2017年宮城の思い出
「ご当地になろうフェス」に参加するぞ! と意気込んでみたはいいものの、納得のいくものが1作も書けずに1ヵ月が過ぎました。例のウイルスによる自粛に伴い、書く時間は存分に確保できましたが、ああでもないこうでもないと悩んでいるうちにどんどん時間が過ぎていったのです。
そんな時、ふと3年前に書いたルポの存在を思い出しまして……そういえばいつか改稿してネットに上げようとしていたっけ、と。「フェス」というタイトルに合わせるには少し重い内容になってしまうかもしれませんが、私が個人的に書いて自分のマイページの隅っこに置いておくよりは、このイベントのホームページに載せてもらう方がいいのではないかという考えに至りました。お付き合いいただけましたら幸いです。
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2017年8月。大学の講義の一環で、宮城県石巻市に足を運んだ。新宿のバスターミナルから仙台駅東口まで約6時間。バス酔いとお尻の痛みに耐えながら、東北の地に降り立った。
関東から遠く離れた東北の地……こう言っては何だが、少し、地元に似ていると思った。かなり離れているのだからきっと非日常的な風景が広がっているだろうと思いきや、最初に抱いた印象はそんな感じだったと記憶している。広い田園と、その向こうに広がる太平洋。落ち着いた街並み、新鮮な魚介を売りにした飲食店。――この風景、どこかで……ああそうか、地元に似ているんだ、と仙台から石巻へ向かう電車の中でぼんやりと思った。唯一違ったのは、真夏とは思えない程涼しい風が吹いていたことだ。身体に纏わりつくようなジメジメ感もなく、本当に過ごしやすかった。夜になると少し肌寒いくらいで、ホテルのクーラーは1秒たりとも起動させなかった。東京では真夏に外を出歩くなんて自殺行為に等しいのだが、この分ならいくらでも出歩けるような気がした。
大学の合宿で来たと述べたが、目的としては主に被災地の今を見て回り、ルポを書くことだった。地元の新聞社や仮設住宅、津波被害に遭った小学校や市役所などを訪問して色々な話を聞いた。ゼミ生皆で書いたルポの冊子は大事にとってあり、今でも時々読み返してしまう。あれから町はどれくらい変わっているのだろう。
その「色々な話」とやらを全部書きたいところなのだが、今回は「ご当地になろうフェス」ということなので、自分が担当した場所のルポ(これもだいぶマイルドな感じで!)以外のお話は割愛させていただこうと思う。何も震災だけが石巻の話題というわけではないし、ワインバーやホヤ、七夕祭り、最後にちょろっと田代島についても語っておきたいのだ。
――というわけで、私が担当したのは大川小学校跡地だったので、その場所については過去に書いたルポを元に語らせていただきたい。
【大川小学校跡地】
マイクロバスで小雨の降るなか小学校跡地へと向かった。学校の脇にある駐車場で下車し、辺りを見回すと空き地ばかりで何もない。日和山公園から町を見渡した時もそうだった。自治会長さんから、かつてこの場所にはたくさんの住宅が並んでいたのだと聞かされ驚いた。
学校の敷地に足を踏み入れると、すぐに手入れの行き届いた献花台が目に飛び込んできた。奥には大きな慰霊碑もあったと思う。2011年3月11日、大川小学校を大津波が襲ってから、今年でもう6年の月日が経つ(2017年現在)。正直なところ、人々の記憶は風化してしまっているものと思っていたが、この日、小雨の降るなか献花台や慰霊碑に手を合わせる人々を目にし、その考えを改めた。
校舎の正面にまわると、空っぽの教室がむき出しになっており、ひしゃげた窓枠や崩れ落ちたコンクリートの壁や柱が津波の壮絶さを物語っていた。ユニークなデザインの校舎だが、現在は骨組みだけが残され、天井は剥げ落ち、壁に掛けられたままの時計は津波が到達した15時37分で止まっていた。唯一残された黒板が、元々教室であったことを証明しているという状態だ。
この場所を案内してくださった方は、子どもたちは地震の後ラジオを聞きながらグラウンドで待機していたのだと語った。そのグラウンドから当時氾濫した川の様子は見えなかったのだが、すぐ後ろに裏山へと続く道が見えた。安全地帯が真後ろにあったのかと思うと何とも言えない気分になった。
帰宅後、震災当時の動画をいくつか見た。津波によって北上川が氾濫する様子を捉えた動画は、児童たちが避難しようとしていた裏山から撮影されたものらしく、動画には「学校大丈夫か?」という児童らを心配する声が入っていた。もし大川小学校のことを知らなかったら、この言葉の意味も理解できなかったばかりか、動画を見ることすらなかったのだろう。心のどこかで思ってしまっていたのだ。そういう動画を自らの意思で見るのは良くないことだと。
しかし合宿を機に今まで避けていた震災当時の動画をいくつか視聴するに至った。実際にその場を訪れたこともあってか、以前のような「自分の知らない遠い町で災害が起きた」という感覚は消え、「自分の知っている町が……」という、これまでに感じることのなかった新たな感覚を知ることになった。
あの小学校で起きたことについては本当に様々な意見や解釈がある。語る人によって天災か、人災か、もしくはその両方か、意見は分かれるだろう。
私は、(もしくは私たちは)頭のどこかで「あの人たちがいたから悪い」、「普通あんなこと起きるわけない。きっと誰かが――」と思っているフシがあるかもしれないが、犯人捜しは必ずしも私たちの仕事ではないのだろうし、ベタなまとめ方だが、誰が悪いのかということ一点に囚われず、自分が今後同じような状況に置かれた時何ができるのか、どうすれば同じ過ちを繰り返さないのか考える必要がある。
誰もが混乱している中で、予測すらしていない見えない脅威から逃れる。「責任を持って正しい行動を選択する」というのは、口で言うほど簡単な事だろうか。
私たちのような渦中にいなかった人間は、当事者以上にこの災害について記憶しておかなければならないと今回の訪問で改めて感じた。
……とまあ、「フェス」には少々似つかわしくないお話だったかもしれない。でもこの話はいつかどこかでしようしようと思いながらも一向にできずにいたのでこの機会にと思いねじ込んでしまった。
【ホヤ】
話題を変えて、女川湾のホヤを食べた話でもしよう。今はもうなくなってしまったようだが、石巻駅からそう遠くないところにワインバーがあった。記憶が定かではないのだが、ビアガーデンのような感じだったと思う。なんかこう……電球がいっぱいぶら下がっていたことと、水煙草の煙がもくもくしていたことだけ覚えている。そこで人生初のホヤを食べた。
20年以上生きてきてまだ一度もホヤを食べたことがなかった。そもそもホヤが何なのかすらよくわかっていなかった。貝なのか、そういう生き物なのか、あの赤い部分は何なのか、そもそもどこを食べるのか。調べてみるとあれは貝でもなければ魚でもなく、むしろ動物に近い脊索動物動物の一種であるらしい。ボツボツした赤い皮のような部分は食べられず、内側の黄色い身の部分を食べる。私が食べたのは酢味噌を付けた茹でホヤだった気がする。
好き嫌いが分かれる味だと聞いたが、食べられない味ではなかったはず。今必死に3年前の味覚を呼び覚ましている。確かあれはしょっぱいような、苦いような、甘いような。貝のような、そうでないような――
これだ! という表現が見当たらないので「海の味です!」「お酒に合います!」で押し通したい。まさかホヤエッセイで己の語彙力の低さを痛感する羽目になるなんて……
いやそれにしても、どういう経緯でワインバーでホヤを食べるに至ったのだろう? 思い出せない。
【七夕祭りと田代島】
私が行った時、仙台はちょうど七夕祭りシーズンだった。駅の中や商店街には和紙でできた色とりどりの七夕飾りがぶら下がり、牛タンの屋台からは良い匂いがしていた。ネギ塩牛タンを食べたのを覚えている。あの時は確か最終日で、ゼミ員と全く馴染めていない状態で自由行動をさせられてしまった私は、そこまで交流のなかった仲良し2人組の金魚のフンと化してしまった。少し苦い思い出だ。私を仲間に入れてくれてありがとう。あの時の2人……
仙台の七夕祭りは旧暦の7月7日ではなく、毎年中暦の8月7日を中日として6日から8日までの3日間行われる。あの盛大な七夕飾りは毎年手作りされているらしい。駅の中にあったくす玉を付けた巨大な吹き流しが特に印象に残っている。
今年は残念ながらウイルスの影響により中止になってしまった。前夜祭である「仙台七夕花火祭」も開催を見送るそうだ。花火好きな私としては正直前夜祭の方が気になってしまう。いつか田代島目当てに宮城へ行く機会ができたら、その時は8月5日にしよう。
というのも、帰り際に石巻駅の案内所に貼られていた田代島のポスターが今でも心残りなのだ。あの猫アイランド……震災時には猫たちが島民を高台まで導いたという話もある。たぶん、猫好きの聖地と言っても良いはずだ。駅から船着き場までのバスが出ていたのも知っていた。皆が仙台行きの電車に乗り込む中、私は行こうと思えば行けてしまう距離にあるのに行けないもどかしさと独り戦っていた。
いつかあの島の猫神様にご挨拶しに行ける日が来るだろうか。その時、町はどんな姿に変わっているだろう。