CODE;8 Key person Ⅱ
「うう~……こんな時にぃ」
どうして診療室が東棟にもないのだ。
室内履きの音をパタパタと響かせて足早に歩きながら、ファランは、誰に対するともない愚痴を、無意識に口に乗せる。
尤も、東棟の端っこに位置する研究室に怪我人が転がり込んで来て、手当ての道具を借りに行かないといけない、などというシチュエーションはそうそう起きるものではない。設計者が誰だか知らないが、責めるのは筋違いというものだろう。それに、ファランのいた部屋からから西棟への渡り廊下までは五分程の道のりだ。
けれど、それが今日に限ってはひどく遠いものに思えた。
その道のりの合間に、ファランは先刻少年が漏らした一言について考えていた。
『あんた、本当にこの研究所が善意の塊だとでも思ってる訳?』
『物事には裏側があるなんて、考えたコトもないんだろ』
(物事の、裏側……)
脳裏で、少年の言葉を反芻する。
この研究所の裏側。
それは、先日のファースト・ラボ爆発事件以来、ファランが知りたいと切望していたものだった。
そして今は、恋人・ウォレスの行方を突き止める過程で知る必要のある、不可欠なピース。
だのに、そのピースを得る為の手段が、ファランにはなかった。今、この瞬間まで。
(あの子は……その『手段』になる?)
彼は何かを知っている。
それが『何』なのか、内容までは定かではないが。
彼の話を聞きたい。聞かなければならない。
取り繕った表向きの話ではなく、真実を。
自然と足が前へ出る速度が速くなり、やがて軽く駆け足になる。
遠くから、何かが爆発するような音が聞こえたと思ったのは、渡り廊下の出入り口に手を掛けた時だった。続いて、軽い地震にも似た振動。
爆心は近くはないが、この東棟の中であることは解った。
(……何……今の)
終業時刻も過ぎたのに加え、普段から人気があまりない棟の端には、今ファラン以外の人間はいない。
従って、疑問に答えてくれる者はなかった。
一瞬、音のした方へ足を向けたい衝動に駆られるが、今は部屋で自分が戻るのを待つ人間がいる。確認したい僅かな好奇心を理性で捩伏せて、出入り口に改めて手を掛けた途端、今度は甲高く乾いた音が響いて、ファランは自分が元来た廊下を振り返った。
先刻の爆発音と違って、今の音は間違いなく、自分の使用していた研究室から聞こえたものだ。
何があったんだろう、などと頭で考えるよりも先に足が部屋へと引き返そうとする。なり、後ろから肩を掴まれて、ファランは悲鳴を上げそうになった。
しかし、それが音になるよりも前に唇を掌が塞ぐ。
「……手を放すけど声を立てないで。いい?」
耳元に囁かれて、反射的に首肯する。
そろりと解放されて無意識に息を吐くと、ファランは恐る恐る背後を振り返った。
視線の先にいたのは、自分とそう歳の変わらないように見える少女だった。
身長も同じくらい。無駄な肉が一切付いていない引き締まった体躯には、インナーとショートパンツにブーツ、その上からパーカーを羽織っていた。この極寒の地では恐ろしく軽装に過ぎるが、少女は寒がっている様子はない。
薄暗がりに沈む廊下では、髪や瞳の色までは判別できなかった。
一通り少女を眺め回す間に、少女の方も自分を観察していたらしい。
彼女は、ファランをじっと見つめた後、出し抜けに口を開いた。
「ここのスタッフ?」
「え、ええ。そうだけど」
「悪いけど、このまま帰ってくれる? 出来るだけ遠くへ離れて」
「え、ちょっ……それ、どういう意味? 部屋で待ってる人がいるの。手当ての道具を借りに」
要領を得ないファランの抗議を遮るように少女が提示したのは、CUIOの紋章の入った手帳だった。ファランは瞠目する。縦に長い葉で編まれた冠の輪の中に、天使の翼とその上に王冠を模した意匠――それは紛れもなく、彼女がCUIOの一員である証だ。
自分と幾つも違わないように見えるこの少女が――国際連邦捜査局の刑事?
「刑事としてお願いするわ。黙ってここから立ち去って頂戴」
「お断りします」
ファランは少女の要求を、毅然と跳ね付けた。
少女が、微かに目を見開いたのが見て取れる。
「……ここにいると危険だから頼んでるんだけど」
「なら、尚更退く訳にいかない。スタッフとしても、医師の端くれとしても、怪我人がいるのが判ってて逃げ出すことは出来ないわ」
そして、あの少年の話を聞かない内は、彼を見失う訳にもいかない。胸の内で付け加えた言葉に、無論少女が気付いたとも思えなかった。
けれど、少女は呆れたように肩を竦めると溜息と共に言葉を接ぐ。
「庇う余裕があるか判らないから、何かあってもいざとなったら自力で何とかして。責任取らないけど、それでいい?」
枝葉を取り払った説明は、シンプルすぎて理解出来なかったが、ファランはとにかく頷いた。
「でも、現場にはやっぱり危険だから連れて行けない。どうしてもここを離れたくないなら、ここから先には踏み入らないでね」
一方的に言い置くと、ファランの返事を待つことなく少女は踵を返した。
***
銃声が破裂した後の室内は、一瞬シンと静まり返る。
マックイーンが持つ銃口から硝煙が上がるが、予想された血の赤はその場に飛び散ることはなかった。
マックイーンの指先が引き金を絞るタイミングに合わせて、エマヌエルが渾身の力を込めてウィルヘルムの足元を払ったのだ。
マグネタインの力で普通に動くことさえままならなくなって来ているエマヌエルにとって、ウィルヘルムを救えるかどうかは賭に近かった。冷静に考えれば、彼を助ける義理もないのだが、考えるより先に身体が動いていたのだからどうしようもない。
幸か不幸か、元々非戦闘員であるウィルヘルムは不意打ちをまともに喰らって体勢を崩してくれた。放たれた銃弾が彼の頭のど真ん中をぶち抜きさえしなければ上等だ。彼が上手に受け身を取れるかどうかは判らないが、そこまでは面倒見切れない。
ウィルヘルムが床へひっくり返るのを見届ける間も惜しく、エマヌエルはマックイーンの銃を持った手をめがけて勢いよく蹴り上げる。
思わぬ反撃に唖然としていたマックイーンの手からあっさり離れた銃は、放物線を描いて宙へ舞った。床へ落ちてくるそれをスライディングしてキャッチすると、力の入らない手で構える。
今持てる全力でグリップを握って引き金を絞った。大した狙いも付けずに撃ち出した弾は、マックイーンのこめかみを掠って天井へめり込む。ほぼ横になった姿勢にも関わらず、射撃の反動で吹っ飛びそうになった。目眩がする。
(……早く、っ……!)
意識が失くなる前に――身体が完全に動かなくなる前に勝負を決めなければならない。しかも、敵は目の前の男だけではない。
すっかり頭に血が上ったらしいマックイーンの右足が、すぐ目前に迫る。横になったまま仰け反るようにして辛うじてそれを避けると、身体を戻す動きを利用して、相手の軸足を払った。――つもりだったが、流石にウィルヘルムと違って多少なり戦闘経験のあるらしいマックイーンはそう簡単に倒れてはくれなかった。
先刻蹴り出された相手の足が、自分の首めがけて落ちて来るのが見なくても解る。床の上で前傾姿勢を取ることでそれを回避しながら、目の前にある相手の向こう臑に銃口向けて再度引き金を絞る。至近距離から放たれた弾丸が目論見通りの部位に着弾し、ようやくマックイーンが膝を折った。
「マックイーン捜査官!」
「副支部長!」
唐突に始まった戦闘を見守っていたマックイーンの部下が、口々に叫ぶ。
悲鳴も上げられずに崩れる男に押し潰されるのを避けるべく床を転がり、出来る限り素早く身を起こす。銃を構え直すが、その腕はみっともない程に震えていた。力が入らなくなって来ている。上がった呼吸が戻らない。持って後どのくらいか見当はつかないが、さして長くはないだろう。
「――退がれ」
咄嗟にマックイーンに銃口を向けて、倒れたリーダーに駆け寄り掛けた男達を牽制する。
「っ、まうな…撃て」
痛みに悶絶していた男は、それでも気丈に部下に命を下す。
「いいのか? この映像もどこかの監視カメラで見られてるんだろ? 最初にこのドクターを撃ったのも既に見られてる訳だよな。俺はともかく、こっちのお仲間を撃っちゃったのはマズかったんじゃねぇの?」
油断なく銃口はマックイーンに向けたまま、目線はまだ元気な男達から外さずに、エマヌエルは唇の端を薄く上げて見せる。
動揺を誘えれば隙が生まれる。隙が出来れば、突破口が開けるかも知れない。あくまで『かも』ではあるが、○・○一パーセントの確率でもないよりはマシだ。
けれど、マックイーンは勿論、その部下達も、欠片も動揺した様子を見せなかった。
「はっ……その心配は…無用だ。ここへ来る前に……手は打って、ある」
「何?」
眉根を寄せた。こういう時の嫌な予感というのは、往々にして外れないように出来ているので、エマヌエルは自然身構える格好になる。
「ここを、…映せるカメラのある、監視ルームは……とっくに、爆破、…しておいた。後は……お前を始末すれば……我々に嫌疑は掛からない」
クスクスという耳障りな笑い混じりの説明に、覚えず舌打ちが漏れた。それが、先刻聞こえた気がした爆音の正体だったと悟る。言外に含まれたものの要約は、こうだ。爆破したのはエマヌエルで、取り押さえようとして暴れられたから止むなく始末した、ということにすれば言い訳は立つ、と。
「……っとに…えげつねぇな」
整った顔を、これ以上ないくらい歪ませて吐き捨てる。けれど、出来る意趣返しは、それが精一杯だった。
身体さえ普段通りなら、こちらもとっくにこの部屋ごと男達を片付けている。しかし、マグネタインが全身に回り始めているのか、もう意識を保っているだけで精一杯だ。先刻からフォトン・シェルを撃とうとしているが、うまく集中出来ないだけでなく、煙も立てられそうにない。
今はとにかく、この場を生きて切り抜けることが最優先だ。監視カメラが回っていないなら、こちらにも都合が良い。
それに元々、相手が誰であろうと、生かしておかなければならない理由もない。引き金に掛けた指に、力を込める。
「止めとけ」
なり、絶妙のタイミングで背後から掛かった声に、絞ろうとしていた指が固まる。
「……何だよ、生きてたのか」
自分の背後にいた相手は、一人しかいない。
無事だったらしいウィルヘルムに、エマヌエルは憎まれ口を吐いた。
「何とかな。かなり荒っぽいやり方だったが」
「貸しにしとくぜ」
「取り敢えず借りとくけど、それとこれとは別問題だ。そいつらは一応CUIO所属の人間だからな。殺しちまうと後々面倒になるぞ」
「知るか。先に手ぇ出して来たのは向こうなんだから、正当防衛だ」
「普通の人間ならそれで通るところも、お前じゃちょっと難しいな」
「るせぇよ」
少し黙ってろ。そう言いたい気分でグリップを握る手に力を込め直す。
(くっそ……)
目が霞んで来た。もう、ここまでだろうか。選りによって、こんなつまらない連中に止めを刺されるなんて、情けなくて涙も出ない。
半ば覚悟を決めた時、軽快なリズムを叩くような小気味良い銃声がその場に木霊した。その音に引き戻されるように目を見開いた時には、マックイーンの部下総勢六名が全員床に倒れ伏している。
「止せって言った傍から……」
呆れたようなウィルヘルムの声が背後から聞こえるが、そこに焦った響きはない。「俺じゃねーっつの」と、力なく答えながら、何気なく出入り口に視線を向けると、そこに立つ少女が握る拳銃から、硝煙の残滓がふわりと上った。
「安心してよ。一人も殺しちゃいないから」
抑揚のない喋り方。凛とした声音。
ブーツを履いたしなやかな足が、室内に踏み入る。
「ヴァルカ……?」
深紅の髪に、髪と同じ色の瞳。
そこにいたのは、紛れもなくヴァルカ=クライトンだった。
(……信じねぇって……決めたのに)
心底ホッとしている自分が、ひどく滑稽だった。
誰も何も信じないと再確認したのは、ほんの数日前だというのに――。
***
「――エマ!?」
自分の名を呼ぶなり、不安定に身体を傾がせたエマヌエルに、ヴァルカは咄嗟に手を伸ばした。
しかし、自分の立っている位置からでは到底間に合わない。代わりに、彼のすぐ後ろにいたウィルヘルムが彼の身体を支える。
「おっと」
ウィルヘルムに背後から抱えられたエマヌエルの右腕が赤く染まっているのに、駆け寄ったヴァルカはこの時初めて気付いた。
「傷が開いたの? ……エマ?」
呼び掛けても、長い睫に縁取られた瞼は、ぐったりと閉じたまま微動だにしない。
「どういうヘマやったのか、銃弾喰らったらしい。しかもその弾の素材が確か、マグネタインだとか言ってたな」
ウィルヘルムの返答に一瞬瞠目したヴァルカは、自分の背後足下で寝そべったままのマックイーンを勢い良く振り返った。
「あんたっ……!」
「ふっ……仕方、ないだろう……スィンセティックの動きを、封じるにはそれが、……一番手っ取り早い」
苛立つ気持ちそのままに、ヴァルカは無言で立ち上がると、マックイーンの側頭部に一蹴り入れた。
「おいおい」
攻撃して来る可能性の高い外野を強引に黙らせると、「ちょっと荒っぽいんじゃないか」という窘めているのかおざなりなのかよく判らない抗議が上がる。
「加減はしてやったわ。死んじゃいないわよ、まだ」
ふん、と鼻を鳴らしながら、エマヌエルを覗き込むようにしてしゃがみ直す。細い指先が、漆黒の前髪をそっと掻き上げた。
「……どうにかならない?」
「ん? こいつのコトか」
「そうよ。……マグネタインなんか直接身体にぶち込んだりしたら、普通の人間の身体にだって良いコトなんかないわ。だのに……」
いくら能力と動きを封じる為とは言え、そこまでされた実験体の話は、ヴァルカも聞いたことがない。
能力を制御するのに使われていたのは、例の地下牢獄と、ブレスレットくらいだ。
恐らくまだ実験の前段階のものを、データ採取を兼ねて使ったに違いない。
「その、マグネタインの成分と、こいつの血液を調べた上でないと何とも言えないが……中和剤を創るコトは難しくねぇと思う」
「ホントに?」
「ンだよ。おれ様の頭脳を疑うのか」
「頭脳どころか、全部信用出来ないんだけど」
「ったく……最初にこいつの手術してやったの誰だと思ってるんだよ」
ウィルヘルムが溜息と共に、エマヌエルを横抱きに抱いて立ち上がった。俗に言う『お姫様抱っこ』という奴だ。もっとも、ヴァルカはそんな俗称は知る由もなかったが、本人が見たら凄まじく嫌がりそうな構図なのは間違いない。しかし、完全に意識を失っているらしいエマヌエルは、されるままになっている。
「意外と力あるのね」
「こいつが年の割に軽いだけだ。ところで、そっちで転がってるのはどうする」
ウィルヘルムが、既に気絶しているマックイーンと、銃創に呻く彼の部下達を顎でしゃくって示す。若干気まずい思いを持て余しながら、ヴァルカも溜息と共に吐き出した。
「……ベンに連絡しておくわ。そいつらには訊くコトが山のようにあるから」
アスラーに連絡を取ったヴァルカに、ウィルヘルムはついて来るかどうか訊ねたが、ヴァルカは迷った末に首を横に振った。
理由として、トチ狂った行動を取った七名の不審なCUIO職員を、見張りも付けずに放置しておけないというのが一つと、ウィルヘルムについて行ったとしても医療に関して全く知識のないヴァルカの出る幕はないというのが一つだ。ついて行ったところで、ヴァルカに出来るのは、妻の出産の場に駆け付けたはいいが、結局何も出来ない夫がするように、治療を終えるのを待つことくらいだろう。
呼び出しから数分後に現れたアスラーは、ヴァルカの顔を見るなり何とも複雑な表情を浮かべたが、これまで姿を消していたことに関しては特に何も言わなかった。続いて床へ転がったマックイーン以下七名のメンバーを見て、更に複雑な顔をした。
「……で、何がどうなっているんだ?」
「あたしに訊かないでくれる?」
アスラーが連れてきた鑑識二名と、部下の刑事三名が各々現場に踏み込む中で、質問に質問で返すという何とも器用な会話が交わされる。
「おれを呼び出したのはお前だろうに」
「あたしが駆け付けた時には、副支部長がひっくり返ってる横であの子とあのいけ好かないドクターがうずくまってたわ」
「それで、他の六人に付いては?」
「あたしが行動不能にしたけど、何か問題でも?」
大アリだ。
そう顔に書いてあるが、アスラーはそれを口には出さなかった。代わりに盛大な溜息が漏れる。
「急所は外してるわよ?」
「ああ、いや、だから、そういう問題じゃなくてな……いや、今そのことはいい。とにかく被疑者を再捕獲したのは評価しておく」
「話の腰を折るようだけど、あの子は被疑者じゃないわよ、まだ」
本当に話の腰を折られた。という顔をしたが、やはりアスラーは溜息を吐いただけだったし、ヴァルカも気付かない振りをした。
「それで、その彼は何処だ?」
「ドクターが連れてった。怪我してるから」
「ウィルが?」
「うん。詳しいコトもドクターから聞いた方が早いと思うけど……差し当たって拘留すべきはこいつらの方じゃないかしら」
憎々しげに床で倒れ伏している七名を示すと、アスラーは早くも三度目の溜息と共に呟いた。
「彼らもまずは手当が必要だな」
***
眠りから覚醒すると、室内は群青色の闇に沈んでいた。
リッケンバッカーは西の端と言うだけあって、北の大陸の中でも一番夜明けは遅い。陽の光がカーテンの向こうで輝き出すのは、朝の八時半を回ってからだ。
ハロンズは、ベッドの中から腕を伸ばして、チェストの上から携帯端末を取り上げた。サブウィンドウで確認した時刻は、午前四時。
時刻以外に表示がないのを見て取ると、ハロンズは形の良い眉を顰めた。
最後に『彼』から連絡があったのが、四日前。以後、彼からの連絡は一切途絶えたままだ。メールでも、連絡があればサブウィンドウには表示される筈だが、それもない。
ハロンズにしては珍しく、短い溜息が漏れた。
あの男は、ハロンズが心から信頼する部下の一人だ。
腹心、と言ってもいい部下は他にいるが、あの男に関してはその几帳面さとハロンズに対する忠誠は信ずるに足る男だと思っている。
CUIOにスパイとして潜り込んでからは、三日に一度の定時連絡を一度として欠かしたことのなかった男だ。その定時連絡は、例の爆破事件からこっち、毎日のようにあった。
それが、四日も途絶えている。となると、何もないと考える方が不自然だ。
けれども、こちらから彼に連絡を取ることは自殺行為に等しい。もう少し待ちたい気持ちもないと言えば嘘になるが――。
(……ごめんね、フレッド)
マックイーンの愛称を、胸の内で呟いて、ブリリアント・グリーンの瞳を微かに歪める。
胸奥深くにチクリと感じる、古株と言っても良い部下を切り捨てる痛みは、敢えて無視した。
いつもそうして生きて来た。
僅かな情も、友人も、時に見殺し裏切る事で、ハロンズは裏社会のトップへと上り詰めたのだ。保身の為に自分に忠実な人間を見捨てるなんて、などという可愛らしい思考は、とうの昔にどこかへ置いて来た。自分がいるのは、『悪』こそが正義の世界なのだから。
(それにしても、今回はうまくいかないなぁ)
まるで小さな子供が、新しく発売されたコンピューターゲームの攻略に苦しむような感想を脳裏で呟く。
今朝目覚めてから二度目の溜息と共に、手にしていた携帯端末をチェストへ戻した。
きっかけは、元同盟相手のアドルフ=ゴンサレスだ。
彼が、そもそも実験体を逃がすなどというヘマをしなかったら――その実験体を管理し損なうという失態を犯さなかったら、自分だって今も高鼾で眠り、日常を淡々とこなしていたに違いない。
けれど、ハロンズは、今のこの状況を特に面倒臭いとも思っていなかった。
(だって、ゲームはすんなりクリア出来たら逆に詰まらないじゃない?)
無意識に、小さく笑いが漏れる。
正直、少し楽しかった。これまで自分の思い通りにならないことなどなかった。しかし、思い通りにならなければ、どうやったら自分の望む方向に物事を運べるかを考える最中の方が寧ろ楽しい。そうして、困難を乗り越えた時の快感が忘れられずに、今もこの危うい世界に身を置いているのかも知れないとも思う。
ハロンズにとって、今や生き抜くことそのものが、生涯を賭けたゲームのようなもので、今の地位や財産はその付録に過ぎなかった。だからこそ、生きてクリアしたい。その為の障害なら、何の躊躇もなく捨てられる。
思わず忍び笑いを漏らすと、昨晩、一緒にベッドへ潜り込んでいた女が小さく呻いてうっすらと目を開けた。
「……何笑ってるの?」
起き抜けの眠たげな声が横合いから掛かって、ハロンズはそちらへ視線を向ける。
「ううんー、何でもないよ。ちょっと思い出し笑いしてただけ」
「そう……今何時?」
普段なら、『思い出し笑いする人ってエッチなんだってー』などと突っ込む女だが、軽くスルーしたところを見るとまだ相当眠いのだろう。
「四時過ぎたとこ。も少し眠ったら」
「んー……」
ハロンズの勧めに逆らわず、女は意識のはっきりしない声と共にすぐに眠りに落ちたようだった。
くす、とまた薄く笑って、女の頬を優しく撫でてやる。
何を思い出しているのか、ハロンズの頬に浮かんだ寂しげな微笑を、見る者はなかった。
***
――『手足を押さえろ』
……やめろ。
――『準備は良いか』
――『ああ。早くしろ。右肩だ』
……止せ。
そう思うのに、声が出ない。
身体も動かせない。
……イヤだ。
固定された右肩に、灼熱を圧し付けられる。
肉が焼ける嫌な臭いと共に、痛さとも熱さとも付かない感覚が神経を灼いて、エマヌエルは声にならない悲鳴を上げた。
「――――ッッ!!」
ビクッ、と身体が痙攣して目が覚める。
「ッ、あ……?」
鼓動が早い。
全身が心臓になった錯覚の中で、エマヌエルは喘いだ。
「はっ……え……?」
自分が何処にいるのか、判らなかった。
たった今の出来事が、夢か現実なのかもよく判らない。
視界に映るのは、見慣れない天井だった。カーテンレールで切り取られたそこから、無意識に目を滑らせると、自然、閉まったカーテンに行き着く。
何も考えられずにぼんやりとカーテンの閉じ目を見つめていると、パタパタと室内履きの音が近付いてきて、カーテンが開く。
「あ、気が付いた?」
乳白色の髪と、アメジストの瞳を持ったあの女性――ファランが、覗かせたその顔をパッと輝かせる。
「先生! ウォークハーマー先生! 患者が目を覚ましました!」
ファランの声が尾を引くように遠退いていく。
エマヌエルが目を開けているのを見るなり、何を話しかける間もなく踵を返して先生とやらを呼びに走っていった所為だ。
患者本人の容態を確認もせず人を呼びにすっ飛んで行くなんて、本当にこの研究所のスタッフをやっているのかと思うと、呆れを通り越して溜息しか出ない。
その間に、記憶の方はすっかり巻き戻っていた。勿論、自分の意識が途絶えて目覚めるまでのことはすっぽり抜け落ちているが。
(くっそ……忌々しい。大体、最初に大ヘマしなきゃこんなコトには……)
「あーあー、眉間に皺寄ってんぞ。美人が台無し」
思い切り顔を顰めた瞬間、カーテンが再度開いた。
ウィルヘルムが、ファランを従えてこちらを見下ろしている。
「……あんたも一因だよ。張り倒されてぇのか」
「おやおや、ご機嫌斜めだな。動けそうなら是非そうしてくれ。起きれるか」
言われて、身体に力を入れてみる。
痛み止めでも打ってくれたのか、それとも傷が癒えたのかは判断出来なかったが、夢の中で灼ける様な思いをした右肩に覚悟した激痛は走らない。
おっかなびっくり身体を起こしてみると、まだ少し脱力感は残っていたものの、案外楽に上体を起こすことが出来た。
「お、大丈夫そうだな。念の為に血液検査させて貰っていいか」
「断る、って言ったら?」
険のある声音で投げ出すように言うと、眼鏡の奥のダーク・ブラウンが一瞬キョトンと見開かれた。
「どの道、お前さんが気ィ失ってる時に最低一回はさせて貰ってる。一回も二回も大差ねぇと思うんだが?」
鋭く舌打ちが漏れた。
本当に返す々すも忌々しいのは、一番最初の――ヴァルカと出会った直後に負った傷だ。もう少しうまくやって怪我さえ負わなければ、敵陣の中で二度も気絶するなどという、みっともなくも命取りなミスを犯さずに済んだのだ。
「……目的は」
「は?」
「検査とやらの目的だよ。念の為っつったけど、何調べる訳?」
あくまで徹底抗戦の構えのエマヌエルに、ウィルヘルムはやや呆れたように肩を竦めた。
「マグネタインの中和具合を見たい。意識が戻って身体が動くならもう大丈夫とは思うがな。だから、『念の為』だ」
咄嗟に言葉が出なかった。
いくら彼が元医者だからと言って、未だ連続殺人の容疑を掛けられていて(その容疑については一部事実だが)、しかも得体が知れないであろう殺人マシン相手にここまでしてくれる理由が解らない。
「……見返りもなくそこまでしてくれる理由って何」
力なくそれだけ呟くと、ウィルヘルムは今度こそ呆れた表情を隠さなかった。
「理由が必要か?」
「は?」
「おれは今では死体相手の仕事をしてるが、元々は生きた人間相手の医者だ。その知識も持ってる。そして、目の前に傷を負った患者がいる。まあ、今この時に於いては、お前さんがその患者に当たるがな。その患者を、知識のある医者であるおれが手当をするのに理由が要るかと訊いてる」
半ば苛立った口調で返されて、エマヌエルは反駁の言葉を見つけることも出来ずに黙り込む。
「ヴァルカもそうだけどな、お前さん方、何でもかんでも穿って見過ぎなんじゃねぇの。ま、どーしても理由が要るってなら、こないだおれはお前に助けて貰った。それこそ理由もないのにな。その借りを返したってコトで納得しとけ」
またしても言葉が出なかった。
『納得しとけ』と言われても、急には納得出来る筈もない。
うまく思考の整理が出来ずに呆然としているエマヌエルにはお構いなく、ウィルヘルムが腕を取る。
少し前の――研究所を爆破した頃のエマヌエルなら一も二もなく振り払っていただろうが、今日に限っては出来なかった。動けなかった訳ではない。やろうと思えば多分腕づくで逃げ出すことも可能だった筈だが、どうしてもそれが出来なかったのだ。
ウィルヘルムが、彼の後ろにいたファランに指示を出す声が遠い。採血用のゴム紐で腕を括られる感触も、アルコールの臭いも、針を刺す瞬間の痛みすらも、どこか現実味がない。ウィルヘルムがいつ自分の前から辞して行ったのかすら判らなかった。
***
エマヌエルに、両親の記憶はない。
気付けば二卵生の双子の姉と二人、教会付属の孤児院にいた。
それでも、その頃は幸福だったと言って良いだろう。他にも孤児の仲間がいて、親代わりの神父がいた。
姉以外に血の繋がった者がいないなど、意識したこともなかった。普通の家族というのがどんなものかは知らないが、彼らとは、実の家族以上の絆で結ばれていた。毎日、笑って過ごした。
養父だった神父や兄代わりだった修道士達は、皆に愛情を注いで育ててくれた。病気で寝込んだ時には着ききりで看病してくれたし、怪我をすれば手当をしてくれた。欲得が絡まない、見返りを必要としない愛を与えられていた頃も、確かにあった。
けれども、それを何の疑問も持たずに受け入れていたのは、もうそれがいつだったのかを忘れ果てる程昔の話だ。十六という、エマヌエルの年齢から言って、そう遠い話ではない筈だが、少なくともエマヌエル自身としては随分昔のように感じる。
そう言えば、姉は元気にしているだろうか、と窓の外を見るともなしに見ながら思う。窓の外、と言っても窓には寒さを防ぐ為の厚手のカーテンが掛かっていて直接見る事は出来なかったが。
元気にしていたとしても、自分とあまり大差ない環境にいるであろうことは想像に難くない。
双子を共に引き取ってくれる養子縁組み先が決まったと言って、別れの名残惜しさに涙を滲ませながらも嬉しそうにしていた養父を恨む気持ちはない。彼は恐らく本当に何も知らず、心から良い里親が見つかったのだと思っていたのだろうから。
けれど、教会を出て、里親の家への中間地点とやらに着いてからが悪夢の始まりだった。
里親を世話する代理人とされる『国際孤児管理機構』の職員を名乗っていた男達が化けの皮を剥いだのは、その中間地点の建物に着いた瞬間だった。
路地裏に建っている、お世辞にも綺麗とは言い難い建物に、当時裏社会のことは何も知らなかったエマヌエルでさえ、只ならぬ不安を感じたことは、容易に思い出せる。
恐らく、姉も同じだっただろう。
そこで待っていた男達に、双子を連れて来た男達は金を受け取ると去って行った。
その場に残された幼い日のエマヌエルは、その日初めて会う男達を見上げた。
下卑た薄笑いを浮かべている、こんな男達が里親の筈がない。
あまりにも、今までの養父達と雰囲気が違う。
『ダメだ、逃げろ』――そう叫ぶ本能の警鐘に、素直に従っていれば良かったのかも知れない。
けれども、行動を起こすより先に、乱暴に腕を取られた。姉は、別の男達にやはり腕を取られて引き擦られて行く。
自分の名を呼びながら必死で自分に手を伸ばす姉を引っ張り、男達が建物の前に停めてあった二台の車の片方へ歩み寄る。後部座席へ姉を突き倒すようにして押し込み扉を閉める。その場にいた約半数の男達と共に取り残される自分。
そうなってみて、初めて自分は姉と引き離されたのだと悟る。走り出す車に駆け寄ろうとして、後頭部に打撃を受けた。昏倒させられ、次に目覚めた時にはもうこの身体は――――……
「……っ!」
堪らなくなって、点滴管が刺さっていない左腕で目を覆う。涙が出そうだった。
それが、やり直せない過去へのもどかしさの所為なのか、救えなかった姉への申し訳なさの為なのか、久し振りに思い出した傷に対してただ純粋にやり切れなくなったからなのか、エマヌエルには判らなかった。
目をきつく閉じて、深呼吸する。歯を喰い縛って、慟哭の衝動をやり過ごそうとする。
(……まだだ)
ここで折れて、壊れている場合ではない。
まだ死ねないのだ。全てに決着を着けるまでは。
そろりと腕をどける。多少涙は滲んでいたが、欠伸と共に出た量と大して変わりはない。
それ以上、こみ上げて来るものがないのを確認して息を吐く。
人が近付く気配に気付いたのは、その時だった。
極力音を立てないようにしながら、カーテンをそっとめくって顔を覗かせたのは、白銀色の髪を持つあの女性だった。
「あ、起きてた?」
音量を抑えた声を掛けながら、ファランはカーテンの内へと足を踏み入れる。
首肯するのも、何の用だと質すのも億劫で、エマヌエルは沈黙を返した。
「ごめんね。寝てるかも知れないとは思ったんだけど……あ、もしかして起こしちゃった?」
言いながら、ファランはベッド脇に備え付けられた丸椅子を引き寄せて腰を下ろす。当分居座るつもりらしいのが見て取れて、エマヌエルは内心うんざりした。
「……あの、具合はどう?」
流石に反応のないエマヌエルに戸惑ったのか、ファランの言葉は歯切れが悪くなる。
あんたに答える義理はない。
そう胸の内で返しながら、しかしやはりそれを口にはしなかった。
初めて会った時も思ったが、この女性は空気を読むということを知らないのだろうか。
エマヌエルから返事をしない為、暫くその場は静寂に満ちていた。
心地好いとは言えない静けさだ。もっとも、エマヌエルはファランから目を背けていたので、彼女がどう思っていたかは判らない。
ファランは、再び声を掛けるでもなく、立ち去るでもなく、相変わらずそこに座っていたが、沈黙に耐え兼ねたのか、また自分から口を開いた。
「……あ、……あのね」
「――……」
「き、――……訊きたいコトがあるの」
「……?」
エマヌエルは、その時になって初めてファランの方へ顔を向けた。
多分、自分はもの凄く迷惑げな顔をしていたに違いない。視線が合った途端、ファランは怯むような仕草を見せた。このまま退きたい、という気持ちとすぐにそれを叱咤する表情が見事に顔面を往復した後、彼女は意を決したという顔つきで言葉を継いだ。
「あなたが……あの時言ってた言葉の意味を」
「……あの時?」
億劫だ、という内心を隠しもせずに問い返す。
心底面倒くさかったが、この女性は自分の用事を終えなければここを離れないだろうことも、何となく解っていた。
「あの、初めて会った時に言っていたでしょう。私は、物の裏側を知らないって」
「……ああ」
そのコトか、と納得する。同時に、目の前の女性が、そんなことを覚えていたのが少々意外だった。
自分に関わりないであろうことは、さっさと忘れてしまえる類の天然だろうと思っていたのが、どうも見当違いだったらしい。
「それを、教えて欲しいの」
一方、エマヌエルの胸中など知る由もないファランは、真剣な眼差しで半ば縋るようにこちらを見ている。
「『それ』って……どの辺りのコトだよ」
「この研究所の裏側の話よ」
焦れったそうに眉根を寄せる様は、決まってるでしょと言わんばかりだ。
エマヌエルに言わせれば、『物事の裏側』と言えばかなり広範になるが、ファランにとってはその一点だったらしい。
「貴方が知ってるか判らないけど……この研究所のファースト・ラボで爆発事故があったの。一ヶ月くらい前の話よ」
もうそんなに経つのか、と思いながら、エマヌエルはリアクションを口にも表情にも出さなかった。
知っているも何も、あそこを爆破したのは自分だ。
こいつも犯人捜しのクチか――と、気紛れでも相手にしたのを後悔し掛けた時、話は予想外の方向へ転がった。
「その爆発に巻き込まれて、婚約者が亡くなったの」
犯人捜しじゃなく、メロドラマか。
これならまだ犯人捜しの方がマシだった。いや、やはり敵討ち目当ての犯人捜しか。
「……でも、亡くなったと思ってた彼が、生きているのが判ったの」
やっぱり単なる犯人捜しの方がマシだった。それよりもタチが悪い。続きは訊かなくても判った気がした。
「それで、……彼の行方を捜しているの」
「それが俺に何の関係があるんだよ」
「直接は、何の関係もないわ。ただ……貴方なら知ってるんじゃないかと思って」
「彼氏の行方をか?」
知る訳あるか、という意味を言外に込めて、投げ出すように問う。
「そうじゃないの。そうじゃなくて……その、爆発事故の当日の事を何か知ってたら……」
終始つっけんどんなエマヌエルの口調に、次第に語尾を弱々しく濁しながら、それでもファランは言いたい事を言おうと必死になっているようだ。
その余り、少々思考が混乱し始めているらしい。
先刻は、エマヌエルが爆発事故のことを知っているかどうか判らないと前置きしたくせに、今は既に『知っている』のが前提になってしまっている。
「それが彼氏の行方と何か関係あるのか」
「関係あるかどうかは判らないんだけど……ただ、その、爆発事故の後、姿を隠していたらしくて」
「……結局あんた何が言いたいんだよ」
要領を得ない話し振りに、苛立ちを隠せなくなる。明らかに自分より年上と思えるファランが、話の要点も纏められず、相手に何を言いたいのかが伝わらない。これでよくこの研究所のスタッフをしていられるものだ。そう思うのは二度目だなと気付いて、エマヌエルは溜息を吐いた。
「だからっ……彼の行方を捜してるの」
「それは解った。その彼氏の行方と、爆発事故からこっち彼氏が身を隠していたってコトが、どういう関わりがあるんだと訊いてんだよ」
「それは……」
初めてファランが言い淀む。ここまではしどろもどろではあったものの、どうにか言葉を繋いでいたのに、一瞬それが途切れる。
「それは、……ごめんなさい、言えないの」
数瞬の逡巡の後、ファランはエマヌエルの問いにきっぱりと口を噤む意を示した。
「ふぅん……んじゃ、この話はここまでだな」
用が済んだら帰れよ、と空いた左手で彼女を追い払う仕草をすると、ファランはいつしか俯けていた顔を弾かれたように上げた。
「そんなっ……」
「そんなもこんなもどんなもさ。そもそも俺はあんたが欲しい情報をくれてやる義務も義理もない」
「貴方が求める答えを言えないのは申し訳ないと思ってるわ。でも、仕方ないの」
「何が」
「どうしてもそれは言えないの。言わない約束だから」
「約束? 誰との」
ファランを半ば睨め付けると、彼女はしまったという顔をして口元を押さえた。暫しの沈黙が再びその場に落ちる。
「……それも言わねぇ約束だったワケだな。まあいい。とにかくもう――」
帰れよ、と言い掛けてエマヌエルは口を閉ざした。
訝しげな視線を向けるファランを余所に、むくりと身体を起こす。目眩もなく、傷も殆ど痛まない。今ならこのまま逃げ出せそうだ、と頭の端で思いながら、点滴スタンドを持ってベッドの足下へにじり寄る。
ベッドの数十センチ向こうに仕切り代わりに降りているカーテンの向こうに、感じる気配は二人分。無言で力一杯カーテンを引き下ろした。無残な音を立ててカーテンレールが派手に折れ曲がり、留め具が弾ける。
目隠しがなくなったその向こうには、普通の病室があった。六人部屋らしい室内には、エマヌエルが今使用中のものを含めて合計六つのベッドが等間隔に三つずつ、向かい合う形で設置されている。
但し、そこは無人ではなかった。
カーテンからすぐの距離で、何故か中途半端に『ホールドアップ』の姿勢を取っているウィルヘルムと、その隣に目を剥き出さんばかりに見開いたいつぞや会った少し太めの刑事。その背後には、空いたベッドの端に、ヴァルカがちょこんと腰掛けている。
「あーあ、見つかっちゃった。だから止めようって言ったのに」
一応止めたわよ? と言いたげなヴァルカの台詞だが、信憑性は皆無である。彼女一人だけなら、その気になればエマヌエルに気付かれずに盗み聞きするくらいは容易いからだ。
「……てめぇら……」
自分でも聞いたことのないような低い声が、小刻みに震えながら地を這いずる。
「まっ、待て! おれはただそのー、そうっ、点滴換えに来ただけで!」
「たった今思い付いた、みたいな言い訳すんな! まだ薬がたっぷり残ってんだろが!」
もっともな矛盾を突かれて、ウィルヘルムは二の句も継げずに息を呑む。
「わたしは君の意識が戻ったと聞いて、取り調べに来た。そうしたら先客がいたのでな。立ち聞きする気はなかったんだが」
名前を知らない中年刑事の方は、紳士然とした言い分を述べながら、その瞳には優しげな光はどこにもない。仕事をしに来た刑事そのものである。
「取り敢えず、器物損壊の現行犯で逮捕出来そうだな」
原型も留められずに折れ曲がったカーテンレールと飛び散った留め具にちらりと視線を走らせると、刑事は軽くエマヌエルを睨んだ。
「そんな下らない理由で逮捕されるくらいなら、この場でもう一暴れしてもいいぜ。丹精込めた看病のオカゲでもう大分回復してるからな」
刑事の方を斜に睨み返して、ニヤリと唇の端を上げて見せる。
掛け値なしの事実だった。二度目に気を失ってからどのくらい時間が経ったのかは判らないが、傷の痛みは既に殆どない。手当てを受けなくてもこれなら本当に全快するのに後二、三日と言ったところか。
「ちょっ、ちょっと待ってよ! 私の話が終わってからにして!」
相変わらず空気を読めない、自己中な声音が割り込んで来る。エマヌエルは、そちらには視線を向けずに言い返した。
「あんたとの話は終わってる。大体こっちの質問には答えずに自分の欲しい情報だけ聞こうなんて随分都合良くねぇ?」
「それはっ……それは、そうだけど、だけどっ……」
ファランが、キュッと自分のスカートを握り締めて俯く。
「では、代わりにおれの質問に答えて貰えるかな」
一瞬の沈黙の後、口を開いたのは、中年刑事だった。
「おれの訊きたいことも、そこの彼女と大体同じなんでな。君は、先日の爆発事件の重要参考人だと聞いた。何か知っていることはないか」
「誰に何をどこまで聞いたかは知らねぇが、黙秘権があるなら行使する」
「黙秘は関わっていると見なすと言ったら?」
エマヌエルは、静かに刑事を睨んだ。今度は正面からだ。
「言っても良いけど、結構デカいと思うぜ」
「どういう意味だ」
「さあ? 知りたきゃ自分で調べれば」
話したところで、理解は得られまい。解るのは、そこに居るヴァルカだけだろう。
そもそも、他人の理解もエマヌエルの欲しいものではないし、そんなものは寧ろ要らない。正攻法で相手を罰することも望まない。
(俺が、欲しいのは)
欲しいものは、この身体をデタラメに改造してくれた科学者達や、そのキッカケを作ってくれた人買い達の命。しかも法の下で裁かれた結果、死刑で奪われた命ではなく、この手で、この能力を使って断罪の末にもぎ取ったそれでなければ意味がない。
(だから)
もし、邪魔をするのなら、CUIOという組織を敵に回すことも厭わない。それを口にすることなく、剣呑な視線に乗せて、刑事を冷然と睨め付ける。
しかし、人生の半分以上を刑事として生きた男は、そう易々と退いてはくれなかった。
「じゃあ、質問を変えようか。これに見覚えはあるかな」
刑事が上着の内ポケットから取り出したものは、USBメモリだった。中のデータを見る際に、パソコンに接続する部分には蓋がされておらず、黒ずんだ汚れのようなものがこびり付いている。
眉を顰めてそれを眺めていたが、記憶に思い当たる箇所に辿り着いた瞬間、目を見開いてしまった。
辛うじて声だけは呑み込んだが、一見些細に見える反応も、仮にも取り調べのプロが見逃してくれる訳もない。咄嗟に奪い返しそうになるのを、意思の力で押さえ付ける。
間違いなく、自分がヴァルカと初めて対峙した日に開いていたデータが入ったものだ。中身を見られたとしたら――。
「察しの通り、君が所持していたものだよ。君がその重傷を負った日に、申し訳ないが着衣を調べさせて貰って見つけた。が……」
必死で平静を装うエマヌエルを挑発するように、刑事が間を持たせるように言葉を切って、手にしたUSBメモリを弄んでいる。
「残念ながら、中身は見られなかった。君の血液をたっぷり吸ってしまったようで、使いものにならなくなっていてな。中身は何だったのか聞かせてくれないか」
中身が相手に知られていないのが判ってホッとした反面、作業半ばにして手掛かりを失ったことに歯軋りする思いだ。研究所の裏メンバーを記したデータはあれだけではないが、あの世送りにしてやった人間をチェックしてあるものはあれしかない。
「……さあな。それこそ自分で調べたらどうだ。消去したデータでもその気になれば見る方法はあるって聞いたコトがあるぜ」
「そうか」
吐息と共に吐き出された言葉は、あっさり退くもののようにも思えたが、これまでの経緯を鑑みれば返って不気味だ。
「んじゃ、お言葉に甘えて」
それまで黙って成り行きを見守っているかに見えたウィルヘルムが、おもむろに進み出る。
「実はもう解析済みだったりして」
ニヤリと口の端を上げた彼の懐から、縦幅八センチ・横幅十五センチ程の小さなノート型パソコンが登場した。
「本当か? ウンともスンとも言わないって匙を投げてたじゃないか」
この展開は、中年刑事の方も予想外だったらしい。丸くした目を、ウィルヘルムに向けている。
「おれ様が負けっ放しで引き下がってると思ったら大間違い。それに、天才に不可能はねーんだよ」
口を動かしながら、パソコンを起動させて片手でキーボードをいじると、中年刑事の方へ画面を向ける。
「って言ってもかなり苦労したけどな。こっちはそのUSBから抽出したデータ。んで、こっちがここの研究所のデータにハックして持ち出した原データだ」
どう? と言うように、画面をエマヌエルにも見えるように向けてくる。
画面が丁度真ん中から左右に割れて、向かって右側がUSBから取り出したもの、左が大元のデータらしい。右半分には、エマヌエルがチェックした痕がそっくり映し出されている。
「調べてみたら、これは全員研究所の『裏』プロジェクトチームに籍を置いてた連中だった。プロジェクト名は『スィンセティック』、通称SP」
「嘘っ……!」
半ば悲鳴じみたリアクションに、全員がそちらを向いた。
エマヌエルの背後で話を聞く形になっていたファランが、真っ青になって口元を押さえている。
「……ありゃ。お嬢さんにはちっと刺激が強すぎたかねぇ」
しまった、という顔をしてウィルヘルムが舌を出して肩を竦めた。会話の中心がエマヌエルと刑事に移っていたので、彼女の存在を失念していたらしい。
「驚かせてしまいましたな、ミズ。外へ出ましょうか」
「待って……」
促すように肩に手を添えた中年刑事を制して、ファランがウィルヘルムの持つパソコンに手を伸ばす。
「これ……全部、裏プロジェクトに関わってる人の名簿だって言いましたよね」
「え、……ああ、まあ。引かれた線が意味するところまではまだ判らないんだが……」
彼女との初対面時の言葉遣いを忘れているのか、すっかり素の喋り方でウィルヘルムが答える。
「本当に……?」
「どうかしましたか」
刑事が尋ねるが、ファランはまだ何らかのショックから立ち直れないでいるようだった。白く細い指先が、ある名前を確認するようになぞっている。
「ウォーレン=パターソン? 知り合いですか」
「……このことだったんですか……? CUIOが極秘に捜査していた理由は……」
「極秘の捜査?」
刑事が白いものの混ざった眉を顰めて、鸚鵡返しに問うた。
それに気付いているのかいないのか、ファランは譫言のように呆然と呟き続ける。
「ウォーレンが……裏プロジェクトに関わっていたから、CUIOは極秘にウォレスの行方を……?」
「待って、落ち着いて。詳しく聞かせて下さい。一体誰がそんなことを? ウォレスとは誰です!?」
「そんな……そんな、嘘……ウォーレンが……ウォーレンが関わっていたなら、ウォレスも……?」
刑事の言葉を無視して、半ば自分だけで確認するかのように独白が続く。誰も止められない壊れたレコードのように、ファランの声だけが落ちる室内で、それまで黙ってベッドの端に座っていたヴァルカが立ち上がった。
スタスタと歩を進めて、刑事を強引に退かせると、ファランの頬を引っ叩く。パン、という乾いた音と共に、ファランの独り言が途絶えた。
唖然として自分を見つめるファランを、ヴァルカは冷ややかに睨め付けてピシャリと言い放った。
「感傷に浸りたいなら、後でいくらでも時間をあげるわ。だから、今はあたし達の質問に答えて。簡潔に速やかに、要点だけを絞ってね。CUIOの極秘調査って何の話?」
引っ叩かれたファラン本人のみならず、エマヌエルも、刑事もウィルヘルムも、呆然とヴァルカに視線を向けた。元々きつい性格なのではないかとは思っていたが、全く容赦がないとはこのことだ。――もっとも、エマヌエルも他人のことを言えた性格ではないが。
「……だって、……あの、いいの? 彼は……」
叩かれた衝撃と、自分の知り合いが裏に関わっていたというショックが相俟って震えながら、ファランはチラリとエマヌエルに視線を走らせてどうにか言葉を口に乗せる。
「彼は……部外者でしょう? 極秘だから他言しないようにって言われて……」
「だから誰に?」
苛立ったように問い詰めるヴァルカに、ファランは尚も戸惑った表情をしていたが、自分が答えなければ話が進まないとようやく判断したようだった。
「……レムエ支部の副支部長をしてらっしゃると伺ったわ。確か……マックイーン捜査官……」
「マックイーンだと!?」
顔色を変えたのは、中年刑事だった。
「ベン、何の極秘調査だったの?」
ヴァルカが険のある視線で鋭く中年刑事を質すと、刑事の方も半ば狼狽えた表情を隠さずに言う。
「そんな調査は一切指示してないし、ウォーレン=パターソンやウォレスという名も初めて聞いた。彼らが具体的に何をしたのかもおれは報告を受けてはいない」
ヴァルカは、ふぅんと言うように肩を竦めてファランに向き直る。
「マックイーンとは何を話したの?」
ファランは、数日前に自分の勤める研究室にマックイーン捜査官が訪ねて来たこと、ウォレスが映った監視カメラの映像を見せられたこと、映像が撮られた日時と捜査理由を聞かされたことを、辿々しく口に乗せた。
「ウォーレン=パターソンとウォレスの関係は?」
「双子の……兄弟よ。ウォーレンもあれから行方不明で……どちらか区別が付かないから、ご両親や私の所にも訊きに来たみたい」
「問題は、マックイーンが何故それを上司であるベンに報告しなかったかってところね」
「もう一つ疑問があるぜ」
それまで黙っていたエマヌエルも、口を開く。
「あいつ、一応CUIOの職員なんだろ。一介の捜査官が何でマグネタインの弾丸なんて持ってやがったんだ?」
すると、ヴァルカも形のよい眉根を寄せた。
「そうよね……マグネタイン弾なんて、あたしも初めて聞くもの。研究所で研究開発されていたとしても、そう簡単にCUIOに渡る代物じゃない筈だわ」
「今回の捜査で押収されたって可能性は?」
エマヌエルが中年刑事に顔を向けると、刑事は渋面のまま答えを口に乗せる。
「裏についても全部把握している訳ではないからな……それに、押収したとしても、おれを通さずに使用はさせない。第一、いくら被疑者を捕らえる為でも、証拠品をそう易々と使用許可は出さん」
「んじゃ、結論は一つなんじゃねぇの」
CUIO関係者である刑事とウィルヘルム(とヴァルカはどう思ったかは判らなかったが)には言い難いことを、どこかのんびりとした口調で、エマヌエルがサラリと指摘した。
「そのマックイーンておっさん、研究所と繋がってんだよ」
考えたくない可能性をあっさりと呈示された為か、刑事は難しい表情で黙り込む。ウィルヘルムの方は、件のマックイーンがマグネタイン弾を使用した現場に居合わせた所為か、さほど動揺した様子を見せなかった。
(もしくは、ノワールと……って可能性も捨てられねぇけどな)
それを横目で見ながら、エマヌエルは胸の内で付け足した。
***
深夜の廊下に、ウォレスはひっそりと佇んでいた。
視線の先には、見張りの警官が立っている。その背後には、病室の扉があった。
そろそろ、我慢の限界だった。
あの爆発が起きた日、ウォレスは特殊な身体を得ていた故に命拾いしていた。
ふと気付くと、瓦礫の中に倒れ伏していた。どこかへ叩き付けられたのか、身体の節々が痛んだが、動けなくはなかった。
その足で、兄の元へ走った。兄は、その日、ある被験体のバージョンアップの手術で執刀する予定になっていた。
地下五階の、第一手術室。しかし、その周辺はもはや壊滅状態だった。必死に探したが、兄は遺体の中にもいなかった。
混乱に紛れてデータを当たり、その中からあの日の第一手術室を写した動画を見つけだした。
自分が手にした、その同じ忌むべき力で、兄が最初に犠牲になったのを知った。気が狂うかと思った。いっそ、狂ってしまえば、正気を失ってしまえば、何も考えずに済んだだろう。
何も知らなければ――兄を奪った相手が何者なのか知らなければ、なりふり構わず兄の仇を討っていた。
けれど、自分は知っているのだ。
相手が、自分達研究者にどんな仕打ちを受けていたか。
この研究所で、どんな研究が行われているか。
相手にもし自我があるなら、研究者に対してどんな感情を抱くか、想像するまでもない。
だから、彼を見付けた時も、躊躇ってしまった。自分の恨みは正当だろうかと。けれど、彼は兄を奪ったのだ。理由はどうあれ自分達のして来たことと、兄を奪われたことへの憎しみとの狭間で見出した答えは、自分で手を下さずに兄を殺した報いを受けさせることだった。
身を潜めて成り行きを見守る内、国際連邦捜査局(CUIO)がフロリアンの地へ入って来た。ならば、話は簡単だ。彼を、CUIOに逮捕させ、公的に裁いて貰えばいい。そうする内には、この研究所の裏側も明らかになるだろう。
父の無念も晴らせる。
だから、彼が研究所内で殺人を犯す度に、その後へダイイング・メッセージを綴って回った。
彼が、サクセスナンバーに殺され掛かった時も、もしかしたらこのまま死んでくれるのではないかと期待した。しかし、うまくいかなかった。
だから、能力を使ってノワールからの刺客を殺した。ダイイング・メッセージを残せば、彼に嫌疑が掛かるだろう。狙い通り、CUIOは彼を拘束に掛かったが、まんまと逃げられた。
その後、ウォレスは独自に彼を探し回ったが、何せ広大すぎる施設の中では、一度見失った人間一人を捜し出すのは容易ではなかった。
そうこうする間に、CUIOのレムエ支部副所長が独自に動き始めた。何か掴んだかと注視する間に、自分の生存を察知されたと知って、少し焦った。
だが、ウォレスも、経緯はどうあれ改造手術を受けた身で、そう易々と尻尾を掴ませる真似はしなかった。更に三日経って、副所長が遂に彼を発見、追い詰めた。
今度こそ、うまくいくかと思ったのに、選りによって、その手当にファランが関わることになってしまった。
もう、これ以上時間を掛ける訳にはいかない。既にあれから、ひと月経っている。もう、ここまでだ。理性は、完全に感情に押し潰されていた。
(ウォーレン……)
無意識に、片割れの名を呼ぶ。
兄を奪われることが、もしかしたら自分への報いだったのかも知れない。だとしたら、黙って受け入れるのが、彼らへの詫びとなるだろう。
けれど、自分はどうしても黙ってそれを受け入れることは出来なかった。
後ろめたさも、罪悪感も、兄を奪われたことへの苦しさに比べたら、何程の意味もない。
ただ、心残りがあるとすれば、それは――伏せていた目を上げた瞬間、見張りの背後にある扉がスライドする。
内から顔を見せたのは、白銀色の髪を持つ女性――ウォレスの『心残り』だった。
***
手を洗い終えると、ファランは蛇口を捻った。
キュッという音が、人気のない女性用化粧室の流し場内で殊更大きく響く。
たまたま例の少年の取り調べ現場に居合わせたファランは、ウォーレンとウォレスの兄弟が裏プロジェクトと関わりがあったらしいのを知ることになった。
裏プロジェクト――その細かな内容は知る由もない。けれど、何か良からぬことであろうという想像は付く。そんな研究に、幼なじみのウォーレンと、愛しいウォレスが関わっていたことは、勿論ショックだった。が、呆けている場合でもない。
先刻、紅い髪を持つ少女に叩かれた箇所に手を添える。洗ったばかりでひんやりとした掌が、まだ火照りを覚える頬をいい具合に冷やしたような気がした。
結局、現時点で判っていることは、兄弟が良からぬ研究に手を染めていたらしいということだけだ。
肝心のウォレスの行方については、未だに全く手掛かりなしである。
だが、その手掛かりとなりうる少年の方は、まだ当分警察が放してくれそうにない。
ファランが化粧室に立つ間際まで、裏プロジェクトスタッフの名簿を前に、取消線の意味を問い詰めるウィルヘルムを、少年はのらくらとやり過ごそうとしていた。終わりのないループのような討論がいつまで続くやら想像も出来ないが、ファランにとってもあの少年はウォレスの行方の手掛かりであることに変わりはない。
当分あの場から両者共動くまい。ファランとしても長期戦は覚悟した為、一時休憩とばかりに手洗いに立ったのだ。
濡れた手をタオルハンカチで拭きながら、化粧室の外へ出る。
出入り口を真っ直ぐ出て、一・五メートル程歩けば廊下だ。そこをすぐ左手に曲がれば、少年がいる病室までは遮蔽のない道である。言い換えれば、そこまでは病室前から見えない死角だ。
けれど、見張りの刑事が立っているその場所で、よもや何も起きまいということで、誰も化粧室の中まではついて来なかった。
だが、トイレの出入り口を出て、二、三歩も行くか行かない内に、いきなり背後から抱き竦められる。
何、と思う間もない。悲鳴を上げ掛けた口も大きな掌で押さえられて、それが音になることはなかった。
(嘘っ……一体誰が)
混乱しながらも、ファランは反射的にもがいた。もがいて、訳の判らない拘束から逃れようとする。
(ウォレスっ……!)
無意識に愛しい人の名を脳裏で叫ぶ。
すると、まるでそれが聞こえたかのようなタイミングで。
「落ち着け、ファラン。俺だ」
耳元に落ちる、低い声。
ファランは、もがくのを止めて、目を見開いた。同時に、自分を戒めていた腕の力が緩む。
信じられない思いで、のろのろと振り返る。
視線の先にいたのは、あれほど焦がれた最愛の男性――
「……ウォ、レス……?」
ウォレスは、何も言わなかった。
ただ無言で、申し訳なさそうな、それでいて少し嬉しそうな複雑な表情でファランを見下ろしていた。
ファランも、何も言えなかった。
亡くなったとばかり思っていた彼が、生きていたのを知った時よりもずっと混乱している。混乱というより、何も考えられないと言った方が正しいだろうか。
頭の中が、真っ白になっている。
何を言えば良いのか、全く判らない。脳が言葉を忘れてしまったようだった。
ただ嬉しくて、鼻の奥が痛む。視界が揺れて、頬に温かいものが伝う。その時、彼の指先が頬に触れた。
「……悪かったな。心配かけて」
困ったような微笑が、彼の顔に浮かぶ。
目元を優しく拭われて、初めて自分が泣いているらしいのに気付いた。
彼の言葉を否定したいのに、嗚咽に邪魔されて声が出ない。無言で首を横に振りながら、彼にしがみついた。
彼も、何も言わずに、ただ抱き返してくれる。
(……夢じゃない)
自分がしがみついている彼の身体も、自分の身体に回されている腕も。
(夢じゃ、ない)
「……夢じゃ、ない、よね」
「……ああ」
自分で反芻するだけでは不安で、確認するように彼に問い掛けると、彼の声が耳元で肯定の言葉を返してくれる。
彼に会ったら、訊きたいことが、沢山あった筈だった。
今までどうしていたのか。
何故、隠れていたのか。
何故、自分にまで生存を隠していたのか。
それから――
最後に形にし掛けた疑問を、しかしウォレスの身体に殊更強く抱きつくことでやり過ごす。
今は考えたくなかった。
いずれ質さねばならないことでも、今だけは何も考えずにいたい。
今はただ、彼の体温を感じていたい。再会出来た喜びだけを胸に、今日はもう眠りたかった。
取り敢えず、帰ろう。
小母様も、きっと喜ぶわ。
そう言おうとして顔を上げたが、そこにいたのは、ファランの知らない顔をした彼だった。
「ファラン。悪いけど、このまま帰ってくれるか」
「えっ……」
どうして?
いつもの自分なら聞き返していた。
今までだってそうして来た。
何でも話し合って、隠し事なんて一つもなくて――。
けれど、ファランは言葉を呑み込んだ。
今のウォレスは、聞き返すことをファランにさえ赦さない、そんな空気を纏っていた。
こんな貴方は知らない。
私の知ってる貴方は、理知的で聡明で、でもその言葉が現す少し鋭い印象とはかけ離れて優しくて穏やかで――こんな、刃物のような雰囲気とは無縁の人だったのに。
今の彼から感じるものは、ただ踏み込めないもの。
(……どうして?)
ひたすら、疑問しか沸いて来ない。
何故、どうして――けれど、それは言葉に出来ない。それこそ、今してはならないことだと、本能が警鐘を鳴らす。理由だけが判らない。
少し、脅えた顔をしていたのかも知れない。
言葉もなく自分の顔を見つめているファランに、ウォレスは困ったような笑みを浮かべてまた頬を撫でた。
「……悪い。終わったら全部話すよ」
「終わったら?」
何が終わったら?
けれど、それも訊けなかった。
ウォレスの顔が近付いて、唇に一つ、キスが落ちる。
「……もう帰れ。絶対戻って来るなよ」
危険だから。
そんな風に彼の唇だけが動いたような気がしたが、よくは判らなかった。
スルリと手が離れる。
『行くな』と言えば良かったのかも知れない。
これが、本当に引き留められた最後の機会だったかも知れないのに、ファランはやはり動くことも出来ずに彼の背中を見送った。
――いつか見た、夢の中のように。
***
「……いい加減吐いたらどうなんだ」
「何を」
「だから、この線の意味だよ」
「意味って?」
「それを訊いてんだろが」
「自分で調べろよ」
先刻からこんな会話が、もう二十分は続いているだろうか。
終わりのない無限ループのような問答によく飽きないものだと、当事者でありながら感心半分、上の空半分で、エマヌエルは目の前にある液晶を睨んでいた。
映し出されているデータを記憶する為だが、勿論目の前にいるウィルヘルムは、その辺には気付いていないらしい。大事そうに小型パソコンを抱えたまま、延々と質問し続けている。
中年刑事の方は、研究所との癒着疑惑が沸いたマックイーンの様子を見に行くと言って、あれからすぐこの部屋を後にしていた。
ファランと名乗った女性も『すぐ戻る』と言って席を外している。
ヴァルカは、元通り空いたベッドの端に腰掛けて、堂々巡りを繰り返す会話の見物人と化していた。
ご苦労なコトだ。
そう脳裏で呟きながら、画面の右半分――自分の持っていたデータを頭に叩き込むことに、今は六割程の神経を集中させていた。
奪い取って逃げられれば一番早いのだが、そういう訳にも行かない。
ちらりと点滴袋を見上げると、中身の残りは全体の約二割になっていた。ただの栄養剤なら、とっくに管を引き抜いてこのパソコンを奪い取り逃走を決行している。だが、生憎これはマグネタインの中和薬らしい。
血液検査の結果、一応ほぼマグネタインの成分は消失していたようだったが、念の為ということで注ぎ足されたものだ。マグネタインを直接体内にぶち込まれたのは、エマヌエルも初めての経験で、自然に抜けるものなのか、そうでないのかは判らない。
今のところ、危害を加えられる心配はないと判断した為、薬がなくなるまでは大人しくしていることにしたのだ。
(……それにしても)
こいつ本当に医者なんだろうか、とエマヌエルは思う。
正確に言えば、『元』医者らしいが、仮にも意識が戻って間もない怪我人相手に取り調べとは、どういう神経をしているのか。
そこまで考えて、エマヌエルは内心で首を振った。
怪我人、と言っても、『スィンセティック』は所詮元人間であって人間ではない。
人間扱いする必要もないということだろう。
それに、自分も他人の神経をどうこう言えた立場ではない。
そう思うと、自嘲めいた苦笑が漏れた。
「……何がおかしい?」
それを耳聡く聞き付けたのか、ウィルヘルムが眉根を寄せる。
別に、と答えながらエマヌエルは肩を竦めた。
今更『人間扱い』して欲しいだなんて、何を考えているのだろう。
感傷をシャットアウトして、改めて画面を凝視する。しかし、難点は画面をスクロール出来ないことだ。手を出せば何をしているんだと咎められるのは火を見るより明らかである。
これでは、全部のデータに目を通すことが出来ない。それに今表示されている画面のデータは、ほぼ斜線で埋まっている。用があるのは、この下だ。
思わず舌打ちしそうになって、エマヌエルは瞬間、息を詰めた。
だが、舌打ちを堪えようとした訳ではない。
(……何だ、今の)
何か、空気が動いた気がした。
(廊下か?)
一瞬、ヴァルカと視線が合う。
ベッドに腰掛けたままの姿勢ではあったが、彼女もどこか身構えているのが解る。気の所為ではない。
エマヌエルは、点滴管を躊躇いなく引き抜いた。
「おいっ……」
まだ薬が残ってるのに、と言いたげな声を上げるウィルヘルムを視線で黙らせる。悠長に普通の患者をやっている状況ではないのだ。
瞬間、扉がスライドする。
エマヌエルは瞠目した。
「あんたは……!」
そこに立っているのは、二十代半ばに見える青年だった。
短く切り揃えられた濃紺の髪に、モスグリーンの瞳。どこか角張って見える輪郭に、端正な容貌。身長は百七十センチ前後といったところか。
黒の上下に白衣を羽織っているところを見ると、スタッフのようにも思えたが、エマヌエルはその顔に見覚えがあった。
「よかった。俺の顔、覚えてるみたいだな」
青年の唇の端が、微かに吊り上がる。
視界の端に、ウィルヘルムが、訳が判らないといった顔で立ち尽くし、ヴァルカが銃を抜くのが確認できた。
「まあ、俺の方じゃ、お前とは初対面なんだが」
以前にどこかで、全く同じセリフを吐いた記憶がある。思考の片隅でそんな事を考えながら、唇を噛み締めんばかりに引き結んだ。
(初対面だ?)
そんな筈、ねぇだろ。
だが、今は相手にまともに受け答えすれば、それはそのままCUIOへの言質となって、ウィルヘルム辺りからあの中年刑事へ伝わってしまう。迂闊なことは一切言えない。
あんたは、死んだ筈だ。
そう叫びそうになるのを、すんでで堪える。しかし、内心は幼い頃に聞いた怪談の類を実体験している気分だった。
あの日――爆発事故のあった日。今目の前にいる男は、この世から消滅した筈だった。あの日の、爆発の中で――フォトン・シェルをまともに喰らって。
(……冗談だろ)
「俺が生きているのが心底不思議だってツラしてるな」
生きている筈がない。胸の内でそう繰り返すエマヌエルの思考を的確に言い当てて、男は面白そうに笑った。
「種明かし、してやろうか? 但し――」
パキン、と何かが爆ぜる音がする。男の腕に見知った青白い光が走って、エマヌエルは今度こそ目を剥いた。
「お前が死ぬ寸前にな」
言い終わるか終わらないかの内に、男が床を蹴った。