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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

今宵、月と悪魔に微笑みを

目を覚ますとそこは薄暗い部屋だった。

日の光は入ってこない。

ランプに点る明かりだけが辺りを照らしていた。



背中に当たるごつごつした感触と冷たさは石畳の床のせいだろう。

少女は身を起こそうとして体に力を入れたが、体が思うように動かなかった。

手足が縛られているのだ。口にも布が噛まされ声を出すことも敵わない。加えて縛られていない指すらまともに動かせなかった。




辛うじて動かせる視線を自分が転がっている床の少し先に向けると、そこに何かが描かれているのが見えた。

それは何か赤黒いもので描かれた円だった。

否、よく見ればそれはただの円ではなく文字で出来ていた。

隙間なくびっしりと文字のみで書かれたそれは、いっそ執念すら感じる。狂気と置き換えても良い。



書かれた文字は読めないが、少女はそれが何を意味するものか理解していた。



『悪魔召喚の儀』



床に書かれた円は、魔界より悪魔を召喚する魔方陣の類。



少女はその召喚の生贄としてここにいた。




少女は裕福な家庭の子供だった。

清潔な衣服、温かな食事、しっかりとした教育、そして両親からの惜しみない愛情。何不自由のない暮らし。

穏やかで幸せでな日々がずっと続くのだと信じて疑わなかった。

しかし、少女が七つの時。

その生活とは永遠に終わりを迎えることになった。

少女の両親が死んだのだ。

二人で隣町へ商談に出かけた帰り道、馬車の事故にあったのだ。



遺産は入ってこなかった。

この頃の少女の家は昔ほど裕福ではなく、両親が商談へ向かったのも金を工面してもらいに出かけたものだったのだと後に知った。



悲しみにくれる少女は遠い親戚に引き取られることになったが、そこでの暮らしはお世辞にも幸せとも穏やかとも言えないものだった。



親戚の家で少女は厄介者扱いだった。



家には親戚夫婦の他に育ち盛りの子供が三人。

家計がすでに逼迫しているところに、無理矢理押し付けられ仕方なく引き取った子供。それも親戚とは名ばかりの遠縁も遠縁。今まで一度もあったことすらなかったに思うところがないわけではなかっただろう。

それでも初めのころは、みな少女に気を使ってくれた。



自分の家だと思ってね、家族だと思ってくれていいんだよ、不自由なことはないかい、そう言葉をかけてくれた。



それをーーーー。



『私の家はこんな汚くないわ!』

『私の家族はお父様とお母様だけよ!』

『なんで皆と分け合わなくちゃならないの!』



突っぱねたのは少女だった。



今思えば、馬鹿なことを言ったものだと理解できる。

自分のそれが地雷原を裸で踊ってるようなものだったことを。



その言動は悲しみと動揺から生じるものだと、親戚達は理解していた。

両親を失い遠縁とはいえ見知らぬ他人の家で暮らすことになった子供の心情を思えば同情できないわけではない。



だが、それが続けば続くほど少女の言葉は彼らの劣等感を刺激し心を歪ませていった。




金持ちの子供ゆえの傲慢。

こちらを馬鹿にした態度。

鼻につく我が儘。




彼らの態度が変わるのにそう時間はかからなかった





食事は一日一回になった。

掃除洗濯は全て少女の仕事。

仕事をしていないときは、物置の隅で静かに息を潜める。

躾と称した暴力は日常茶飯事。

態度が気に入らないと蹴られ、表情がムカつくと殴られ、声が耳障りだと首を絞められた。



ふくよかだった体は常に生傷が絶えず、細く小さくなった。

艶やかだった長い金髪は、親戚達の子供によって切られ短くされた。


元々は感情豊かな子供だったが、日が経つにつれ人形のように表情は変わらなくなりほとんど喋ることはなくなっていた。




そんな生活が三年ほど続き、少女が十歳の誕生日を一人物置で迎えた頃。

いよいよ家計が苦しくなった親戚は少女を売ることに決めた。




少女を買い取ったのは、気持ちの悪い男だった。

何年も日に当たってないような青白い肌に、ひょろりと長い体躯。ぼそぼそと話す声は聞き取りにくいのに、時折何が面白いのかヒヒッ笑う声だけは妙に甲高い。

まともに寝ていないのか目の下に出来た隈が酷く、窪んだ目はぎょろぎょろとしていた。




別れはあっさりとしたものだった。

「お世話になりました」

少女は黙ったままで泣きもせず家を出ていく間際小さな声で、それだけ言って去っていった。




少女の売値は銀貨一枚。

家族の一ヶ月の食費額だった。




~~~~~~~~~~~



「目が醒めてしまったのか」



暗い部屋に声が響いた。

コツコツと石畳を鳴らし近づいてきたのは壮年の男だった。

持っているランプがその顔を照らす。

何度見ても味悪い顔だと少女は思った。

目の隈は数週間前に少女を買った時よりも色を増し、ぎょろぎょろとした目は今や充血が酷い。

まるで昔読んだ絵本出てくる死神のようだ。

これからおこなわれることを考えれば強ち、それは間違いではないのだけれど。



ずるずると長い黒い服を纏った男は少女を見下ろすと薄く笑みを浮かべる。



「薬が薄かったか…………まあ貴重な体験をその目にできるのだから、君にとってこれも幸運かもしれないな」



男はそう言うと少女から離れ、床に書かれた円の側へ移動する。



「嗚呼…………ついにこの時が来た…………長年の夢がついに叶う」



男は感極まったのか声を奮わせた。

虚空をしばし見つめぼーっとしていたかと思うと、ふっとその表情を消す。



「はじめよう」



その言葉を聞いて、少女はいよいよなのだとぼんやりと思った。

男の口から聞いたこともない言葉が紡がれていく。

きっとあれが呪文と言うものなのだろう。

自分を生贄として悪魔を召喚するための。



(ああ。これで…………)



少女は静かに目を閉じた。




男に買われてからも、少女に待っていたのは幸せな暮らしでは当然なかった。



買った男は悪魔を信仰する魔術師だった。

悪魔を召喚することを大願としその人生を捧げていた。

男が話す独り言によれば誰かへの復讐の為にこの研究を始めたのだという。



男は少女を大切に扱った。

儀式用の生贄として。



栄養不足で細くやせ細った体を太らせる為に、無理矢理ものを食べさせた。

吐いても男の目標量を食べるまで拘束され物を押し込まれた。

食事には儀式に適した体になるように薬が入っていた。

悪魔が好む味になるようになるのだと男が毎回自慢気に話していたが、それを聞くたび悪魔じゃないのに何でわかるんだと思ったが言わないでおいた。

聞いたところでどうなるものでもないし、どの道吐くほどまずいことには変わりなかったから。



男は少女を殴ったりはしなかった。

だが、けして外には出そうとしなかった。

日に当たると体に溜めている魔力が逃げるのだという。意味はわからなかったが、男はそれを頑なに信じていた。

所定の位置から動くことを禁じ、それを少しでも破ると身を清める儀式を称して冷水を少女に浴びせた。




男の努力の甲斐あって少女の体は前ほど細くはなくなった。

標準よりは明らかに細いが、男の中では生贄としての基準に達したらしい。

そう告げられたのが今日の朝。

気付けば少女は床に転がされていたのだった。




男の甲高い声が聞こえ、少女は閉じていた目を開けた。

悪魔の姿はない。

けれど、床に書かれていた円が赤く不気味に光り出しはじめていた。



「やったぞ…………!ついに魔界の門が開いたっ!」



飛びあがらんばかりに拳を突き上げながら叫ぶ男。

それとは反対にその様子を無表情で少女は見つめた。



(私、これから死ぬんだ…………)



悪魔召喚なんてもの、子供心にも出来るわけないと思っていた。

だが頭のおかしい気持ち悪い男の馬鹿な妄想はどうやら現実のものになったらしい。

驚くべきことに光る円の中心部から何かが出てきているのが目に入った。



男は少女が悪魔に食い殺されると言っていた。少女を食べることで人間界に悪魔の存在を固定するのだという。

それがどのようなことかは知らないが、食べられるのはきっと凄く痛いだろう。

けれど、



(やっと楽になれる…………)



少女の虚ろな瞳に一瞬だけ色が灯る。



(やっと痛くなくなるんだ)



それは少女にとっては希望だった。

死による解放が希望になるほど少女の精神は追い詰められていた。



これで痛いことをされずに済む。

これ以上嫌なことをさせずに済む。

寒さに震えて泣くことも、空腹で泣くこともなくなる。

楽になれる。

それだけが少女にとって希望だった。





「ああぁっ…………ああぁー!!」



歓喜の声をあげながら男が膝から崩れ落ちた。

喜びに満ちるその顔からは涙が止めどなくこぼれ落ちていく。

人は喜びの限界を迎えるとああなるらしい。



少女が男の視線の先を見やると円の中心に男が立っていた。



一見すれば全身真っ黒な衣服を纏った若い男だった。

背は高く、はだけた服から鍛えられた腹筋が見えた。

恐ろしく端正な顔立ちをしているが、目付きは鋭く野性的な印象的が強い。

短い黒髪から覗くのは左右に伸びる角。

その背からは黒い翼が生えていた。

そして何よりその瞳の色。

黄金に輝く金色。

人の身には宿らない彼の色は悪魔固有の色彩。

すなわち悪魔の証。



「うるっせぇな。人間界来て早々男の喘ぎ声なんぞ聞きたかねぇんだけど」



不快そうに悪魔はその端正な顔を歪めると開口一番そういった。

それがどういう意味はわからなかったが、男の声が不快だったことだけは少女にもわかったし共感出来た。



「アッハハハ…………やったっ…………ヒャハハァッ」



男は悪魔の言葉を無視し、今度はその独特の甲高い声でいきなり笑い出した。

召喚に成功した嬉しさで完全に我を失っている。

腹を抱えて笑いつづける男をまるでゴミを見るような視線を一瞬向けた悪魔は、転がる少女に気づいたのかこんどはそちらに視線を向けた。



「お前が生贄か? 子供(ガキ)の割にずいぶんとまぁ濁った…………お?」



少女の顔を見ていた悪魔がその動きを止めた。

鋭い目でじっとこちらを見ていたかと思えば、次の瞬間にはのしのしと足音を立て少女の側にしゃがみ込んだ。 



金色の瞳と目が合う。

悪魔と対峙したというのに恐怖は感じなかった。



ただ綺麗な色だと思った。

まだ両親が生きていた頃見た、どの宝石よりも美しく強い輝き。



「あんた…………もしかして」



悪魔がこちらに手を伸ばす。

その動作にハッとした少女は反射的に目を瞑り体を硬くした。

怖かったのではない。

それは長いこと殴られる日常を送り体に染み付いてしまった反射反応だった。



「…………殴ったりしねぇから、ちょっとじっとしてろ」



そう声が聞こえ顔に温かな何かが触れた。

それが悪魔の手だと思った時には、口に噛まされていた布が外されていた。

何でそんなことをするのだろう。

少女は驚いて目を開けた。



「ああ。やっぱそうだ」



目に入ったのは嬉しそうに笑う悪魔の顔だった。



「俺、あん時からあんたのこと探してたんだ」



魔術師の男に向けていた冷たい顔とは打って変わり、犬歯を覗かせ無邪気に笑う。



(探してた………ってなんのこと?)



悪魔は少女を抱き起こすと、少女の手足の縄をぶちりと引きちぎる。固く結ばれていたはずなのに、まるで紙をちぎるようにいとも簡単に。

そのことにも驚きつつ、一体何のことだと問おうと口を開くが声は出なかった。



「声でねぇの?」



悪魔は不思議そうに首を傾げると少女の喉に触れた。

くすぐったさに身をよじろうとしたが、上手く動かず小さく体が跳ねただけだった。



「…………薬廻ってんな。この感じだとしばらくすりゃ抜けるから、もう少し我慢してろな」



返事は出来ないので何も言わずに顔を見ていると、それを同意と受け取ったのか悪魔は満足げに頷いた。

悪魔は少女を抱えたまま器用に着ていた上着を脱ぐと、側の床にそれを敷き少女を寝かせた。



「なんも無いよりはマシだろ」



確かに直接石畳に寝かされていたときより格段に転がり心地はよくなった。

よくはなったがーーーー。

何でこんなことをするのだろう。

理由がわからない。



そんな疑問を抱かれていることを知ってか知らずか。

悪魔は少女の頭をぽんと叩くと立ち上がり、



「俺がいいって言うまで目を閉じてろ。出来れば耳も塞いーーーーでは無理か。まあ仕方ねぇ。とりあえず目だけしっかり閉じてろ。出来んな?」



そう問われ、少女は返事の代わりにゆっくり目を閉じた。



「いい子だ」



優しい声が聞こえ、悪魔が側から離れる気配がした。

遠ざかる足音。




(悪魔なのに…………手、温かかった)



何故だか胸が温かくなった。




~~~~~~~~~~~~~




「なぁ。いつまで笑ってんだ?」



その声に男は笑うのをぴたりと止めた。

何でもない平坦な声だったが、男の本能が黙れと告げた。


圧倒的な存在。

自分たちが存在する人間界とは違う魔界の住人。

悪魔。

それもその金色の濃さから、自分が呼び出したのはかなりの高位悪魔だと男は推測していた。

機嫌を損ねるのは得策ではない。

悪魔は召喚した人間に従うが、中には理を破り召喚者を殺す悪魔もいるという。そんなことされるわけにはいかない。



「す、すまない。つい君を召喚できて嬉しくてね…………」

「あっそ。それよかさ、俺あの子供に用があんだよね」

「あ、ああ。あれは君のために用意したんだ。わ、私が調合した薬で君達好みの血になってると思う」



悪魔は魂の他に人間の血も好む。

特に若い者の血。それも汚れなき女の血だ。

そこに独自研究で導き出した薬を投与し、悪魔の好む最高の生贄を作り出した。気に入らない訳が無い。


男は何をどう調合したか詳しく説明しようと口を開いたが、悪魔の発した一言で声を失った。




「食う気はねぇよ。あれは俺の(あるじ)だ」

「は…………?」



何を言っているのだ。



「つーわけで、お前に用はねえからここから消えてくれねぇか。あいつと二人で話すことあるからさ」



悪魔はそれだけ言うときびすを返し歩き出した。



「ま、待て! あの子供が主だと? 君を召喚したのは私だっ。私が主だ!」



でなければおかしい。

ただの生贄が悪魔の主になるなどあるはずがない。



「お、お前ら悪魔は召喚した人間に従う決まりだろう!?」



すると悪魔は立ち止まり振り返ると、



「へぇー。決まり、ね」



にやっと唇を吊り上げた。

そう思った瞬間、悪魔が男の眼前に姿を現した。

「ひっ」

瞬きの合間に空間を移動したのだ。




「なぁ。良いこと教えてやろうか? お前の言ってるその決まりごとな、実は決まりでもなんでもねぇんだぜ?」

「何を言ってーーーー」

「契約なんて結ばれねぇし、呼び出したからって俺らを従わせる効力なんてもんもねぇ。だから俺らは本来お前らに従う義理はなんもねぇんだよ」



残念だったなとおちょくるように真っ赤な舌を出す。



「ど、どういうことだっ。伝承には召喚者の体の一部に印が出て、それが悪魔と契約の証だとーーーー」

「ああー。それもなぁ」



悪魔は必死な形相で食い下がる男に軽薄な笑みを向けると、パチンと指を鳴らした。



「ぎゃっ!」



音が聞こえたと同時に右の手の平に激痛が走り、男は悲鳴を上げた。

手の平が焼けるような痛みに手を抱えてうずくまる。



「悪い。加減間違えたわ。でも、それだろお前が言ってるやつって」



手を見てみろよ、と悪魔が言う。

男は痛みを堪えながら、握っていた手を開いた。



「しるしがーーーー」



開いた手の平に赤い六芒星の印。

血のように赤いそれは伝承にあったものと同じだった。



「こ、これだよこれっ! ハハッ、何だ、やっぱり私がお前の主人じゃないか。驚かせやがってーーーー」



パチン。

男の言葉を遮り、再び悪魔が指を鳴らした。



「ぎゃんっ!?」



また手の平に痛みが走る。

今度のは皮膚を剥がされたかのような感覚だった。

剥がされたーーーー?



男はすぐに手の平を見た。

そこに今し方あったはずの印はなく、皺だらけの血色の悪いいつもの手の平しかなかった。



「はーい残念。印なんて別に好きにつけたり消したり出来るただの飾り。何の意味もねぇ」



にやにやと笑う悪魔の金色の瞳が鼠を弄ぶ猫のように細められる。

もっとも猫のような可愛い生き物ではないのだが、男の胸中は鼠にも等しかった。



「ど、どういうことなんだ…………召喚しさえすれば、印が出て悪魔を従えるはずじゃないのか?」



驚きのあまり男は後ろに一歩退いた。

男が調べた文献や本にはそう印してあった。

生贄も悪魔が好む十歳の金髪の女児を選んだ。

呪文も一字一句違えず唱えた。

召喚も成功し、悪魔を呼ぶことが出来た。

なのに、何が起きている?



「この悪魔召喚ってのはさぁ、俺ら悪魔が昔からやってる遊びなんだわ」

「遊び…………?」

「そ。暇な魔界から呼び出してくれた人間に御奉仕しちゃうゾ☆ってな」



何が面白いのか悪魔はけらけらと笑い出す。



魔界は力が強ければ強いほど外に出られないよう、天界に住む者達から結界を張られ妨害を受けている。

悪魔が総出でかかってもその強固な結界を壊すには時間がかかりすぎる代物、そもそも団結や協調性のない彼らにとって協力して壊すということ自体が困難なことだった。


そこで人間界で羽目を外したい高位の悪魔達は考えた。

自分たちで出れないなら、()()()()()()()

彼らは、力が弱いゆえに妨害を受け辛い低級悪魔を人間界へ送り、自分たちを呼び寄せる方法を広めさせた。

それが悪魔召喚の儀式の始まりである。



計画は上々。

儀式をおこなった者全てが呼べる訳ではなかったが、予想よりも多くのものが人間界へ行くことが出来た。



次第に彼らはただ行くだけではつまらなくなり、自分たちに縛りを設けて遊ぶことにした。

それが、召喚者に従うことだった。

悪魔達にとって、下等な人間に従うのは屈辱であったが、遊びだと思えば我慢できた。

彼らにとって遊びは、長い長い人生においてなくてはならないものだったからだ。

さらに、その対価としてその人間の魂を頂けば悪魔としての格も上がる。まさに一石二鳥、いや、三鳥以上の価値があった。




「今じゃ使い魔になるってのの他にも結構バリエーション増えててさ。把握すんの大変なんだぜ? 呼び出した人間の願いを三つ叶える代わりに、終わったらそいつの魂食うのは今や鉄板。願いは無制限でそいつの死後全身食うってのもあるな。あとは召喚したやつじゃなくて代わりにそいつの大事なやつを食うってのもあったか」



ちなみにお前が使った生贄使う呼び出し法は割と古いタイプのやつ。俺のじいさん共の時代に流行ったやつだと、悪魔は続ける。



「中にはさ飽きっぽいやつとかいて、召喚したやつの願い叶え切る前に食っちまうんだよな。そういう遊びじゃねぇっつーのに。ま、最後はどのみち殺しちまうんだからいいんだけどよ」



悪魔はそう言ってひとしきり笑うと、ふっとその笑みを消した。

金色の瞳が妖しい光を帯びる。



「さてと。これで理解出来たか?」



男はその問いに答えなかった。

いや、答えられなかった。

まるで喉を締め付けられているかのように声が出せないのだ。



「まぁしててもしてなくてもどっちでも良いんだけどな」



悪魔がゆっくりと男に近づいて来る。



「俺の主に汚ぇ声とか聞かせたくねぇから、声は潰させてもらった」



逃げようと走り出すが足がもつれ男は床に倒れ込んだ。

受け身が取れず強か顔を打ち付けたがそれを気にしている暇はなかった。

恐怖で思うように動かない手足を必死にばたつかせ床を這う。

さながら陸に打ち上げられた魚のような動きだった。



叫ぶ声は声にはならず、ただヒューヒューと鳴るばかり。

代わりに近づいて来る悪魔の足音と自分の心臓の音がよく聞こえ、一層男の焦りを掻き立てる。



子供(ガキ)に死ぬことは強要できんのに、自分が死ぬのはやっぱり怖ぇか。ご立派だな」



背後から聞こえてくる声は冷たく嘲りを含んでいた。

だがそれに反応する余裕は男にはない。



殺される。

死にたくない。

死にたくない。

頭を占めるのはそれだけだった。



しかし、追いかけっこは長くは続かなかった。



「がぁっ!」



背中を思い切り踏まれ、臓腑が悲鳴を上げた。

肺から強制的に空気が押し出されむせる。

痛みと苦しさで涙が滲む。

男の苦痛など微塵も気にせず、悪魔はその長い足を男の腹の下に差し込むと、蹴り上げて無理矢理仰向けにさせた。




男が咳込みながら、自分を足げにする者を見上げた。



「俺を召喚し、主に会わせてくれた礼に一瞬で済ませてやる」



歪むように釣り上がる唇。

悪魔は嗤っていた。



「じゃあな」



それが男が聞いた最期の言葉だった。




~~~~~~~~~~~~~




「くっそまじい」



コクがなく薄い。その割に妙に喉に残る後味の悪さだ。

やっぱり爺の血は飲めたもんじゃないと、悪魔は顔をしかめた。

握り潰し血を絞った心臓を床に転がる魔術師の体にたたき付ける。

ぶつかった心臓が残った血をびちゃりと飛び散らせ灰色の石畳を赤く染めた。



(でもまぁ、魂は少し期待できっかもな)



魔術師の体の上を浮遊する灰色の球体。

ゆらゆらと陽炎をたゆたせるそれに悪魔は手を伸ばす。



悪魔にとって魂は嗜好品だ。

人間で言う甘味のようなものだ。



心が濁っていればいるほど魂は黒く濁る。

逆に生まれたての赤子のように濁りがなければ、魂は白く清んでいる。



清んでいる魂と濁った魂。どちらの方がより美味いのか。

濁っていればいるほどどろどろに甘く、清んでいればいるほど穏やかで柔らかな甘さ。

悪魔の間でもよく議論になるが、これは完全に好みの話で悪魔自身は濁った魂の方が好みである。



口を大きく開き男の魂を口に入れる。

三度舌の上で転がすともったりとした甘味が広がった。

痺れるようなどろどろとした甘さとは程遠い、小悪党の味だ。

それを数秒堪能し、そのまま噛まずにごくりと飲み干した。



一瞬、体に熱が点る感覚がして、それはすぐに消えた。

飲み込んだ魔術師の魂が悪魔に消化されたのだ。



悪魔は自分の腹を一撫ですると、先程まで魔術師であった塊にはもう目は向けず歩き出す。



「あ、そうだ」



言って左手を握る。

と、背後で甲高い音が一瞬鳴りすぐに静かになった。



「食ったら片付けはしとかないとな」



その言葉の通り、背後にあった肉の塊は一欠けら、血の一滴も残さず消えていた。まるで初めから何もなかったかのように。



~~~~~~~~~~~~~



音を聞かないようにするのは得意だった。

悪意ある言葉も、怒鳴る声も、殴られる音も。

聞こえないようにしていれば、痛みを感じずにすんだ。

体に傷が増えても、心はこれ以上傷つけられずにすんだ。



頭の中に音を流す。

歌詞はない。

まだ両親が生きていた頃に教えてもらった歌の歌詞は、とっくに忘れてしまった。

覚えているのはメロディだけ。



頭の中でメロディを十以上流し終えた頃、体を揺すぶられて音が止んだ。



「もう目開けてもいいぜ」



優しい声が降ってきて少女は目をゆっくりと開けた。



「ちゃんと目を閉じてたんだな。さすが俺の主。偉いぞ」



と悪魔は嬉しそうに笑った。



「もう薬抜けてるだろ。立てるか?」



差し伸べられる大きな手。

それを少女は何とも言えない気持ちで見つめた。

少女に向けられる手は、いつも少女を傷つけるものだけだったからだ。



「どうした? どっか痛ぇのか?」



心配そうにこちらをみる顔に少女は首を振る。

怖ず怖ずと手を伸ばすと大きな手が少女の手をぎゅっと包み、少女の体を軽々と引っ張り上げた。



「軽っ。主ってば軽すぎ。生まれたてのケロベロスだってもっと重いぞ」



ケロベロスが何か少女にはわからなかったが、どうやら自分の体重は目を丸くされるほど軽いらしい。

これでも生贄として肥やされたので、親戚の家にいる頃よりはだいぶマシになったのだが。



「こりゃ栄養あるもん食わせないとだな。貧相なまんまなんて俺の沽券に関わるっつーの」



手始めに肉食おうぜ肉と、悪魔は少女の頭をぐしゃぐちゃと撫でる。元からぐしゃぐしゃなので髪が乱れるのはどうでもいいが、手加減が下手なのかちょっと痛い。

だがそれよりも、さっきから気になっていることが少女にはあった。



「…………なんで、私を主って呼ぶんですか?」



主の意味は知っている。

家にいた執事やメイドが父親のことをそう呼んでいることを聞いたことがあるし意味を調べたこともある。

自分よりも立場が上の人を呼ぶ言葉の一種だと理解している。



悪魔が自分に対してそう呼ぶということは、自分の立場が下だと思っていることになる。

理由がわからなかった。



見上げてくる少女を見下ろしながら、悪魔はぱちぱちとその金色の瞳を瞬いた。



「…………やっぱ覚えてねえよなぁ」



撫でる手を止めると、悪魔はしゃがんで少女の青い瞳と目線を合わせた。



「俺はあんたに命を救われてんだよ」




~~~~~~~~




寿命の長い悪魔からすれば、三年前などつい昨日のような感覚だ。



その日、悪魔は人間界を謳歌していた。

召喚した人間の願いは等に叶え終え魂も喰らったが、魔界へ帰る気はなく、適当に人間をたぶらかしては人間の気を喰らい、だまくらかしては魂を喰らって遊びほうけていた。



油断していた。

派手に遊んでいたことで、天界からの使いに目をつけられていることに気付かなかった。



悪魔は天使達からの襲撃を受けて大怪我を負った。

相手側にもそれ相応の傷を負わせてやったが、悪魔より向こうの方が一枚上手だった。

弱体の呪いで悪魔を幼体である獣型に姿を変えたのだ。

これでは言葉を人語を介することも出来ない。

人型であれば人をかどわかし、魂を喰らって回復することも出来たのにそれも出来なくなった。

加えて、この姿では手負いの魔物として人間達に殺される可能性もあった。



悪魔は森に身を隠すことにした。

幸運なことに天使達の追っ手はこなかった。

死んだと思われたのか、手を下さなくとも死ぬと思われたのか。



その判断は概ね間違っていない。

悪魔の負った傷は深かった。

それに体が幼体になっていることも大きい。神を信仰する者が多い人間界の空気は、成体である悪魔には問題ないが体が出来上がってない幼体の身には毒になる。

それをわかっているから、天使達は弱体の呪いをかけたのだろう。



普段なら時間をおけば回復する傷はちっとも治らず、むしろ悪化していく一方だった。

ついに動けなくなった悪魔はその身を小さく丸めて草原に横たわった。



呆気ない最期。

ろくな死に方しないとは思っていたが、本当にろくでもない死に方だ。

仲間内の笑い話にもならない。



(けどまあ、似合いの死に様だわなぁ…………)



そう目を閉じて、最期の時を待とうとした時だった。


ガサガサと葉が揺れる音が聞こえた。

だんだんとこちらへ向かってくる葉の音と共に複数の足音。

重さのない軽い足音。



(小せぇ獣にしては重いーーーー人間の子供か?)



悪魔の予想は当たっていた。

片目だけ開いて見てみると、伸びた草を掻き分け出てきたのは小さな子供だった。

息は切れ呼吸は荒く、額に浮かぶのは大量の汗。

葉で切れたのか服から出ている部分は擦り傷だらけ。

転んだのか膝は泥と血が混じっていた。



(汚ぇ子供(ガキ)…………)



自分の方がそれを上回る汚さなのを棚に置いてそんなことを思った。



子供は悪魔を見つけると大きく目を見開いて後ろを振り返った。



(あー。これ仲間呼ぼうとしてんのか?)



だとすれば最悪だ。

大人よりも子供の方が時に残酷だ。

それは愛すべき美徳だし普段ならそれを拍手で歓迎するところだが、今の悪魔にはそれを受け入れる心の広さはない。

おもしろ半分になぶり殺しにされる可能性が急激に高まってきた。



(笑える位ろくな死に方しねぇなぁ俺…………)



ため息を付きながら再び目を閉じると、悪魔の体がふわりと浮いた。



(うぉーーーーっ!?)



驚いて目を開けると、悪魔は子供に抱き抱えられていた。

その抱き方が今にも落とされそうな持ち方だったので、据わりが悪くうごうごしていると、


「う、動かないで。ここにいたらあなた死んじゃうんだから………っ」



子供はそう言うと、悪魔を抱き抱えたまま走り出した。

振り返っていた方とは逆方向に。



(なんだ? 仲間に見せるんじゃねぇのか?)



子供の顔を見上げる。

さっきは気付かなかったが目の回りが青い。ついさっき転んだ時のものではなさそうだ。

口の端も切れた跡が見受けられる。



(…………ふん)



悪魔は金色の目を細めた。

仲間なんて呼べるはずがない。

そんなものこの子供にはいないのだろう。

自分と同じく逃げていたのだから。



子供はしばらく森の中を走っていたが、地面に近い所に出来た木のウロを見つけると悪魔を抱えてその中に身を隠した。

伸びた草のお陰で見つかりににくいそこは、子供一人がぎりぎり入れる大きさだった。



「静かにしててね。見つかったらあんたも殴られちゃう」



子供は悪魔を膝に載せると庇うようにその身を丸くした。

バクバクと鳴り響く子供の心音。

それは走ってきたからだけではないのだろう。



「おい!あいつどこ行ったんだよー?」

「こっちに走っていったのに」

「せっかく的当てしてたのに、ちゃんと縛っとかないからよ」

「お前が変なとこ当てるから縄が切れたんだろ」



そんな声が、外から聞こえてきた。

子供の体が大きく奮えた。

ぎゅっと身を縮こませ身を固くする。

そのせいで悪魔の体も押し潰されそうになったが、文句を言わず耐える。



「いいから探せって!」

「見つけたら腹パンしてやろうぜ、ぎゃっ、って変な声出すし」

「えー気持ち悪ーい」



遠ざかっていく声。

それが完全に聞こえなくなるまで、子供は動かなかった。



「…………やっと行ったわね」



子供は体を起こすと悪魔の方を見る。



「連れてきてごめんね。あのままあそこにいたら私の代わりに石投げられてたし…………あなたもしかして魔物の子?」



逃げることに必死でそれどころではなかったのか、子供は悪魔の姿を見て驚いた。



「角が生えた動物だと思ってたんだけど…………」



今の悪魔の姿は、背中に羽を生やしくるくるとした羊の角が生えた子犬だ。

一見すれば魔物の幼体と変わらない。

瞳の金色だけが悪魔であることを物語っているが、この子供はそのことは知らないらしい。



「あんたもイジメられたの? 傷ひどい…………どうしよう。痛いよね? 薬なんて持ってないのに」



子供が悪魔の背中を撫でる。

痛いに決まってるがそれに答える余裕はない。

本格的に限界が近くなってきたのだ。



「体冷たくなってきてる…………どうしよう」



霞み出した視界の端に焦る子供の顔が映る。



(どうしたらも何も悪魔なんぞ放っておけばいいだろうが…………)



人間にとって魔物も悪魔も厄介者だ。

敵だと言っても良い。

人の負の感情を糧に生き、血や魂で快楽を得る。

正しき道から堕落に導く悪しき者。

喜ばれはすれども、死を哀しまれることなどない。



(やっぱろくでもねぇな…………)



霞んでいた視界がいよいよ見えなくなってきた時、ぐっと口の中に何かが入り込んできた。


反射で吐き出そうにも力は入らず、舌が異物に触れた。



(…………っ!?)



血の味だった。

何故と考える余裕はなかった。

考えるよりも本能が勝り、無我夢中で牙をそれに立て血を啜る。


血が喉を通っていくにつれ、体中に力が巡り出す。

体の細胞が急激に活性化していくのがわかった。




腹が満たされ悪魔は我に返った。

自分がかじっているものに視線を落とすとそれは細い指だった。

どうやら口の中に指を突き入れて噛ませたらしい。

上を見上げると子供がこちらをにこにこしながら眺めていた。



「あ、落ち着いた? 魔物は人の血で傷が治るって聞いてたけど本当の話でよかった」



そう言って差し出している手とは反対の手で悪魔の背を撫でた。

優しい手つきだった。

忌避されることは多々あれど労られることなんて今までなかったのでなんだか変な感じがした。


けれどそれが妙に心地好くもあり、悪魔はその目を閉じた。



「眠いの? 魔物も眠くなるんだ」



(魔物じゃなくて悪魔だけどな…………)



そう思ったが、迫りくる睡魔が思考を奪いうなり声すらでなかった。

悪魔の体が小さく上下するのを見て、子供は嬉しそうにその背を撫で続けた。



「…………おやすみ。あんたはみんなと仲良くやるんだよ」



小さく呟かれた声は悪魔の耳には届かなかった。




悪魔が目を覚ますと子供はもう見当たらなかった。



(腹一杯になって寝るとか子供か俺は)



自分にあきれながらも固まった体を伸ばすともう痛みはなかった。

血を啜ったお陰で大方傷は治ったらしい。

呪いは解けてはいないが、これに関しては一度魔界に帰らないとどうにもならないので仕方がない。

とりあえず傷さえ治れば魔界へ繋がる門まで行けばいいので問題はないが。



それよりも。



(あいつ…………何も言わずに行きやがった)



自分に血を与えた子供。

自身も傷だらけだったのに、他人の、それも悪魔の怪我を心配していた。



(加減せず飲んじまった…………)



意識を失う寸前に見た子供の顔は、笑っていたが顔が少し青くなっていた。おそらく軽い貧血寸前だったはずだ。



(自分が辛えのに俺の傷が治ってよかったなんて…………馬鹿な子供(ガキ)



ぐるるると低く唸る。



もやもやする。



同時になんだか腹の上辺りがぽかぽかもする。



気持ち悪いようで気持ち悪くもないそれ。

なんだかよくわからないが不快ではなかった。



目を瞑りながら唸りつづけることしばし。



(…………仕方がねえかァ)



そう胸中で呟き立ち上がり、口を吊り上げる。



(めんどくせえが、受けた恩は返さねぇといけねぇよなァ)





~~~~~~~~




「あの時の魔物の子…………?」

「ああ。そうだ。正確に魔物じゃなくて弱体化して子供の姿になってたんだけどな。あん時からずっとあんたのこと探してたんだ」



あの日から悪魔はずっと、あの時の子供を探しつづけていた。

そして目の前にいる少女は、あの時自分を助けた子供だ。

あの時と多少感じが変わっているが流れる血の匂いは変わらない。



「俺はあんたに命を救われた。悪魔は薄情で屑な生き物だが恩に報いる気概くらい持ち合わせてる」



悪魔が片膝をつき少女の右の手を取る。



「あんたを俺の主だと定め、命ある限り裏切らず忠誠を誓う」

「ちゅうせい…………」



聞いたことのない言葉に少女が首を傾げる。



「あー、あれだ、めちゃくちゃ大事にするってこと」



これ本気で悪魔に誓わせた人間ってあんたが初だと思うぜ。マジでレアと悪魔は犬歯を出して笑う。



「魂とるのに、大事にするの?」

「いやいや取らねぇから。あんたの魂は取らない。まあ食ったら美味そうではあるが、主と認めたやつのまで食うほど見境なくねぇよ」


と拗ねたように唇を尖らせる。



「でも…………」 

「でもなんだ? あ、悪魔が忠誠とかウケるーって感じか?」

「うける…………?あの 違う、そうじゃなくて…………」



久々に言葉を紡ぐので上手く言葉が出てこない。

誰かとまともに会話らしい会話を交わすのは何年ぶりだろうか。



「焦んな。ゆっくりで良いぞ」



悪魔の言葉に少女は頷くと言葉を続ける。



「なら私、何にもない…………家もない。お金もない。誰もいない、わ」



何も持っていない。



「あなたにあげられるもの、何もない」



忠誠を誓われるーーーー大事にしてもらえるものを私は何一つ持ってない、そう言って少女は俯いた。



「何もいらねぇよ」



悪魔は手に取った少女の右手の甲に口づける。



「俺が好きで従うだけだ、見返りはいらねぇよ。あんたが生きててくれればそれでいい」




その言葉にゆっくりと少女は顔を上げた。

青い目が大きく見開かれる。



「…………いい、の?」



誰もそんなこと言ってくれなかった。



親戚には親と一緒に死ねばよかったのにと言われてきた。

ここの家に来てからは生贄として死ぬのだと教えられた。

自分自身ですら早く死にたいと思っていた。

早く死んで、両親の元に行きたいと思ってた。

だってそれしか救われる方法がわからなかったから。



助けてと手を伸ばしても伸ばし返す手はなく。

泣いても誰も来てはくれない。

止めてと叫んでも痛みは止まず。

いつしか全てを諦めた。



「…………私生きててもいいの?」

「あ? 当たり前だろ。悪魔の俺だって生きてんだから、主が生きてちゃいけない理由は見当たらねぇよ」



生きててもいい…………?

死ななくてもいい…………?



「…………もう殴られない?」

「ああ。危害を加えてくるやつ全員殺してやる」

「…………外に出ても、水かけられない?」

「ないない。あんたの行きたいとこ何処でもいけばいい」

「あなたは…………私を置いていかない…………?」



それは願いにも似た質問だった。



「…………ああ。あんたより先には死なないさ。何せ俺は悪魔だからな」



悪魔はそう言ってにぱっと笑うと、少女をひょいっと抱き上げた。


「さてと。いつまでもこんな辛気臭ぇとこにいてもしょうがねえな」




自分を抱えたまま歩きだした悪魔に少女は問い掛ける。



「何処にいくの?」

「んー。主は何処に行きたい?」

「…………わからない」



両親が生きていた頃は、行きたい場所もあったのかもしれないが今ではもう思い出せない。



「あー、そういやさ。俺主に名前教えてなかったよな?」



俯いてしまった少女に気を使ったのか、悪魔がそんなことを言う。



「俺はルード」

「ルード?」

「そ。カッコイイっしょ? 主の名前は?」

「…………エンジュ」

「エンジュ…………天使(エンジュ)とはなんとも悪魔が呼びにくい名前だなぁ」

「…………だめだった?」

「いんにゃちっとも。あんたに似合いの名前だよ」

それに悪魔が天使を呼ぶっつーのも、それはそれで背徳的でいいと言っていたが、少女ーーーーエンジュには理解の及ばない話だった。



ルードが扉を蹴って古ぼけた扉が開くと、外は夜になっていた。



「見てみろエンジュ。今日は満月だぜ」

「満月…………?」



悪魔の視線の先を追うと、闇夜に浮かぶ大きな月が見えた。

欠けたところのない金色に輝く真ん丸。



「綺麗…………」

「だな。でっかくていい月だ」



嬉しそうにルードが笑う。

その顔を見て、エンジュは「あっ」と小さく声も漏らした。



「ん? なんか見つけたのか?」

「ルードの目、月と一緒なのね。綺麗な黄金。きらきらしてて、とても綺麗ね」



そう言ってルードにの方を見た顔は、



「…………っ」



ルードの目が満月と同じように真ん丸になる。



「…………どうしたの?」

「…………いや。なんでもねぇよ」



言ってエンジュの髪をぐしゃぐしゃと撫で回す。

やっぱり加減が下手なのか、

「ルード、痛い」

「おお、悪い悪い」

そう言われ撫でる力を少し押さえながら、



(…………なんだ。笑えるじゃねぇか)



ルードはそう胸中で呟き、ふと次の行き先を思いついた。




「そうだ主。海に行こうぜ海」

「海?」



ぐしゃぐしゃにされた髪を押さえながらエンジュが首を傾げる。



「そ。見たことあるか?」

「ない。絵本でしか、見たことないわ」

「俺も一回しか見たことねぇんだけど、すげぇデカいんだ。あんなの魔界にもねえよ」

「海…………見てみたい」

「よっしゃ。じゃあ決まりだな」



空には悪魔の瞳と同じ金色(こんじき)の満月。

目指すは少女の瞳と同色の美しき場所。



月明かりが二人の道を優しく照らしていた。



最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました!


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