視線が健吾に刺さるので、顔を上げてみる。桧山先生がじいっと健吾に笑み含みのまなざしを送っていた。
「なんっすか」
「まあいい。とりあえず、B組は一通り授業も消化しているし、今日は臨時のホームルームと行こうか。本当は終業式に一発かますかと思ったんだが、やはり二十四日はみな、予定があるだろうしな」
ふたたび健吾に意味ありげな視線を送る。そんなの知らないと言いたい。ご自分の方こそ、二十四の男らしく、なにかあるんだろうか。
杉本の方をうかがうと、相変わらず直角に座り、まっすぐ顔を上げていた。
口をしっかと結び、一点を見つめていた。 今度は杉本を一瞥した後、桧山先生は軽く腕を回し始めた。
「まだ先のことなんだが、来年、四月以降の委員選出方法について、みんなから意見をもらいたいんだ」
切り出した。少しざわめく。健吾もぴんとこない。
「青大附中の伝統として、今までは一年時に決まった委員で三年間通すという方法が、どのクラスも取られていると思う。もちろん三年間持ち上がりなんだからそれも一つの方法だろうな。みんなが同じ目的で一生懸命やるのだったら俺も反対はしない。あくまでも、順調に行っていれば、の話だが」
──順調に行ってれば、な。
まだ繋がらない。ちらちらと健吾の気をそらさないよう顔を向ける桧山先生。
「だが、みんなも知っている通り、この一年B組では委員会制度というのが、あまりよい方向に進んではいないのではないか、という気がする。少なくとも、俺がこのクラスを一目見た時から、それを強く感じていた」
背中越しに男子連中の、「一部、だけな」とささやく声が聞こえる。だんだん反応が男子女子共にささやきで流れてきている。
「その原因はなんなんだろう、と、闘病中の溝口先生や、他の先生たち、そしてクラスのみんなに少しずつ意見を聞いていったんだ。そしてやっと原因が判明したというわけだ。遅くなってしまったのが本当に申しわけない」
「その、原因とは!」
大向こう、一声掛かる。調子いい男子だ。
歌舞伎役者のように一度両腕を広げ、見得のポーズを取りおどけた。桧山先生はすぐに正面に向かい、呼吸を整えるようなしぐさをした。
「杉本、立ちたまえ」
「何か理由があるのですか」
座ったまま杉本は、姿勢を崩さずに答えた。
「恥ずかしいのかな、僕の言葉を聞くのが」
「恥をさらさせるような話し方でしか対処できない人間と話す必要があるのでしょうか」
「君はまず黙って僕の話を聞き、その後言いたいことを話す時に立ち上がりたまえ」
静まり返った教室。呼吸ひとつ、鼻をすする音ひとつ、響きが跳ね返りそうだった。健吾は悟った。
──勝負をかけたか、桧山先生。
観客になるべく、健吾は耳を済ませた。
「このクラスに、女子中心のいじめがあったという事実は、男子の諸君から何度も忠告を受けている。ただ、噂だけを信じるわけにはいかないので僕は、毎日のようにみんなの様子を観察していた。三日くらいで原因は杉本が女子を扇動して、佐賀を無視しているということが明らかになったというわけだ」
──そんなにかかったのかよ。先生。
心の中でつっこみを入れる。
「しかし、いじめられている佐賀を呼び出しても、本当のことを言わない。それどころか、口癖のように『杉本さんはかわいそうだから』の一点張りだ。友だち同士の行き違いに口出しをしたくない。よくあることだ。だが、なぜクラスの女子たちまでもが、佐賀に話しかけないのか、それが不思議でならなかったんだ」
桧山先生は杉本以外の女子たちをじろっと眺めた。男子に向けたものとは違う、冷たい視線だった。
「女子全員、起立」
恐る恐る動く女子たちの椅子の音。響き渡った。健吾が見る限り、ひとりだけ座ったままの女子がいる。当然、あの不良女、花森のみ。
「何度か女子たちにも集まってもらい、意見を聞かせてもらった。やはり、ひとりひとりは佐賀に対して申しわけないと思っているし、さらにこのままではいけないと意識もしているようだ。反省することができるのは、まだ自浄作用が働いている証拠だ。反省しているか」
何も言わない。手を動かしているもの、うなだれているもの、ぼおっと聞いているもの、いろいろだ。どう考えても全員が反省しているとは思えない。
「答えられないということは、反省してないということだな。反省しているならはい、と言いたまえ。もう一度チャンスを与える。佐賀を無視したことを、反省しているか」
かすかに、「はい」の声が角々から聞こえた。
「声が小さい」
「はい」
くぐもった声と、途中涙声あり。全員とは思えないが、一通り多数決で行くとなんとかなりそうな数だった。
「口先だけなら何でもいえるが、このまま立ったまま聞きたまえ」
明らかに信用していない顔で桧山先生は続けた。はるみがなぜか立っていることに気付いたのか、
「佐賀、君は座っていいよ」
おずおず、椅子を引いて杉本に振り返った。困りきったという顔だった。一切無視して一点集中している杉本は、動かなかった。
「どういう理由があるにせよ、いじめは許されない行為だ。男子一同もその点についてはみな賛同してくれた。一学期から、何度も杉本に対して佐賀をいじめるのをやめるよう抗議をしていたのも知っている。少々荒っぽいやり方だったらしいが、常識が通じないものにはそうそう簡単に言葉を通じさせることはできないのだから」
今度は両手を組んだ。桧山先生、結構役者だ。
「本当だったら正義感が行き過ぎて、杉本をさらに叩きのめそうとする疎きもあったと聞く。それをあえて押さえたのが、新井林、君だな」
──いきなり当てるなよ。
女子の一部が声を上げて泣き出した。泣けばすむと思っている奴らだ。
「杉本に反省させようという努力を、新井林は懸命にしていた。男子連中もそれはよく見ていたと思う。もちろん女子も気付かないでいたわけではないだろう。でも心が弱すぎて醜い自分を反省することができなかった。そういうことだ。そしてまだ、自分を見つめられず反省できない人がいる」
杉本と桧山先生、目が合った。一切逸らそうとしない杉本を、桧山先生はそりかえったまま見下ろした。
「杉本、君はずっといじめられていたと勘違いしていたようだが、周りは一生懸命に君の間違った行動をやめさせようとしていただけだ。理由については問わない。しかし、佐賀が懸命に杉本のことを許してやってほしいと頼んで、君と友だちでいたいと言い続けているのに、一切それを受け入れようとしないのはどうしてだろう。仮に佐賀になんらかの非があったとしてもだ。頭を下げられたら当然、心の広い人なら許してあげようとするだろう。佐賀のように、君に何をされてもがまんして、小学校時代の仲良しだった杉本を許そうとしているんだ」
「関係ありません」
一言返しただけだった。
「君はそうされたことがあるか」
「すべての男という生物にされてきたことが答えにはなりませんでしょうか」
不謹慎にも噴出す奴。気持ちはわかる。
「君はその男子たちに何をしてきたかな。君は男子たちに何を言ってきたかな。男子は馬鹿ばかり。男子は頭がおかしい。男子たちは常識がない。確かに君に悪口を叩いていた男子が多かったのは事実だ。しかし、そうするきっかけを作ってしまったのは、杉本、君の方がほとんどではないかな」
「私にしたことはいじめではないということを言いたいのですね」
言葉は一切揺らがない。
「本来、いじめはどういう理由があろうと許されないことだ。だが、君は自分が感じている以上に男子たちに対し、何を言ってきたかを考えるべきだ。君のされてきたと思っていること以上に、ほかの人たちは迷惑をかけられているということをだ。ふつう『嫌い』といわれたら辛いだろう。ふつう『死ね』といわれたら哀しいだろう。ふつう『不細工』『デブ』とか言われたら気にしている人は絶望するだろう。自分がそう言われたら、と想像したことはないのかな」
「想像するまでもなく、そう言われ続けてきたのでよくわかりますが、私はなんとも思いません。言うべき相手に真実を伝えるだけであり、人を傷つけてまでする必要はないと思います。事実、女性にはそういうことを言う必要のない人ばかりですので、私は一言も言いません。私を罵る人々がどういう人間かを伝えるために言うだけです」
「ふ、子どもだな」
ひとりごとのようにつぶやいた。桧山先生の口元がだんだんほころびてくる。奇妙な笑みだった。目が笑っていない。鬼のようなまなざしだった。
「中学に入学する時に、僕は君たちを大人扱いしたいと思ってきた。青大附属の校訓は『紳士であれ、淑女であれ』だからな。どの先生たちも、多少君たちのやんちゃぶりには目をつぶってでも、大人として扱ってやりたかった。だが、杉本、君はそれを裏切ったんだよ。わかるかな」
「勝手に決め付けられるのは迷惑です」
「そうだな。僕たちは、君がしていることを見て、判断することしかできない。杉本が佐賀にしていることはあきらかに、『いじめ』だ。懸命に仲良くしようとしている佐賀を、クラスの女子たちを利用して無視するという、人間として最も恥ずべき行為だ。そして」
ゆっくりと前かがみになり、杉本を覗き込んだ。
「君は現在、評議委員だ。評議委員とは、クラスの代表であると同時に、クラスのみんなをまとめる仕事を任せられている。決して、委員会の中で演劇ごっこをしたり、派手な音楽を鳴らしてうっとりしている『部活』ではないはずだ。本当は、上下関係がはっきりした、部活動をするべきだったのではないかなと、僕はずっと思っていた。どうだろう」
「評議委員として選ばれたのですから当然のことです。私が立候補したわけではありません」
「そうだね。君は一年の最初、入試成績トップで入学した。成績のいい人は、きっと人望があるだろうという思い込みの信頼を受けて選ばれたはずだ。だが、今の君はいじめの頭取としてすましかえっている。君はどうしても『いじめ』だと思えないようだが、ふつうの人たち、一年B組の人たち、先生たち、みな君のしていることを『してはならないこと』だと思っているんだ。わかるかな。やってはいけないこと、なんだ」
「幼稚園児に話しかけるような言葉遣いは失礼です」 「そう言わないと、『理解』できないんだろう?」
初めて杉本の目がきっと見開かれた。
──ガキがガキと言われて反応したってか。
手ごたえあり。さらに口のしつけ糸をほどきつつ桧山先生は笑顔を振り撒いた。
「杉本、家ではわがままがいくらでも通じたようだけれども、ここは学校だ。そしてここは青大附中だ。ふつうの感じ方をするふつうの人たちがたくさんいるんだ。もちろん君がしていることを『いじめ』だと思えないのだったらそれはしかたない。君がそう感じざるを得ないんだから。でもな、そういう感じ方をする人は、佐賀を始めとしたふつうの感じ方をする人に、どれだけ迷惑をかけているか、あらためて考えなくてはならないんだ」
「ふつうの感じ方? まるで私が頭がおかしいという言い方をするのですね」
「おかしいとは言っていないよ。ふつうの人は、佐賀が君に無視されてどれだけ辛い思いをしてきたか、想像することができるんだ。しかし、君にはその力がない。そう思うだろうと、考えることすらしない。もちろん普通の感じ方ができないのならば、それは仕方ない。君の問題だ。君がこれからいっぱい怒られて、傷ついて、覚えていかなくてはならないことだ。君が大人になるためにはそれは当然のことだ」
大きく息を吸い、夜叉化した桧山先生は目を吊り上げて笑った。
「だが、君が普通の人への思いやりをマスターするまで、佐賀がいじめられていていい理由はない。そのために杉本、君はもっと人への思いやりを勉強してほしい。人がどう感じて、どう考えるか。そして自分がどれだけ普通ではない感じ方をして、迷惑をかけつづけているか。それを勉強するために、ひとつ提案をしたい」
「提案とは」
ふたたび無表情に戻った。
「来年、杉本を女子保健委員にしたいと思う」
──ちょっと待てよ桧山先生。評議外れるのは万歳三唱だけどな。保健委員だっているんだぞ、うちには!
現在保健委員の男女が顔を合わせ、すぐに女子、男子同士でささやきはじめた。立ちんぼうの女子たちも目を光らせ、いきなり杉本に視線を集中させていた。杉本だけが落ち着いたまま見据えていた。
「では、評議委員は」
「クラスのみんなであらためて、冷静に誰がふさわしいかを考えてもらう。成績ではなく、人格として誰が一年B組をまとめるのにふさわしいかを、三ヶ月かけてクラス全員に考えてもらいたい。しかし、その際に杉本の選択肢はなしだ。君が学ぶべきは、クラスを率いることではなく、もっと人と触れ合うことだ。怪我をしたり具合が悪くなった人を連れて行くときに、どうしたらいいのか、どうしたら楽になれるのかを勉強するのに、保健委員は一番ふさわしいものだと思う。自分以上に他人がどう感じているか、自分よりも傷ついている人がたくさんいること学ぶためにもだ。女子保健委員をやっている人には申しわけないけれども、あえてお願いしたい。杉本を保健委員に回してやってくれ」
女子保健委員がこっくり頷いた。
──保健委員って、確か医者か看護婦になりたい人にお勧めコースってやつじゃねえか。おいおい、未練ねえのかよ。
健吾が男子保健委員の顔を探すと、露骨におえっと吐き気をこらえる真似をしている。先生も気付いたらしいが、注意しなかった。
「本来委員は、クラス全員によって選出されるべきものであり、教師が決め付けることについては何かおかしいのではないでしょうか」
「本来ならそうだ。しかし今回は緊急事態だ」
切り捨てた。
「委員会活動というのは、本来教育の一環として、君たちが勉強するきっかけを作る場所であり、部活とは異なることを意識してほしい。今、青大附中の委員会はほとんどが部活動と重なってしまっている。一度委員が決まったあと、ずっと同じというデメリットも持っている。今回のように、明らかに委員としてふさわしくない人間が出てきたら、当然それは変更するべきだ。それは、担任として当然の処置だ。文句あるかな、杉本」
「あります。はたして誰が賛成しますでしょうか」
とうとうとどめだ。もう笑顔とにらみとがドレッシング状態だ。
「今、ここで、決を採ってもいいんだよ」
「どうぞご自由に」
杉本は一切かかわりなしといった風に、じっとにらみつづけていた。はるみがなんどか貧乏揺すりをして振り返る。まだ心配しているのだろうか。いい気なもんだ。
──だから無視してろって言うんだ。お前の勝ちが決まりかけてるってのに。
健吾がにらみつけようとしたとたん、はるみの右手がするんとあがった。
「お、どうした佐賀」
「あの、いいですか」
頷く桧山先生に、はるみは正面から見つめ返した。いつも見ているはるみの、おびえた表情とは違った。
──あの時とおんなじだ。
小さい頃、健吾の側で「私が健吾のお姫さまなのよ」とくっついていた時の、誰にも文句言わせないと言いたげな瞳。いつか取り戻したかったあの瞳。
──畜生、あれは俺のもんだ。
桧山先生に毒づいてどうする、とすぐに自分につっこんだ。
「あの、私、さっきから桧山先生のお話を聞いていて違うと思ったのは」
切り出して、一度言葉をゆるがせるようにして、すっと顔を上げた。
「私、本当に梨南ちゃんのことがかわいそうでならないんです」
──かわいそう?
ざわめきが生まれたのは女子の方だった。ひとり、後ろで寝たふりをしている花森を除いて。みながぱたぱたと顔を合わせている。
「だって、梨南ちゃんは小さい頃から、どうしても男子とおしゃべりしてもうまくいかなくて、だから私がいつも間に立ってあげていたんですけれど、それでもどうしてもだめだったんです」
立て板に水って奴だ。はるみ、度胸全開だ。健吾は思わずひいた。
「どうしてか、私もわからなくって、梨南ちゃんがかわいそうなので、一生懸命友だちになってあげたんです。今、青大附中に来て、やっぱり梨南ちゃんは男子たちにいやがられてます。桧山先生は私のことを梨南ちゃんがいじめていると思っているみたいですけれど、梨南ちゃんは私と一生懸命仲良くして、って言ってるんだと思います。ただ、ふつうの人にはそれが、そう見えないんだと思います。だから、私、梨南ちゃんが男子たちとうまくいくようになるまで、ずっと友だちでいたいんです。かわいそうです」
「そんなこと、言ってないわ。いいかげんにしなさい、はるみ」
低くつぶやく杉本。いさぎよいのか往生際悪いというのか。
「だって、うちのお母さんも言ってたもの。梨南ちゃんは生まれつき、そういうことがわからない人だから、何を言われても許してあげなさいねって。私も梨南ちゃんがそういう人だとわかっていたから、私が守ってあげなくちゃって思ったの。そうしないと、私以外だれも、味方がいなくなっちゃうでしょ。私、梨南ちゃんが何をしても、許してあげなくちゃって思ったの」 女子たちの集団に、不気味な空気が漂う。ちょっとまずいぞ、佐賀。そう言いたい健吾だが、くちばしを挟む勇気はない。改めて思う、佐賀はるみ、ちょっと怖い。 「生まれつきそういうことがわからないとは、どういうことなの。いいなさい」
声が震えてる。杉本を何かが揺らしている。
比べてはるみの言葉は、一切揺れなかった。
「聞いたの。うちのお母さんが話してたのよ。この前梨南ちゃんのお母さんがうちに謝りに来てくれたことがあって、教えてくれたのよ。『梨南ちゃんは生まれつきそういう感じ方しかできないから、今度病院に連れて行きます』って泣いてらしたんですって。でも、梨南ちゃんが病院に嫌がるのも分かるわ。それなら私、ずっと梨南ちゃんを守ろうと思ったのよ。梨南ちゃんがふつうになるまで、私、待っててあげようって決めたの」 静まり返った。今度は鼻息ひとつ立てやしない。 桧山先生も息を呑んでいる。 「それがどうしたの。私はおかしくなんてないわ」
──それがすべてだ。
健吾の目には、男子連中はおろか、女子連中の顔がオセロのように一気に白くひっくり返されたように見えた。給食時間までは一切、杉本にたてつこうとしなかったあの女子たちが。はるみの言葉を境にすべて、納得したように頷いていったのを。女子たちが向ける杉本への視線がずっと鋭く冷たく変わっているのを感じた。
──佐賀、良くやった。
──あの次期評議委員長さまは、このことを、知ってたのか?
すべてがつじつま合う。 健吾にいきなり評議委員長の座を勧めてきたのも、杉本に情けをかけてやってほしいと言い出したのも。
桧山先生の出方をすべて読んでいたか、聞き出したか、その辺はわからない。しかし本条先輩から聞いた立村伝説を裏返せば、可能性はなくはない。杉本が来年の評議委員に選ばれないならば自動的に、評議委員長の座を与えることはできないわけだ。そういうことだったら、当然予定変更を強引に行うのも当然のことだ。つまり、杉本のプライドがとことん剥ぎ取られるのを、立村次期評議委員長はすべてお見通しだということだ。
──まじかよ。
健吾はあらためて、つぶやいた。あいつはガキかもしれない。けど、怖い。
──けど、俺だって大人だ。
さっき立村と語った時に見えたものが、すいと立ち上がった。
──けど、このままじゃあ、桧山先生がまた叩かれる。
──先生の言うことは正々堂々、当然のことだけど、あの女はガキだ。救いようのないガキなんだ。ガキは何するかわからないんだ。
立村について本条先輩がつぶやいた言葉が耳に残っている。
──俺は、大人だ。大人だから、するべきことは、わかってる。
手を挙げた。すぐに指された。
「先生、いいっすか。俺、評議委員としての提案なんだけど。このままじゃあ泥沼だし、佐賀、お前は座れ」
先生には悪いが、はるみが言うことを聞くのは、健吾の方だと思う。
「新井林、言いたまえ」
「ああ、言います。とりあえすこの審議、来年の四月まで待つってことはできませんかね」
「来年の四月? 二年に入ってからか」
思わぬ行動に驚いているのか、桧山先生は早口だった。
「そう、どうせそれまで委員会の改選はまだだろうし。それに一応評議委員会は部活動みたくなってるから、他の先輩たちに迷惑をかけるのもなんかまずいかなってことで」 「そうか、まあなあ。二年、三年に罪はないもんなあ」
ちろっと杉本をにらみ、笑顔で健吾に向かう。
「そして、提案その二なんだけど、いいっすか」
「おう、どんどん言ってみろ」
女子連中が立ったままでけずってくるのを跳ね返し、健吾は続けた。背を伸ばし、堂々と。
「今のことで、佐賀をいじめている馬鹿女子どもが反省したかどうかってのは、俺は信じちゃいねえっすよ。先生もわかってるだろ。いじめた奴ってのは、必ず後でしかえしするって。だから俺が佐賀を命賭けて守る。それは続ける。でもし、一言でも佐賀にいちゃもんつけるようだったら、その時は俺も黙っちゃいない。残念ながら腕力勝負は女子相手に不公平なので、いつでもどこでも、先生に行司軍配持ってもらって、裁いてもらう。けど、それもうまくいく保証はない。でもうひとつ」
健吾はもう一度椅子に低く座っている杉本を見た。
正面から見るのは、これで最後にしたい。
「杉本、お前がとことん腐っているのはよっくわかった。だが、俺は大人だ。紳士でありたい。だから、三ヶ月猶予をやる。三ヶ月、お前が評議委員として認めてやれるかどうかをとっくり、観察してやる。当然俺たち男子はいじめなんて姑息な技を使いはしねえ。暴力行為その他悪口一切、封じてやる。結果、お前が佐賀を始め他の連中に謝る気持ちになったら、その時はその時で評議になるなり、その他の委員になるなり、判断が下るってわけだ」
「あんたに言われたくはないわ。命令される筋合いもない」
「ああそうだな。俺はお前とこれから一切口を利く気もない。俺は紳士でありたいけれども、杉本を好きになることだけはどうしてもできない。これだけは理屈抜きでそうだ。ただ、いじめないことだけはできる。どんなにむかつくことをされても、半殺しにしてやりたいと思っても、手を下さないようにしようと、思うことだけはできる。それが俺の仁義であり、情けだ」
反応誰かしろ、と言いたいのだが、誰もしゃべらない。ひとりで盛り上がってて馬鹿みたいだ。健吾は指で鼻をすすった。肝心要の杉本だけが、壊れんばかりの瞳で健吾をにらみつける以外は。
「情けなんてかけられたくもないわ。だから新井林、あんたは馬鹿なのよ」
「俺の話はこれで終りです。桧山先生、ではお裁きを」
健吾は、わざと手を差し出すようにして、そのまま座った。
「新井林、素晴らしいぞ。お前こそ、評議の鏡だな」
「俺は評議として当然のことをしただけです」
──立村次期評議委員長との仁義を守っただけだっての。
前から、後ろから、指先だけで叩く拍手の音が聞こえる。最初ぱたぱたと、そして上から、斜め向こうから。あちらこちらから。とうとう手のひらで叩く拍手で一杯になった。健吾が見渡すと、男子連中がオーバーアクション気味に手を挙げている。
──健吾、最高だあ!
──勝利だ勝利!
──ざまあみろ、馬鹿女!
「おい、やめる、黙れ」
もう一度健吾は立ち上がり、足をとんと踏み鳴らした。
「いいか、前から俺が言っていることを忘れるな。俺たちはこれから、卒業するまで、勝負に出たんだ。どんなに杉本にむかつくことを言われても、どんなに腹が立っても、暴力や悪口を言わないでがまんするって言う、すっげえきつい勝負だ」
──ほんときついんだぜ。七年どれだけ俺が苦しんできたかわかるかよ。
「だから、俺たちは正々堂々、その勝負に勝とう。紳士として、大人として、俺たちの考えが正しいことを証明するんだ。もちろん、杉本を始め、間違っていると謝ってきたら、その時は『大人』として許してやれ。佐賀が今だに杉本をかばうようにだ。すっげえしんどいことばかりだが、俺たちは絶対、やり遂げる。紳士として、大人として。わかったな。そのことで反目する奴がいたら、その時は俺がぶん殴る」
握りこぶしを立てた。
健吾の筋肉は、中学に入ってからだんだんさわり心地よくなってきている。殴りがいある腕だ。
「杉本、これだけ言ってくれても、気持ちは伝わらないのか」
「あたりまえです。私をだしにしていやがらせをしているだけです」
桧山先生は音の聞こえるため息をついた。
「君はかわいそうな子だね。どんなに思いやりをもってみんなが心配してくれても、反省することも、自分がどんなことしているか想像することも、できないんだ」
──俺は大人だ。そして紳士でありたいんだ。
あらためて健吾は、はるみにふさわしい男でありたいと祈った。
窓から覗く真っ白い空に願った。
──俺は、あの女を好きになることはできない。けど、佐賀のようにあの女を許せるようになりたい。佐賀、どうしてなんだ。どうしてあんな女をかわいそうだって思えるんだ? あれだけ無視されつづけて、あれだけ顔を奪われて、どうしてなんだ?
女子連中のいじめは陰湿だ。桧山先生がいなくなったら、すぐに反省したふりの女子が現れて嫌がらせに向かうだろう。杉本がいつ権力を取り戻すかわからないのだから。だいぶ雰囲気的に変わってきているのが一安心だが、まだまだ危険であることは確かだ。健吾はあらためてはるみを守ることを決意した。
悪の根源たる杉本梨南のプライドをたっぷり傷つけたところを見せ付けられて震え上がったに違いない。授業が終わった後、女子の数人がおそるおそる杉本に近づいていって、
「杉本さん、謝ったほうがいいよ。先生、杉本さんになにか罰与えるかもしれないよ」
とアドバイスしていたが、
「謝るくらいなら、退学したほうがまし」
とつぶやき返していたのを聞いた。救いようのない奴である。
──心底、腐ってるよな、あの女は。
健吾はあらためて思う。
──俺だって、あの次期評議委員長を「さん」付けで呼ぶことにきめたってのにな。