その1 いじめない理由
健吾が知っていたはるみはこんな泣き虫じゃなかった。
ちょっと靴に変な虫入れられただけで足をばたつかせて泣きじゃくり、悲鳴をあげるような女じゃなかった。
顔をこわばらせて足をばたつかせるはるみがいる。白いストッキングから這い上がってくるのは灰色っぽい虫だ。よく便所にいる。そばで黒いびろうどのドレスを来たあの女がその足をひっぱたきながら何か命令口調で罵っている。
「はるみ、黙りなさい。今脱がせるから」
「怖い、いや、怖い、気持ち悪い、梨南ちゃん、助けて」
地べたにぺたんと座り、うす桃色のスカートがべっとり泥で汚れていた。足をくねらせながら何度も叫ぶはるみ。
──あの女の指だ。
──離れろ、佐賀から離れろ。
健吾がこらえられなくなったのは、小学校卒業式数日前の、あの瞬間だ。
「佐賀、俺の背中におぶされ」
「できない、できない、怖い、いや」
打ち所が悪かったのか、スカートをまくった状態で横たわっているあの女を見据え、健吾ははるみに命令した。あの女と同じくらい強い口調で、決して逆らえないように。
「それに、梨南ちゃんが」
「お前まだこの女にくっついていたいのか。ばかやろう!」
倒れている女に一発、二発蹴りを入れたがびくとも動かない。白いレースのついた下着が丸見えだった。何度か動こうとしているらしいが頭が痛くてならないらしくうめいている。
「ほら、落ち着け。今から靴脱がせるからな」
黒いつやつやした靴。お姫様靴だと女子たちが騒いでいる靴だ。ぱちんと留める部分を外した。指先でも感じる滑らかさだった。はるみの足で踏み潰された白っぽい虫が注ぎ込まれていたらしい。
──あの女のせいだ。
──この女が、佐賀にしたことすべてだ。
健吾はゆっくりと、手でその虫たちを靴の中からすくった。指にごにょごよする感覚、まだ生きている。たぶんこいつらは蛆虫だ。
「健吾、何するの」
指で数匹生きている奴を、目の前でだらしなく横たわっている女に振りかけた。ちらっと顔を見上げたが瞳はにくにくしいままだった。長い髪の毛をそのまま背中と肩に流している、墨で塗りつぶしてやりたい顔。
──ざまあみろ。
もう一匹生きていた。ゆっくりと、艶やかな髪の毛の上に落とした。
「佐賀、行くぞ」
はるみが鼻をすすり上げながらも、黙って健吾の肩に両手をかけた。ちょっとだけ膨らんだ足と尻に手がかかったけれども、あえて感じない振りをした。重たい。
「いいか、もう泣くなよ。俺はお前のことを守るからな」
自分でも恥ずかしい台詞だった。
正気で言えない言葉だと人は言う。
けれど、この言葉なしで、健吾ははるみを守れなかった。
杉本梨南からはるみを取り戻すためには。
あれから半年以上経つ。だいぶはるみもあの頃のようにおびえなくなった。何かの拍子で健吾の目に見え隠れする時、いつも怒鳴ってしまう。
「佐賀、いいかげん俺の前でびびるのはやめろよな」
教室から連れ出し廊下で人がいないのを確かめる。
「お前、俺のことを信じてねえのか」
「信じるって、健吾のことを?」
「俺はお前のことを守るって言っただろ」
ああ、くさい。白々しい言葉だ。相手がはるみでなかったら健吾は死んだって口にしない言葉だろう。
「だって、健吾」
はるみはそれ以上の言葉を口にしなかった。健吾の腕にもたれて顔をうずめるだけだった。先生たちにばれたら大変なことになる。中学一年のくせにいやらしいと言われるかもしれない。しかも野郎側は青大附中一年B組評議委員ときている。クラスの野郎ども、同じ学年の連中ども、健吾はあえてよけいなことを言わせないようにさまざまな取引をしている。決してはるみに手を出させず、うっかり誰かが悪口を言おうものなら半殺しにするようおどしをかけていた。
「いいか、あの女のやり方にまだおびえてるんだったら、安心しろよ。佐賀、俺は正々堂々とあの女をつぶしてやる。佐賀が堂々とこの学校を歩いていけるようにしてやる」
「健吾、そんなことしなくたって」
表向きはるみはまだ、あの女のことを好きなふりをしている。六年間さんざんこき使われた後遺症だ。
「お前が気付いてねえだけだ。いいか、佐賀」
──俺はあの女たちと違う。汚い手を使いはしねえよ。
耳の上に大きく編み上げたお団子をくっつけているような髪型。いつか解いてしまいたくなる。本能がうごめき、たまらなくなって健吾は窓の向こうを見た。
「どうしたの健吾」
はるみの声が響く。
「なんでもねえよ」
一年B組の教室に入ると空気は一転して息苦しいものとなる。健吾もそうだがはるみもたぶん、息がつまりそうだろう。前から二番目の廊下側の席に座り、真ん中らへんのはるみをちらりと眺めた。見張る、と言った方が正しいだろう。なにせ後ろの悪魔に乗り移られそうな席なのだから。
はるみの後ろで、泥のような髪の毛を一本に結んだ女がじっと一点を見つめている。今年の三月、数匹の蛆虫を振りかけてやった相手だ。健吾に復讐するだけでは物足りないとかで、今度ははるみにターゲットを絞っているらしい。
朝の会が始まり、健吾が号令をかけた。
「元気いいな、新井林。よおし、おはよう! まずはな、溝口先生の容態からだ。先生は来月の手術に向けて……」
二学期に入ってから担任の溝口先生が体調を崩して入院していた。一部情報筋によると不治の病ではないかとの噂もある。もともと一学期から顔色の悪いこけた頬をしていた。クラスもごたごたしていたし心身ともに追い詰められていただろう、きっと。
代行の担任として、若い男性教師の桧山先生が入ってきた。教師になって二年目、初めてクラスを持つのだそうだ。見た目はほとんど大学生と変わらない。髪の毛も前髪を軽く持ち上げた感じで、よくいる売れない役者さん風だった。校内女子の人気も相当なものと聞く。顔のいい野郎というのは、大抵性格がよくない限りやっかみの対象になるものなのだが、桧山先生だけは違った。
──まあな、この先生は、明らかに「男子」だからな。
大人としてまともな考えをもつ教師は、この人だけだった。
なぜ一年B組の男子たちが桧山先生になつきまくっているのかを健吾は知っている。
「先生、いいっすか」
「あの、今週の部活報告をやりたいんだけど、いいっすか」
わざと、教室中央に響くよう、どすの利いた声で答えた。
「お、そっか。そうだなあ。先週のバスケ部、交流試合どうだった」
あまり答えたくない結果だが、健吾は振った以上答えるしかない。
「すいません。負けました」
「だらしないなあ、まあ力いっぱいやった結果だからまあいいか。今度の試合はいつだ?」
「来週もまたあります」
もちろん、悪びれずに答えた。
「そうか、お前もよくやってるもんなあ。来年は新井林がエースだもんなあ」
にやにやしながら桧山先生は頷いた。次に別の男子を指名した。
「次はテニス部、お前はどうだった?」
「すみません、ぼろ負けでした」
野球部、卓球部、陸上部、バレー部、男子連中に尋ねていくのだが、誰一人として勝利の報告を持ってくることがなかった。なんてこったいと健吾は思う。でも仕方ない。青大附中の運動部というのは、青潟市でも有名な超弱小部と呼ばれているのだ。四年前から委員会最優先主義に犯されてしまい、文化系・体育系の有能な選手がみな、委員会に走ってしまっていることに問題があると言われている。
「まあなあ、良く頑張った。お前らはまだ先があるんだから、次回も燃えろよな」
ぼろ負け報告を受け取った後、桧山先生は連絡事項を読み上げようとした。
「先生、よろしいですか」
虫唾の走る声が割り込んだ。せっかく朝さわやかな空気が流れているというのににごってしまったじゃないか。健吾は無視を決め込んだ。自分だけではない、周りの男子たちも、そして桧山先生も同じ表情をしている。
「なんだ、杉本」
泥髪の女・蛆虫を這わせた女。あの杉本梨南が立ち上がった。ねめつけるようなまなざし。周りの人間を誰も目に入れていないような、少しいっちゃったような視線だった。わざとらしい笑みを浮かべ、投げやりに答える桧山先生を健吾は、男として正しいと思う。
「弱弱しい部活の報告よりも評議委員会および他の委員会報告を最初に聞くべきだと思います」
「それは失礼じゃないかな。杉本、人にお願いする時の口の利き方はそれでいいのかな」
わざと優しい言い方をする桧山先生。
「桧山先生こそ、教師としての常識を覚えないで教師になられたようです。それはともかく、これから評議委員会の報告をさせていただきます。許可を求めてもすぐに切られるのでこのまま話します。今回の評議委員会は学校祭の反省および二年の合唱コンクールの結果についてでした」
いきなり許可も得ないでしゃべり始める杉本。
──頭がおかしいぜ、あの女。
杉本の言うことも間違いではない。二学期に入ってからというものの、桧山先生が最初に決めたことは「朝の会において最初に確認するのは委員会報告ではなく部活の結果報告である」という点だった。当然、評議委員の杉本が激怒しないわけがない。毎朝、委員会報告を行う時間になると桧山先生とバトルを繰り広げることになる。桧山先生も最初は馬鹿にした態度で無視していたのだが、杉本がしつこくしゃべりつづけるので仕方なく、話を聞く振りをしていた。学校祭、一年のクラス参加企画が一切なかったのは、ちょうど中体連の時期だったから。杉本はずっと二年の評議委員連中とくっついて何か手伝いをしていたらしいが、健吾を含めたの男子は無視していた。もちろん、桧山先生も。
うんざりした顔を隠さず、桧山先生は杉本の並べる御託を聞いていた。男子たちのつぶやき「また始まったぜあの女」「頭おかしいんでねえの」「ばあか、ここでなんか言ったらさ」が聞こえる。あえて健吾は一切口を利かなかった。
「よおくわかったよ。杉本。お前が言うことはよくわかった。一応、言いたいこと言ったら満足しただろう」
「ちゃんと先生が理解されたかどうかは定かではありませんが」
真っ正面からじっと見つめて答える杉本を、徹底して鼻で笑う態度に健吾は満足していた。
「君は、頭がいいね。とにかくこれで終り。座りなさい」
「命令される筋合いはありません。礼儀を守ってください」
「そうだな、礼儀を守るだけのことをしてくれればな」
いきなり後ろの野郎連中から拍手が沸いた。
「よく言った!」
健吾が振り返ると、普段は何も口にしないおとなしい野郎たちがぱやぱやと拍手を送っていた。
目が合い頷かれた。健吾は無視することにした。
──本当は、こうやってあの女を馬鹿にできれば楽なんだがな。
──そうだよな、あの女と同類のことができればな。
杉本梨南は真っ正面を見据えたまま席についた。周りの女子たちがひそひそと悪口らしきものをつぶやいているのを無視していた。もしくは気付かないのだろう。哀れな女だ。
──あの女と同じことを、するもんか。
心に誓ったことだった。
放課後、健吾がバスケ部の練習に向かおうと、バスケシューズを背負い体育館に足を向けた時。
「よお、新井林、先日はすごかったらしいなあ。シュートチャンスが鬼のようだったって聞いたぞ」
声をかけてくれたの本条里希評議委員長だった。
これでも一応は、一年B組の男子評議委員なのだ。自分でも評議委員会というのは二次的役割だと考えていたが、でも本条先輩の前ではきちんと答えたい気持ちもある。
「けど一本しか決まらなかったんで」
「すげえじゃねえかよ。やっぱり新井林、お前は男だな」
たぶんこれから評議委員会だし、一応は出るように言われるだろう。部活の練習が最優先だ。学校祭も終わったし、しばらくは無理に参加しなくてもよさそうだ。
本条委員長は目鼻くっきりした顔立ちを、気持ちよく笑顔に代えて答えた。
「まあな、しょうがないな。部活をいいかげん復活させろってのが教師連中のお言葉だもんな」
「青大附中の体育部が弱すぎるってことっすよ。だから俺たち一年が」
「まあなあ、原因は委員会連中にあるとも嫌味言われてるもんなあ」
「本条先輩だってこんな委員会に入ってなかったら、運動部の大スターだったでしょうなあ」
多少おふざけを混ぜても、本条先輩には何も文句を言われない。そういう人だった。かなりわがままを言ったところで許してもらえる。現在一年B組の評議委員同士が反目していることも、委員会活動は杉本に、クラス活動は健吾に二分割されているのもすでにOKが出ている。
本条先輩は単なる「大好きな先輩」であり、委員長ではない。
「じゃあ今日は、杉本に委員会任すって形になるがいいのか?」
「あの女に委員会はやるって約束、一学期にしたからしかたない」
「まだ考え直す時間はあるからな、忘れるなよ」
頭を軽く叩かれた。本条先輩は楽しそうに鼻歌を歌いながら三階に向かう階段を上がっていった。たぶん三年A組で行われるのだろう。
一年の一学期。杉本梨南と激しく争い罵りあい一時的に敗北した。
全校集会というイベントにおいて、健吾はてっきり二年生女子たちが企画したものだと思い込み、脳天気に参加してしまった。ファッションショーみたいなクイズ大会だった。すっかり舞い上がってしまった自分がなさけなかった。なにせはるみを相手に、手のひらへキスまでしてしまったくらいだ。
しかしあの企画そのものが、天敵・杉本梨南の手によって仕切られたことを知り、健吾は理性がぶっとんだ。許せるだろうか。憎たらしい相手の手のひらで踊らされたことを許せるだろうか。しかも後ろ盾には二年女子だけではなく、軽蔑すべき先輩らしき奴の影までちらついていた。
──あの男だけはゆるさねえ。
もし、あれが本条先輩だったらしかたないだろうと思える。あの人には叶わない。成績が学年トップであること、評議委員会を始め他の委員会、クラスをすべて統治しているのだから。さらに彼女を二人持っていて、その手の経験も豊富。男としてもうらやましい。
──けど、あいつなんかに。
本条先輩が全身全霊で可愛がっている二年の後輩がいる。次期評議委員長を指名されたあいつだ。
ろくに九九も言えず、女みたいな顔をしてなよついていて、やたら人の顔色ばかりうかがって、裏で汚い手を使ってのし上がり、女をしつこく追いかけつづけクラスの人気者たちとわざと付き合いをして自分の保身にきゅうきゅうとしている奴。
──決して俺はあいつが泣き虫だったとか、頭が悪いとか、いじめられて当然の奴だったとか言う気はしねえよ。けどな、あいつが何をしてきたか聞いてれば、当然じゃねえか。尊敬なんてしねえよ。
健吾は真上を見上げつばをかけてやりたかった。二階は二年の教室が並んでいる。天に向かってつばを吐きかけても顔に当たるだけ。むなしいのでやめた。
──しょせん、最低女は最低野郎にしか認められねえもんな。俺はあんな人間と同類になんてなるもんか。
とっくの昔にネクタイなんて外している。規律委員の連中も文句を言わない。先生たちも最近は健吾に対して鷹揚だ。一学期に起こした評議委員会関係のごたごたで顔も名前も覚えられ、本来だったら健吾の方が叩かれてしかるべきだったのにだ。運が良かったとは思わない。その百倍、吊るし上げられて当然の女がいたからだろう。封建的といわれるかもしれないが青大附属の教師たちは男性が圧倒的に多い。かなりいい方向に働いたのだろう。
「健吾、悪いがちょっと来てくれないか」
真面目そうな顔をした奴らからたまに呼び出しがかかる。目立つ一派とはすでに一学期の段階で話がついているが、問題は優等生面した中途半端な連中だ。今日もその類だろう。
健吾は体育館前の通路で立ち止まった。
「なんだ、これから練習なんだ」
「一言二言で終わる。悪い」
何度も、「悪い」を繰り返すのは、A組の奴だった。
顔見知りで何度か話をしたことがあるのだが、それほど仲がいいわけではない。優等生面をしているので健吾とは繋がりをもてそうにないタイプだった。ネクタイを緩めている所見ると、崩したい気分なのだろう。
「B組のあの女についてなんだが、お前どうして締めないんだ?」
単刀直入に話をするのが優等生連中の単純なところだ。健吾はあきれつつも鼻をつんと上にあげた。少しつんつんにした前髪をかきあげた。スポーツ刈りだが前髪に主張を残している。
「あの女、か。人間と思ってねえからな。人間にだったら腹も立つけどな、虫けらなんかに腹立てたって時間の無駄だ」
「よくそこまでおまえ、割り切れるなあ。健吾、お前あの女をつぶそうという意見を切って捨てているって話聞いたけど、いったいなんでだ?」
何度もぶつけられた質問だった。一学期、杉本梨南との対決で一応の負けを認めて以来、健吾は一切の手出しを禁じた。いや、もっと早い段階でだったろうか。自分なりの意志で、一年B組の奴らに命令した。
「杉本梨南に手出しを一切してはならない。紳士としての義務として」
と。
他の一年連中にとっては理解しがたいことだったらしい。実際何度か
「お前が立場上手出しできないのだったら、俺たちがつるそうか」
という申し出を少なくとも十人以上の連中から受けているが、あえて健吾は理由を丁寧につけてやめさせている。
「けどなあ、健吾。この前もうちのクラスの連中に向かって、『自分の価値を判断できない馬鹿な人間は、頭のいい人たちに迷惑をかけないところでやってください』とかなんとか言い放たれてさ。クラスの野郎どもは爆発寸前。幸いっていうかなんというか、あとで桧山先生が教室に来て、『君たちは本当に紳士だな』とか言ってくれたからさあ。おさまったけどな。でも、これはいいかげん何かせねばってC組、D組でも意見がまとまってるらしいんだ」
「ああ、俺のところにも大量にオファーが来るぜ」
健吾がOKを出せば、あの女はもう二度と学校に来れないだろう。裏でいろいろ手を回すことも可能だ。自分の手を汚さないように杉本を吊るし上げるなんてお茶の子歳々だ。青大附属以外であの女を嫌悪している集団を健吾は知っている。公立の連中を使えば足もつかない。
しない理由を健吾は何度も繰り返す。
「あのな、俺がなんであの女を汚い手でつぶさないかというとだ」
「佐賀のことが好きだからか」
「もう一度言ったら殺すからな」
ひとつめの理由は向こうが言ってくれたからはしょれる。健吾はポケットの手をつっこんだまま、壁にもたれた。目の前の壁に大きな影が映った。
「あの女を仮に、つるすなりまずみられねえ顔にしたとする。となるとまず、疑われるのは敵方である俺たちだよな。俺たちが呼び出しくらってそれなりの説教を食らう。どんなに俺たちの側に、あの女をぶっつぶすだけの理由があったとしてもだ。暴力をふるった人間が悪いというのが、おきてになっちまっている。残念ながら俺もそれには逆らえない」
「ひ弱な奴だぜ。健吾、お前そんな」
「ちょっと待った。話の続きを聞け」
健吾は落ち着いて一呼吸置いた。みな、説明するとこういう反応を示すのだ。タコの吸盤みたいな口をしている。キスしたいんだろう。変な奴。
「悪いが俺としては、あの女のために説教とか停学とか食らうようなことをしたくねえよ。自分が汚れるぜ」
「けどさ、あの女がしていることはなんだ? 俺たちをさんざん馬鹿にするわ、汚い手を使って大人連中を動かしたりしているんだぜ。この前も聞いたぞ、死んだ猫を家に投げ込まれたくらいで、やった奴の親の仕事を取り上げて町から追い出したとかなんとかって」
「だったらこちらが正々堂々とした態度で、どこも文句のつけようのないやり方でつぶしてやればいいことじゃねえか。俺はあの女とおんなじことをしたくないってわけだ。俺はきれいなやり方でもって、あの女関係を制裁してやりたいんだ。そのために」
「はあ?」
全く理解できないらしい。しょうがない。みなそうなのだ。
「一年野郎連中に俺が命令したのはそういうことだ。あの女につけこまれないよう、俺たちは大人連中に文句のつけられない態度を取りつづけてやるんだ。徹底してな。あの女のやり方がいかに汚いかは、最近桧山先生の様子を見ても分かるが、大人も分かっているらしい」
「ははあ、そうだな。桧山先生あの女を嫌ってるもんな」
「嫌ってるなんてもんじゃねえよ! やっぱり分かる奴にはわかるんだ。男だったら誰でもな」
最後の一言には別の意味がこもっているが、目の前の奴にはわからなかっただろう。健吾はあきらめの舌打ちをして続けた。
「二学期で俺もつくづく思ったんだ。異常な奴に合わせて自分らが異常になるんでなくて、徹底して常識を突きつけてやれば、周りだって変わるってことだ。俺だって弱い奴をいじめるとか、蹴りを入れるとか、そんなことはしたくねえよ。俺のモットーは『正義の味方』だ。あの女のしていることが許せねえから六年間、正義を貫いてきたってわけだ。ただやり方がガキだったから、つっこまれて俺が悪いことになっていたわけだ。けどな、今は立場が違う。あの女は教師連中にもわかるくらい堂々といじめをやらかしてるんだぜ。うちのクラスでな。どっちが悪いかよくわかるよな」
「しんどそうだぜ、健吾の言うことわかるようでわからねえよ」
ばかか。健吾はあきらめた。要するにすることだけを教えればいいのだと割り切った。
「A組の野郎どもは紳士だと桧山先生も言ってたんだろ。だったら徹底して紳士になっちまえ。そうすればあの女がいかに狂っているかがよおくわかるって奴だ。手も出さない、何もしない。ただ無視すること。そうすりゃああの女のしていることは浮き上がる。まあ安心しろ。俺も今、別の方法を考えているところだ、このままあの女をのさばらせておくつもりはない」
目の前にいるA組野郎は、納得した顔で頷いた。そしてつぶやいた。
「紳士、かあ。健吾の言うことだから信じるけどなあ。本当に別の方法考えているって信じるぞ」
奴が去り、自分の影だけが壁に映っていた。ゴリラめいていた。バスケシューズをぐるんと、紐のついたまま回してみた。
──なあんだ。結局はこれだけ言えばよかったのかよ。
健吾が部活で遅くなる日は、ひとりではるみは家に帰る。
たぶん杉本梨南はあの軟弱次期評議委員長のところに出かけているのだろうし、手出しされる心配はない。一時期は部活を休んでまでついていっていたが、最近ははるみにたしなめられて部活最優先主義に戻っている。尻に敷かれているとも言われる。青大附属の女狂いともささやかれる。学校行事中に手の甲へキスした度胸のある奴とも。
両親にも
「まさかあの健吾が十三にして女の子に狂うなんて。はるみちゃんでよかったけど」
とため息をつかれている。していることを見られれば何も言い返せない。言い返す気もない。
──あいつ、大丈夫かな。ちゃんと家に帰ったかな。
先輩も教師もあてになんてしていない。六年間、はるみが杉本にさんざんなぶられていたのを、誰も助けようとはしなかった。かつて健吾もそのひとりだった。杉本とのいがみ合いを続けていたものの、はるみのことをかばうことができなかったのだから。同罪だ。
──健吾、健吾、一緒に遊ぼうよ。一緒にヒーローごっこしようよ。私がお姫様ね。
自信もって笑顔で振舞うはるみを取り戻したかっただけだ。
──あんたなに恥知らずなことしているの。男は馬鹿ばかりなのよ。いいかげんはるみも恥を知りなさい。私の言うことを聞きなさい。
ふたりで話をしている時に、目の前で罵ってはるみを連れ去ったあの女の前。はるみはおびえて頷くだけだった。杉本梨南の隣りにいたはるみはいつも、泣きそうな顔をしていた。健吾を見つめて震えていた。
──俺の知ってる佐賀はあんな顔をする奴じゃなかった。だからだ。
小学校卒業式前、健吾が初めて杉本を突き飛ばし、蛆虫を振りかけた時に誓ったことはひとつだった。
──俺は、佐賀を守る。六年間たかっていた蛆虫から、あいつを守る。
佐賀はるみに杉本梨南がしたことを思い起こせば、何百回刺しても悔いはない。