本日は、この『久比塚書店』へお立ち寄りいただき……
……おや?
どうしたのですか、そんな呆けた顔をして。
……。
『あなた』ですよ。
ええ、そう。『あなた』です。
僕は、『あなた』に話しかけているのですよ。
……ああ、良かった。狐に抓まれている訳では無い様ですね。
では、改めて御挨拶を。
初めまして、僕は『四宮』といいます。
本日は、この『久比塚書店』へお立ち寄り頂き、ありがとうございます。
……寄った覚えは無い?いつの間にかここに居た?
くっ、くっくっくっ……
……おっと、失礼。どうにも可愛らしい事を仰るので、つい。
しかし、困りましたね。
先程の呆けた様子と言い、どうにも『あなた』の意識はまだ目覚めていないようだ。
うつらうつらと、眠ってしまっていたのでしょう、起き抜けで少し記憶があやふたになっているに違いない。
それでは――――こうしましょう。
『あなた』の目が覚めるまで。意識がはっきりするまで。
『あなた』は、この『久比塚書店』で、ゆっくりしていくといい。
書棚の本でも読んで、眠った頭をゆっくり動かしていくといい。
何、本だけはたくさんありますし、恥ずかしながら客が来る予定もありません。
お茶も御菓子も用意しましょう。
だから……遠慮せずにお過ごしください。
……ああ、但し。
あまり、手に取った本に夢中になり過ぎないよう、ご注意を……。
「……え?」
気が付けば『私』は、自分の部屋に居た。
ベッドに寝そべり、読みかけの少女漫画の単行本を手に持って。
辺りに響くのは、蝉の鳴き声とクーラーの稼働音だけ。
当然、周囲に本棚も無ければ、黒い着物を着た、貼り付けたような笑顔の店主も居ない。
それはつまり
「……あ……そっか。……うん、変な夢だった」
思わずそう呟いて、脱力する。
どうにも私は、漫画を読んでいる途中に寝てしまった様だ。
……うん、そうだ。だんだんと思い出してきた。
バイト代が入ったから、普段読まない漫画雑誌の単行本を、表紙の絵だけ見て直感で買って来て……
そして、あまりのつまらなさに意識のブレーカーが落ちたんだった。
「うー、損した……」
全く、なんであんな本を買ってしまったんだろう。
絵柄は王道のラブコメなのに、ストーリーは登場人物が全員化け物に食べられるとか、どんな詐欺だ。
こんな漫画を出版した編集部は何を考えているんだろう。
「……700円あったら、昼ご飯にサラダが付けられたのに……はぁ……」
自業自得とはいえ、なんと空しい散財である事か。
……とはいえ、こうして悩んでいてもお金が戻ってくる訳も無い。
流石に、本がつまらないからクーリングオフしろと言える程、私は厚かましくはなれないのである。
「いや……それ以前に、人の目を見て話す事もしんどい訳だけど……っと」
そうして、最近独り言が増えて来たなー、などと思いつつベットから背を起こす。
思う事が有って伸ばしている髪が枕の上を流れるのを感じながら、両手をぐっと上に上げ伸びをして
「んん、あ……そういえば、今何時だろ」
枕元の時計を眺め見た。私が視線を向けると同時に、カチコチと無機質に時を刻む秒針は12の文字盤に辿り着き
4:44
「……う」
4止、4刺、4死……『偶然』に眺め見た時刻は、お世辞にも気持ちがいいとは言い難いものだった。
「……」
つまらない漫画と言い、この時刻と言い、本当に気が滅入る。それに……
「……私、寝過ぎ……」
それに、こんな夕方になるまで寝続けるなんて、いったいどれだけ疲れていたんだろう、私は。
これでは折角の休日が台無し……ああ!
「テレビも見逃した!」
本当に最悪だ……そもそも、今日は見たいテレビ番組があったから、本を読んで時間を潰してたのに。
その時間潰しのせいで番組を見逃すなんて、本末転倒も良い所だ。
お金と時間を両方失うとか、やるせないにも程がある……いや、本当に。
枕に顔を埋め、暫く唸ってみるけれど、そんな事で失った時間が戻る訳も無くて……
「……もういいや。お風呂入ろう。そしてもう一回寝よう」
結局、色々と諦めて自棄になった私は、シャワーで汗を流してから、再度不貞寝を決め込むことにした。
散々寝たからこれ以上寝られるか分からないけど、まあ、その時はその時だ。
ベッドから腰を上げて立ち上がり、パジャマの裾を引きずりながらドアノブに手を掛け
『がたり』
……。
今、何か……私の後ろ。夕日が差し込む窓の方から、物音がした。
風でも吹いたんだろうか?
いや、きっとそうだ。風が吹いて窓が揺れたに違いない。
『がたり、がたり、がた、がた』
……風のせいだ。
そう思うのに、何故か私は振り返る事が出来ない。
だって、だって……聞こえる音が、風の揺れじゃなく、まるで
まるで……誰かが、窓を叩いている様に聞こえるから。
『がたりがたりがたり、がた がた がた がた 』
でも、そんな筈はない。そんな事は有る筈がない。
だって、私の部屋はベランダの無い2階にあるのだから。
だから、これは。この音は、窓が風に揺れているに違いない。
『 がたん! がたん! がたん! がたん! 』
そう、こんな奇妙な音がしているけど振り返れば、きっと、何も居ないに違いない。
風が窓を揺らしている事に安堵して、臆病な自分に失笑出来るに決まっている。
だから私は、真実を確かめる為に意を決して振り返り――――
「 がたん ばたん がた がた ばん ばん ! 」
「ヒッ!!?」
っ、いやだ、いた、やだ、いたいたいたいたいたいいた!!居たっ!!!
化物だ!カチカチと歯を鳴らす、奇妙な物体が!
全身に『口』がびっちりと張り付いた人影が、いた!!
しかも、窓の外に居たんじゃない!
私のすぐ傍に居た!
口の塊はずっと、私の後ろで『がたん、ばたん』と声を出して聞かせてたんだ!
やだ!嫌だ!逃げないと!
……っ!?
ドアノブを捻ったのに、ドアが開かない!
なんで!?
化物は、今も私の近くで「がたん、ばたん」と叫び続けていて……ゆっくりと、近づいて来てる!
「や……やだ!助けて! 誰か私を助けて! ここから出してっ!!」
悲鳴を上げる私に、化物が『口』だらけの腕を伸ばす。
カチカチと歯を合わせる音と、ぴちゃぴちゃという粘膜が接触する気味の悪い音が、とうとう私の耳元にまで近づいて来て――――
……おや、お気付きになられましたか。
どうにも『あなた』が本に夢中になっていたので、心配していたのですよ?
……うん?どうしたのですか、そのような顔をして。
随分と怯えた……そう。まるで、今しがた怪物にでも襲われた様な顔をしていますよ、今の『あなた』は。
『先程まで自分の部屋に居た』
『口だけの化物に襲われた』
……ですか?
くっくっ……失礼、どうにも『あなた』はまだ寝ぼけたままの様だ。
微睡み、寝ぼけて、本の中身を『あなた』の体験だと思い込んでしまった様だ。
どうぞ、緑茶と御茶請けの桜餅を用意しましたので、これでも摘まんで落ち着いてください。
少し落ち着けば、本当はどうであったのか、気付ける筈ですから。
ええ、そうです。
『あなた』は夢を見ていたのです。
本に夢中になり過ぎて、本を夢見て、本の中に遊んでしまったのですよ。
……。
……帰る、ですか?
……。
ええ、構いませんよ。
帰る事も。残る事も。『あなた』の自由です。
僕に、帰るお客様を引き留める権利はありません。
けれども……
本当に、帰ってよろしいんですか?
夢の中で、あれ程までに怯える事になった『あなた』の部屋に。
……ええ。どうするかは『あなた』の自由です。
もう少しだけ本を読んで行かれるのなら、今度は羊羹でも切りましょう。
お帰りになられるのなら、来店記念の土産に饅頭でもお包みしましょう。
『久比塚書店』は、閑古鳥の鳴く本屋。
幸い、『あなた』以外にお客様はおりませんので、どうぞゆっくりお考えになってください。