2 枕と悪魔のように美しい男
『……ごもっともです』
『……お詫び申し上げるより』
『殿下の……』
『それにつきましてはご再考を……』
大勢のひそひそ声が途切れがちに聞こえる。
まだ夢現の最中、安眠を妨げられて彗はちょっぴり不機嫌だった。そこで一言文句を言ってやろうと思ったのに、うまく息ができない。まるで陸揚げされた魚のようだ。
な、んで、こんな、に、苦しい、ん、だろう……。
彗はかつて味わったことのない頭痛に見舞われながら寝がえりを打とうとして、身体がいうことをきかないことに気づいた。手足が重く、とてもだるい。
横になったままうとうとする。頭がズキズキし、思考に靄がかかっていてまともに物が考えられない。それに身体全身が鉛になったみたいだ。
しばらくじっとして瞼をのろのろと持ち上げる。
「……?」
見覚えのないアーチ型の天井が見えた。訝しく思いながら人の気配を感じてそちらを向く。
勘解由がいた。
隣のベッドに静かに横たわっている。深く眠っているのかピクリとも動かない。
彗がホッとするも束の間、不意に黒ずくめの人影が現れて無造作に勘解由に近づき、おもむろに覆い被さった。シュナイダーではない。背恰好からして別の大人の男性だ。
――勘解由が襲われる!
彗はカッとなり、自分の体調の悪さも忘れて無理矢理起き上がると、咄嗟に手近にあった枕を掴み投げつけた。
バフッ。
宙を飛んだ枕は屈んでいる男性の頭部に見事命中した。
「……う……お、と……に、さ……な……で……っ」
うちの弟に触らないで!
変なことしたら許さないんだから、と彗はか細い声で精一杯の怒気をあらわに言った。
枕をぶつけられた男性はゆっくりと頭を擡げて身体を起こし、金色の美しい双眸を瞠ってきょとんとした顔で彗と枕をしげしげと見比べた。
彗も瞳孔を見開いた。
胸元に流れる括った黒髪、一度見たら決して忘れられない虎のような迫力の金色の眼と、なによりも父シュナイダーを凌ぐ絶世の美貌に、思わず息を呑み見惚れてしまう。
ただそれもほんの数秒で、ハッと我に返る。
生まれたときからシュナイダーの(無駄に)整った顔を見て育った彗に美形のキラキラビーム攻撃はほぼ効かない。顔面偏差値が高いというだけの理由で簡単にノックアウトはされないのだ。
彗はゼイゼイと息切れしつつ、金眼の男をキッと睨みつける。
「かげ……ら、はな……て……!」
勘解由から離れて! と威嚇したつもりです。全部言葉になってないけど。
男は答えない。ただ枕を腕に持ったまま、はっきりと強い興味を抱いた眼で彗を見返している。
この緊迫した空気を破ったのは、第三者の声だった。
『なんてことだ……』
『大変だ……!』
『これはまた面倒な……いや、重大な局面に立ち合ったものだな』
彗はびっくりした。
いままで気づかなかったが部屋の隅には十数名の見知らぬ大人が額を集めてシュナイダーを取り囲んでいる。
皆、古めかしくも立派な恰好で、フリル付きのブラウスや銀刺繍入りの上着、ぴったりした細身のズボン、床まで届くほどの長いマント、優美な形のブーツ、他にもケープ付きの重厚なコートやウェストを絞った短い外衣、ポンチョに似た半袖の服、革製のベストなどを着用し、中には剣を帯びている者さえいて、パッと見では貴族や騎士、学者や賢者、司祭や執政者のようだ。
えーと。皆まとめてどちらさまですか?
彼らはその場に釘づけになり、彗に視線を集中させ唖然としている。
ややあって口々に騒ぎ始めた。
『うへぇー。おいおいおい、いまの見たか? 畏れ多くも黒の公子に枕を投げつけたぞ!』
『前代未聞だな。大胆不敵な性格はお血筋かね? こりゃあますます先がわからなくなった』
『しかし公子はいかがされるのでしょうな?』
『それは無論……ごにょごにょ……アレをナニして……如何せん、お相手がお相手ゆえに……』
『待たれよ。方々、これは由々しき問題ですぞ。まずは陛下にご報告の上で――』
ざわざわと好き勝手なことを喋りまくる彼らをシュナイダーが手で押し退けた。シュナイダーだけがシャツにジャケット、チノパンにデッキシューズという現代人の服装で、彼らとはまるで毛色が違い明らかに周囲から浮いている。
シュナイダーは某有名映画のゾンビさながら顔面蒼白、プルプルと震えて「ひいいい」と雄叫びを放った。両手は自分の頭を鷲掴みにし、眼には滂沱の涙だ。
「いーやーだーあああああああああっ。き、き、ぐはっ。きゅう、こん、なんて早すぎるううううううううう! おと、おとっ、お父さんは許しませんよっ。いくら可愛い娘の彗ちゃんのお願いでも今度ばかりは絶対に、ぜーったいにだめです!! 反対、反対、断固はんたーい!」
彗の元へ飛んできて身も世もなく号泣するシュナイダーを「どうどう」と手振りで宥めながら、彗は声を絞り出して訊いた。
「き……こん?」
球根が早いって意味不明です。
シュナイダーはなにを思ったのか床に正座し、しくしくと泣きじゃくる。
「お父さんの眼の前できゅう、こん。ひっく。彗ちゃんが、ううう、ひっく。彗ちゃんが、こんな過激なことをするなんて」
過激なことってなんだろう。球根がなに? なんの球根?
「うあああああああっ。彗ちゃんが、うちの賢いしっかり者の彗ちゃんが、こんなに簡単に誑かされるなんてー。魔性の魅惑にやられるなんてー。お父さんは悲しいです! えぐえぐえぐぐ」
「ぐ」が一つ多いよ、と余計な突っ込みをしながら彗は内心で首を捻った。
誑かされる? 魔性の魅惑? やられるって、私がなにに? 球根となんの関係があるの?
と、幾つも問い質したいのに声が出せず、すらすらと喋れないのが辛い。
シュナイダーは床に突っ伏してなぜか「要さん、ごめんなさいいいいいいぃぃぃ」と亡き母に謝り倒している。
そして気がつけば、黒髪金眼の際立って見目よい男が彗のすぐ傍に立っていた。
眼が合って、ニコッと微笑まれる。
体形からして間違いなく男性だが顔だけ見れば中性的で、女性と見紛うくらい優しげだ。人懐こそうな笑みを浮かべているものの、どこか人間離れした雰囲気を漂わせ、独特の甘い色気がある。
すごくモテそう……、と彗は思った。
切れ長の瞳は謎めいた光をたたえ金色に妖しくきらめき、縁取る睫は長く悩ましげで、滑舌のよさそうな唇は薄くて形がいい。鼻は高く、白皙で、対照的に結わえた髪は月のない闇夜そのものに通じるほど純粋に黒くて艶やかだ。
美形に免疫のある彗でさえ一瞬クラッときたほどの類い稀な美貌に加えてスタイルも抜群によく、均整のとれた痩身の八頭身で、足が長く、背筋がスッと伸びた姿勢もいい。
見れば見るほど美しく、世の中には眼に毒な男の人もいるんだな、と彗は妙に納得してしまった。
『はい』
と言って、色気過多な魅了の微笑を浮かべ、彼は持っていた枕を彗に差し出した。
彗は無言で枕を取り返す。視線は外さない。なんとなく眼を逸らしたら負けのような気がする。特にいま、初対面の相手の感情がまったく読めない不気味な場合は。
知らない人にむやみに近づいてはいけないよ、と祖母の教えの警鐘が耳の奥で鳴り響いている。
……誰なんだろう、この人。
不審のまなざしを向けると、彼の高揚した金色の双眸が彗の眼をじっと見据える。
『ふふっ。いい眼をしているなぁ。善良そうできれいな、つい苛めたくなるようなつぶらな瞳だ』
なんとなく身の危険を覚えるような不穏な独り言を漏らした後、彼は親切を気取って言った。
『ねぇ君、知ってる? この国で最も伝統的で人気の高い求婚の一つに枕贈りという作法があって、結婚を申し込む際に枕を手渡すんだ。一生ベッドを共にしてくださいという意味で、手渡された相手が受け取った枕をそのまま贈り主に返したら、結婚を承諾したことになるんだよ』
はい?
言われたことがすぐには理解できなかった。
……けっこん? え、結婚!?
このときの彗の心理描写を例えるなら、極寒の地でブリザードに見舞われた不運な遭難者だ。
現実には衝撃的すぎて言葉を失い、カチンと凍りつく。
彼は固唾を呑んで硬直する彗を愉快そうに見つめながら、長い指で枕を示して続けた。
『中でも相手に枕を投げつけるのは、あなたのことが大好きで堪らないのでどうか生涯の伴侶になってください、って熱烈な求愛行動で、いま君は僕にそれをしたわけ』
ねつれつなきゅうあいこうどう、ってなんですか。
彗はつい先ほど自分が取った行為を省みて、顔からザーっと血の気が引いた。
枕を投げつけるのが求愛!?
じゃあお父さんが叫んでいた「きゅうこん」って「球根」じゃなくてまさかの「求婚」!? 求婚!? 私がこの人に!?
大声で「ちがーう!」と反論したかった彗だが、息を大きく吸った瞬間に唾が気管に入り猛烈に噎せた。
「げーほ、げほっ! げーほ、げほっ」
『大丈夫?』
大丈夫じゃ、ないっ。
喉が痛い。一呼吸ごとに胸が焼けるように苦しい。咳き込むたびに頭痛もする。なぜ?
彼はベッドの縁に優雅に腰かけると彗の顔を下から覗き込み、上目遣いでにっこりする。
『君って珍しいよ。すごく珍しい。大抵の人間は僕を敬遠しがちなのに、僕がこんなに近づいても逃げも隠れも怖がりもしないなんて勇者だ。僕のことをまったく知らないとはいえさあ、この容姿に惑わされる気配もなければちっとも動じないなんて、図太い神経の女の子だねぇ。あ、怒った。いま図太い言うな! って思ったでしょ? あたり? ふふっ。面白い』
こっちは全然面白くないよ、と彗は眼を尖らせた。からかわれているようで気分が悪い。
体調も機嫌も悪化の一途を辿る彗とは真逆に彼は溌剌と瞳を明るくし、笑みを深くする。
『……見た目は大人しそうなのに骨のありそうな手強い感じが、さすがはシュナの娘だなぁ。ははっ、感心するよ』
まったく褒められている気がしない。それどころか彼の屈託ない笑顔がどうにも胡散臭く見えてしまい、彗は本能的に心の距離を置いた。
この人、ちょっと危険かも。
擦り寄るような甘えた瞳に獲物を狙う捕食者特有の鋭い光が宿っていて、ぞくっとする。
彼は軽く手を結び、微かに怯える彗を食い入るように凝視しながら喜悦の声を上げた。
『――いいね。君、すごくいいよ。君のこと、もっと詳しく知りたいな。ふふふ。ぜひとも骨の髄まで仲よくなりたい』
怖いよ!!
彗は蒼褪めた顔でフルフルと首を横に振った。精一杯の拒否だ。目指せ、ノーと言える日本人!
口で言わなくてもジェスチャーで気持ちは通じるはず。っていうか、通じてほしい!!
残念、通じませんでした。
彼は意に介さず、しなやかな指で前髪を掻き上げ、いかにも浮かれた調子で勝手に話を進める。
『僕、求愛されたのは生まれて初めてだ。こんなにドキドキするものなんだね。胸の奥から新鮮な感情が湧いてきて興奮するよ。これは未知の経験だな。日記に書いておこう』
ガクッ、と一気に脱力する。
書くんだ、日記に。
……日記なんて書くようなまめな人には見えないんだけどなあ。
と、だいぶ失礼な(どうでもいい)ことを考えていた彗の隙をついて、彼が唐突に冷水を浴びせる。
『さて、枕は返したけど、一応はっきり言っておこうかな。君は異世界出身で色々と興味深いし、君と付き合うのは退屈しなさそうだ。なにより、僕は君が気に入った。以上の理由で枕贈りの求婚、僕は喜んで受けるよ』
私はお断りです!!
油断していたところに特攻されて身が竦む。声を絞り出そうにも掠れた喘鳴しか出ないので、心の中で必死に叫ぶあまり彗はもう涙眼だ。
『あっはっはっは! 泣くほど感動するなんて純情だなぁ。そんなに僕が欲しかった?』
彗がかぶりを振ると、彼はクッと笑い、より一層破顔した。細めた眼で一瞥される。憎らしいことにものすごく色っぽい。
『恥ずかしがらなくてもいいのに。まさか本気で嫌がっているわけじゃないよね? もっとも、反論があるにしてもちょっと手遅れかな。だってもう枕の返納も済んじゃったしねぇ』
枕!
枕が恨めしい。枕に罪はないけど。安眠のための必須アイテムが求婚のための凶悪アイテムになるなんて夢にも思わなかった。どうしよう。
彗の動揺をよそに彼は意気揚々と言葉を継ぐ。
『君に優しくしてあげる。この世界で過ごす時間が君にとって有意義なものになるように僕が協力してあげよう。どう、嬉しい?』
嬉しくない!
誤解なのに、喋れないから否定もできず、誤解が解ける前に話がどんどんこじれていく。
「げほっ、ごほっ」
彗は咳き込みながら、もどかしさと苦しさと不安のあまりポロポロ泣いた。
彼は自分の腿の上に頬杖をついて涼しく微笑み、鬼畜な発言を堂々とする。
『女の子の涙って見てて飽きないよねぇ。もっと泣かせたくなるよ。可愛いなあ。僕、結婚なんて一度も真面目に考えたことなかったけど、君みたいな感情表現が豊かでつつくと面白そうな女の子を奥さんに迎えて家族になれるなら、悪くないかも。ふふっ。毎日が楽しくなりそうだ』
全力で拒みたい彗の心中を察することなく頼みの綱のシュナイダーは卒倒してピクピクと痙攣している。うわごとで漏らすセリフは彗にしてみれば不本意も甚だしいもので聞くに堪えない。
「す、彗ちゃんが、俺の可愛い娘が、きゅ、求愛、男に、きゅうあいいいいいいい」
してないってば!!
彗は最終抗弁を試みようにも酸素不足な金魚状態で口が利けない。
これ、絶対、変。呼吸器系がおかしい。でも頭も痛いから脳の異常? それとも知らない間に毒でも盛られたのだろうか?
とにかくこの窮地に絶不調だ。
彗は悔し涙で頬を濡らしながらコロンとベッドに転がる。
彼は無遠慮にもベッドの縁に座ったまま後ろ手をつき、ちょっと身体を捩って不思議そうな眼で彗を眺めつつ言った。
『……人が親切で優しくしてあげるって言ってるのに、どうして余計に泣くかなあ。涙と鼻水でクシャクシャの顔もみっともなくて見物だけど、泣きっぱなしは疲れない? あんまり体力消耗すると回復も遅れる――』
そこでふと、彼は口を噤んだ。ややあって喋り始める。
『あれっ……待てよ。今更だけど、言葉わかる? 僕の話、通じてる? 君の態度からして通じていると思ったんだけど、もしかして通じてない? そういえば最初、異国語を喋っていたっけ……やれやれ、こっちの言葉ぐらいシュナが教えていると思ったのになぁ』
彗は身動ぎしなかった。
ふと、彼が悪戯を仕掛ける顔で笑う。
『意志の疎通が取れないとは参ったねぇ。よし、口で伝えられないなら態度で伝えてみようか』
そして品のある動作で片手を持ち上げ、掌に彗の髪を一房恭しく掬って唇を押しあてた。
『……もう泣かないで、可愛い人。これからしばらく、よろしくね?』
満足げに軽い口調で彼が言う。
なんだか別の意味でも泣きそうだ。
どうしてこんなおかしなことになったのかな。誰か教えてくれないかな。
反応のない彗のどこがツボだったのか彼はクスクス笑いながら間断なく続ける。
『ふふ。今日のところはこれで我慢しておこうか。やりすぎて嫌われてもつまらないしね。言葉が通じないのはお互い困るけど、枕贈りの目撃証人はいっぱいいるから周知の仲になるのも時間の問題かな? とりあえず、僕らめでたく婚約成立ということで。ああそうだ、忘れないうちに訊いておかないと。王女のお名前は? シュナはスイって呼んでいたけど、スイでいいの?』
聞き流してしまいたかったのに、彼が紡いだ突拍子もない一語のせいで思考回路が停止した。
彗はぼんやりと反芻する。
……おうじょ?
とうとう聴覚が狂ったのかもしれない。
少し動くのも億劫だったが、彗は重い手を浮かせてトントン、と耳を小突く。
おうじょって、王女? 王様の娘か王族の姫君の呼称の? なんでいきなり王女?
脈絡のない発言に戸惑う彗の前で、彼は親指で自分の胸を指し、次に彗を指した。
『僕はアレイスト・ダディエス。君の名は?』
ふう、っと俄かに気が遠くなる。人生二度目の失神だ。
意識が急速に深淵に沈む。そのため彗は訊き損ねてしまった。
――王女って誰のことですか。