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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

藤の花簪シリーズ

藤の花簪

作者: ろむこ

 気づけば、この街に足が向いていた。


今年もなんとか凍る冬を越え、暖かな日差しにお目にかかれるようになった。あちらこちらと根無し草、かかぁがおっ死んでからゆうに十五年は経っている。

逃げるように出たこの街は、相も変わらず賑々しい。

 そりゃあ花街ともなれば、真昼間のほうがよっぽど静かによく寝れる。

かかぁもこの街じゃあそう珍しくもねぇ年季の明けた廓上がり。幾分薹がたっちゃあいたがなかなかに艶っぽい女だった。

夢の中にすら出てきやしねぇ薄情者だが、いまの今まで後添いを貰う気にもならなかったのは、やっぱりいい女だったってぇ事だろう。



「主さん主さん、遊んでおいきなんしぃ」


 ねっとりとした甘い声がそこかしこからかかる。

見世先から白くたおやかな手が覗く。手招きされた格子の先には、花と見間違うような着飾った女達。


息を呑んだ。


かかぁ!


格子の奥に、死んだ女房の姿を見た。

スッと血が引いた思いがして、頭の後ろのほうが重く痺れる。


眩暈がした。

なんだ、おめえは死んでからも廓から出られねぇのか。

年季はとっくの昔に明けただろう?どうしてまだそこに座って、客を取らなきゃならねぇんだ。


「そっちの女、違う違う、お前さんじゃねぇ。

奥の、その、そうだ。今目があった、お前さんだ」


気づけば、声を掛けていた。


横目に流し目をよこした女は目を細くし、一瞬だけ笑顔にも見える表情をした。




白粉を厚く塗った顔は、近くで見るとあまりに幼い。

だが、見れば見るほどかかぁと瓜二つ。

頭の痺れが、取れない。



 へぇ、廓生まれの廓育ちでござぁんす。

どうにも、やり手のお姉さんが言うにゃ、紅と白粉が生える面立ちだってんでぇ。

ちぃとばかし早くに見世に上がるようになりあんした。

主さんにお目もじするのはお初でござんすなぁ。宜しゅう御頼申します。


 はぁ。おっかさんでござんすか。

わかりませんなぁ。実をいいますとな、拾われ子でござんして。

へぇ。それが聞いておくんなまし。わっちゃ、井戸の中で生まれたんだそうでござぁんす。

すぐそこの、枯れた井戸の中で泣いていたのを、ご親切にも拾ってくだすったお方がおられましてなぁ。

おかげさんで、名もお井戸お井戸と呼ばれておりあんした。

今は響きを貰って糸之と申しあんす。


 主さん、お顔が…、酒に酔った?そうでござんすか。

お冷を用意致しんしょう。



 十五年前、女房が死んだ。

ややこを生して、そのまま死んだ。

あの時の事は、頭に靄がかかったようですっきりとは思い出せない。

とぎれとぎれ、飛び飛びの記憶。


若かった俺は、どうすればいいのかわからなかった。

元々白かった顔の肌が蒼くなり、黄色くなって硬くなっていく。

握った手が固まって動かなくなり、生きた人にはありえない冷たさになっていく。

俺のかかぁのはずなのに、似た姿の別の何かにしか見えなかった。死んだ悲しみは麻痺し、かかぁの姿の死体が怖くて怖くて仕方がなかった。

元々俺は流れ者で、かかぁはお女郎上がり。頼れる身内も、そもそも死を伝える相手すらいない。

本当に、どうすればいいのかわからなかった。


 かかぁは、投げ込み寺へ文字通り投げ込んだ。いくばかりかの銭を忍ばせておいたから、無縁仏として弔ってもらえるはずだ。このあたりの見世の女は死んだらこうして投げ込まれるから、それに倣った。

何もないあばら屋で朽ちていくよりは、いくらかはましだろうと思ったのだ。

困ったのは赤子だ。

産み月よりも早くに生まれた赤子は、ろくに泣く力もなく、かかぁから乳も貰っていない。

生き残れるとは思わなかった。冷たくなってはいないが、生きているとも思えなかった。

かかぁが布を巻いて抱いていた赤子。どうせなら寺へ一緒に投げ込むべきであったと後悔するが、二度も足を向ける気持ちになれなかった。もしかしたらまた死んだかかぁの姿を見てしまうかもしれない、それが怖かった。


「…ふやぁっ」


赤子が一声泣いた。

びくっとした。どういう感覚だったのかわからないが、何故こいつが動くのか理解できかなった。

何故俺のかかぁはもう動かないのに。

何故こいつは動くんだ。

何故こいつは泣くんだ。

急にこの小さな塊が、そら恐ろしいものに感じて仕方がない。


井戸が目についた。

考えなどなかった。赤子を投げ入れて、一目散に逃げた。

逃げた。とにかく逃げた。そのまま取るものも取らずに街を出た。

後ろから赤子の泣き声と、冷たくなったかかぁの手がどこまでも追いかけて来ているように思えて仕方がなかった。


何故、この街に戻って来てしまったのだろうか。

何があっても、決して戻って来てはいけなかったのだ。否、戻れるような立場になかったのに。



糸之は、俺の子か。


頭の痺れはどんどんと酷くなって行き、殴られるような痛みに変わって、吐き気がしてきた。

幽霊に会うよりも、きっと余程恐ろしい。


「主さん、大丈夫でござんすか。主さん」


血の気の引いた俺の顔を覗き込んで糸之が言う。

髪に飾った藤の花簪がしゃらりと音をたてる。


ああ、かかぁが死んだ時も藤の盛りだったな。

作り物の簪から、あの甘い香が香ってくるようで不意に笑いが込み上げてきた。


なんだそうか。虫の知らせか。

こんなに都合のいい舞台が他にあるものか。

けりをつけろと誰かが、笑っているように感じた。


「なぁ糸之。

おりゃぁお前さんを井戸に捨てて逃げた、おとっつぁんだ」




どうか、その藤の簪で突いて、殺してはくれまいか。




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