国民であることの意味
18歳以上から有権者になれるということの反対意見で、
「子供にはまともな判断力がない」
というものがあった。
無論、本人にも非があるだろうが、周りの大人にも責任があることは明らかである。
そもそも、学校教育でまともな判断力をつけさせるのが義務教育の役目ではないか。
子供に対して、判断力が無いという以前に、
『子供の模範となる大人なのか』
という問いを自分に出してみることを薦めたい。
こういう前置きを出したのは、最近にやたらと感じることがある。
「責任感を持っている者はどれほどいるのか」
職務責任でもいいし、親としての責任、夫婦の責任。
子供でも、兄弟姉妹の責任や友人間の責任なんかも該当する。
個人での責任と公人としての責任は持つ意味合いが違うのだけれど、責任という意味においては変わりない。
個人の約束と公人の約束の違い、と言えば分かり易いだろうか。
こう書くと、
「プライベートに関わるな」
「どうせマニフェストなんて守らないじゃん」
といった声が聞こえそうではある。
責任とは何ぞや。
手っ取り早い回答は、
「自分の判断で、得をする者と損をする者が出てくる」
というものが、私の意見である。
損得といっても、時には深刻なものも発生する。それこそ戦争が起きれば、国土が灰になるかもしれないし、国民が何十万人と死ぬかもしれない。
あるいは、国土と国民の命を失うことを怖れ、他国に隷属し、『国民性』を失う。
極端ではあるけども、それくらい強烈な選択に迫られる可能性は常にある。
その判断を下す際、ろくに考えもせずに決断を出されたら未来の人間が困るということも判断材料になる。
この責任というのは、なまじ見えにくい。
それこそ企業での不正なんかは、「信頼」というものが失われるので、危機感を覚えない不逞な輩が多い。決算期になって、収益が下がって初めて理解するなんてことは、よくある。
つまり、大人でも
「まともな判断力はない」
と、言える。
困ったことに、私も道路交通法違反をくらった身なのである。
左右確認のための一時停止をしなかった。
仕事帰りで疲れていた、なんてのは免罪符にならない。むしろ、大きな事故にならなくて良かったことを喜び、己の甘えを見直す機会とする。
私に起こったことは、「免許を持つ者の責任」から生じている。きちんと秩序を守るという前提がしっかりあるわけである。
国民に投票権が与えられるのは、きちんと国家・国民のことを考えるという前提がある。
たとえ、投票に行かなかったとしても、その責任はある。仮に、自分の票が過半数側にいかなくても、責任そのものはある。
この責任を考えると、二人の人物が思い浮かんだ。
井伊直弼 と 河井継之助。
この二人は、結局のところ、自分の所属する組織を壊滅するに至る。
しかし、私は両名が悪人であるとは一切思わない。
むしろ、一人の人間にしては、あまりに大きい責任を背負った人間なのである。
井伊直弼は、幕府を守るための行動が、結果として幕府を瓦解させる契機となった。
河井継之助は、故郷を戦場とさせてしまった。
もし、両名が「ヤクニン体質」の持ち主であれば、そのような巡り合わせにならなかった。
責任を果たそうとしたからこそ、歴史の転換点に遭遇したのである。
では、責任感を果たさずにいる方が良いのか。
民主国家の国民でなければ、許されるだろう。しかし、民主主義は、国民に責任を持たせる制度である。
国民一人一人が、井伊直弼にも河井継之助になる。
吉田松陰にも、坂本龍馬や高杉晋作にもなれる。
話が飛躍して申し訳ないが、私は責任というものが、そういうもののように思えてくる。
武士道とは死ぬことと見つけたり。
葉隠れ武者の言葉で、
「職務を全うすることに全力を尽くす」
と訳せる。
どんな選択であろうと、責任が生じるのだから、きちんと思考した上で判断を下す。
しかし、この考えでいくと、
「死ぬ権利」はあっても良いようになる。
自殺ではなく、国家として、「自ら死ぬこと」を認める。
私自身は、それを認めても良いという側に属す。
最も有益な権利の放棄は、どうしても死ぬことになるんじゃないか。
「他人に迷惑をかける前に、自分を殺します」
なんで、これは認められないのだろうか。
自殺との違いは、公的な立場を考えての自害ということ。自殺は、私的な死であるからいけない。
権利を押しつけるだけ押しつけて、責任を持てというのも酷い話である。