始祖鳥は空を飛ぶ
今からおよそ1億5千万年前。人類の祖先が現れるよりもはるかに昔──地球上の大陸には、たくさんの恐竜たちが暮らしていました。
この頃の時代は『ジュラ紀』と呼ばれ、恐竜が大陸のいろいろな場所に住み、生物界の頂点に立っていました。大陸に広がる密林は、熱帯性の気候により一年中熱さが続き、巨大な湖や小さな火山が至るところにありました。
陸で暮らす恐竜や海生生物、植物に昆虫、そして哺乳類の祖先が地球上のあちこちで息づく中、崖に向かってひたすら走る一頭の恐竜がいました。両腕を大きく振りながら、空へ向かって全速力で駆け抜けていきます。
「今日こそは、飛べる飛べる飛べる……!」
恐竜はそう言って、崖から飛び出していきました。しかし、一秒と持たずに恐竜の身体は地面へ向かって落ちていきます。
「アイテッ! ちぇっ、今日も飛べなかったか」
恐竜は砂埃を上げて草原に着地すると、頭上にある崖を見上げます。この恐竜は、アーケオプテリクスと呼ばれる、始祖鳥の一種です。
「ああ、おいおい。またダメだったのか。空を飛ぼうだなんて、やっぱ大きく出すぎてんじゃねえか」
アーケオプテリクスの様子をそばで見ていたステゴサウルスが、眼下の草を口に含みながら語りかけます。
「いいや違うね。ダメだったんじゃない、飛べるように少しずつ学んでいるんだ。今に見てろ、飛べるようになったら空から襲って食べてやる」
「おお、怖い怖い」
ステゴサウルスは面白おかしく鳴き声を上げると、草原を後にします。ステゴサウルスの背中、二列に並ぶ葉っぱ状の骨板が互い違いに揺れる様子を見つめながら、アーケオプテリクスは心の中で思います。
(今に見てろ。必ず空を飛べるようになって、おれが恐竜の世界の頂点に立つんだ)
それからというもの、アーケオプテリクスの挑戦は続きました。大雨の日でも、日差しが強い日でも、毎日のように崖から空へ向かって飛ぼうとします。それでも、いっこうに飛ぶことができないまま時間だけが過ぎていきます。
「ああ、おれは何で飛べないんだろう」
昼下がり、ポドザミテスの樹の下で、アーケオプテリクスは身体を休めながらぽつりと呟きます。あらためて自分の身体に目をやると、両腕には茶褐色の羽毛に覆われた立派な翼があり、両脚の三本指には立派な爪が備わっていました。さらに、自慢の長い尾も羽毛で覆われ、口の中にも歯がびっしりと並んでいます。
「ほかの恐竜と比べて、翼と羽毛がしっかりある身体に生まれたから、飛べると思ったんだけどなあ……」
アーケオプテリクスは、少しの間物思いに耽ります。そういえば、記憶の中にいる自分の親も、遠くの地で暮らしているきょうだいたちも、みんな自分と同じように羽毛や翼があったけれど、大して飛ぼうとはしませんでした。元々飛べないと分かっていたのか、それとも飛ぼうとしてもできなかったのか、今となっては知る術もありません。
そんなことを考えながら、遠くの空を眺めるアーケオプテリクスの前を、一匹のトンボが飛んでいきました。エシュノゴンフスです。
「エシュノゴンフスはいいなあ。おれよりも身体が小さいのに、自由に空を飛べて」
アーケオプテリクスが溜息交じりにそう言うと、エシュノゴンフスは羽を高速で羽ばたかせながら答えます。
「そんなことないよ。これでも小さい頃は水中で暮らしてたんだ」
「へえ、そうなの」
「自由に空を飛べるのは楽しいけれど、ちょっと怖い時もあるよ。この前アロサウルスの目の前を飛んでいたんだけど、そしたらいきなりじゃれて来ちゃってさ。きみも知ってるだろ、アロサウルス。大きくて目つきは怖いし、牙も沢山あるし。何とか逃げられたけど、ちょっと生きた心地がしなかったね」
「あ、うん……」
アーケオプテリクスは、以前に見かけたアロサウルスの巨体を思い出し、少し身震いしながら頷きました。エシュノゴンフスは、左右の複眼をアーケオプテリクスに向けたまま問いかけます。
「楽しいことばかりじゃないけれど、空を飛んでみたいと思う?」
エシュノゴンフスの質問に、アーケオプテリクスは少し黙った後、何度も瞬きしながら答えます。
「うん、飛んでみたい。陸や水とは違う、空の世界に行ってみたい。大変なこともあるかもしれないけど、それでも飛びたい気持ちに嘘はつけない」
「そうか。それじゃあ頑張って。ぼくは応援してるよ」
「うん、ありがとう」
エシュノゴンフスは、そのまま高い空へ向かって飛んでいきました。トンボの姿が空の色に消えていく光景を見上げながら、アーケオプテリクスは空を飛びたい思いを強くするのでした。
それからも、アーケオプテリクスの空を飛ぶ挑戦は続きました。地上を全力で走っては、崖から空へと駆けていきます。飛べずに地面へ落ちても、多少のケガをしても、空への未練は消えません。日が昇ってから暮れるまで、時には寝食を忘れるほど、アーケオプテリクスは一日に何度も空を目指したのです。
そして月日は流れ、アーケオプテリクスも少しずつ年を取っていきます。地面を走る速さも日を追うごとに遅くなり、視界も霞んで見えるときが出てきました。
「せめて生きているうちに、きっと空を飛ぶんだ」
毎日のように自分を鼓舞しながらも、アーケオプテリクスの挑戦は続きます。
そんなある日の夜明け前のことです。ほとんど雲が無い暁の空でしたが、時折強い風が崖の上に吹き、アーケオプテリクスの羽毛を大きく揺らします。前日に降った雨で地面がぬかるんでいる中、アーケオプテリクスは脚の爪が泥で汚れることにも構わず、ただ空へと視線を向けます。
「最初に空を飛ぼうと思い立った日からどれくらい経ったろう。いつも飛べずに崖から落ちてばかりで、今日もひょっとしたら飛べないで終わるかもしれない。だけど、どうしてなのか自分でもよく分からないけど……今なら飛べそうな気がする。こんな気持ち、生まれて初めてだ」
アーケオプテリクスは、どこか懐かしむような口調で、誰に語るわけでもなく呟きました。そのまま左右に翼を広げ、地面を蹴って、全速力で崖へと駆けていきます。そして、アーケオプテリクスが崖へと飛び出したその時でした。
「うわっ!」
アーケオプテリクスの後ろで、強い突風が吹いたのです。思わず目を細めたアーケオプテリクスでしたが、再び目を開くと、自分の身体が地面へ落ちることなく、そのまま空中を漂っていることに気づきました。驚きのあまり左右に目をやると、自分の翼が背後の風を受けて空気の流れを生み出し、そのまま前方へ坂を下るように滑空していたのです。
「と、飛んでる! おれ、今、空を飛んでる!」
興奮を隠せないアーケオプテリクスの視界に、突如眩い光が入ります。光の先へ目を向けると、遥か遠くにある地平線から、朝日が顔を覗かせていました。
夜明けの訪れとともに、空は少しずつ青みを帯びていきます。アーケオプテリクスの視界が明るくなっていくとともに、自分の暮らす密林や、近くにある湖の姿が鮮明に映りました。密林の先にある草原へ目を向けると、コンプソグナトゥスの群れが草原を駆けていく様子や、バロサウルスが植物を食んでいる姿が視界に入ります。
そして、地平線の彼方にある火山や、湖よりもさらに巨大な水たまり――海が、ぼんやりとですが見て取ることができました。空を飛んだことで初めて見ることができた光景を前に、アーケオプテリクスは驚きとも喜びとも取れる面持ちで叫びます。
「これが、世界か! 今まで誰も見ることのできなかった、新しい世界! 何て美しいんだ……」
感動をかみしめている間も、アーケオプテリクスはゆっくりと滑空を続け、程なく密林の片隅にある小さな草原へと着陸しました。後ろへと顔を向けると、飛び立った崖が遠くに小さく見えます。やっぱり自分は飛べたんだ――心の中であらためてそう実感するアーケオプテリクスのそばで、声が響きました。
「キミもしかして、今、空を飛んでたの?」
驚いたアーケオプテリクスが声のした方へ顔を向けると、そこにはディロフォサウルスの子供が立っていました。すぐ近くにいる肉食恐竜に一瞬怯んだアーケオプテリクスでしたが、相手が自分と同じか、少し大きいぐらいの体格であることに、少し落ち着きを取り戻します。
「えっ。ああ、そうだよ。おれは飛べるんだ」
「わあ、すごいなあ。ボクもいつか、キミみたいに空を飛んでみたいなあ」
ディロフォサウルスの子供はそう言うと、両腕をゆらゆらと前後左右に動かしてみせました。その度に、頭にある半円状のトサカが腕の動きに合わせて揺れ動きます。そんなディロフォサウルスの様子を見て、アーケオプテリクスは得意げに両方の翼を広げて見せました。
「腕の振りがまだまだだな、ボウヤ。いいか、ほら、こうして翼を揺らして飛ぶんだ」
アーケオプテリクスはそう言うと、翼をゆらゆらとはためかせてみせました。本当はアーケオプテリクス自身も先ほどはどうやって飛んだのか、まだ完全に理解はできていませんでしたが、今は目の前の子供に自慢してみせたい気持ちを抑えきれなかったのです。
「わーっ、すごいすごい。ねえ、ボクもいつか、キミみたいに空を飛べる日が来るのかな」
「そりゃ分からないが、諦めなければ、いつか叶うかもしれないぜ」
目をきらきらと輝かせながら尋ねるディロフォサウルスに、アーケオプテリクスは自信たっぷりに答えてみせました。
それから時を経て、空を飛んだアーケオプテリクスの話は世界の恐竜たちへ瞬く間に伝わり、いろいろな恐竜たちが空を目指したそうです。今からおよそ1億5千万年前、最古の鳥類が地球上に現れる時代のお話でした。
始祖鳥は空を飛ぶ/おしまい