アマデウスとテオドールがすし詰め電車からの脱出を図ったとき
「どうしよう。どうすればいい?」
アマデウスがテオドールに向かって叫ぶ。叫ばなければならないほどすし詰め電車は騒がしかった。泣き喚く者もいれば、早くも立ち直ってすし詰め電車の扉から出ようと体当たりを試みる者もいる。
テオドールはつぶやく。
「扉が壊れる前にぼくたちは凍え死んでしまう」
「じゃあどうすればいい!」
アマデウスがまた叫ぶ。テオドールは胸元に抱いたレオノーラ入りの宝石箱をぎゅっと握り、目を閉じて考えた。扉は電車がすし詰めであるせいか壊しにくい。体格のいい鼠たちが交互にぶつかっているのだが、これではテオドールの言う通り、間に合わない。それくらい寒さは厳しい。冷静に振る舞うテオドールだって、歯の根が合っていない。
「冷凍装置を壊すのが先だ。アマデウス、手伝ってくれ」
テオドールはアマデウスを連れ、すし詰め電車内を移動した。扉を壊すために鼠たちの波はうまく動いた。流されながらもテオドールは天井を見詰める。彼の歯ががちがちと歯が鳴っているのを、アマデウスは絶望的な目で見た。腕力でも知力でも自分に勝るテオドールが窮地に追いやられているのを見て、もうおしまいなのかもしれないと思った。
しかしテオドールは希望を捨てていなかった。胸に抱くレオノーラとそのお腹の子は彼の希望そのものだ。彼らがいる限り彼は死ぬつもりはなかった。
「あった」
そうつぶやいたテオドールは、いきなりアマデウスの背中に登った。アマデウスはぎょっとしたものの、慌てて体に力を入れてテオドールを支えた。
テオドールは天井にある小さな蓋を、無理矢理こじ開けた。そのまま片手の指でまさぐる。アマデウスは何が起きているかわからなかったがとにかく我慢した。
「これだ」
テオドールは何か導線のようなものを引きちぎった。途端にすし詰め電車の灯りが全て消え、電車もとまった。鼠たちは動きをとめ、再びパニックになる。
「大丈夫だ。電気系統を一時的にとめただけだから」
テオドールが大きな声で全ての鼠に宣言した。
「本当か?」
誰かが問うのでテオドールはうなずいた。
「本当だ。もうすぐまた暖かくなる。でも電気系統はまた復旧するに違いないから、早く扉か窓を壊さないと」
鼠たちが慌てて扉の破壊にかかった。何度も何度もぶつかるが、どうやら鍵がかかっていたらしいドアはなかなか開かない。
「ぼくにちょっと任せてくれ」
テオドールが叫んで扉の一つの前に出た。既にテオドールを信用している鼠たちは彼のすることをじっと見守る。
テオドールは扉の枠にある穴をいじっていた。十分、二十分と時間が経っていく。その間にすし詰め電車内は鼠たちの体温で少しずつ暖かくなっていった。
がちん、と音がした。途端にすうっと扉が開いた。草原が目の前に開ける。鼠たちは歓声を上げる。電車はとまっていたので窓の外の風景も変わることはない。少し遠くに都会の街が見えた。鼠たちはどっと外に出る。すし詰め電車は一気にすし詰めではなくなっていく。
「凄いな、テオドール。君はどうしてこんなことができるんだ?」
電車の外で草を踏みながらアマデウスがテオドールに訊く。すっかり余裕を取り戻したようだ。にこにこ笑っている。
テオドールは無表情に答える。
「ぼくは南にいたとき、機械工をしていたんだ」
「へえ! 道理で」
「元に戻れて嬉しい」
「じゃあどうして北に向かったんだ? 今とは逆に金持ちになれるからか?」
「今とは逆に」の一言は余計だったが、テオドールは寛容な気分だったので許した。アマデウスの場合、よくある失言だ。
「違う。レオノーラが北に向かったからだ」
またレオノーラか、とアマデウスは思う。
「女優時代から好きだったんだ。あのころのぼくはただのファンだったが。偶然レオノーラと知り合って、愛し合えたんだ。これほど嬉しいことはない」
外は明るい日差しに彩られ、緑の草木、青い空、白い街が際立って美しい。
「レオノーラは君にやるよ」
アマデウスが皮肉な笑みを浮かべる。
「君に似合いだ」
ひやりとした空気が、アマデウスとテオドールの間に流れた。アマデウスはまたやってしまったことに気づいたが、そのままその笑みを変えなかった。
「ぼくはまたすし詰め電車に乗ろう」
アマデウスが言うと、テオドールが冷ややかな声を出した。
「電車の電気系統は壊れたけれど、猫のことだ、新しい回路が動いてまた君を冷凍にするぞ」
「予想だろ?」
アマデウスが笑うと、テオドールは呆れたように彼を見る。しかし考え直したようにつぶやく。
「アマデウスが死のうが生きようが関係ないものな」
テオドールはアマデウスを置いて歩きだそうとした。そこではたと気づく。
宝石箱を電車内に忘れてしまった!
慌ててアマデウスを追い越して電車に乗る。宝石箱はドアから少し遠い場所に転がっている。走ってそれを正しく起こし、耳を当てる。
「レオノーラ?」
中からは安らかな寝息が聞こえてくる。
「大丈夫さ。あの女は頑丈だ」
アマデウスがゆったりと電車に乗り込んできた。最早電車内にはアマデウスとテオドールしかいない。
「あの女?」
テオドールが不快そうに顔をしかめる。
「レオノーラのことだ」
「もっと丁寧な言い方があるだろう」
「売女様とでも言えばいいのか?」
アマデウスはしまった、と思ったが遅かった。テオドールは宝石箱を床に置いてから、猛然と掴みかかってきた。わあ、とアマデウスは情けない声を上げる。
「もう許さないぞ」
胸ぐらを掴みながらテオドールは低い声でささやく。
「許せ! 許せ!」
アマデウスは自分とレオノーラとの子供のことが脳裏にあった。それでテオドールたちを冷ややかな目で見てしまうのだ。しかし自分のやり口が愚かだとはわかっているので、殴られるだろう、と予想した。
そのときだった。
「扉が閉まります」
機械の声が静かに宣言し、テオドールが宝石箱を手に持とうとする間に扉は閉じた。彼は青ざめている。
「何だ。もう直ったのか」
「何だじゃない」
「何を慌てて……」
「君はどこに行きたくて電車にまた乗ったんだ」
「え? そりゃあ故郷の村はもっと南だから……」
「この電車は君の故郷にはとまらない!」
「まさか!」
「猫の街まっしぐらだ。ぼくが電気系統をとめたから、別の回路が動き出した。だってぼくは導線を引きちぎったんだから、もう元の回路は使えないんだ」
「君がまたそれを壊せば……」
「君は猫の工学がどんなに進んでいるか知らないのか? これ以上はぼくの手に負えない。ぼくらは猫の街に行くしかないんだよ」
アマデウスはテオドールと同じ顔色になった。やっと事態の重さに気づいたらしい。
「この様子では冷凍装置だけは復活しないようだ。よかったな。ぼくらは生きて猫の胃袋に行ける」
テオドールが珍しい皮肉を言った。電車の窓からの風景はより華やかになっていく。
南へ行くほど裕福になれる。すなわち猫の文明のおこぼれが貰えるということだ。