流される神
今年の夏も、異様に蒸し暑かった。
高校二年の僕・柴田蓮は、母の実家がある山奥の村に、一人で泊まりに行くことになった。
祖母が体調を崩したとかで、母は先に向かっており、僕は遅れて合流する形だ。
バスを降りた時点で、電波は圏外。唯一の舗装路から分かれた細道を歩きながら、空の重さを感じた。
空は晴れているのに、どこか湿った匂いが鼻をついた。
村に着いたのは夕方前。迎えに来ていた祖母の家は、鬱蒼とした山裾に建つ古い木造家屋だった。家の横には小川が流れており、祖母は川を指差して言った。
「今は近づくなよ。今日は“その日”だからね」
「“その日”?」
「流し神さ。今夜はお流しの儀があるんだよ。見ても、声をかけてもいけないよ」
祖母の言葉は、冗談ではなかった。日が沈むと、村は一変した。
家々の軒先には提灯が吊るされ、人の気配がざわざわと動く。祭囃子も太鼓もない。代わりに、何かを慎重に包み隠すような、静かな空気が流れていた。
僕は好奇心に負け、夜中にこっそり家を抜け出した。
小川沿いに進むと、村人たちが白装束に身を包み、手に小さな舟を抱えているのが見えた。
舟の上には、何か……人の形をしたものが横たわっていた。
赤ん坊のように小さく見えたが、顔は白布で包まれていた。
川岸には、「穢れよ流れよ、禍神帰れ」と、古い言葉を唱える声が響いていた。
舟はそっと水に浮かべられ、下流へと押し流されていった。
その瞬間、白布がふわりと風にめくれ――顔のようなものが、僕の方を見た。
――目が、合った。
僕はその場に立ち尽くし、動けなかった。
布の下には、笑っているような顔があった。子供のような、でも異様に伸びた口元が水の中に沈んでいく。
「見てしまったかい」
背後から、誰かが声をかけた。
振り返ると、村の老婆が立っていた。目は濁り、でもはっきりとこちらを見据えていた。
「あれは“流し神”。この村が、百年に一度作る神様だよ。作って、祀って、川に返す。そうすれば災いは起きんと、そう伝えられておる」
「人形……ですか?」
「人じゃよ。だが“もう人じゃなくなった子”をね」
老婆はにたりと笑った。
「昔はね、疫病が流行るたび、村のはぐれ子を流したんだよ。山の神の怒りを沈めるために」
「今も……?」
「さぁてねぇ。でも目が合ったなら、もう“お前の穢れ”は、あの神様に移ってしまったかもしれんねぇ」
ぞっとして、僕は逃げ帰った。
⸻
翌朝、川辺に下りると、舟の跡も、昨夜の祭もなかったかのように静まり返っていた。
だが、川の上流から、誰かの声が聞こえた。
「……おにい……さん……」
水音に混じって、確かに僕を呼ぶ声があった。
見ると、水面に小さな手が浮かんでいる。
その手は、川下へ向かって流れながら、ゆっくりとこちらに手招きをしていた。
僕は一歩、無意識に川へ足を踏み出し――
「戻れ!」
祖母の怒号が背後から飛んだ。
はっとして振り返ると、祖母の顔は蒼白だった。
「見たのか?流し神を見たんだな?」
僕はうなずいた。祖母は震える手で何かの札を取り出し、僕の額に貼った。
「今年の流し神は“還り子”だったんだ。流しても、時々戻ってくることがある。迎えに来るんだよ……次の神を」
「次の……?」
「次は、お前かもしれない」
⸻
それからというもの、僕の夢にはあの顔が出るようになった。
水の底から、白い顔が笑いながら見上げている。
――次は、きみだよ。
そう言って、手を差し伸べてくる。
夏が終わっても、夢は消えない。
風のない日でも、耳の奥で川のせせらぎが聞こえる。
そして今日も――僕の足元には、小さな水たまりができている。
まるで、どこかから水神が、戻ってきているかのように。