贅沢は言わない
春の宵に二人抱きあって、ベッドに横になっていると、泰斗がおもむろにつぶやいた。
「子どもほしいなぁ……」
静馬はぎょっとして、腕の中の泰斗を見る。
「あ、産みたいとかじゃなくて……。子どもがいたら楽しいなぁと思って」
子どもがいたら楽しい? 静馬は納得できないまま泰斗のつぶやきに相槌を打った。
「僕たち、同棲始めて十年たつでしょ? ずっとこのままでいられたらいいなぁと思ったら、子どもとかそういうkと考えちゃって」
確かな形がほしくなった、と泰斗が漏らした。
このままじゃいけないのか? という言葉を飲み込んで、泰斗の頭を強く抱きしめる。泰斗が何に不安を感じているのか、静馬にははかり知ることができない。そもそも、泰斗との生活を終わらせる気が全くないのだから、泰斗の不安は杞憂だった。
春になると、憂鬱が増す。
泰斗はパソコンを前にして深いため息をついた。
同じことを繰り返している機械的な日々に、どことなく灰色の雲が垂れこめてくる。気温の変化に気分が左右されているのだろうか。
それとも、この日々が明日も同じように続くと信じられないのか。はたまた、同じような日々に少々食傷気味になってきたのか。
静馬に不満があるわけではなかった。彼は最高のパートナーだ。泰斗のことをよく知ってくれている。体の相性もいい。
十年、同じ人間と付き合うことがなかったからか? それ以前に、同じ人間をこれほどまで深く愛したことがなかったから?
月日をともにすること以外に、静馬のなにもかもをほしいと思っている自分がいて、その思いが日々を退屈にさせている。
「子どもがほしいなんて言わなけりゃよかった……」
あの夜の一言以来、静馬の態度がおかしい気がした。
子どもは言葉の彩だった。決して本当にほしいわけではない。一個の人格を持つ人間を、楽しいだろうというあいまいな欲求で自由にしていいわけじゃないことは分かっている。それに、ゲイのカップルに養子は無理だ。
マウスをクリックするスピードが鈍る。またため息。
これ以上に静馬の何がほしいのか、泰斗にすら分からなかった。
「今日、一緒に市役所に来てくれないか」
あれから数日後、朝食の最中に静馬が泰斗に言った。
「いいけど、どうして?」
静馬にかしこまった態度で話しかけられて、泰斗はいぶかしげに聞き返した。
「今日は会社休むことにしてる。いろいろ付いてきてほしいから」
何か腑に落ちなかったが、泰斗は素直にうなずいた。
九時過ぎに静馬と地下鉄で市役所に向かった。電車の中でも静馬はどこか緊張した面持ちで、気安く話しけられる雰囲気でなかった。
泰斗の中で疑念は膨らむが、もしも最悪の事態なら市役所など行くはずがない。家で話して終わりになるだろう。市役所に行くような悪い知らせとは何だろうと考えてみても、特に思いつかなかった。
連れだって、市役所に入っていくと、静馬は迷いなく、戸籍申請の窓口に向かった。泰斗の中の疑念が少しずつ明確になっていく。
慌てて、静馬に追いすがり、服の裾を引っ張った。
「こ、子どものことは冗談だったんだって」
振り向いた静馬が面白いくらい大きく目を見開いた後、笑いだした。
「子どもって? ああ、悪いけど、子どもは無理だよ」
「だ、だよね」
泰斗は安心して胸をなでおろした。しかし、何のために戸籍謄本が必要なのだろう。
「なんで、ここに来たのか聞いてない」
泰斗はやっとこの言葉を口にした。最悪の疑念が少しだけ期待に変わる。
「う……、ん。ま、あれだ……。お前さえよかったら、戸籍を一緒にしようかと思って……」
静馬が口ごもりながら言った。
とっさに泰斗は口走る。
「印鑑、そうだ、印鑑持ってきてない」
「ある。買っといた……」
静馬がポケットから、泰斗の名字の印鑑を取り出した。
「とにかく、戸籍取ってくるから……」
窓口へ向かう静馬の背中を、泰斗はずっと眺めていた。
戸籍と、養子縁組の書類もそろえ、二人はレストランで食事を取った。
「ちゃんと話してくれればいいのに」
少し拗ねた口調で泰斗がつぶやいた。
「ごめんな。驚かせたかった。でも、実際驚いたろ?」
静馬は泰斗を見てにやりと笑った。
「うん……」
気恥ずかしそうに笑う泰斗がどうしようもかわいく見える。子どもがほしいと言われた時、さすがに驚いたが、確かな形がほしいのだとわかると、静馬も次第にそう思えるようになった。十年もともにいること自体、本当は確かなことなのかもしれないが、泰斗の形にならない不安を払しょくしてあげるにはどうすればいいのか、静馬なりに考えてみたのだ。
結婚……。これからもずっと一緒にいる。それを形にする方法は男同士では無理だった。それなら代わりの方法があるはずだと探してみて、養子縁組という法律を見つけた。
家族という形を、泰斗が望んでいるかわからない。ただ言えることは、静馬は泰斗をずっと守り続け、そばにいたいということ。別のだれかが、泰斗を守ることになるなど考えたくもなかった。泰斗のすべてがほしいとは言わない。近くにいて、抱きしめて、キスをして、独り占めしていたい。子どもの話はきっかけでしかなかった。
泰斗に黙って買っておいたもの。手のひらに乗る小さなボックスを上着の内ポケットから取り出した。
泰斗が不思議そうに箱を見つめている。
静馬はテーブルの食後のコーヒーをわきによけ、箱を泰斗の前に置き、開けてみせた。
二つのペアリング。
「一緒になろう」
それだけ告げて、静馬は泰斗の手を握り締めた。