6 無垢な笑顔と弱い人に弱いという弱点
「液体物を入れる容器です」
彗は答えながら、疑問に思ったので訊ねる。
「ペットボトルを知らないのに、どうして持っているんですか」
アレイストがペットボトルをしきりにいじりながら答える。
「拾ったから。君、転移したときに色々珍しいものをばら撒きながら落ちてきたでしょ」
彗は空から落下したときの記憶が甦ってぞっとした。あんな経験は二度とごめんだ。
そういえば、資源ゴミを出しに行く途中だったと思い出す。
よくよく見れば、アレイストの足元に透明のビニール袋に入った、ペットボトル、空き缶、瓶が置かれている。
これらは全部、空中に放り出されたときに彗の手から吹っ飛んだ物だ。
「あの、これ全部、アレイストさんが回収してくれたんですか?」
なにげなく訊いただけなのに、彗の声を耳にしたアレイストはピクリと震えた。
宝石のような金色の眼が驚きに見開かれた。初め意表を突かれた表情は、徐々に柔らかく綻び、最後には心から嬉しそうな微笑みに変化した。
彗は純粋にびっくりした。こんなに無垢な笑顔を向けられるのは生まれて初めてだった。
うわあ……綺麗。
単に美というものじゃなく、赤ん坊が母親を見て笑うときのような全幅の愛情に満ちた笑顔だ。
アレイストが彗を見つめて言った。
「初めてだね、君が僕の名前を呼んでくれたの」
「え? あ、あれ、そ、そうかな。そうだった?」
「そうだよ。初めてだ。嬉しいな。君の声が僕を呼ぶのは嬉しい。どうしよう、君に触りたいな。触りたくて堪らない。我慢できないけど、我慢しなきゃ嫌われるよね。困ったなあ」
そこでルチアが彗の前にしゃしゃり出る。
「待て。むやみに私の婚約者に触れようとするな」
「ルチアは関係ないし。僕は触りたければ触る。でもスイは僕が近づくのは嫌なんだよねぇ。まあ、それはあたりまえか。僕は皆に嫌われてるし。僕に触られたら気持ち悪いよね」
と言って、アレイストが「あーあ」と残念そうに肩を落とす。
ルチアの背中に匿われた彗と距離を取り、またペットボトルをパコパコ揉み始める。
彗はルチアの背後から出て、ちょっと躊躇った末に言った。
「……別に私は、アレイストさんのこと、嫌ってませんよ? さ、触られて、気持ち悪いとか、そんなことも思ってません。さっき離れてって言ったのは、嫌だからじゃなくて、困ったからです」
アレイストが信じ難いような眼つきで彗を見る。
「でも逃げたでしょ」
「あれはだって、だって、その、ああいうことに、な、慣れてないし、恥ずかしいし……」
彗が口ごもって赤くなると、アレイストは机にペットボトルをトン、と置いた。
「僕の理解力不足でなければ、君、僕のこと好きって言ってる?」
「そこまでは言ってないっ」
「なんだ、違うのか。残念」
言葉通り、アレイストは落胆した表情で眉尻を下げる。
彗はなんだか自分の方がアレイストの気持ちを弄んでいるような気分になった。
「……そうじゃなくて、た、単に、嫌ってないってことですよ。それと、ふ、普通の女の子は、知らない人にああいうことされたら、ドキドキして逃げ出したくなります」
あとは動けなくなるか、悲鳴を上げるか、怯えるか、どれかだろうと思う。
彗の場合は、気持ち悪いとは思わなかった。不思議と、嫌悪感はなかったのだ。
美形だから、とかそういう理由ではなく、たぶんアレイストの笑顔に好意が溢れていて、下心を感じなかったから。
とはいえ、いきなり接近されるのは心臓に悪い。
彗がそう説明すると、アレイストはニコリと罪のない笑みで言った。
「いきなりじゃなければ、いいってこと?」
だめだ、話が通じてない。
彗は半ギレ気味に言った。
「そうじゃなくて! ああもう、だから、要は、私はアレイストさんのことを嫌っていませんし、触られても気持ち悪くはなかったってことですよ。だからって好きでもない相手や付き合ってもいない人に触られて嬉しいわけじゃないんです。とどのつまりは、遊び半分で私にちょっかいかけるのはやめてってこと!」
一気に喋ったので、息切れする。
彗がふーふー言いながら肩を上下させていると、アレイストはまた例の無垢な笑顔を浮かべた。
「……よくわかった。じゃあ僕が君を本当に可愛いと思ったときは触っていいんだね」
「は?」
「だってそうでしょ。僕は君と仲良くなりたいし、君のこと気に入ってるし、僕たちは婚約者だ。だから遊び半分でちょっかいかけたりしない。本気でかまって、君に僕を好きになってもらいたいなあ」
「は?」
「うん、決めた。僕は君のこと可愛いと思ったら、可愛がることにするよ」
「は!?」
「じゃあ早速、抱きしめさせてね。おいで、スイ」
脊髄反射で回れ右をする。
彗は汚部屋からの逃走を試みた。だが失敗した。
確かにアレイストの手が届かない距離まで走って逃げた。それなのに数秒後には、なぜかあっさり彼の腕の中に捕らわれて、背後から抱きしめられていた。
「僕の名前を呼んでくれてありがとう。これは、僕の感謝の気持ち」
背中が温かい。
本人曰く、魔王の息子らしいけど、温もりは人間と一緒だ。
感謝の気持ち、と言われては怒るに怒れず、彗はおとなしくしていた。
ドキドキしても、ときめきのドキドキじゃなくて、思春期特有の生理的反応のドキドキだ。
そう思わないと、うっかり心を持っていかれてしまいそうで怖い。
アレイストが時折見せる寂しげな顔や孤独を思わせる悲しい言葉は、身につまされる。
弱気な面を見せられると、無条件で傍についていてあげたくなる。
彗には、弱い人に弱い、という弱点があった。
母の突然の死や、祖母の逝去もあって、寂しい気持ちがわかるだけに、寂しそうな人を見ると、つい余計なお節介をしてしまう。
勘解由には、危ないからやめろと止められた。以来、控えるようにした。
だけどやっぱり、見て見ぬふりができないこともある。
「アレイストさん」
「アレイストって呼んで」
「アレイスト」
「なに、スイ」
「名前ぐらい、いつでも呼ぶから、自分から皆に嫌われてるなんて言うの、やめようよ」
「なんで?」
アレイストが腕を解き、横から彗の顔を覗き込む。
「寂しいから。それに皆と言っても、ルチアさんはアレイストのこと嫌ってないし、私だって嫌いじゃない。ほら、皆じゃないでしょ」
突然引き合いに出されても、ルチアはなにも言わなかった。
アレイストはキョトンとしてしきりに眼をパチパチさせていたが、ややあって頷いた。
「わかった。スイがそう言うなら、やめるね」
なんだろう、この猛獣を手懐けていく感じ。
彗はつい手を伸ばして、アレイストの頭を「よしよし」と撫でた。
アレイストはびっくりして固まり、ルチアはギョッと眼を剥いた。
彗は二人の凝然とした態度をさして気にも留めず、ペットボトルの用途を説明した。
「あのね、ペットボトルの口が開いてるでしょ? それは別に蓋があって、蓋を閉めて使うの。薄くて軽いけど、結構丈夫だから飲み物とか持ち歩くのに便利だよ」
それから、蓋は外してゴミに出したことを思い出す。
「そっか、蓋はボトルキャップリサイクル用に別にしたんだっけ。家には取ってあるんだけどなー」
なにげなく口にした一言に、彗は気が動転した。
「――家! そ、そうだ、家は? 私の家はどうなったの!?」
彗はアレイストの胸倉を掴んで迫った。
血相を変えた彗の気迫に押されたのか、アレイストは抵抗せずに答える。
「どうもなってないよ、ちゃんとある。家ごと転移させたからね」
「どこ!?」
「裏庭。僕、案内しようか?」
彗は大きく頷きながら叫んだ。
「お願いします!」