1 朝っぱらから家(うち)ごと異世界強制帰還
如月彗の朝は忙しい。
起床して動きやすい恰好に着替えると(今朝はブルージーンズと七分袖の黒いカットソー)洗顔後すぐにモップで階段と玄関、キッチンを床掃除し、エプロンをつけて朝食の支度にとりかかる。
如月家の朝の食卓は和食で、基本はごはんとお味噌汁だ。今日は油揚げとキャベツの味噌汁を作り、おかずは昨夜の残り物と挽き肉とナスの味噌炒めにきんぴらごぼう、トマトとアボガドのサラダだ。
彗は炊飯ジャーの蓋を開けて、しゃもじで炊き立てのご飯をよそい、まず神棚と仏壇にごはんと水を上げて手を合わせた。
「お母さん、おばあちゃん、おじいちゃん、今日も一日皆をお守りください」
彗が祈るのは家内安全と家族の健康、六年前から願いはこれ一筋だ。
並行して父と自分の分のお弁当を拵える。勘解由は学校給食が出るが、彗の通う高校に食堂はないので必然的にお弁当を持って行くか購買でパンを買うしかない。父は仕出し弁当や外食をあまり好まないので、母が健在だったときからずっと昼食は家から持参し、母が亡くなってからは彗が作っている。一つ作るも二つ作るも同じなので、節約も兼ねてお昼はお弁当だ。
彗が二つのお弁当袋の紐を締めると、早朝トレーニングに出ていた勘解由が帰って来た。
「ただいま」
勘解由は今年の春、難関中の難関と評される全国でも指折りの進学校である私立慶陵大付属中学校に首席で入学し、新入生代表の挨拶をそつなくこなした(家に一番近いから、という理由で高校を選んだ彗は自分の合格よりも弟の合格を喜んだぐらいだ)。
そしてこの秋には一年生ながら生徒会の書記に抜擢された。
「すごいね、勘解由。おめでとう! お赤飯炊く!? それともケーキ焼こうか!?」
彗が手を叩いて褒め称えても勘解由の反応はなんとも冷めていた。
制服の濃紺のネクタイに細い指をかけて解きながら、むっつりとした仏頂面で言う。
「別に。すごくないし、おめでたくもない。担任と生徒会長に頼まれて断れなかったから仕方なくやるんだ。本当はそんな余分な仕事に費やす時間があったらトレーニングの量を増やすか、もっと『向こう』のことを勉強したい。まあ、『こっち』にいる間は学歴も重要だから適当にはしないけど」
「じゃあ、お赤飯とケーキはいらない?」
「いる。……だって姉さんが俺のために作ってくれるんだろ? そんなの絶対、食うに決まってる」
これだから、この弟は可愛い!
彗はにちゃーと笑って勘解由の頭を「よしよし」と撫でた。勘解由は眼を細めてじっとしている。子供扱いを嫌う勘解由だが、彗の手を無下に振り払うことはしない。
勘解由は一三歳になり、すくすく伸びて身長は既に一六五センチある彗とほぼ変わらない。母譲りの意志のしっかりした頑固そうな眼と負けん気の強い気性、父譲りの甘く繊細な人好きのする顔は残念ながら愛想が乏しく、自他共に認めるほどポーカーフェイスが板についている。勘解由は近所では有名な『笑わない王子』だ(でもこの二つ名で呼んだら完全に無視される)。
その勘解由が日課にしていることの一つが早朝トレーニングで、たとえ大雨でも欠かさない。身体を鍛え、強さを磨き、心身ともにタフになることを目標に日々努力しているのだ。
「おかえり。先にシャワー浴びちゃって。お父さん起こしてくるから、一緒にごはん食べるよ」
父シュナイダーのモデルの仕事は時間帯が不規則なこともあり、力仕事を除いて家事は主に彗がこなしている。
「お父さん、起きて。朝ごはん出来たよー」
寝起きのよくない父を揺すり起し、携帯のメールとスケジュール帳を捲って予定に変更がないことを確認してから外出着を用意する。
今日はスリムタイプの黒と青のストライプシャツにボリオリのアイスブルーのジャケット、ラルフローレンのベージュのチノパンを合わせて、靴はどうしようかと考える。
焦げ茶のデッキシューズかベージュのスエード靴か。
色を無難に統一する点ではスエード靴が勝ちだが、どうもカジュアルすぎるような気がする。その点、デッキシューズは色を外してもシックに見える。
彗が玄関先で悩んでいるとシャワーから上がった勘解由と寝室から降りてきたシュナイダーが鉢合わせた。
勘解由は上半身裸にスウェットの下だけを穿いて、バスタオルを首からかけた姿でシュナイダーの全身を眺め、ぼそりと一言呟く。
「茶」
彗が訊かなくても察しのいい勘解由はお見通しなのだ。
やっぱりデッキシューズにしよう。
「だよね。お父さん、出かけるときの靴、ここに出しておくから」
「ふわあ……うん、いつもありがとう、彗ちゃん。顔洗ってくるねー」
眼を擦り、大欠伸をしながらシュナイダーが洗面所に入っていく。
モデルなんて見た目重視の華やかな仕事をしている割に父は外見に無頓着で、よほどの場合でなければ服装にはこだわらない。仮にも容姿を商売道具にしているのだから、あまりに野暮な恰好はだめだと亡き母は言い、苦心してコーディネートしていた。いまその役目は彗が引き受けている。
洗顔後、シュナイダーは神棚と仏壇に長々とお参りしてからダイニングテーブルについた。制服に着替えて先に席についていた勘解由とエプロンを外した彗も声を合わせる。
「いただきます」
食事はできるだけ家族全員揃っていただく、が如月家のモットーだ。
「今日のごはんもおいしいよ、彗ちゃん。くーっ、娘の手作りごはんが毎日食べられるなんてお父さんは幸せ者だなあ。うっ……ここに要さんがいてくれたら、どんなに……っ」
ことあるごとにシュナイダーは亡き愛妻を想って涙ぐむ。
シュナイダーの涙を止められるのは娘か息子のどちらかだけで、彗がちらりと勘解由を窺うと、勘解由は無視してひたすら箸を進めている。美しい箸使いは祖母の指導の賜物だ。
彗は勘解由のようにシュナイダーを放置プレイすることはできず、適当に慰める。
「はいはい、泣かないでね。今日は午前中に撮影があるんでしょ? 瞼を腫らしたりしたらまたマネージャーの天野さんに叱られちゃうよ?」
「ううう、要さん、要さん、要さん……どうして、なんで、俺を置いて一人で逝っちゃったのー」
聞いてない。
彗はめそめそしながら白米を口に運ぶシュナイダーに向かい微笑んで、声を一段低く落とした。
「泣・か・な・い・の」
ぴたっ、と泣き止む父の涙腺構造は一体どうなっているのか。
シュナイダーは左手にごはんの茶碗、右手に箸を持ったまま、うっとりと彗を見つめる。
「そうやって笑顔で凄んで叱りつける癖なんて、愛しの要さんに瓜二つ! あーなんて可愛いんだろう、俺の彗ちゃんは! あ、もちろん、勘解由君も可愛いからねっ。自慢の息子だから!」
勘解由の眼は「朝から鬱陶しい」と如実に訴えていたが、口に出してはこう言った。
「……わかったから、黙って食えよ。味噌汁が冷めたらもったいないだろ」
彗は勘解由に訊いた(弟は味噌汁にはちょっとうるさいのだ)。
「お味噌汁、おいしい?」
勘解由はやや傾けた茶碗の縁越しに、値千金の微笑みを浮かべて言った。
「すごくうまい。できれば一生食いたいぐらい」
勘解由の優しい澄んだ瞳が彗を見つめる。
彗が口を利くより先にシュナイダーが「ぶほっ」と吹いてかしましく喚く。
「それ一三歳のセリフじゃないよ、勘解由君!」
うん、姉さんもそう思います。
彗とシュナイダーが焦ってみせても当の勘解由は平然としたもので、しれっと言い返す。
「いいだろ、別に。本当のことなんだから。ああでも、姉さんが嫁にいったら食えなくなるか」
シュナイダーはぎょぎょっと眼を剥いた。手からポロッと箸が落ちてテーブルに転がる。
「嫁ですと!? ななななな、なんて不吉な! ぜーったいに許しませんよ、お父さんは! うちの彗ちゃんは当分嫁にはやりませんっ。お父さんの大事な大事な大事な大事な宝物、要さんの大切な忘れ形見の彗ちゃんをそんじょそこらの男に渡すなんて、ちょっと考えるだけでも嫌すぎるー!!」
シュナイダーの血を吐くような心の叫びに勘解由がトマトを頬張りながら冷静に応じる。
「賛成。俺も姉さんの味噌汁を変な男に食わせたくない。ってか、食わせてやらない」
「勘解由君っ。さすが俺の息子、よくわかってる! うんうん、お父さんと一緒に悪い狼共から彗ちゃんを守ろうねぇ。名付けて、『彗ちゃんを守り隊』!! どうかな!?」
「とりあえず、殴っていいか」
「なんで!?」
朝からどうしてこんな濃い会話になったのか謎だが、彗は二人を宥めながら一笑した。
「心配しなくても、勘解由が一人前になるまではお嫁になんていきません。それに、お母さんからお父さんを頼まれているし、そうじゃなくたって私が寂しがり屋のお父さんを一人ぼっちにするわけないでしょ」
彗はごく当たり前のことを言っただけなのに、シュナイダーは感極まったようで眼を潤ませた。
「な、なんて父親思いの優しい娘なんだろう……! ううっ、お父さん冥利に尽きるなあ」
「おおげさ。だから泣いちゃだめだってば。ほら、早く食べないと遅刻するよ」
それからせっせとおかずを平らげ、食後のお茶を飲む。
最初に席を立ったのは勘解由だが、時間を見てすぐにシュナイダーも腰を上げる。
「ごちそうさまでした」
「食器は食洗機に入れてね」
「彗ちゃん、今日資源ゴミの日だよねぇ。お父さん、捨ててこようか?」
「大丈夫。お父さんは歯を磨いて支度して、もうすぐ天野さん迎えに来るよ。勘解由も私を待たなくていいから準備ができたら先に出て」
「途中まで一緒に行く」
昨日、近所で変質者を目撃したとの情報が耳に入っているので勘解由は心配しているのだ。
彗は空きペットボトル・缶・瓶を詰めたゴミ袋の口をギュッと結びながら言った。
「朝だから平気だよ」
「朝でも昼でも関係ない。帰りが少しでも遅くなるようなら呼んで、俺迎えに行くから」
「過保護すぎ」
「手遅れになるよりマシ」
勘解由の痛みを伴った一言に胸を突かれて「そうだね」と彗は相槌を打った。
六年前、誰にもどうにもできないことではあったが、発見が遅れたために母の要は搬送中の救急車の中で危篤状態となり、病院に到着後間もなく死亡が確認された。担当医師に、処置が早ければ或いは助かっていたかもしれない、と言われたところで後の祭りだった。
突然の別れを経験してしまうと、平穏な日々のありがたみをいやでも痛感するようになる。自然と家族の結束は深まり、互いを思いやりながら支え合い、平凡な日常に感謝することを覚えた。
家族が健康で幸せ。それが一番大事なこと。なにより守りたいものだ。
「ん、わかった。今日はスーパーの特売日だから買い物して帰るけど、遅くなったら連絡するね」
「荷物持ちするよ」
「生徒会の仕事は?」
「とっととやっつける」
彗は笑って頷き、片手に資源ゴミを詰めた袋をひょいと持ち玄関でサンダルをつっかけた。
勘解由は昔から優しく気遣いのできる子だったが、最近はとみに頼もしさを増したようだ。大人になったらさぞやいい男になるだろうなあ、と彗は姉として弟の将来が楽しみで仕方ない。
そんなことをつらつらと考えながら彗は玄関扉をグッと押し開けて表に出た。ところが。
「え」
地面がなかった。
もう一度言おう。
地面がなかった。
成す術もなく彗はバランスを崩した状態で空中に放り出され、真っ逆さまに落下した。
「きゃああああああああああああああ」
「姉さん!?」
「彗ちゃん!」
勘解由とシュナイダーの甲走った喚声は彗には届かなかった。
突然の出来事に恐怖を感じる間もなく、よく世間で言われるように死の間際に走馬灯が駆け巡る余裕もない。なにが起こったのか理解に足らず、ただただ、パニックだ。
彗は資源ゴミの入った袋を手に掴んだまま弾丸のようにまっすぐに空気を切り裂いて落ちていった。途中でゴミ袋は吹っ飛んだ。すごい風圧でまともに眼を開けていられなかったが、ぐんぐんと迫る地面と異様な光景に注意を奪われる。
複雑な文字のような文様のような形をした夥しい数の青白い炎がゆらめきながら大きな真円を描いて、真っ黒い地面を燃やしている。いままで一度も見たことがない怪奇現象だ。
その周囲には空を指差し見るからに血相を変えて取り乱す十数人の人間がいた。
そして地表はもう間近に迫っていた。
――激突する。
彗は眼を瞑った。死ぬんだな、と漠然と思った。
完全に瞼を閉じる一瞬前、視界に映ったのは、長い黒髪を束ねて胸に垂らし、曙光を凝縮したような金色の眼の悪魔のように美しい男が彗に向けて両腕を差し出したところだった。
次回は3月3日更新です。