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アマデウスとテオドールとレオノーラの車が大破したあと

「通信中……」

 携帯電話機を右耳に当てた黒いテオドールがつぶやいている。内臓が痛むらしく胃から腸の辺りを撫でたあと、肝臓を指で押して腎臓をてのひらで叩く。

「だからぼくは言ったんだよ、テオドールに車を運転させるなって」

 白いアマデウスがわめいている。手を使ったジェスチャー。規則的に足をタップ。

「わたしは電車に乗るからいいのよ。こんなの、ちょっとしたことだわ。テオドールを責めるほどのことじゃないわよ」

 灰色のレオノーラが歌うようにささやいている。小さな煙管に口をつけ、ふっと白い煙を吐く。煙の向こうに何かが見える。

「通信中……」

 テオドールがふとつぶやくと、アマデウスが毛の生えていない長い尻尾で彼の背中を打った。テオドールが心外そうに相手を見る。

「通信はもういいんだよ。車の修理は呼ばなくていい。レオノーラは電車で行くと言ってる」

 二人がレオノーラを見ると、彼女は豊富な体毛で膨らんだ体を藍色のラピスラズリでできた小さな宝石箱に体を押し込むところだった。灰を捨てた煙管を胸元に押しつけ、煙を吐きながら右てのひらをゆらゆら揺らす。

「わたしはすし詰め電車にはこれで行くわ」

「何を言ってるんだ。それって誰かが君を運ぶってことだぞ」

 アマデウスが叫ぶ。テオドールも困ったように携帯電話機をいじっている。

「だってすし詰め電車は嫌なのよ」

「ぼくだって嫌だ」

 アマデウスが言うとテオドールもうなずく。アマデウスはそれを尻尾で打つ。

「君のせいなんだから君はうなずくなよ」

 テオドールが視線を煙の向こうにやる。その間にレオノーラは藍色の蓋を閉じてしまった。

「二人が交代でわたしを運んでくれたらいいわ。よろしくね」

 拳大の宝石箱に収まったレオノーラが中からささやく。アマデウスが憤懣やる方ないと言わんばかりの表情で乳白色の大理石の床に置かれたそれを拾い上げた。早速テオドールに押しつける。

「君が全て悪い。君が持て」

 テオドールは困った顔をしたが、宝石箱はしっかりと抱き締めた。何しろ中にはレオノーラが入っている。

「すし詰め電車なんて初めてだよ」

 アマデウスが苛立たしげに足でタップを踏んだ。次第に辺りに巡らされたレオノーラの煙が晴れていく。

 三人が乗ってきた黄色いオープンカーが見えてきた。フロント部分が岩にぶつけたらしく潰れている。アマデウスとテオドールはそれを屋内からガラス越しに見ている。床は大理石だが建物は全て鉄骨と透明なガラスでできている。三人が中に入るときにはこの細長い建物の屋根にガラスの猫がいくつか飾られているのが見えたが、そのせいでアマデウスはこの建物に不安を抱いていた。ガラスが割れる、あるいは旅が失敗に終わる。何かがあるような不吉な予感がした。対してテオドールは美貌のレオノーラと旅ができることで完全に舞い上がっていた。不吉な予感など、自分が運転していた車を岩にぶつけたときすら抱かなかった。レオノーラはさざ波のように小さな感情の変化しか見せない女だったが、車が壊れても、すし詰め電車に乗るはめになっても、やはり小さな困惑しか持たなかった。

 しかし三人はそれぞれ違う感情を抱きながらも「旅をする」という目的だけは強く持っていた。「旅をする」。そうしなければならないと、三人はわかっていた。

 細長い廊下に立ち止まっているアマデウスとテオドールの周りにまばらに行くものがある。アマデウスは、意外にもすし詰め電車はすし詰めではないかもしれない、と考えた。それなら耐えられるかもしれないぞ、と。

 テオドールが宝石箱を抱えてアマデウスについてくる。アマデウスは廊下をぐるりと回り、緑色に塗られた鉄の電車が停まっているホームに降りた。何だ、ホームにだって他人の影がないじゃないか。アマデウスはテオドールを引き連れ、すし詰め電車に乗ろうとした。中は多少混んではいたが、立つことを我慢さえすればそれほど辛くはなさそうだった。

「なあ、テオドール」

 アマデウスは苛立ちを解き、テオドールを振り返る。テオドールは宝石箱を体毛に埋めている。

「さっきは悪かったよ。全ては君のせいだなんてさ」

 アマデウスは陽気に笑う。

「三人で旅をしてるんだ。仲良くしなきゃな。すし詰め電車も都会の駅で降りれば新しい車を買えるから悪くないよ。ちょっとの我慢だ。そうだろう?」

 テオドールはアマデウスの態度の変化に面食らいはしたものの、好意は持たなかった。彼は最初からレオノーラにしか興味がなかったのだ。口うるさいアマデウスはむしろ嫌いだった。

「すし詰め電車なんてさ……」

 アマデウスがそう続けたとき、車内放送が始まった。

「電車がすし詰めになるまであと三十五人です。あと三日お待ちください。繰り返します。電車がすし詰めになるまであと三十五人です。あと三日お待ちください」

「待てよ、三日?」

 アマデウスが呆然とつぶやいた。テオドールはますます宝石箱を強く抱く。

「三日って……」

「電車がすし詰めになるまで発車することはないよ」

 アマデウスの隣の吊革に掴まった茶色の男が忌々しそうに言った。

「全く、俺は十日待ってる」

 アマデウスは男の顔をまじまじと見、次に頭を抱えた。

「すし詰めになるまで発車しない? 一体どういう理由で?」

「知るかよ」

 男は非常食らしいチーズをかじった。発酵した食べ物の匂いが狭い車内に広がる。

「こんなに臭い電車にすし詰め。三日。ただでさえ鼠臭いのに」

 アマデウスが絶望した様子で独り言を言うと、テオドールがちらりと彼を見た。男は呆れ返ったようにアマデウスにチーズ臭い息をかけて言った。

「お前らも鼠だろ」

 まさにそうなのだった。黒いテオドールも、白いアマデウスも、鼠の拳ほどしかない小さな宝石箱に収まっているレオノーラも、物言わず疲れきった顔を見せる電車の乗客たちも、等しく鼠なのだった。

 レオノーラは、テオドールが抱く宝石箱の中からすやすやと寝息を立てている。


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