昔、昔と女の子
昔、ある村に男がいましたと。男は女と出会い、子を設け、死んだ。男の名を拾次といい、女の名を稗と言う。子の名は江莉と言った。子は女だった。拾次と稗は江莉を育てた。江莉は赤子として生まれ自然成長して行った。時の流れは江莉に幼年期を終えさせ、やがて拾次は死んだ。稗は多少、老いた。拾次は死に、役人がやって来た。弟が家を継ぐことが決まった。親子は主から分かたれるものとなった。稗はある晩夢を見た。星を見上げる江莉の下に3つの流れ星が流れ落ち、江莉はその流れ星を探しに行くのだ。それは旅立ちの夢だった。その夢は3晩続いた。三日が過ぎた。江莉は変わらずに稗とともにこもごもとした農事と家事に従った。稗は安堵した。さらに三日が過ぎたころ、稗の下に再婚話が持ち込まれた。相手は隣村の哲夫という名の青年であった。稗は始め江莉のことを思った。一人娘の身の上で母と二人。父無し子のままというのはいかにも可愛そうだった。江莉の将来の為にも。稗は始めの内は真剣にそう考えたのだ。考えて、考えて、考え抜いた末、稗は哲夫との再婚話を江莉に告げた。江莉は力なく頷き、一つだけ問うた。「母様。母様。哲夫様は父様と似ているでしょうか」と。稗は拾次のことをどこかぼんやりと思い出した。稗は胸に熱いものがこみあげてくるのを感じた。だが、稗は江莉の先行きを思い、その熱いものを飲み込んだ。稗は江莉に向かって言った。「新しい父様が父様だ」と。3週間の後、稗は隣村の男、哲夫と再婚した。
哲夫は精力的な男だった。早朝から起き、深夜まで休むことなく畑に出た。大変な働きものだった。その上、哲夫は拾次とは異なり学も深かった。惣のものとも上手くやった。加えて、人好きもした。頑健な体に、討てば響くような知性。稗は哲夫の下、内々の事のみに専念することができた。稗はやがて始めのころに感じていた拾次への追憶を忘れて行った。始めのころの気持ちが薄れた。やがて子供を懐妊した。稗の江莉に対する思いは冷淡なものとなった。江莉のための再婚という始めのころの想いは風化していた。江莉は哲夫と稗の間を飛び回り農事に家事にと追われていた。始め哲夫と稗は江莉に優しかった。次いで江莉に無関心になった。稗が懐妊するに及んで江莉は冷淡な視線と出会った。稗が男児を出産し、江莉の居場所は失われた。江莉は、江莉は一人だった。哲夫が江莉に優しかったころのことだ。哲夫は江莉に文字を教え、数を教えた。神々を語った。どうしたことだろう。江莉はその教えを直ぐに呑み込んだ。哲夫はそれ以上のことを教えようとはしなかった。それで十分だと考えたのだ。また、その呑み込みの速さに不気味さを覚えたことも確かだった。江莉にとってその数百の文字といくつもの数が慰みだった。神々のことも考えた。江莉は夜、星を見ることが多くなった。
稗は男児を出産した夜、再び夢を見た。江莉が星を探しに行く夢だった。はっと起きた。江莉はいた。男児もいる。稗はかつての安堵を忘れたまま江莉を見た。首をひねった。それは旅立ちの夢だ。稗に夢占いはできない。哲夫に相談した。やはり哲夫は学があった。「夢占いなど愚かなことだ」と言った。だが、哲夫は同時に人でもあった。その日哲夫は江莉をまじまじと眺めた。江莉は少女の時を過ぎようとしていた。もう十四を超えただろう。哲夫は江莉の働きの事を思った。江莉は決して働かない方ではない。良く働くと言ってもよいだろう。だが哲夫の子では無い。自然そのことが哲夫を動かしてしまう。その日の内に哲夫は村の占い師の下に向かった。村の占い師は江莉を連れてくるよう言った。翌日のことだ。哲夫と稗は占い師の下に向かった。結果は昨日の内に決められていた。哲夫は知らぬうちに占い師に望むべきものを既に見られていた。占い師はその望みに沿って夢を読み解いた。「汝らの娘は郡の館に奴婢として奉公に上がるのだ」と。そう占い師は読み解いた。「星は3つありました」稗にはその夢解きが正しいものとは思えなかった。占い師に問いただす。占い師は言う。「3つの星は漏刻博士、文章博士、律学博士のことを指す」哲夫がうめく。「大層な」と。占い師は夢を読み解き続ける。「汝らの娘は館に上り、知らねばならぬ」「だが、奴婢の身だ」占い師の言葉に哲夫は渋った。近頃は、奴婢の数も減った。公奴婢もその数を工面するのが難しいとは聞く。哲夫は江莉に優しく接していた昔のことを思い出した。稗もそうだった。だが、占い師の言葉は重大な意味を持つ。夢解きを行う占い師は惣の有力者とも昵懇だ。哲夫は多少の後ろめたさを覚えつつも、公奴婢として郡の館へと江莉を送ることを了承した。稗は形式的に反対した。哲夫の2度の説得後、稗も折れた。占い師は必要なことを成した。こうして江莉は郡の館へと上ることになる。
江莉は黙って聞いた。そして従った。江莉は稗に向かって一言口にした。「母様。新しい父様は私が館に行っても私の父様かしら」稗は黙って頷いた。哲夫はその後ろめたさも手伝い、不覚にも涙をこぼした。哲夫は郡の館から稲を受け取ることにもなっていたから。江莉は館の衛士に促されて、静かに哲夫の家を、畑を後にした。館の衛士は道々に、館のことを語った。郡の館の主は不在だが、世にも麗しき妹君がおられるだとか。郡の館の主は国を左右する使命についておられるのだとか。公奴婢としての待遇は悪くは無いだとか。江莉は衛士の言葉を聞いた。そして本当に父様と母様と別れるのだとそう思った。なぜだか涙がぽろぽろと零れ落ちた。江莉は三人の親たちについて思った。拾次、稗、哲夫。江莉にとって親とはその三人全てが一つとなったものだった。いつも厳しい顔つきで寡黙に働いていた拾次。いつも江莉に優しく家について教えてくれた稗。いつも精力的で文字と数字と神々について教えてくれた哲夫。江莉はひとしきり泣いた。そして涙が絶えてしまうことを知った。江莉は衛士が何か慌てたように様々に慰めるのを聞いた。江莉は笑った。衛士がこれから公奴婢となる江莉を慰めるのが妙におかしくて笑った。衛士は言った。このところ、郡の館で公奴婢を集めるのが難しくなったからな。と。江莉は知っていた。哲夫とともに新たな畑の開拓を手伝ったことがあったからだ。哲夫は精力的な男だった。加えて人好きがした。哲夫は惣の有力者と共に、新しい田を、畑を開拓した。そして僅かばかりの土地を手に入れていた。三代限りだが、私有できるのだ。そう稗に向かって自慢する哲夫の姿を江莉は見ていた。衛士に向かってその話をした。お前の父は働き者だな。そう言った。そうだ。男児が生まれた。哲夫はより働くだろう。そう思うと江莉は胸が締め付けられた。哲夫と共に暮らした辛いが楽しい日々。郡の館に行けば労働は減るだろう。だが、なぜか江莉は胸が痛んだ。衛士との旅は半日に及んだ。
郡の館は質素な館だった。主は性を朝臣と言う。氏は下道。郡の館はやや大ぶりな門とその奥に佇む巨大な庁舎とで成り立っていた。郡衙と言う。江莉には知るすべもないが小ぶりな唐風建築であった。衛士とは門で別れた。門から先は吏が先導し、手続きが成された。江莉はその時、江莉になった。生きるために生まれた。江莉という名の当て字を賜った。その日、江莉は江莉となったのだ。やがて手続きが済んだ。公奴婢の男と共に、郡の館を見て回った。吏僚たちが着るのは目にも鮮やかな染色を施した着物だ。江莉はその日初めて染色を施した綺麗な着物を見た。美しかった。吸い込まれそうな魅力的な色だった。江莉は目をぱちぱちと瞬かせた。江莉にとって世界とは、拾次の家と畑であり、哲夫の家と畑であった。この日江莉は新しい世界を見た。公奴婢の男に促されて、何度も脇に這いつくばった。それでもおずおずと見上げる江莉の瞳は綺麗な染物の色に吸い込まれているのだった。郡の館を進んでゆく。館は江莉にとってはあまりに巨大なものに見えた。一体、何人いるのだろうか。公奴婢の男は何度となく江莉を怒鳴った。江莉があまりに見すぎていたから。その足が止まっていたから。公奴婢の男はやがて部屋の前で立ち止まった。吏僚の一人が慌ただしそうに部屋から飛び出る。公奴婢の男に気づくと吏僚は言った。「何用だ」と。公奴婢の男は言った。「新しい公奴婢です」と。吏僚は公奴婢の頭である男の言うことをよく聞くようにと告げて足早に通り過ぎた。公奴婢の男は公奴婢の頭であった。郡の館で働く公奴婢を取り仕切っていた。名を保佐那と言った。保佐那は郡の館での仕事について語った。江莉は聞き漏らすまいとした。細々とした雑務が述べられていく。掃除。食事。洗濯。種もみの番。祭礼の支度。織部たちの世話。郡の官人たちの世話。使い。様々な仕え事が述べられた。そうしている内に日も暮れた。保佐那に従って郡の館から下がる。江莉はその職務を脳裏で暗唱する。行先は知らない。ただ、保佐那が先導するに任せた。
江莉には家が無い。公奴婢は富裕な家の一角に間借りするのが一般的だ。公奴婢は貴重な公有の資産である。特に昨今では私領が現れ公奴婢の数は減った。公奴婢たちは公奴婢としての仕事を行う。その後、富裕な家で私奴婢に代わって働く。昼夜の仕事だった。厳しい道だ。それは公奴婢として官人や吏僚に信用されたものにしか用意されない道だ。郡の館に来たばかりの江莉にはその当てもない。保佐那は言った。「文字は読めるか」「余り」江莉は答えた。保佐那は江莉に「文字が読めるなら郡司様の館で女人の私奴婢として応募するといい」と教えた。郡の館の周辺には富裕な家が並ぶ。郡司の館はその中でも別格だ。郡の館と同じく唐風建築であった。保佐那が門番の男に向かって平伏するのを見て、江莉も習う。郡司の遠い親族に当たるのだと言う。「新しい公奴婢です。置いてもらえないでしょうか」保佐那は平伏したまま告げる。江莉が見上げると門番の男は嫌な顔をしていた。確かに私奴婢の募集はしているが。そう口にはするが要領を得ない。江莉は門番の男を見上げたまま首を傾げた。「留守中の主の意向により我が主の家は奴婢にも寛大だ。噂を聞き訪ねる者も多い。だが近頃はどうだ。その質、酷いものがある」門番の男はそう口にした後で江莉に向かって「文字は読めるか」と口にした。「余り」江莉は正直にそう答えた。男はため息をついた。そして赤焼けに沈みつつある陽光の下、地面に向かい文字を書いた。そこには『妹子』『玉藻』と書かれていた。江莉は首を振った。「では、これは」男は剣のさやで『六』の字を書いた。江莉も数字なら知っていた。「む、です。ろく、です」「数字は読めるのか」門番の男はそう呟くと首をひねる。「しばし、待て」門番の男は門内にとって返し、何事かを告げた。後は、拍子に乗って事は進んだ。「朝は辰の刻からだ」保佐那はそう言うと立ち上がった。江莉は一人になった。やがて、門番の男に代わって女性が現れるに及んで江莉は郡司の家に間借りすることとなったのだった。
朱塗りが多く用いられた華麗な館の内に通される。料理場が置かれる土間が案内された場所だった。江莉はそこで平伏する。それから盗み見る。思わず綺麗な衣装を着込む女性を見上げていた。昔、養父哲夫が語った神々のような出で立ちだ。江莉は神々とは実在するものか、とそう思ったのだ。それは当たらずも遠くは無い。神々にも見間違う美貌と富。彼ら官人の、貴族の一族は大抵そうなのだ。江莉が生まれるずっと以前から彼らはその待遇を勝ち得ている。神にも近しい女性が江莉を見下ろしていた。傍らに控える私奴婢と思しき中年の女性が立ち上がった。中年の女が江莉に近づこうとするのを館の女主がそれを制した。この館における女の主は江莉に向かって近づいて行く。江莉は平伏したまま下がろうとする。やがて、かまどの火の熱を感じてそこで留まる。館の神女は、土間の端まで近づいた。そこから江莉のことをまじまじと見下ろした。「素材は悪くないか」呟く。「年は?」「十四になります」館の女主が嘆息する。「若い」江莉は訳も無く畏まった。「売られたか?」「?」館の女主人は憐れを催したのか、悲しそうな表情を作っていた。だが、江莉にはその意味がわからない。言葉の意味も分からない。「今時分なぜ奴婢に?」「占い師が夢占いを解きました」「今時分占いか。それで。内容は」館の神女の目は憐れみに満ちていた。「館に上り、知らねばならないと」「何を知る」「わかりません」館の女主は悲しく笑った。「面白い。弥奈」館の女神は中年の女に振り向くと呼びかけた。江莉は土間の寒さと背筋を震わせる。かまどの火の暖かさに感謝した。弥奈と呼ばれた中年の女は、滑るようにして館の女主に寄り添った。囁くような声が響く。弥奈の困惑したような表情。「かまわないのですか」「よい」弥奈にはその返答で十分だった。弥奈が退がる。館の女主は再び江莉に向き直った。「名は?」「江莉と言います。女神様」江莉の言葉は興味を引いたようだ。「女神?」館の礼装者は疑問符を浮かべる。「私が?」「はい。養父が口にした神々の姿にそっくりです」館の女主は今度こそ笑みを浮かべていた。輝くような笑みを。「私は、女神では無い」「では?」江莉は心底からそう思っていたのだ。「由利だ。下道家の由利」「由利様」「そうだ」中年の女が一着の服を手に戻った。弥奈は恭しく館の主たる、由利に向かって手元の服を差し出した。「与える。着替えよ。江莉」投げるように与えられた服。江莉は迷わず裸になって服を取った。ほっそりとした肉体に小ぶりな胸が覗く。中年の女がはっとしたように息を飲んだ。そして諦念とともに視線をそらした。存在するものから目をそむける。由利はその姿を憐れむように眺める。江莉は暖かな服を撫でまわした。その時からだ。江莉が下道家の、そして由利の下に世話になることになったのは。その時からだ。由利と名乗る華やかなる女性と共に江莉は様々なものを見ることになるのは。
江莉はその夜、夢を見た。流れ星が満点の空から落ちて来る夢だ。江莉はその星たちを追いかけた。だが、一つとして見つからない。あんなに輝いていた星が落ちたのに一つも見つけることができないのだ。江莉は遠くまで旅する夢を見た。遠く余りに遠くまで旅するのだ。その日、初めて見た唐風建築が立ち並ぶ姿を江莉は見た。それから神々の住処とも思える、光り輝く星々の館を江莉は見たのだ。光の奔流を江莉は見た。そこには江莉が探し求めた流れ星の一つがあるような気がした。そうして光の奔流に手を伸ばしたところで江莉の夢は消えたのだった。
世には未知の領域がある。神々の領域がある。怨霊の領域がある。律令が敷かれて三十余年。律は未知なる領域を縛り、神々の領域を、怨霊の領域を大いに狭めた。令はあまねく行き届き、その文化の光は迷いを絶った。律令が、刑罰と税制が既知の領域を照らし上げた。盟神探湯は忘れられた。夢占いは時代に外れたものになった。鬼道は忘れられた。自然崇拝は失われた。百万町歩にも及ぶ開墾計画が練られた。鎮護国家の思想が仏法の下で生まれつつあった。世はあまねく文化の光に照らし出されつつあった。言の葉により言霊を動かし、言霊により自然を動かし、自然により人を動かす。かつての文化は取って変わられつつあった。神々の領域は狭まった。怨霊の領域は狭まった。未知なる領域は失われ既知なるものに取って変わられた。
江莉の微睡は短くも深い。江莉の父、拾次は鬼道を熱心に奉じる男だった。自然崇拝者であった。だが、神仏習合が始まった。拾次は惣の顔たちが口にする仏の道を信じなかった。拾次は古い男だった。やがて、拾次は病を得、死んだ。拾次は死ぬ間際に、江莉に向かってよく言った。言代主神があったのだと。言の葉により、言霊を動かす神が最初に在ったのだと。それは口伝であった。一世の口伝であった。稗は江莉に向かって呟く拾次を見て寂しそうに笑っていた。稗は鬼道も古い神話も信じない女だった。それでいて稗は夢を信じた。稗は夢見がちな女だった。だが、拾次と稗は共に時代と在った。二親とも妖なるものとは、御業とは、縁が薄かった。だが、縁が無い訳ではない。江莉は幼年期に、猪に襲われたことがあった。そういうこともあったな。と、江莉は夢の名残を掴むようにして微睡みながら思い出を抱いた。それは昼間のことであった。だが、その時、昼間は昼間で無かったのだ。猪は森の木陰で佇んでいた江莉に向かい襲いかかった。暗闇があった。猪が跳びかかってきたとき、江莉は暗闇を見たのだ。伸びるよう怪しくその巨体を包むように在った暗闇を見たのだ。済んでのことで一生を得たのは、叫び声を聞いた拾次が駆けつけてきたからだ。拾次は猪を追うと、何か複雑な印を結び奇声を発した。鬼道であった。人の領域はこれほどにも広い。神々の領域は狭まったのだよ。江莉に向かって拾次はそう口にした。それはまるで自分に言い聞かせるような言葉でもあった。江莉は、ふと、由利と名乗った女神について考えるのだ。猪の思い出について考えるのだ。神のような御方がいるのだ。あの暗闇に満ちた猪は本当に魔の眷属であったのかもしれない。と。哲夫が聞けば笑い出しそうな考えだ。そう考える江莉は徐々に覚醒する。ああ。そうだ。父様は死んだのだ。母様とはもう会えない。新しい父様はもう何も教えてくれない。そうして江莉は暖かい家の中で今度こそ目を覚ましたのだった。
公奴婢の、間借り人の朝は早い。江莉は弥奈にたたき起こされたのだ。弥奈は厳しい表情で、急ぎ支度をするよう厳かに告げた。江莉はぼんやりとした頭のまま頷いた。兎に角、分からないことだらけだ。辰の刻までに。その言葉だけは覚えてはいた。土間から館の外を眺める。兎の刻近いだろう。江莉は欠伸をかみ殺す。いつもの朝より半刻は早い。中年の女、弥奈は私奴婢である。江莉はかまどに木端を放り込みながら、弥奈のことを聞いた。弥奈は生まれながらの私奴隷だった。もう三十年も働き詰めだという。奴婢は良く死ぬ。とだけ弥奈は言った。弥奈は長く生きたことが誇りの奴婢だった。弥奈は江莉に言った。私以上に下道の女を知っているものはいないのだ。と。弥奈にとってそれは誇りだった。長く生き、長く知り、長く共に在った。江莉は由利のことを尋ねる。「由利様はなぜ、私に着物を?」「妹様の考えは深いのさ」帰ってきた答えと共にかまどに灯った火に向かって大きく息を吹き込んでみる。「由利様、女神様みたい」「綺麗なお方だよ」弥奈は料理の下ごしらえを始める。「井戸が表にあるよ」江莉は水汲みのための土器と共に表に出る。弥奈と別れてしばらく迷った江莉だったが、表の門内にある井戸を見つけた。驚きだった。井戸は普通、村の中央にしか無い。なのに、ここでは館の中に常設されているのだ。江莉は、驚きながらも、釣瓶を落とす。力一杯に水をくみ上げると土器を水で満たす。戻って行って。三往復。江莉は弥奈の手早い支度を眺め、話を継いだ。「ここでは由利様が一番なの?」「お母上がおられるが」弥奈は手早く手元を動かす。それから江莉に水を釜に注ぐように命令した。「私、どうすればいいのかなあ」「何を」「どうしたらいいのかなって」江莉は愚痴を零す。「諦めることさ」「どうして」江莉はまだ何も分かっていなかったのだ。「奴婢の子は奴婢になる。それが全てさ」弥奈は確固として断言した。「父様も母様も奴婢では無かったわ」江莉は反発した。父様も母様も新しい父様もこの館のような場所に住めるような身分じゃない。だけど、奴婢ではなかった。そうじゃなかった。自由だった。「だが、お前は奴婢だ」江莉は不安になった。当然の恐怖が襲い掛かったと言っていい。「私、どうなるの」江莉の擦れたような声。「由利様はお優しい方だ」弥奈は優しく言った。「それにこの館には本来の主がいない。私たちの上には女主だけがいると言ってもいい」「本来の主?」「遠く、旅をされているのだ」弥奈はただそう言った。弥奈は一仕事終えて伸びをすると土間の冷たい土の上に草履を残して館の中へと向かう。江莉も後から続こうとしたのだけど、押しとどめられた。待つように指示を受ける。江莉はかまどの絶えざる火を眺める。視界の端でぼんやりと宵闇の衣がはがれてゆく。吹き零れが無いように眺める。どうやら大丈夫のようだ。やがて、朝焼けの陽が上り始めた。その時だった。弥奈がしずしずと戻ってくる。その後ろだ。白襦袢だけを着込んだ由利が伴われてやってくる。「江莉。由利様の御前だ」「は、はい」弥奈の言葉とともに江莉は急いで土間に膝を折る。ひざまずく。「よい。江莉。そなた十四と言ったな」「はい」畏まる。「文字は数字程度なら読めると聞いているが」「はい。養父に教えてもらいました」哲夫は偉大な養父だった。見捨てられた今となっても江莉にとってはそうだった。そしてもうその養父にも会うことが無いのだ。そう思うと江莉は不覚にも涙を催してしまうのだった。「どうした」「いえ。養父のことが懐かしくて」「そうか。さもあろう。ところで」由利は静やかに告げる。「私もそろそろよい年だ」「そんな。まだ、全くです。お若いです」「それは分かっている」由利が可笑しそうに笑う。江莉に向かって憐れみとも、慈しみとも取れる視線を与える。それから口元を引き締めると言った。「やがて女官として宮廷に上がらねばならぬ」「?」江莉には分からない。その様子を見ると由利は悲しげに笑った。そして言う。「私もお主と同じく上らねばならぬ身の上だということだ」「私と、同じ?」「違うのは、私の仕える先が高貴であることだけだ」江莉は驚いてしまう。由利は確かに同じだと言ったのだ。江莉と由利が同じだ。と。江莉は思わず問い返してしまう。「由利様も旅立つのですか?」「旅か?」「ここでないどこかへ」由利は首を傾げる。やがて、寂しそうな笑みとともに言った。「その意味では」「由利様。私は、つらいです」「旅はつらいか」「ええ」「そうか」頷く由利。沈黙。やがて由利は思い直したように言った。「女官として貴官の高弟たちと、彼らの子女と共に暮らさねばならぬ」「は、はい」遅れて頷く。「大学寮の女官だ。付き合いは必定。教えを受け、また授けねばなるまい」「は、はい」頷くことしかできない。「お主占いに従ったと言ったな」「はい」江莉は頷いた。「お主に言葉を与えよう」「はい?」江莉は頷いて疑問を持った。「お主に文字を与えよう」「は、はい!」江莉は勢いよく頷いた。「お主は律を守らねばならぬ」「は、はい!」江莉は食い入るように由利を見上げ頷いた。「私が口にすることを信じるかな。江莉?」「…はい」ごくりと喉が鳴る。「そうか。ならば、祝福しよう」「…はい」江莉は神妙に頷いた。「私は授け、お主は受け取るのだよ」「はい!」江莉は思わず叫んでいた。「私はお前をここに置くだろう。お前は学ぶ。私は教える」江莉は胸が高鳴るのを感じていた。それは養父哲夫の教えに似ていた。数について教わった驚きと似ていた。文字について教わった喜びに似ていた。神々について教わった感嘆に似ていた。
江莉と由利。二人は似ても似つかない境遇ながら彼女たちは接点を持った。その接点がやがて様々な人を巻き込むことになろうとは。このときの二人に予想できたはずもないのだったが、それは、また別な話。