第六話 湯のない浴場
三枝真琴が、机の上に三枚の写真を並べた。
四十三。
十六。
そして、旧分校の長い廊下。
「こうして見ると、余計に何も分からないですね」
昼休みを少し過ぎた事務所には、エアコンの送風音だけが残っていた。窓の外では配送トラックがバックする電子音を何度も鳴らしている。
朔也は写真を裏返した。
「分からないなら、並べないほうがいい」
「自分からノートに書いてた人が何を言ってるんですか」
「確認しただけです」
「私も確認してるだけです」
真琴は四十三の写真を指先で押さえた。
「この家は移築されてる。学校の腰板も、校舎より古い木材だった。そこまで合ってますよね」
「合ってます」
「で、どっちにも数字」
「数字だけです」
「数字って便利ですね」
以前、自分が口にした言葉を返されて、朔也は眼鏡を外した。レンズを拭く必要などなかったが、会話を一度切りたかった。
数字が二つある。
ただ、それだけだ。
意味を与えるのは簡単だった。簡単だからこそ、慎重でいるべきだとも思っていた。
その日の午後、新しい依頼が入った。
三県隣の山間部にある旧休養施設。
正式名称は、杉森勤労者休養センター。昭和六十年代に開設され、林業関係者や地域住民が利用していたが、利用者の減少で六年前に閉館。その後、民間への譲渡話もまとまらず、現在は自治体が維持管理だけを続けている。
建物本体ではなく、問題は浴場棟だった。
床下への漏水が疑われ、解体するか補修するか判断するための調査だった。
「お風呂ですか」
車の助手席で資料をめくりながら真琴が言った。
「嫌そうですね」
「学校よりはいいです」
「基準が分からない」
「少なくとも走る足音はしないでしょう」
朔也は返事をしなかった。
山道を上がった先に、低いコンクリート造りの建物が現れた。
古い保養所という言葉から想像するほど風情はない。ベージュ色の外壁に、錆びた非常階段。玄関横には閉館のお知らせが色褪せたまま貼られている。
管理を担当している古沢正信という男が待っていた。
六十代後半。痩せていて、日に焼けた手の甲には細かい傷がいくつもあった。
「中、水止めて四年になりますからね」
鍵を開けながら古沢が言った。
「配管のほうも元栓から閉じてあります。漏水なら、雨水がどっかから回ってるんじゃないかって話なんですけど」
「浴槽に水が溜まることは?」
朔也が聞くと、古沢は足を止めた。
「誰から聞きました?」
「資料に、水音の報告があると」
「ああ」
古沢は少し嫌そうに笑った。
「若い職員ですよ。夜に見回りに来て、水がバシャバシャいうって。まあ、山ですから。配管だの動物だの、いろいろ鳴りますよ」
そう言いながら、声の最後だけが少し小さかった。
浴場棟へ入る。
脱衣所にはプラスチックの籠が積まれ、壁際には鍵の壊れたロッカーが並んでいた。
朔也は鼻を動かした。
古い湿気。
カビ。
剥がれかけた塗装。
その奥に、ごく薄く別の匂いが混じっている。
石鹸だった。
「清掃、最近しました?」
古沢が振り返る。
「してませんよ。月に一回、窓開けるくらいです」
「石鹸の匂いが」
真琴も鼻を近づけるように息を吸った。
「あ……しますね」
古沢は何も言わなかった。
浴室の引き戸を開ける。
タイル張りの広い浴場。
浴槽は空だった。
底には細い亀裂が入り、排水口には乾いた葉が一枚落ちている。
水などない。
それでも、朔也は入った瞬間、足元を濡らさないように歩幅を狭めた。
二歩進んでから気づく。
自分の靴底は乾いていた。
「相馬さん?」
「何でもない」
真琴の視線を避けるように、浴槽の縁を調べた。
配管。
床面。
壁。
大きな異常はない。
漏水の形跡も見当たらなかった。
一時間ほど過ぎたころ、古沢はいったん事務所へ戻った。
浴場には二人だけが残った。
真琴が壁面を撮影している。
朔也は排水設備を確認していた。
そのとき、
ちゃぷ。
小さな音がした。
手が止まる。
真琴もカメラを下ろした。
ちゃぷ。
水面を手のひらで押したような音。
空の浴槽の中からだった。
二人は近づいた。
当然、水はない。
浴槽の底には乾いた亀裂。
さっきと同じ葉。
「配管?」
真琴が囁く。
「元栓は閉じてます」
「でも水の音ですよね」
朔也は答えなかった。
三度目。
今度は少し長かった。
ざあ、と湯をかき混ぜるような音がして、続いて何か硬いものが縁に当たった。
桶。
そう思った。
浴場によくある黄色い洗面器が浴槽の縁に当たる音。
だが室内には桶など一つも残っていない。
朔也は目を閉じた。
音は消えた。
代わりに、石鹸の匂いが少し濃くなった。
「相馬さん」
真琴が呼んだ。
鏡を指している。
曇っていた。
正確には、鏡の中央だけが白く霞んでいた。
真琴が近づき、指を当てる。
「冷たい」
湯気ではない。
湿気が結露しただけかもしれない。
そう説明することはできる。
だが、鏡の曇りはゆっくりと広がっていった。
誰かが風呂場に入り、熱い湯を使い始めたときのように。
二人はしばらく何も言わなかった。
やがて真琴が乾いた声で言った。
「学校より、こっちのほうが嫌です」
朔也は、返す言葉を思いつかなかった。
夕方、調査を終えて外へ出た。
古沢が建物を施錠する。
「昔は、こんな話なかったんですか」
真琴が尋ねた。
古沢は鍵束を腰の袋へ入れた。
「営業してたころ?」
「はい」
「ないですよ」
即答だった。
「毎日誰か入ってましたから。夏なんか子供が騒いでうるさいくらいで。変な音なんて、聞いても気にしなかったのかもしれませんけどね」
古沢は建物を振り返った。
「閉めてからですよ。妙なこと言う人が出てきたのは」
朔也はその言葉を聞きながら、誰もいない浴場を思った。
湯のない浴槽。
曇った鏡。
石鹸の匂い。
そこには何もなかった。
なのに、何もなくなったからこそ、戻ってきたものがあるような気がした。




