すし詰めになりつつある車内でアマデウスが話しテオドールの疑惑が強まるとき
「全く、ぼくの悪い予感が的中した」
アマデウスは忌々しそうに舌打ちした。テオドールはぼんやりと腹部を撫でている。
「猫の像が飾られた駅! 不吉ではないわけがないんだ。何しろぼくは……ぼくらは……」
「君だけだ。猫が怖いのは」
不意にテオドールが発言した。アマデウスは驚いた様子で彼を見た。
「君はたまに流暢にしゃべるよな!」
テオドールはまた黙り、ひたすら窓の外や鼠たちでひしめき合う車内を見つめている。透明なガラスのホーム。ぐったりとした様々な色の鼠たち。アマデウスばかりが元気だ。
「いや、ぼくだって猫は怖くない。ただぼくら鼠にとって猫は不吉の象徴だ。文化的に染みついた価値観でものを言ってるだけだ。決して原始的で野性的な感覚ではない。猫は怖くない。本当だ!」
アマデウスがぺちゃくちゃと話すのに、疲れきった乗客たちがうんざりしたような視線を送る。今に誰よりも疲れて立っていられなくなるぞ、とテオドールは思う。
それにしても、とテオドールは考える。電車は八両。その全てがほぼ満員。すし詰めまで三十五人。あと三日。日にちをかけてわざわざすし詰めにする理由は何だろう。
自分たちの旅の理由はわかっている。南へ南へと旅をすれば、過去の自分に戻れるからだ。アマデウスは小さな村の領主に、レオノーラは女優に、自分はただの鼠に。三人ともちょっとしたことで北へ北へと逃げたら全てが逆になってしまった。アマデウスは貧乏人に、レオノーラは無名のただの女に、自分は大富豪に。持ち重りのする財産が邪魔で仕方がない自分についてきた贅沢慣れした二人。南への旅をするにつれ、自分の財産は目減りし、アマデウスは小金持ちに、レオノーラは注目を浴びるようになってきた。不思議な南への旅。南には大いなるものがある。たくさんの鼠たちが死に物狂いで南に向かう。また別の鼠たちは必死で北へ逃げる。行ったり来たりだ。テオドールが思うに、南には多くの鼠の理想がある一方で危険があった。財産が、名誉が、自由があった。北は全くの逆で、望みのものが一つも手に入らない代わりに安全なのだった。奇妙な南への旅は、すし詰め電車を求める。まとまった鼠がある電車。
「で、思うんだ。領主に戻ればぼくは君に今までの借りを返せる。君が買ってくれた生活必需品や車のようなものの対価を支払える。ぼくは他人に借りがあるとむずむずするんだ。返さねば気が済まない」
相変わらずアマデウスが話していた。テオドールは彼をちらりと見て、ふとつぶやいた。
「君、もしかしてすし詰め電車に乗ることは命懸けなんじゃないかい」
アマデウスがきょとんと彼を見る。それからまた無能を見る目で笑う。
「すし詰めになるからって圧死することはないだろう。君は臆病だな」
「そういうことじゃない」
いつになく力強いテオドールの声に、アマデウスは戸惑う。一体こいつは何なんだ? 馬鹿だと思えばたまにしゃべる。その話し方が自分より知的にさえ思える。
「どういうことだ?」
「猫が心配だ」
アマデウスはそれを聞いた途端に吹き出した。何だ、こいつも自分と同じだ。
「怖いのか?」
「怖くはない。ただ命がかかってるという気がする。南には何がいるのか知っているだろう?」
アマデウスが怯えた目になってテオドールを見た。
「猫がいる。うじゃうじゃ」
「そうだ。猫がうじゃうじゃいる」
「でもぼくらは猫のいる地帯の手前に……ぼくの村もそこにあるし……」
「電車はどこに停まる?」
アマデウスがさっと青ざめた。隣の茶色い男に訊こうと彼を見ると、男はにやにや笑いながらアマデウスにチーズ臭い息を吹きかけた。
「猫のいる地帯のど真ん中に停まるさ」
「何だって!」
アマデウスが金切り声を上げると乗客は迷惑そうに彼を見た。テオドールはいつもの無表情で無口な彼に戻っている。
「猫がおれたちを料理する。それはもう楽しみに待っている。鼠は少ないよりまとまって来たほうが嬉しいだろ? だからすし詰めにしている」
「で、でも、ぼくたちは食べられるためにこの電車で窮屈な思いをすると? そんなこと……」
「手前でうまく逃げるさ。窓を破るなり何なりしてな。皆命懸けだ。過去の栄光の日々に戻るには何でもするさ」
男はにやにや笑い、またチーズをかじった。アマデウスは唇を震わせている。テオドールは宝石箱をしっかりと持ち、相変わらずぼんやりしている。
「テオドール……」
「大丈夫、レオノーラはぼくが守る」
「ぼくは?」
テオドールはアマデウスをちらと見る。
「君が守れ」
アマデウスが激昂して叫ぶ。
「車が大破したのは君のせいじゃないか。そのせいでぼくはこんな目に。運転していたのは君で……」
「酔っ払ってぼくが握っていたハンドルを切ったのは君で?」
テオドールが言うとアマデウスは黙った。気まずい空気が車内に流れる。
アマデウスがホームに降りた。
「ぼくはヒッチハイクで行く」
「お好きなように」
アマデウスは右手をテオドールにつき出す。
「レオノーラをよこせ。一人で行くのは嫌だ」
「やだね」
「何だって! レオノーラを最初に見つけたのはぼくだぞ。それを君は……」
「レオノーラは物じゃない」
「君がレオノーラに横恋慕してるのは知ってる。けど、彼女が愛しているのはぼくだぞ!」
アマデウスが怒鳴り、テオドールが不快そうに彼を見つめていたとき、団体客がどやどやとやって来た。あっけに取られたアマデウスはそのまま電車内のテオドールの隣に追いやられ、すし詰めになりつつある電車の外では青い制服を着た車掌が中の乗客を懸命にドアの内側に押し込んでいた。苦しい思いをしているアマデウスはテオドールの首元に自分の頭があることに気づき、自分より彼のほうが長身であることを思い知った。テオドールは涼しい顔で胸元に宝石箱を抱いている。ああ、結局危険な道を行くのか、とアマデウスは思う。でもヒッチハイクがもっと危険であるのはわかっていたので少しほっとしていた。テオドールが是非一緒に来てくれ、と言ってくれるのを待っていたのに、どうしてレオノーラのことを言ってしまったのか。
「電車がようやくすし詰めになりましたので発車いたします。繰り返します。電車がようやくすし詰めになりましたので発車いたします」
車内放送を聞きながら、テオドール、アマデウス、そして箱の中のレオノーラは互いの思惑をよそに、完全にくっつき合っていた。