4 地下牢獄とホラーと汚部屋
ルチアは颯爽と歩く。彗はその歩幅と速度についていけず、若干小走りだ。
ここがどこかはともかく、とてつもなく広いことは間違いない。
なにせ、廊下が長い。天井が高い。部屋数が半端じゃない。おまけにとても豪華。
と、庶民では縁のない、お金持ちの家の条件が四拍子揃っている。
でも、ちっとも羨ましくない。
こんなに広いと移動するのが大変だ。掃除することを考えたら気が遠くなる。
だいたい、絨毯や美術品や装飾がいくら立派だって、居心地が悪ければ意味がない。
そして彗の眼には、これらの豪華絢爛たる一切合切のものが、ひどく冷たく映った。
人の住む場所じゃない。
割とどうでもいいことを考えながら、彗はルチアについていった。
長い廊下の先の階段を下り続けると、ある場所から、空気が変わった。
ひんやりとして、黴臭い。独特の異臭もする。
毛足の長い絨毯も途切れて、剥き出しの石階段が現れる。
「アレイストは地下にいる」
及び腰になった彗に気がついたのか、肩越しに振り返りルチアが言った。
「足元が滑るから気をつけるように」
警告はしてくれても、それだけ。
ルチアはさっさと一人で下りていく。
これが勘解由だったら、間違いなく手を差し出してくれる。
そんな考えても仕方のないことを考えながら、彗も続く。
別に手を借りたいわけではないけど、薄暗いし、雰囲気も怖い。
本音を言えば、行きたくない。
もっと言えば、ルチアを信用しているわけではないから、おとなしく彼に従っているこの状況はあまり本意じゃないのだ。
ただ消去法で選択の余地がないから、ついていく。
父が手紙を預けた人物なら、少なくとも父と面識がある。おそらく信頼も置かれている。
そう信じるしかない。
と、自分を納得させながら、彗は勇気を奮い立たせた。
恐る恐ると、地下に下りていく。
真っ暗闇を覚悟していた地下だったが、通路は仄明るい。
石灰石のような色合いの石造りで、天井が無駄に高い。
そしてギョッとしたことに、錆びた鉄格子のある小部屋が幾つも連なっている。
もしかして、これって……。
彗はゴクリと唾を飲み、嫌々ながら訊いた。
「ルチアさん」
「なんだ」
「もしかして、ここ、牢獄ですか」
牢屋とも言う。
なんとなく、恐ろしげな言葉を選んで言ったのは、雰囲気に流されたためだ。
彗が心の中で、どうか否定してほしいと願うも空しく、ルチアはあっさりと認めた。
「そうだ。と言っても、現在ではほぼ使われていない。いまは大半の囚人を新設した牢獄に収容しているからな。ここはもっぱら尋問か拷問に使用されているだけだ」
尋問か拷問。
過激な返答にルイの顔から血の気が引いた。
叫ばなかったのは、怖すぎて声が出なかったから。
それなのにルチアは、真面目くさった口調でとんでもないことを言う。
「あなたが興味あるなら、今度実施で見学も可能だが」
「お断りします!」
全力で即答する。
地下牢に彗の甲走った声が反響していく。
彗の激しい拒絶にあってもルチアは表情を変えず、ただ眼を瞬いた。
「驚いた。あなたは意外にも遠慮がちな性格だったのだな」
ルチアの頓珍漢な判定に彗は逆上して反論した。
「違います! 全然、これっぽっちも遠慮なんてしていませんから! 女の子相手に、こ、こんな怖い場所で怖いこと言うなんて、あなたの常識が変ですから」
理性が振り切れているわけじゃないので、頭おかしいんじゃないの、とは言わずにおく。
彗が涙目でルチアを睨むと、ルチアはまた眼をパチパチさせて言った。
「……女の子、があなたを指すとして訊こう。あなたはもしかして、ここが怖いのか?」
「普通に怖いですよ」
ムスッとして答える。
ルチアが感じ入ったように頷く。
「なるほど。あなたは地下が怖いのか。覚えておく。では、私にできることはなにかあるか?」
「一人にしないでください」
別に甘えているわけじゃない。
こんな場所で一人にされたら、アレイストに会いに行くどころの話ではなくなる。
彗が切実に訴えると、ルチアは「わかった」と一言呟いて、おもむろに踵を返した。
「アレイストの部屋はこの奥だ」
「牢獄のある地下に部屋って、ひどくないですか」
「なにがひどい?」
本気で訝しげなルチアも相当ひどい性格だ、と彗は思った。
湿気と黴臭い空気が満ちる地下道を、ルチアに置いて行かれないよう進む。
奥に向かうにつれ、なんだか悍ましい気配が濃くなってきた。
石壁や床にも血痕のようなものが見受けられる。
腐敗した鉄格子や壁に刻まれた引っ掻き傷など、眼にしたくないものが満載だ。
ひー。
彗は、声にならない叫びを放ち、縮こまりながら歩いた。
ホラーだ。ホラー以外のなにものでもない。
怖いよう。
思わず、念仏を唱える。
これは亡くなった祖母が生前口にしていて、耳で聞きかじったものだ。
言葉の意味も内容も、とんとわからないけれど、怖いときには不思議と効果がある。
すると、彗がブツブツ言うのを聞きつけたのか、ルチアが振り返って言った。
「面白い詩だな。もっと聞かせてくれないか」
「面白がらないでください」
そのまま怯えながら段々細くなる道を歩いて、ようやくルチアが足を止めた。
目の前にあったのは、鉄格子ではなく、黒い扉。金色のノッカーがついている。
見るからに怪しくて、彗はドン引きした。
だがルチアはためらわずノッカーを握り、ガンガン、と強く扉を叩く。
「入るぞ」
そして中から応答がある前に扉を押した。開く。
彗は慌てた。親しき仲にも礼儀あり。
勝手に入ったらだめ、と言おうとした瞬間、強烈な異臭が鼻を突いた。
「うっ……」
思わず呻いて、その場から走って逃げる。
隣では、ルチアも同じように飛び出してきて、壁に手をついて吐き気と闘っている。
まるでゴミ処理場の中に放り込まれたような悪臭だった。
「な、なんて臭いだ」
ルチアが肩で息をしながら呟く。
「奴はいったい、中でなにをしてるんだ」
彗はルチアと顔を見合わせ、嫌々ながら再度、突入を試みる。
一度扉を解放したせいか、最初に刺激臭を嗅いだときよりはましだった。
だが部屋の中を一目見て、彗は二の足を踏んだ。
なに、この汚部屋。
そうとしか言いようもない。
大量の本、大量の壺、大量の実験器具らしきものと謎の標本。
乾燥した植物が壁から下がり、動物の剥製や骸骨が無造作に転がっている。
他にも、汚れた食器や悪臭の漂う布、得体のしれない置物に、アレやソレ。
まともな家具と言えば、実験台らしき机だけ。それも机上は乱雑に散らかっている。
アレイストは長い黒のマントを羽織った姿で、彗とルチアに背を向けて立っていた。
机の前に立ち、熱心に作業に打ち込んでいる。
ルチアが呼びかけて、足を踏み入れる。
「アレイスト、おまえなにをやっている」
無視するかと思いきや、アレイストはすぐに反応し、ルチアを見て答えた。
「ルチア。ねぇ見てよ、これ。すごく珍しくて面白いんだ」
「珍しくて、面白い?」
ルチアは俄かに興味を引かれた様子で、アレイストの手元を覗き込む。
アレイストがなにかを手に持ち、それをルチアに触らせる。
ルチアが指で突く。パコッ、と軽い音が響く。
「柔らかい。それになんて透明度だ。確かに、珍しいな。なんだこれは」
別に珍しくない。耳になじんでいる音だ。
音に引かれて、トコトコと二人に近寄った。アレイストの手の中をひょいと覗く。
彗は言った。
「ただのペットボトルです」