表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/40

CODE;7 Key person

『明日、早じまいなんだ。仕事終わった後、予定が空いてたら一緒に食事しないか?』


 その日、夜勤で職場に泊まり込みの彼から、そんなメールが届いたのは、そろそろベッドへ入ろうかと思っていた矢先のことだった。

 急いで記憶を手繰る。

 仕事の後、特に予定はなかった筈だ。

『うん、いいよ。じゃあ明日、仕事が終わったらまたメールする』

 手早く文章を打って、送信ボタンを押す。

 頭の中が浮き立って、顔がだらしなく笑み崩れるのを自覚するが、どうしようもない。

 ここ暫く忙しくて、彼の身体が空けば自分、自分の予定が空けば彼に必ず仕事がある状態だった。それが、もう一ヶ月も続いている。

 このところ、彼との接触と言えば、職場でほんの一、二秒、すれ違う程度だった。

「あ」

 何を着て行こう。

 何しろ、一ヶ月振りのデートだ。

 下手な服は着て行けない。

 そう思った途端、寝る間際であったことは、思考の隅へ追いやられる。

 その後小一時間、ああでもないこうでもない、と洋服ダンスから引っ張り出した服達と格闘し、さて寝よう、と思った直後に、彼からの返信に気付いた。

『OK。ちょっと遠いけど、郊外のレストラン、予約しておく。じゃあ、おやすみ』

 素っ気ないほど、短い文章。

 しかし、それを映し出す携帯端末の液晶画面を愛おしむように、そっと指を走らせる。

 勢い浮き足立った思考は、そう簡単には眠りに入ってはくれそうにない。

 けれど、デートの前に通常業務をまずこなさねばならないのだ。寝不足での仕事は御免蒙りたい。

 自分も、就寝の挨拶を綴ったメールを送り返してベッドへ入った。

 それが、彼との最後の交流だなどと、考えもせずに。


(ウォレス)


 昼間、彼と職場ですれ違った。

 立ち止まって、二言三言、他愛ない世間話をした。


 ――今日の夕方、一緒に帰れそう?

 ――悪い。夜勤なんだ。

 ――そっか。


 何故、あそこで駄目だと言わなかったのだろう。

 虫の知らせ、なんてものはなかった。

 日常のヒトコマとしか思わずに別れを告げた。あれが最後だなんて、どうして想像出来ただろう。


(行かないで)


 付き合いの浅い人間には、「怖い」とか、「厳つい」と言われるその顔に、柔らかな微笑を浮かべて、彼は踵を返す。


(行っちゃ、駄目)


 声が、出ない。

 彼は行ってしまう。

 止めなければ、彼は死んでしまう。それを、今の自分は知っている。知っているのに止められないのだ。

 定められた運命に向かって、彼は歩き出す。


(っ、嫌だッ……!)



「――ッ、ウォレス……!!」


 ようやく、詰めていた息を吐き出すように出て来た叫びは、現実のものだった。

 幾度か瞬きすると、薄暗い天井に焦点が合う。

 鼓動が早い。浅い呼吸を繰り返しながら、ファランはゆっくりと身を起こした。緩いウェーブのついた、長い乳白色の髪が、シーツを滑って後を追う。

 起き上がったことで、瞳から溢れた涙が静かに頬を伝った。無意識にそれを拭って、息を吐く。

(……また……)

 また、あの日の夢だ。

 夢の中では、ウォレスは元気な姿で、優しく微笑みかけてくれる。でも、今は夢で会えるだけだ。

 現実には、彼はもういない。

 あの日、ファースト・ラボで、何らかの原因で爆発が起きた。正確な爆心の位置や原因は、研究所の方からは何の発表もない。

 けれど、あの日研究所の宿泊施設に泊まっていた彼は、爆発に巻き込まれて命を落とした。

 枕元のデジタル時計に視線を巡らせると、時計は午前三時を示している。

 今日も、夜が明ければ、CUIOを相手の事後処理は続く筈だ。

 出来るだけ身体を休めなければと思うものの、目を閉じればまた夢を見そうで、寝直す気にはなれなかった。

 幸福で、そして――残酷な夢を。

 夢の中で彼を引き留めて彼が生き返るのなら、何度だって夢を見たいと思うけれど。


 あの事故の日、爆心と目される北棟の火災が鎮静化した頃駆け付けたCUIOが僅かに開示した情報に依ると、どうも研究所は裏のプロジェクトを手掛けていたらしい。

 その為、無事だった研究員は、連日研究所で独自の事後処理と、データを全てCUIOに提供する作業に追われていた。

 炎上は研究所の敷地内だけに留まり、住宅街型寮までは被害が及ばなかった。だから、彼もあの日、夜勤でさえなければ、寮へ帰っていれば死なずに済んだのだ。

 堪らなくなって、立てた膝に顔を埋める。

(……ウォレス)

 胸の内で呼んでみても、もう返事はない。

 柔らかい微笑みも、優しく自分を呼ぶ声も、もう夢と思い出の中でしか会えない。

 この先にある筈だった幸せな未来は、あの爆発で永遠に消えた。

 何故、どうして、という答えの出ないループの中で、自分は未だに彷徨い続けている。

 いずれ、夢にも見なくなる日が来るのかも知れない。そうしたら、自分は壊れてしまうのではないか。

 決して戻れないと判っている平穏の時を夢に見るのは憂鬱だが、忘れてしまうのも怖い。

(……そうなる前に、迎えに来てはくれないの?)

 問い掛けても、まだ記憶の中にいる彼は、困ったように微笑むだけだった。


***


 出勤定刻、十分前。

 研究室の扉を開けると、いつものように既に大半が出勤していた。

 開いた扉に気付いた何人かが、『おはよう』とファランに声を掛ける。応じる声にまた答えるように、残りのメンバーとも朝の挨拶を交わす。

 あの爆発の日、北棟は殆ど焼けてしまった。

 かつて北棟に勤めていたスタッフは、焼け残った東・西・南棟のどこかにそれぞれ間借りしている状態だ。

 ファラン達の勤めていた研究室も北棟の一角にあった。

 今は、南棟で元々物置として使っていた、五十メートル四方ほどの部屋に七人程が詰めて仕事をしている。

 朝の清々しい光がカーテンの開け放たれた窓から差し込んでいる。久し振りに晴れた今日は、ちょっとした小春日和だった。

「目、真っ赤」

 自分の席に腰を下ろしたファランは、友人のサラに正面から覗き込まれて、目をしばたいた。

 本来、ファランの瞳はアメジストに近いような藍色で、赤い筈はない。しかし、サラは勿論本来の色を指して『真っ赤』と言った訳ではないだろう。

「また碌に寝てないんでしょう」

 咎める訳ではない口調で溜息混じりに指摘されて、ファランはただ曖昧に微笑する。その微笑は、寧ろ苦笑に近かった。

 サラは、呆れとも同情とも取れる溜息と共に、ファランの方へ傾けていた上体を起こす。褐色に近い色のショートボブヘアが、サラの動きに合わせて揺れた。

 結局、どう言葉を続けて良いか決め兼ねたらしいサラは、ただ黙ってファランの肩を軽く叩いて踵を返した。

 彼女にも、自分が眠れない理由が判っているのだろう。

 ただ、軽々しく『元気を出せ』とか『早く忘れろ』とか言わないでくれるのは有り難かった。

 始業定刻のチャイムが鳴って、その日もいつもと変わらない作業が始まる筈だった。

 爆発事故の日から一転してしまった日常にも、徐々に慣れつつある。――ただ一つ、ウォレスがいないという事実を除いては。

 無意識に溜息を吐いたのは、始業から一分も経たない頃だったろうか。

 と同時に、研究室の扉が静かにノックされた。

 誰の返事を待つこともなく、スライド式の扉が開く。

「失礼。CUIOの者ですが、こちらにミズ・ザクサーはいらっしゃいますか」

 扉の向こうから姿を現した男は、細長い葉で編まれた冠の輪の中に、天使の翼と、その上に王冠を模した意匠――CUIOの紋章が入った警察手帳を掲げて、ざわつく室内を見渡した。

「……私、ですけど」

 出し抜けに自分の名を呼ばれたファランは、戸惑いながらも返事をする。

 どこか居丈高な雰囲気を纏った捜査官は、返事をした自分に向かって真っ直ぐに歩いて来た。

 短くツヤのある赤毛と、若草色の瞳が印象的だが、顔立ちは至って凡庸だ。すぐ近くまで来られると、首を曲げて見上げなければならない長身にやや威圧感を覚える。

 男は、改めて警察手帳をこれ見よがしに掲げると、無遠慮にファランに視線を落として口を開いた。

「CUIO・レムエ支部の副支部長を勤めております、マンフレッド=マックイーンです。少しお話伺っても宜しいですか」

「……私に、ですか」

「ええ。貴女だけが特別ではありません。今回の事故についてはこの研究所のお一人お一人にお話伺っています。ただ、ご存じのようにこの研究所はかなり大きな組織ですから、事故からすぐにお話聞けない方も多くて」

 カクカクとして杓子定規でありながら、やはり雰囲気と違わぬ居丈高な物言いに戸惑う。

 別に悪いことをした訳ではないのに、これからまるで容疑者として連行されそうな勢いだ。

 ファランは、無意識に友人の姿を探して視線だけを泳がせた。他のスタッフ同様、こちらを見ていたらしいサラと、視線が合う。

 サラは僅かに肩を竦めると、ファランとマックイーンと名乗った捜査官の元へツカツカと歩み寄って来た。

「どういうことですか。ここにいるスタッフは全員聴取を終えたと聞いていますが」

 サラは、友人を安心させるように小さく微笑むと、マックイーンにやや鋭い視線を向けて言った。普段から勝ち気な榛色の瞳が、こうすると殊更尖って見える。

「この研究室の聴取があった時、彼女はいませんでしたよね」

「ええ。この事故で大切な人を亡くして、暫くショックで伏せってましたから。今だって完全に立ち直った訳ではありません。彼女一人の証言がなくても捜査には差し支えないと思いますが」

 それでなくとも、ファランはこのところ碌々眠っていない。

 友人の精神状態を知っているサラの声は、瞳に浮かんだ色と同じく、キンと尖り始めている。端で聞いているファランの方が、もういいからとマックイーンを庇いたくなる程だ。

「第一、どうして今頃? この研究室の聴取があったのは、殆ど事故直後でしょう。もう殆どひと月経ってるんだから、最初に訪れた研究室で一人聴き忘れたのなんか、些細なコトじゃないですか」

「一人の例外も許すなとの支部長命令です。勿論、ここで聴取すれば他の方にご迷惑になりますので、失礼ながらミズ・ザクサーにはご同行願います」

 丁寧でありながら、反論を一切赦さない構えだ。

 小さく溜息を吐いて、判ったと答える前に、サラが同じくらい威圧感を込めた口調で宣言した。

「じゃあ、あたしも同行させて貰います」

 マックイーンは、軽く目を瞠った。

「貴女は先日聴取を受けたのでは?」

「ええ、その通りです。けれど、貴方は見たところ一人じゃありませんね。女性の捜査官が何人か混じってるのならいざ知らず、一緒に来てる方は全員男の方じゃないですか」

 サラは、非難する様子を隠しもせずに、戸口で控えている残りの捜査官に軽蔑の眼差しを投げた。

 か弱い女性一人を、数人の男性捜査官で囲んで聴取をしようなんて、どういう了見だと言わんばかりだ。

「それでなくとも、彼女は今普通の精神状態じゃないんです。友人としてここは譲れません。同行させて頂けないなら、今日のところはお引き取り下さい」

 まるで当事者はサラとマックイーン捜査官と錯覚するやり取りに、ファランも周囲と同じように見物人と化して唖然と見守るしかない。

 マックイーン捜査官の方は、その表情からは何を考えているのか窺うことは出来なかった。

 しかし、彼が考え込んでいたのは、ほんの数秒だった。

「……宜しいでしょう。但し、聴取の邪魔はしないように」

「そっちこそ、彼女を追い詰めるような聴取をしたら叩き出しますからそのつもりで」

 もはやどちらが警察だか判らない答弁に、マックイーン捜査官も開いた口が塞がらぬ(てい)で暫し沈黙した。


***


 導かれたのは、研究施設の外だった。

 外と一口に言っても、研究施設の敷地はかなり広い。

 本当に『外』に出ようと思ったら、ファラン達の勤める研究室から敷地出入り口正門までは、歩いて三十分は掛かる。

 だから、ファラン達職員は、いつもは歩いて十五分の裏門から出勤している。正門から来るのは、フロリアンの外から来た来客だけだ。来客には勿論、健康の為歩いて貰う――のではなく、きちんと門から施設間を行き来する送迎用のマイクロバスが出ている。

 マックイーンがファラン達を案内したのは、研究室がある棟の建物の裏手だった。

 そこには、CUIO権限で乗り入れたのに違いない、マイクロバスサイズの車が停まっていた。

 車の手前までファラン達を案内すると、マックイーンは少し待ってくれるように言い置いて、スライド式のドアを開けた。その中に、上半身だけ突っ込むと、ノート型パソコンを手に再び顔を出す。

「そこのご友人が仰ったように、貴女一人の証言がなくとも、実はどうにかなります。ご存知のように大きな組織ですから、証言は吐いて捨てる程出て来るのでね」

 嫌味な前置きだ。

 ファランは、少なからず不快感を覚えたが、それを口にも顔にも出さなかった。――疲れているのだ。ウォレスを失ってからこっち、喜怒哀楽の内、『哀』以外の感情はどこか遠いところへ流れて行ってしまったように思う。

 何も感じない訳ではないけれど、それを反応として表面に出すことすら、ひどく煩わしい。

 しかし、一緒に来たサラは違った。

 早速、苛立ちも露わな反論を、捻りもせずに口に乗せる。

「じゃあ、何であんなに強引にこの子をこんな所まで連れ出したの」

「一応、公衆の面前でしたから。特別に確認したいことがある、などと言ったら、余計な注目を集め兼ねないかと」

「特別に確認したいこと?」

「ええ。ミズ・ザクサー。貴女、ウォレス=マイケル・イーノック=パターソン博士をご存知ですね」

 ファランが瞠目し、サラが噛み付きそうな表情になる。

 だが、それには構わず、マックイーンが畳み掛ける。

「どうなんですか。彼とは恋仲にあったと伺いましたが」

「貴方……!!」

「……その通りですが、それが何か」

「ファラン!」

「いいの。大丈夫だから」

 サラが文句を言うままにしておいたら、いつまで経っても終わらない。彼女に同行して貰ったのを少し後悔しながら、ファランは先を促すようにマックイーンを見上げた。

 サラが不承不承黙るのを確認すると、マックイーンは改めて口を開く。

「彼のご家族については何かご存知で?」

「家族についてと言うと……具体的にはどういうことをお知りになりたいのですか」

「ウォレス=パターソン博士にはご兄弟がいましたね」

「ええ。双子のお兄さんがいました。家族ぐるみの付き合いでしたから知ってます」

「区別は付いた?」

「はい。一卵性双生児でよく似てましたけど、私は間違えたことはありません」

 そうですか、と頷くと、マックイーンは手にしていたノート型パソコンを起動させた。

 懐からUSBメモリを取り出し、パソコンにセットする。それから何やら作業をした後、画面がこちらに見えるように機械をクルリと掌の上で器用に回転させた。

「これは、三日前にセカンド・ラボ内の監視カメラで撮影された映像を画像解析したものです。所長が目下逃亡中ですので、副所長とファースト・ラボのスタッフに確認を取ったところ、パターソン博士のどちらかではないかという証言を得ました」

 声が、出なかった。

 マックイーンが説明する声が、どこか遠くに聞こえる。

 目の前の映像の中に映っているのは、間違いなくウォレスだった。

 画像を通して見ているので、或いは兄のウォーレンかも知れない可能性も捨て切れないが、多分、ウォレスだと思う。

 これが、――三日前の映像?

(……嘘……生きてたの?)

 生きていたのなら、何故自分や家族に連絡して来ないのだろう。

 映像を見る限り、大怪我をして動けないとか、事故のショックで記憶を失くした、という訳ではなさそうだ。

「母親に確認を取ったところ、息子のウォレスの方に間違いないと思うと……ただ、どうして自分の生存を隠しているのか判らないとも仰っておられました」

 それはそうだろう。ファランにも判らないのだから。

 ちなみにパターソン家は、父親をやはり研究所の『事故』で失っていた。――もっとも、今となってはただの事故だったどうかは疑わしいところだ。

「兄のウォーレン氏は未だ生死もはっきりしなく行方を掴めておりません。他にウォレス氏と繋がりある人間を辿って、貴女に行き着いたので、お話を伺えたらと思ったのです。彼が姿を隠している理由にお心当たりはありませんか」

 そんなことは、こっちが訊きたい。

 ファランは、いつになく金切り声を上げたい気分だった。それを理性で抑え込んでしまうと、震える声で「いえ」と短く答えるのがやっとだった。

「――訊いても良いですか」

 代わりに口を開いたのは、まだいくらか冷静でいられる人物――サラだった。

「何か」

「何故、それをわざわざ彼女に? 貴方達の探査能力なら、……もし、彼が本当に生きていて隠れていると判っているのなら、自分達で捜し出して本人に訊けば一番手っ取り早いんじゃないですか」

「勿論、全力で行方を捜査中です。ただ、彼が出て来るまで待つ合間も惜しい。それに、もし彼が見つかったとしても、あの事故から生き延びたのを偽装して隠れたくらいですから、理由を素直に話さない確率の方が高い」

「偽装?」

「ええ。詳細は省きますが、彼はとにかく自分の死を装って身を隠した。そうまでしてしようとしていることが何なのかを知ることが、この件の解決に重要な1ピースと成り得るのでね」

「どういうコトですか」

「お話した通り、この映像は三日前にセカンド・ラボの監視カメラで録画されたものです。しかし、この映像を発見したのがつい昨日。問題は、セカンド・ラボ内で彼がいた場所です」

「場所?」

「ここからは我々もはっきりしたことは掴んでいません。お仕事中に無理を言って来て頂いた手前お話しますが、呉々も他言無用に願います」

 サラとファランが、各々首を縦に振るのを確認すると、マックイーンは言葉を続けた。

「三日前、セカンド・ラボに収容していた重要参考人が殺害され、監視機器にウィルスが流され、監視ルームが爆破されるという事件がありました。容疑者と目される人物は未だ逃亡中なのですが、その後調べた無事な監視カメラに残された映像の中に、ウォレス氏が映ったものもあったのです」

「それは判りましたけど……でも、何故彼に焦点を絞ったんですか? 彼だってファースト・ラボに勤めていました。このラボに勤めるスタッフが用事でセカンド・ラボを訪れることは珍しくありません。それに……彼はその……」

 ここまで淀みなく疑問を呈していたサラが、ファランにチラと視線を走らせて一瞬口ごもる。しかし、後で責められる覚悟は決めたとばかりに、思い切った様子で続きを口に乗せた。

「彼は、CUIOにとってはこの事故で亡くなったスタッフの中の一人に過ぎないのではありませんか? その彼がたまたま生きているのが判ったからと言って、事件と結び付けるのは……」

「確かに早計かも知れません。しかし、その彼が意図的に自分の生存を隠していたことが、そもそも腑に落ちないのです。それに、彼が映像に映っていた最後の場所が、重要参考人の殺害現場と非常に近い。無関係と無視するのもまた早計だと思うのです」

「……それはつまり……」

 それまで青い顔をして黙っていたファランが、おもむろに口を開く。まだ顔色は冴えず、いつもよりも声のトーンが低い自覚はあったが、瞬時にどうにかなる筈もなかった。

「つまり……誤って死亡として処理した人間が、『ただ』生きていたケースとは異なる……ということですか」

「そういうことです」

 しかし、それは所詮事実の確認でしかない。

 ここでこれ以上お互いに話せることはなさそうだ、と判断したらしいマックイーンは、形ばかりの謝辞と労いの言葉と共に、二人に研究室へ戻るよう促した。


***


 その後、研究室から自宅へ帰るまでは、記憶が曖昧だった。

 雲を踏む心地というのは、正にこういう状態を指すのだろうと思う。

 ふと気付いたら、終業定刻よりもかなり早い時間帯に自宅にいて、ベッドに腰掛けてぼんやりしていた。

 ファランの精神状態では今日は仕事にならないと判断した誰かが――多分サラが、早引けの手続きを取って帰るよう促してくれたのだろう。その経過も、どうやって帰宅したのかの記憶さえない。

 それほどに動揺していた。

 ウォレスが生きていた。

 二度と会えないと思っていた彼が、アズナヴール半島の地の何処かにいる。

 それは、勿論嬉しい。

 けれど、それ以上に、彼が自分にさえ生存を黙っていた――隠していたという事実がショックだった。

 周囲による普段のファランという人物の評価は、『天然』『真っ正直』『他人を疑うコトを知らない』エトセトラ。総じて、良く言えば裏表のない純粋な人柄、悪く言えば頭が良いだけの世間知らずと小馬鹿にされることも少なくない。

 しかし、そんな彼女も、消えた筈の未来が再び手に戻って来た、と単純に喜べる程幼くはなかった。

(……何か、まだ知らないコトがある)

 CUIOは、守秘義務とやらを盾に、本来関係者である筈の研究所スタッフにさえ、詳しいことを開示していない。

 彼らの発表したことに嘘はないだろうが、全ての情報を提示しないことが、ファランのみならず、他のスタッフの不信感を買っていることも否めなかった。

 けれども、それだけではない。

 CUIOが開示しない情報の他にも何か――例えば、ウォレスだけが偶然知ってしまった何かがあるのではないだろうか。

(……その為に……姿を隠したの?)

 私にも黙って――私に死ぬほど涙を流させても貴方にとっては成し遂げなければならない何かがあるの?

 それは、何?

 知りたい。

(……ううん、会いたい)

 真実が知りたいというのは、所詮建前だ。

 ただ、会いたい。

 生きているのなら、会って、顔を見て、声を聴きたい。望むのはそれだけだ。

 ウォレスを失ってから――正確には失ったと思った時から、ずっとぼんやりしていた思考の中に、ようやく明確な意思が芽生える。

 ファランが、ファースト・ラボの研究室に、半月の休暇届けを提出したのは、その翌日のことだった。


***


『――それで、その後の経過はどお?』

 電話機を通して聞こえてくる、無邪気極まりない声音に、男は苦り切った表情で答えた。

 電話機の向こうの相手にそれは見えないことは、承知の上だ。

「それが――芳しいとは言えません。肝心のAA8164の行方は丸三日判らないままです。ウォレス=パターソンの行方も同様で……パターソンの母親、恋人を当たってみましたが、彼女らも何も知らない様子でした」

『そっか……他には?』

「聴取の翌日になって、恋人のファラン=ザクサーがセカンド・ラボに訪問、逗留中です。独自に何やら調べているようですが、どうなさいますか」

『うーん……彼女の訪問のコト、他に知ってるのは?』

「セカンド・ラボに今常駐している研究所スタッフは皆知っているようですし、CUIOのメンバーには変わったことや外からの訪問者があれば通達されますので」

『そう。じゃあ、取り敢えず彼女から目は離さないで、君が必要と感じたら処分の判断は任せるよ。僕としてはパターソンの始末を優先して欲しいかな。彼は、明らかにプロジェクトのコト、さりげなくバラそうとしてる訳でしょ?』

「しかし、それで我々の元に辿り着けるかどうかまでは……」

『油断大敵。取り敢えずAA8164の方はCUIOに任せちゃっていいんじゃない』

「――理由をお訊きしても?」

『だって、AA8164については存在が割れてる訳じゃん。でも、パターソンについては知ってるのはまだこっちだけでしょ』

 出来ればパターソンの方は、秘密裏に処理したい。

 言外の主張に、しかし男は自身が感じる懸念を漏らす。

「はい。ですが、副所長やファースト・ラボのスタッフには既に聴取してしまっているので、耳に入らないとも限りません。それに、パターソンが映った監視カメラの映像は消去しましたが、見ていない者がいないとも言い切れませんし……」

『聴取した人間への口止めは?』

「聴取した内容に関しては、特にしませんでした。申し訳ございません」

『いいよ。下手に疑い持たれるよりはね。ただ、パターソンの始末が済むまでは、レムエの支部長にはセカンド・ラボにいて欲しいかな。釘付けに出来そう?』

「は。未だAA8164の行方が判っておりませんので、ファースト・ラボに帰る様子はありません。あれが見付かれば、取り調べはどちらで行うことになるかは定かではありませんが」

『そう。でもどちらも出来るだけ迅速な対処が好ましいね。そう言えば、AA8164の捜索ってどうやってるの?』

 唐突に、基本とも言うべき部分について質問を投げられた男は、戸惑いながらも答えを口に乗せる。

「は……無事な監視カメラはフル稼働し、今カメラが使えない部分につきましては捜査官が直接捜索に当たっています」

 それが何か、と言いたげな口調になるのは仕方がない。

 電話の向こうの相手だって、施設内の限られた空間での人探しの方法くらい心得ている筈なのだから。

『AA8164に関しては、案外すぐ始末がつくかもよ。君が助言すれば』

「どういう事でしょう。AA8164に関しては引き延ばした方が宜しいのでは……」

『パターソンが見つかるまでは取り調べが何とかセカンド・ラボで出来るようにすれば、それでいいよ。通気孔の中は捜してる?』


***


 身体が、怠い。

 無意識に身じろぐと、ギシ、と軋むような音を立てて、右肩の傷が引っ張られる。

 引きつるような痛みに、エマヌエルは眉を顰めた。

 固定された右手を取り戻そうと足掻いても、手首が悲鳴を上げるだけで何の解決にもならない。

(――……何?)

 ようやく瞼を上げることを思い出して、そろりと開いた視線の先には、殺風景な部屋があった。室内には何もなく、ただ壁から床までが不揃いな石組みで作られたそこは、旧暦時代の更に古い昔にあった牢獄のような――。

「ッ――……!」

 喉から迸り出掛けた悲鳴をどうにか呑み込む。

(……ここ、はッ……)

 バカな、と思うが、どう目を凝らしても見間違う筈がない。

 再調教時に拘束されていた、あの特殊訓練室だ。セカンド・ラボの地下にある、普通の人間には『ただの牢獄』と変わりない、あの場所。

 だが、スィンセティックにとっては違う。超人的な能力を持つ実験体であるが故に、普通の人間である科学者達は、その力を外からコントロールする方法を考えなければならなかった。

 その一つが、セカンド・ラボにある地下牢だ。

 その部屋は、『マグネタイン』と呼ばれる鉱物で出来ている。そのマグネタインから放出される特殊な磁場は、主にフォトン・エネルギー製造装置に作用することが判っていた。量によってはスィンセティックを完全に無抵抗にすることも出来る。

 その原理を応用したものが、この特殊訓練室だ。

 磁場を壁ギリギリに発生させるように調節されたこの部屋は、フォトン・シェルを壁スレスレで吸収出来る。だから、能力を使って破壊したり逃げたりは出来ないが、能力の訓練場として利用されている。そして、再調教の場としても。

「ッ……!」

 身を捩るようにして拘束を逃れようとするが、ガシャ、という重たい金属音と共に両手首が悲鳴を上げただけだ。

 その時になって初めて、足首も床に縫い止められていることに気付く。

 フォトン・シェルを発動させようとしても、無駄だ。

 この部屋では、フォトン・シェルを発動させることは出来る筈だが、この拘束具に捕らえられたら、能力は封じられる。

 枷がやはりマグネタインで出来ているのだ。ただ、微調節により、フォトン・シェルは使えないが、身動きは取れる。科学者達は時に応じて、制御装置を巧みに使い分けていた。

(――嘘、だろ……何で、こんな)

 落ち着け、と自分に言い聞かせながら、どうしてこの場に捕らえられる羽目になったのか、必死で思い出そうとする。

 自分はあの日、逃げ出した筈だった。

 手術直前の僅かな隙を突いて、研究所を爆破して、――復讐を遂げる為に。

 けれど、その後、重傷を負い、何かの嫌疑を掛けられて、拘束されるところを逃げて来た――筈だ。

 それが夢ではない証拠に、右肩の傷がズキズキと鈍く疼いている。

 それとも、この右肩の傷自体が幻なのだろうか。

 自分はまだ、研究所のモルモットのままなのか。

 混乱する思考に、強制終了でも掛けるかのように、重い鉄の扉が開いた。

 反射的に向けた視線の先に、二人の科学者と、枷を填められて連行されて来たらしい数人の被験体――ヒューマノティック達が入室して来る。

 やがて、全てのヒューマノティックが入室し終えると、それと入れ違うように、先導して来た科学者は部屋を出て行った。

『いいぞ。枷を外せ』

 機械を通した硬質な音声が、室内に響く。

 エマヌエル以外の被験体の身に着けていた枷が、ピピ、という電子音を立てて外れ、床へ転がった。

『AA8164。これからお前の耐久テストを開始する』

「ッ……」

 洗脳された振りをしていた頃は、ただハイと返事をして、ひたすら耐えた。

 けれど、今は返事もせずに奥歯を噛み締める。

 耐久テスト。

 それはフォトン・シェルの集中砲火を浴びてどれくらいまで耐えられるかを試すものであったり、またそうして負った傷からの回復期間を見るものもある。今回は、その両方だろう。

 どこかで見た光景だ、と頭の奥のひどく醒めた部分でぼんやりと思う。けれど、それも当然だ。

 この手のテストは、本当に組織に従順かどうかを試すものでもあり、科学者が納得するまで幾度となく繰り返される。

 自分が同胞に向けて集中砲火を仕掛ける側に回る事もあったが、正気の頭ではその方が辛い。勿論、仕掛けられるのも苦痛ではあったが。

『構え』

 ヒューマノティックに下される冷酷な指令の声に、ハッと我に返る。

 数人のヒューマノティック達が操られるように腕を伸ばし、エマヌエルの方へ指先を向けている。人数分の腕に青白い筋が這う。

『撃て』

 無慈悲に告げられる執行命令に、エマヌエルは戒められた身体を庇うように目を閉じて顔を背けた。


「――――ッッ……!!」


 ビク、と身体が痙攣した。

 造りものの心臓が、口から戻しそうな程脈打っているのに、どうしても息が吐けない。早く呼吸をしなければと頭の何処かでは思うのに、身体がガクガクと痙攣するばかりで、気管が呼吸の仕方を忘れてしまったかのような錯覚に陥る。

 ようやく詰めた息を吐き出せたのは更に数秒後だった。

 荒い呼吸音が狭い空間に反響して、やっと今のは夢だったのだと思い至る。

 けれど、ただの夢ではない。現実の追体験だ。

(……ちくしょう)

 ノロノロと起き上がって、顔に掛かる髪を鬱陶しげに掻き上げる。

 右肩の傷がギクリと引きつる。逃げ出した当日程ではなくなっているが、痛みはそう簡単には引いてくれない。

 あれから――CUIOの連中に連行され掛けて逃亡を計ってから三、四日経っていた。もっとも、正確な日時の感覚はとうに消し飛んでいる。

 ただ、傷の治り具合からそう判断しただけだ。

 スィンセティックの自己治癒能力は、総じて高い。身体の耐久性も同じくだ。個体差はあるものの常人の比ではなく、エマヌエルの場合も例外ではなかった。

 先刻見た夢のように、フォトン・シェルの集中砲火をまともに浴びたとしても、全治三週間といったところか。同じ攻撃を普通の人間が受けたら、塵も残さずこの世から消え失せているだろう。

 今、右肩に負った傷程度なら、完治に一週間もあれば充分だ。但し、きちんとした医療体勢で完治までおとなしくしていればという前提付きの期間だから、治療途中で逃げ出した今では、もう少し掛かりそうだ。

 けれど、今何かあっても、逃げ出したばかりの朝よりは相応に対処出来るだろう。

(……それにしても)

 嫌な夢を見てしまった、と胸の内で一人ごちながら、エマヌエルは完全に身を起こす。

 こんな場所にいるから、忘れたいことも忘れられないのだ。ただ、今は忘れる訳にいかないというのがひどいジレンマだが。

 改めて自分が今いる場所を見直すと、そこは別に不揃いな石で出来た部屋ではない。両手両足に枷もない。部屋とも呼べないそこは、広大な研究所の建物に無数に張り巡らされた通気孔の一部だった。

 普通の人間なら潜り込むのに適しているとはお世辞にも言えない場所だが、スィンセティックなら例によって別だ。

 背を丸めるように座って、天井部位が頭スレスレのその場所は、碌々掃除もされていない。その為、埃やら主に放棄された蜘蛛の巣やら、時にははっきり名称を言うのが躊躇われる種類の害虫まで這っていたりする。

 余談だが、人類の十人中九人が、遭遇するなり殺虫剤をひっつかんだり、要らない雑誌を丸めたりして退治に当たる例の害虫が、実はエマヌエルも死ぬほど嫌いだった。嫌悪の種類は異なるものの、正直、その度合いは科学者連中と甲乙付け難い。見かける度に何度フォトン・シェルをお見舞いしてやろうかと思った程だ。しかし、害虫程度で足がついたらそれこそアホなので、どうにか堪えて潜伏を続けている。

 不衛生極まりない隠れ場所で、傷にも良い訳がないのだが、監視カメラの設置されていない場所と言えばここしかない。感染症に罹る心配のない体質に感謝しながら、ひたすら回復を待っている状態だ。

 研究所の裏に勤めている人間か、ノワールの傭兵なら、通気孔にも目を光らせていただろう。けれど、実際問題として第一に研究所そのものがピンと来ない程に広大であること、第二に通気孔内部にカメラがないことが原因で、そこまで手が回り兼ねるのだ。

 だから、侵入(はい)るところさえ見られなければ、余程のことがない限り見付かる気遣いはない。――筈だった。一瞬前までは。

「……嘘だろ」

 思わず、呟きが外へ漏れた。

 誰かが、こちらへ向かって来る。それも、一人や二人ではない。

(一、二、……五、六人か)

 危うく舌打ちを漏らしそうになって、寸前で呑み込む。

 一体誰が、ここへの捜索を進言したのか。

 自問した瞬間、唇が苦笑を刻む。

(考えるまでもねぇか)

 彼女しか、いない。

 少しの間、共闘の契約をした、紅い髪を持つ少女。

 同じヒューマノティックの彼女なら、自分がどこへ潜り込むかは大体予測がつくだろう。

 加えて、彼女はCUIOの傘下にいる。

 捜査に行き詰まった彼らに助言したとしても、不思議はない。

 苦い溜息を吐きながら、気配を感知した方とは反対方向へ移動を始める。突き当たりを左へ曲がれば、確か外へ出られると記憶している。万一の時の為に、逃走経路は確保してあった。

 前へ進む度に引きつる傷口に顔を顰めながら、通気孔の中を這い進む。思ったより傷ついている自分に、再び苦笑した。

 信じないと決めたのに、まだどこかで信用していたという事だろうか。

(バッカじゃねぇの)

 一人だと、思い知った筈だ。

 何度も、脳裏に刻んだ筈だ。

 それなのに、何を傷つく必要があるだろう。

(俺はもう、『ヒト』じゃない)

 科学者達に掛けられた暗示ではなく、現実的にそうだという自覚がある。

 遺伝子構造的にも、身体の構成要素的にも――そして、精神的にも多分もう何かが壊れている。

 だから、人並みに傷つくなど、有り得ない。

(……有り得ないんだ)

 どこか、必死の思いで自身に言い聞かせながら這い進む内に、視界が行く手に僅かな明かりを捉える。

 編み目状の蓋がされた空気の出入り口から、下に人がいないのを見澄ますと、音を立てないように注意しながら、蓋を外した。


***


 数メートル先に、出口となる金網が見える。

 そこまでそろそろと移動して、薄暗い中に人の気配がないことを確認すると、ヴァルカは金網に手を掛けて、それを外側へ押した。

 微かに音を立てて、金網が開く。

 四つん這いのまま這い出た先は、倉庫だ。正確に言えば、二十メートル四方の広さのある倉庫で、段ボール箱があちこちに疎らに積まれ、埃を被っている。

 中身は何だか判らないが、今は殆ど人の出入りもないらしい。

 ヴァルカには、それが狙い目だった。

 ここへ出るように、ルートを決めて探索したのだから。

 とは言え、今日も収穫はなかった。

 ヴァルカは立ち上がると、通気孔の中を通ったことで付いた埃を払いながら、そっと溜息を吐いた。

 エマヌエルが、CUIOの強引な拘束から逃れようとして姿を消してから、今日で四日目だ。

 とにかく、CUIOが彼の身柄を押さえる前に彼を見つけ出して、匿わなければならない。

 そう思って、彼の後を追って病室の窓から飛び降りたものの、事情を聞いていて出遅れた為に、既に彼の姿はそこにはなかった。

 彼を捜さなければ、とは思うものの、アテなどない。

 では、傷を負っていて、万一戦闘になったら碌に応戦出来ない身体(しんたい)状態で、止むなく隠れていようとするなら、自分が彼ならどこに隠れるか。

 考えて、行き着いた答えは、一つしかなかった。

 人の目がなくて、これまでの隠れ場所以外で、監視カメラのない場所は、通気孔しかない。しかし、一口に通気孔と言っても、セカンド・ラボもかなり広大な施設だ。こればかりは、どの辺りと照準を絞ることは出来ない。

 諦めて、地道に北棟の端から捜すことにした。

 そして、四日目の今日、東棟まで辿り着いたが、エマヌエルの姿は見当たらなかった。

(……明日からどこを捜そう)

 もう一度、通気孔の中を洗うか?

 自問したヴァルカは、即座に首を振った。

 通気孔の中と言っても、一所に留まっていないかも知れない者をもう一度捜すのも徒労だ。それに、既にエマヌエルはそこにはいないかも知れない。

(それにしても、何であたし、こんなに必死になってるのかしら)

 考えてみれば、彼を助けてやる義理などない。

 彼に近付いたのは、単純に彼の能力が欲しかったからだ。

 自分にない、銃要らずの飛び道具、フォトン・シェルの力と、彼のヒューマノティックとしての力。

 戦闘能力も自分と互角で、味方に付ければこれほど心強い者はない。言うなれば、自分がもう一人いるようなものだ。可能なら、CCAに引き入れたい。目的は同じなのだし、彼も同意してくれるだろう。

 当初は、そんな風に思って近付いた筈だった。

 ならば、彼は自分にとっても道具だろうか。自分の報復の為の、都合の良い――

(……いいえ、違う)

 ヴァルカは、自分でも驚くほど強く、それを否定した。

 彼だって――エマヌエルだって『ヒト』だ。道具扱いして、赦される訳がない。

 それに、アスラー達に、ヒューマノティックというただそれだけの事実で、頭から疑われるエマヌエルを見て、確かに自分は思ったのだ。

 あまりにも、理不尽だと。

 自分もエマヌエルも、望んでこんな、歩く殺戮兵器になった訳ではない。望みもしないのに持った力や、身体の所為で差別されるなんて、どうかしている。

 同時に、自分の目的の為に、同胞を利用しようとした自分の考えが、ひどく恥ずかしいものに思えて居た堪れなかった。

 一歩間違えば、自分だって彼と同じ立場に立つことも有り得る。だのに、自分は何を、彼より優位だなどと思い上がっていたのだろう。

 考えてみれば、エマヌエルは出会った時から一貫して、彼自身だけでどうにかしようとしている。それは、単に人間不信というだけでなく、彼の『自分一人で報復を成し遂げる』という覚悟の現れなのだろう。

 それに比べて、自分は研究所に報復したいと思ってはいるが、自分一人でやろうという覚悟が足りないように思えた。

 ならば、本当はもうエマヌエルを捜す必要などないのではないだろうか。

 彼を見て、自分も改めて覚悟を決めようと思ったなら、仲間は要らない筈だ。

 けれど、自問したヴァルカは、やはりそれを即座に打ち消した。

 捜す理由など、今は明確にしなくてもいい。ただ、放って置けないのだ。このまま、彼がCUIOに捕らえられるのを傍観したら、きっと後悔する。何故かそれだけは確信していた。

 直感に逆らうと、後で痛い目を見るということは、経験則で知っている。

 ヴァルカは、息を吐いて、思考を切り替える。

 今は、彼を捜すことに集中しよう。しかし、改めてそう決めても、アテが出来る訳ではなかった。

(どうせ改造するなら、テレパシーが使えるようにでもしておいてくれればよかったのに)

 テレパシーとなると超常現象で、流石にそれは難しいが、思うだけならタダである。研究所に対して無茶振りとしか言えない悪態を吐くと、ヴァルカは、鼻を鳴らした。

 銃声特有の、甲高い乾いた音が耳に捉えられたのは、その時だった。


***


「はぁーっ……」

 外は既に暗い。

 一人用の研究室は、部屋一杯に明かりがあっても、どこか薄暗かった。

 目下のところ、その研究室の住人と化しているファランは、盛大な溜息を吐くと、その場に突っ伏す。

(ダメかぁ……)

 セカンド・ラボに詰めて、丸三日。

 何とか調べてみようとするものの、正攻法ではどだい無理な話だということに気付くのに、そう時間は要らなかった。

 考えてみれば、いくら頭は良くても、本当に表の道しか歩いて来なかったファランに、アンダーネットに潜って調べるとか、裏から手を回すなどという芸当が出来る訳がない。

 これまでの人生の中で必要なかったのだから、テクニックを身に付ける機会がある訳もなく、よしんばあったとしても、後ろめたさに悶死しそうになっていただろう。

 正面から調べても、今は監視カメラの録画映像が保存されたファイルは、全てロックされていて、見ることが出来ない。CUIOのスタッフを捕まえて頼んでも、当然ながら当たり障りのない録画媒体しか渡して貰えない。そこに、ファランが求める答えはなかった。

 しかし、引き下がる訳にはいかない。

 今この瞬間にも、ウォレスはこのセカンド・ラボにいるかも知れないのだ。

(ウォレス)

 愛しい男性の名を、脳裏で呟く。

 やはり返事はない。けれど、彼は生きている。確かに、映像でしかなかったが、この目で見た。

 生きているなら、必ず会える筈だ。

(探してみせる)

 机の上に突っ伏している為に横倒しになった視界を、見るともなしに眺めながら、ファランはキュッと拳を握り締める。

 だが、いくら決意が固くとも、探す為の技術が伴わないのでは、これ以上はどうしようもない。

 もう、偶然の再会を待つしかないのか。

 無意識に何度目かの溜息を吐いて、身を起こす。

 パン、という何かが破裂するような甲高い物音が聞こえたのは、その時だった。

「!?」

(何……今の)

 落ち着かないものを感じて、フラリと立ち上がる。

 視線だけを部屋の扉へ振り向けるが、そうしたところで解決になる訳でもない。

 外を確認した方が良いだろうか。無防備に足を踏み出す。

 瞬間、前触れなくスライド式のドアが勢い良く開いて、ファランは反射的に悲鳴を上げた。

 開いた扉から倒れ込んで来た『モノ』が何だったのか、咄嗟には判断が付かない。

 バクバクと普段とは違うリズムで暴れる心臓を宥めながら改めて確認すると、床に倒れているのは紛れもなく人だった。

「……っくそ…!」

 何に対する罵倒か、口汚く呟いたその人物は、廊下に取り残されていた足を引き寄せると、そのまま足で扉を閉じた。スライド式のドアなので、足を押し付けるようにして動かせば、ドアはすんなりとその人物の意に従う。

 緩慢な動作で身を起こした人物の顔は、長い黒髪に遮られて、ファランからは見ることが出来ない。しかし、ノースリーブに近い袖口から派手に伝う赤い色だけは、はっきりと認識できた。

「血が……」

 無意識に零れた呟きに、その人物がようやくこちらに視線を投げる。

 ざんばらのままの髪の毛が未だ顔を覆ってはいたが、隙間から垣間見えた瞳は、極上のサファイアと言っても表現し切れない程美しく、澄んだ深い青だった。

 手当をしなければ。

 だが、そう思うものの、あまりにも普段経験しない出来事と出会うと、人間、思考が麻痺するものだ。

 声を掛けるというコミュニケーションの初歩をすっかり忘れて伸ばした手は、呆気なく払われる。相手が、ファランの手を払ったその手で、自分の髪の毛を掻き上げた。その時になってやっと、ファランの目にも、相手の顔が露わになる。

 何よりも印象的なコバルト・ブルーの瞳を縁取る目元は、やや切れ長。綺麗に通った鼻梁と、薄く引き締まった唇が、逆卵形の輪郭の中に品良く収まっている。

 一言で表せば間違いなく美形の類で、ただ、男か女かは咄嗟には判断が付かなかった。見た目、十代半ばだろうか。身に付けた衣服は、薄青緑の上下で、研究所の付属病院に入院している患者のようだ。

 その衣服の下にある胸板が平坦なことが、辛うじて相手が少年であることをファランに教えていた。

 そうして自分を観察するファランのことなど、少年は既に眼中にない様子で、忙しなく視線を室内に巡らせている。

 その視線が一瞬戸口の方へ向いたかと思うと、形の良い唇から鋭い舌打ちが漏れた。

 この時、ファランの耳にも部屋の外に数名の足音が捉えられた。

 大方、治療が嫌で抜け出して来たところを、医師に追い掛け回されているのだろう。なら、直にここへ到着する医師団に任せればよい。

 そんな風にのんびり構えた瞬間、少年は、出血量だけでも相応の深手だと認識出来る傷を負っているとは信じ難いほどの機敏な動きで、室内に取り付けられている窓に飛び付いた。

「なっ……!」

 ここ三階よ!?

 叫ぶよりも先に身体が動く。

「ッ!?」

 血を流している方の右腕を捉えられた所為か、少年が声にならない悲鳴を上げて身体を強張らせる。

 しかし、構っていられなかった。

 ここから飛び降りれば、間違いなく死ぬ。

 無言で揉み合う内に、再び音もなくドアが開いた。

「いたぞ!」

「捕らえろ!」

 現れたのは、どう見ても医師には見えない集団だった。白衣は着ておらず、普通医師が常に携帯しているであろう医療道具――例えば聴診器など――も持っていない。

 代わりに手にしているのは銃器の類で、ファランはまたしても目を瞠る羽目になった。何故にこう、次から次へと理解の範疇を越える出来事が起きるのか。

 だが、そんなファランに、踏み込んで来た男達は構うことなく、少年に手にした銃を向ける。

「ちょっ……ちょっと待って!」

 目を剥いたファランは、反射的に声を上げて少年と男達の間に割って入った。

 まさか、ここでそんな邪魔が入るとは思わなかったのだろう。男達の動きが、停止する。

「……何か?」

 その集団のリーダーらしい男が、さも迷惑だと言う様子を隠しもせずに、ファランを見た。

「とっ……捕らえろって言ったのに、どうしてそこで銃の引き金に指が掛かっちゃう訳!? 下手すりゃ死んじゃうわよ!」

「ご安心を。我々も彼を殺すつもりはありませんから」

「そういう問題じゃない! それでなくても、この子は怪我してるのにっ……」

「彼が抵抗するのだから仕方ありません。無抵抗にしてから捕らえるより他にないでしょう」

「そっ……それにしたって、医者の一人もいないってどういうコトなの!? 彼は患者でしょう!?」

 そこで、初めて男達が一瞬怯んだ。

 何が男達をそうさせたのかは、ファランには考える余裕はない。その隙を逃すまいと、必死で畳み掛ける。

「とっ、とにかくっ、彼の応急手当はしておきますから、主治医を寄越して下さい。銃を持った人間が一人でもいたら、彼は渡せません。そうお伝え下さい」

 ここで彼らが腕付くで掛かって来たら、ファランには防ぎようがない。冷静に考えれば判った筈だったが、そこまで考えが及ばなかった。

 しかし、リーダーは忌々しげに顔を歪めるだけで何も言わず、他の男達は半ば狼狽えながらそのリーダーを伺っている。

「……逃がさぬよう監視を頼みますよ」

 やがてその場の指揮権を握っているらしいその男は、そう捨て台詞を残して踵を返した。

 他の男達が、おたついた表情のまま、慌ててわらわらとその後に続く。

 取り敢えず、危機は去った。と思う間に、足から力が抜けてその場に座り込んでしまう。

「……ここにも監視カメラ着いてんの」

 途端、頭上から声が降って来た。

「へ?」


***


 間抜けな声と共にこちらへ向けられた女性の顔には、『言われているコトの意味がよく解らない』とデカデカと書いてある。

 まあ、そうだろう。

 目の前に逃げ込んで来た『実験体』を逆に捕り物から庇ったりするくらいだから、この女性は『シロ』だ。

 研究所の裏の商売や、その商品については全く知らないに違いない。

 元より女性からの答えを期待していた訳ではない。訊くまでもなく、忌々しげにしながらも男達が撤退していった事実が、疑問の答えだ。強引に女性をも排除して、自分を捕らえる映像を見られたら、厄介だということだけは、彼らにも解っているらしい。

 そう結論付けると、エマヌエルは溜息と共に言葉を続ける。

「……まあいいよ。それよりいい加減その手、離してくんない?」

「手?」

 またしてもキョトンとした声音の返答に、早くも苛立ちそうになるが、相手は何を言われているのか本当に理解していないらしい。

「そうだよ、手。痛いんだけど」

 傷口が引っ張られて、とは敢えて口には出さなかった。

 普段通りのコンディションなら振り払うことくらいは訳ない。しかし、古傷に加えて銃創を負った肩口は、女性が手を掴んで尚且つ床へ座り込むことによって、彼女の体重が半ば掛かっている状態だ。表情は辛うじて平静を装っているつもりだが、実際の程度は『痛いんだけど』という一言では集約できない。引きつれて、肩口から先がもげそうな錯覚さえ憶える。

 第一、軽く振り払った程度で解放されるなら、何も知らない一般人に庇われるような醜態は晒していない。思ったよりも体力が落ちているのを再確認して、エマヌエルは内心で舌打ちした。

 一方、そんなことを頭に巡らせる間に、女性の方は辛うじて思考を取り戻したらしい。先刻とは打って変わった眼差しで、じっとエマヌエルを見上げると、真剣な口調で切り出した。

「……放してもいいけど、飛び降りない?」

「は?」

 間抜けな声を出したのは、エマヌエルの方だった。

「は? じゃなくて。大体私がこうして貴方の手を掴んでるのは、早まった自殺を阻止する為よ。もう命を粗末にしないって約束してくれるなら放してあげる」

 唖然とした。

 『早まった自殺』だの『命を粗末にする』だの、耳慣れない言葉が相手の口から次々飛び出して来て、一瞬半ば本気で自分の耳を疑った。この距離で会話を交わしていれば、スィンセティック特有の超聴覚は言うに及ばず、普通の人間の耳でだって聞き間違いなんて事態が起きる道理がない。

 それでも聞き間違いかと思った。

 どこをどう押したら『自殺』なんて解釈に辿り着くのだろう。

 不覚にも混乱して、考え込んだエマヌエルの沈黙が若干長過ぎたのか、女性が更に言葉を重ねる。

「いくら治療が辛くても、逃げちゃダメよ。大丈夫。ゴンサレスの研究は今世界で一番進んでるから」

(……知ってるよ)

 内心でそう呟きながら、エマヌエルは軽蔑するような視線を女性に向けた。

 進み過ぎて下らない兵器開発にまで手を回す余裕があるくらいだから、全然大丈夫じゃないのだが。

 しかし、女性はそれをどう取ったのか、構わず言い募る。

「貴方の病気も……何の病気かは知らないけど、必ず完治するわ。私も手が空いたら貴方の病室にも顔を出すようにするから。ね?」

 だから、何だ。何が言いたい。おめでた過ぎる。呆れて言葉も出ない。

 こんな、『超』が着くほどの天然にお目に掛かったのは、もう何年振りだろうか。正しく天然記念物並みの人種が、まさかこの研究所の中にまでいたとは驚きだ。

 しかし、そんなこちらの心中には当然気付かない女性が、アメジストの瞳でエマヌエルに答えを促す。

 別に自殺などする気はない。幸か不幸か、自分の身体はこの程度の高さから飛び降りたところで、簡単には死なないように出来ている。第一、研究所の連中やノワールをそのままに自殺したりすれば、無駄死にとしか言いようがない。

 けれども、それをそのまま説明したところで、すぐに理解して貰うのは難しいだろう。議論の間中、傷口が引っ張られている状態でいるのも御免蒙りたい。

 どうしたものかと思っている内に、室外からこちらへ歩いてくる足音を耳に捉えて、エマヌエルは再度舌打ちした。

 返答を求めていたのに舌打ちが返ってきた所為か、女性が首を傾げる。その時、扉が静かに、鋭くスライドした。

 現れたのは、ウィルヘルム=ウォークハーマーだった。

 こちらを目にするなり、眼鏡の奥のダーク・ブラウンが、一瞬呆気に取られたように瞬きする。彼の目に捉えられたのは、右肩から派手に血を流す少年と、流血をものともせずにその腕を掴んで座り込む乳白色の髪を持つ女性という構図だった筈だ。自分が彼だとしたら、やはり状況把握に少しばかり時が必要だろう。

「……えー…と」

「この子の先生ですか?」

 ウィルヘルムが皆まで言うよりも、女性が問う方が早い。

「は……いや」

 何から説明したものか戸惑っているだろうウィルヘルムに、女性は全く頓着しなかった。

「良かったぁ。まずは応急手当と説得、お願いしますね。治療が本当に辛いらしくって、飛び降りようとしたんです。先生からも命を粗末にするなって言ってやって下さい」

「はぁ……」

 最早、どう答えたらいいのか、ウィルヘルムも判らないらしい。何とも要領を得ない、吐息に乗せたような間抜けな声に被るようにして、エマヌエルは遂に吹き出してしまった。

 弾けるように笑い出した自分を、女性もウィルヘルムも呆気に取られて凝視しているが、構っていられない。笑う振動が傷に響いて疼いたけれど、それでも止まらなかった。

「なっ……何がそんなにおかしいのよ!?」

 ウィルヘルムよりも僅かに早く我に返ったらしい女性が、苛立った様子を隠しもせずに問う。

「はっ……ははっ、だってあんた……っ、本気で俺が自殺するとか入院患者だとか思ってる訳?」

 笑いすぎて目尻に滲んだ涙を、女性に捕らえられていない左手で拭いながら、エマヌエルは急停止させた笑いの発作を持て余した。

「あー、おかしいー……どこまでおめでたく出来てるんだよ、あんた」

「『あんた』じゃないわ。私にはちゃんとファラン=ザクサーっていう名前があるんだけど」

 繰り返される『あんた』呼ばわりがお気に召さなかったのか、女性がむっつりとした表情で名乗る。

「あんたの名前はどうでもいいけど、じゃあファランさんよ。あんた、本当にこの研究所が善意の塊だとでも思ってる訳?」

「え?」

「物事には裏側があるなんて、考えたコトもないんだろ」

 たった今、ファラン=ザクサーと名乗った女性の、キョトンとした顔を見ながら、エマヌエルは一瞬顔を歪ませた。

 全て、ぶち撒けてしまおうか。

 感情は、既に暴走しかけている。

 見た目、二十歳前後のこの女性は、恐らくこの年になるまで、世の中の闇など全く知らずに生きて来たのだろう。それが、心底羨ましかった。

 生まれたての無垢な赤子のまま成長したこの女性に、自分の生きていた世界を全部ぶち撒けたら、この後彼女はどう歪むだろう。

 相手が誰だろうと、この際どうでも良かった。

 何も知らずにぬくぬくと生きている人間が、今この瞬間ひどく憎くて仕方がない。お前の知らない、泥のような世界でどうにか息をするように生きて来たのだと、その苦労を叩き付けてやりたい衝動が、理性を喰い破りそうになる。

 ――けれど。

「……そこまでにしとけ」

 冷ややかな声が投げ込まれる。

 視線を巡らせると、声と同じ温度の瞳がこちらを見据えている。

 この男との付き合いはあまり長くないが、それでもその目が何を言いたいかは理解出来た。

 『止せ』と。

 取り返しがつかなくなる前に止めろ、余計なことは言うな、と。

 その目に気圧されたのではない。

 だが、エマヌエルは言葉を詰まらせた。

 いいじゃないか、裏の世界を白日の下に晒すだけだ。

 何も知らないから、誰も助けてくれないのだ。

(助けて、くれない――?)

 いや、違う。

 自分は助けなど求めていない。自分の手でケリを着けたい。

 それこそ求めもしないのに与えられたこの能力で、窒息寸前まで締め上げて苦しめて、その果てに相手の息の根を止めてやりたい。

 望みはそれだけだ。

 息を、吐く。

 息を吸う。

 こちらが冷静さを取り戻したのを見計らったように、ウィルヘルムが歩を進めた。

 エマヌエルの左肩にそっと手を置いて、ファランに視線を向ける。

「失礼、ミズ。もう彼は大丈夫です。手を放してやってくれませんか」

「え、でも……」

「後は私が引き受けます。それにそちらは傷を負った腕だ。放して貰えないと、傷口が拡がる」

「あっ!」

 言われて初めて気付いたと言わんばかりに、ファランは反射的に手を放した。

「ごっ、ごめんなさい、私……」

「大丈夫ですよ。それより、応急手当出来る道具があると助かります。彼が見付かったと聞いて、手ぶらで飛んで来たものですから……」

「わっ、解りました! 手近な診療室から貰って来ます!」

 あたふたと頭を上げたファランは、そう言い置いて、忙しない様子で部屋を出て行った。

 彼女が出て行ったことで会話のなくなった室内が、一瞬シンと静まり返る。

「……俺が見付かって飛んで来ただ? 随分患者思いの良いお医者様なんだな」

 数秒、互いの目を見交わした後、皮肉たっぷりに先に口を開いたのはエマヌエルの方だった。

「助けが必要なのは本当だろ。ほら、傷見せろ。開いたのか?」

「見せてたまるかよ。問答無用で撃って来るような連中のお仲間に」

「意地張るのもいい加減にしとけ。女の手も振り払えないほど弱ってるクセに」

 ストレートに図星を突かれて、ぐうの音も出せずに黙り込む。

 反論を探す内に、ウィルヘルムの手がエマヌエルの身体をクルリと反転させた。意思を失った操り人形のように、彼の手の動きに素直に従う身体が心底疎ましい。しかし、相手をどう思っているかは関係なく知った顔に会った所為か、緊張がプツリと途切れてしまったようでうまく抵抗出来なかった。

「非戦闘員のクセに、丸腰でお仲間も連れずに来たのか? いい度胸してやがんな、あんたも」

 身体で抵抗出来なければ、憎まれ口でも叩かなければやっていられない。

 けれども、嘲るように吐き出されるエマヌエルの言葉を、ウィルヘルムはさらりと受け流した。

「おれが来たのはたまたまだよ。ここから一番手近にいたってだけの話だ。一応勤務時間は終了してるし、法医師は銃を携帯してる警官と常に連れ立ってる訳じゃない。それに、ベンのおっさん連れて来ると、やっぱり問答無用でお前を拘束しようとするだろうからな。そしたら、多分元の黙阿弥だろ。おっさんが一緒じゃなくて助かった」

「は?」

 言われていることの意味が、よく解らない。

 エマヌエルは、思い切り眉根を寄せて、自分の肩口を覗き込んでいるウィルヘルムの顔を(はす)に見上げた。

「お前が消えてた四日の間、おれもただぼんやりしてた訳じゃねぇ。少し暇が出来たんで、スィンセティックについて色々調べてた」

「……ふぅん。それで?」

「結論から言うと、例の囚人殺しの犯人はお前じゃない」

 意外な言葉が相手の口から飛び出して、エマヌエルはまたしても自分の耳を疑った。

「どういう意味だよ」

「どういう意味かはお前が一番よく解ってるんじゃねぇの。言ったろ。色々調べたって」

「……何をどこまで調べた?」

「あの犯行現場では、お前は殺害手段となった『爆破』が出来ないってコトは解った。少なくともあの件については、お前は容疑者から外れる」

 エマヌエルは、フン、と鼻を鳴らして沈黙を返した。

 瞬間、ギクリと身体を強張らせる。

「どうした?」

「しっ!」

 エマヌエルが緊張したのを見て取ったのか、ウィルヘルムが問い掛けるが、それを鋭く制する。

 静寂の隙間に、どこかから爆発音が聞こえた気がしたのだ。それとも、過敏になり過ぎているだけだろうか。

 けれど、程なく近付く複数の足音に、感覚だけはまだ狂っていないことを確信した。あまり、有り難くない展開だったが。

 直後、音もなく扉がスライドする。

「――AA8164。一緒に来て貰おうか」

 扉の向こうから現れたのは、先刻エマヌエルを追撃して来た集団と違わぬ顔ぶれだった。先刻と同様やはり銃を構えて威嚇する集団の中で、しかし、先頭で自分の製造ナンバーを呼んだのは、初めて見る男だ。

「さっきは女に追っ払われて大人しく引き下がったクセに、リーダーが変わっただけで強気になんのな」

 嘲りを含んだ口調に、後ろの男達は揃って悔しげに顔を歪めたが、先頭の男だけは動じない。

「無駄口はいい。君が一緒に来ないと、隣の男が怪我をすることになるぞ」

「いいのか? こいつ、あんたらのお仲間だろ」

「君が気にすることじゃない。法医師は彼以外にも吐いて捨てる程いる」

 流石にムッとしたような空気が隣から流れるのを感じたが、目の前の追手のリーダー格はやはり動じた様子を見せなかった。

「さあ、来い。それとも、自力では歩けなくなってる頃かな?」

「……何?」

「さっき君、銃弾一発貰ったろう」

 ここに、と言いたげに、男は自分の右肩を指さす。

「弾丸の素材、何か解るかな」

「――……っ…」

(……まさか)

 無意識に肩口に左手を添える。

 先刻から思うように力の入らない身体。

 自覚するよりも体力が落ちた所為だと思っていた。けれど、もしそれが弾丸の素材が原因だとしたら――

「気付いたようだな。そう、マグネタインだ」

 ギリ、と奥歯を噛み締める。

 マグネタイン――使いようによっては全てのスィンセティックの動きまで封じることの出来る鉱物。

 それが体内に侵入したとしたら、先刻女性の手も振り払えなかったことも納得がいく。

(くそっ……!)

「抵抗は無駄だというコトは解ったろう。諦めるんだな」

 男が無造作に近付き、エマヌエルの左腕を取る。

「待って下さいよ。傷の手当てが先だ。マックイーン捜査官……でしたっけ?」

 その動きを慇懃に遮ったウィルヘルムに、マックイーンと呼ばれた男は迷惑げな様子を微塵も隠さない視線を向けた。

「そちらはウォークハーマー先生でしたかな。彼は一連の事件の容疑者でしょう。所長からも見付け次第拘束しろとのお達しが出ている事もご存じの筈だ」

「なら、おれも一緒に行かせて貰う。取り調べなら手当てしながらでも出来るからな」

「必要ない。犯罪者に傷の手当てなど不要だ。必要なら呼びますので、我々にお任せを」

「こないだの囚人爆殺事件についちゃ、その坊やはシロだ。他の事件もこいつが殺ったと決まった訳じゃない。犯罪者と決まった訳でもない、ましてや被告でもない人間を、手当てもせずに放っておくのは、元医者としては出来兼ねるな」

「ならば、どうしろと!?」

 マックイーンは長引く問答に、遂に苛立った声を上げた。

「どうしろもこうしろも、ただおれを同行させて下さいってお願いしてるだけだ。何も難しいこっちゃないだろう」

 とても『お願いしている』姿勢には見えない態度で、ウィルヘルムが半ばふんぞり返る。

 だが、マックイーン達にとっては無理な相談だろう、とエマヌエルは密かに思う。何がどういう訳か、までは判らないが、同じ組織の人間でありながら、マックイーンとレムエ支部長との思惑はどうも別のところにあるように思えた。

 少なくとも、強行突破する場面を、同じ組織の人間にも見られたくない何か。

「――解りました」

 長く詰めた溜息と共に吐き出された言葉は、傍目にはウィルヘルムの同行を許したもののように取れた。

 だが、次の瞬間、マックイーンはいつの間に抜いたのか、手にしていた銃をウィルヘルムの額へ押し付ける。その指は、躊躇う事なく引き金を絞った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ