アマデウスとテオドールがレオノーラを巡って言い争いを始めたとき
「レオノーラのことなんてね、ぼくは愛しちゃいないんだ」
アマデウスが低い声でつぶやく。テオドールは彼を目だけで見下ろした。頭頂の白い毛しか見えない。感情の見えないアマデウスに合わせて何の感情も込めずに訊く。
「じゃあ何で子供がいる?」
「単純だよ。お互い発情期だったんだ」
すし詰め電車で話すことじゃないな、と思いつつ、テオドールは答える。
「獣じゃあるまいし」
「君は愛のためにレオノーラと子供を作ったんだものな」
アマデウスが鼻で笑う。テオドールは拳を握り締めた。
「鼠なんて皆獣さ。発情期が来たら誰彼構わず交尾する。そうやって子孫を残してきたんだから」
「生物としての鼠はそうだろうさ。でも鼠というのは文明を持った知的な生き物だ。獣らしい生き方にも限度があると思うがね」
「鼠によって野生的な部分と知性的な部分の割合が違うだろ。例えばレオノーラ。あの女は百パーセント獣だぞ」
言い終わった瞬間、アマデウスはこもったうめき声を上げ、倒れそうになった。嘔吐しそうなくらい胃が痛い。テオドールがみぞおちを殴ったのだ。
「何をする」
アマデウスが言い終わる暇もなくテオドールが掴みかかってきた。すし詰めだった電車で、わずかに彼らの周りだけ隙間ができた。アマデウスには不幸だが、テオドールには幸いなことに、テオドールがアマデウスを殴りやすくなった。みぞおちを拳でもう一度殴り、前に倒れかかったその頬を殴り、よろけたところで足を払った。すし詰めであるため、アマデウスは床に倒れられはしない。周りの鼠たちに寄りかかるだけだ。テオドールがアマデウスの胸ぐらを掴むころには、アマデウスはやり返す気力さえ失って口の中の血を舐めていた。
「やめとけ」
先程の茶色い鼠がテオドールの後ろから言った。テオドールは左腕にレオノーラの入った宝石箱を抱え、右腕は振りかぶっている。
「迷惑だからよ。皆疲れてんだ。お前らの薄汚え身の上話も、お前らの喧嘩も、皆やめてほしいと思ってんだよ。自分らの人生でいっぱいいっぱいなのに他人のごたごたに巻き込まれる。迷惑この上ねえよ。すし詰め電車ではいつ何時何が起こるかわかんねえってのに」
テオドールは右腕を下げ、宝石箱を抱え直した。アマデウスをにらみつけながら。アマデウスは他人でできた壁に寄りかかったままぼんやりとテオドールの足下を見ていたが、やがて痛みをこらえるようにゆっくりと立ち上がった。そこだけ円く開けていた場所は、いつの間に鼠たちで満ち、元通りすし詰めに戻った。無論アマデウスはテオドールの隣だ。テオドールの毛が逆立っているのを感じたアマデウスは、身に危険を感じたもののどうしようもなかった。
二人は無言で立っていた。時間が過ぎていく。電車の中に射す光が弱くなり、何時間かするとまた強くなる。一日が経ったのだ。
「変だな」
アマデウスが久々につぶやいた一言目はそれだった。
「寒い」
アマデウスは自分が弱っているから寒いのだろうと思っていたが、テオドールも同じく寒さに気づいていた。そのまま無言で耐えていると、寒さは更に酷くなり、耐え難いほどになった。すし詰め電車内がざわめき始めた。テオドールの後ろの茶色い鼠がつぶやいた。
「新しい手だな」
常客全員が耳を澄ます。
「猫どもめ、おれたちを逃がさないよう凍らせるつもりだ。おい、そろそろ脱出準備に入ったほうがいいぞ」
一瞬、静かになった。だが次にはパニックが電車内を支配した。