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CODE;6 Tactics

 何かを転がすような軽い金属音に、エマヌエルは目を覚ました。

 昨夜、意識が戻ってから初めて医師の診察を受けて、それからの記憶がない。

 三日間も眠っていたのだから、絶対に眠れる筈がない。そう思っていたのだが、どうやら重傷を負った身体の方はまだ休息を必要としていたらしい。

 診察に来た医師が病室を辞して行ったのを、見送るか見送らないかの内に意識が落ちたようだった。

 今、何時頃だろう。

 無意識に泳がせた視線が、ベッド脇で、多分今までウトウトとしていたであろうヴァルカに止まった。

 その彼女は、恐らくエマヌエルが目覚めたきっかけと同じ物音で目を覚ましたらしい。

 どこか、警戒するような光を帯びた瞳が、出入り口に向けられている。

 彼女の背後に見える窓にはカーテンが掛けられているので、直接外は窺えない。けれど、まだ光が射していないところを見ると、夜は明けていないのだろう。時間的に夜明けだとしても、北の大陸<ユスティディア>の、冬場の日の出は遅い。陽の光が、冬用の分厚いカーテンの向こうに灯って見えるのは、午前八時を回ってからだ。

 カラカラという軽い金属音は徐々に大きくなって、病室の前で止まった。

 一瞬、ヴァルカと目を見交わした刹那、スライド式のドアが音もなく開く。

 横になった状態からではうまく確認出来ないが、金属音の正体はストレッチャーの車輪が回る音だったらしい。

 ストレッチャーを携えて来たのは、数人の男達だ。その中に、昨日自分を診察した医者――確か、ウィルヘルム=ウォークハーマーとか名乗った――もいたが、他は知らない男ばかりだった。

「……今、何時?」

 どこか気怠げに問う彼女の声に、その中の、引き締まったとは言い難い体型の中年男性が答える。

「朝の七時を回ったところだ」

 その答えに、何か言おうと口を開き掛けたヴァルカに向かって、男がそれを制するように片手を挙げる。

「事情が変わった。その少年には早急に地下研究棟の拘束部屋へ移って貰う」

 ギク、と身体が強張るのが、嫌でも自覚出来た。

 地下の、拘束部屋。

 あそこは、あの部屋は――

「何言ってるの? まだ二十四時間たってないわ。第一あそこは」

「あそこは、元々スィンセティックを監禁する為に作られた部屋だそうだから、流石にそこへ閉じ込められた上で今後コトが起きたとしたら、彼の疑いも晴れるだろう。それまで彼には辛抱して貰うしかないが」

「疑いってどういうこと? 一体何が」

 ヴァルカと男のやり取りが、どこか遠くから聞こえて来る気がした。

「……冗談」

 口の中で、ボソリと呟く。

 地下の部屋に拘束されたら、一巻の終わりだ。

 何かがあっても、――目の前の彼らにとって不測の事態が起きたとしても、絶対に対処出来ない。その時、彼らが助けてくれるという絶対の保証などない。寧ろ、切り捨てられる可能性の方が高かった。

 しかし、それを訴えたところで、聞き入れては貰えないだろう。

 これだから、他人など信用できないのだ。

 深呼吸する。

 動きと連動するように右肩が痛むのは判り切っていたが、このまま地下に監禁されるのだけは御免だ。

 自分の身体に繋がった全ての管を引き抜く為に身じろぎすると、それだけで痛みが身体を貫く。けれど、敢えて無視するように歯を喰いしばる。

 動けない、などと泣き言を言っている暇はなかった。

「詳しいことは、お前には後で話すよ。おい、連れて行け」

「はい」

 走る激痛をどうにか無視して、管を引き抜く。

 エマヌエルをストレッチャーに移そうと手を伸ばし掛けた男達が、目を丸くした。

 一瞬の躊躇。

 その隙で、エマヌエルには充分だった。素早く点滴スタンドを引っ掴む。

 そのまま勢いよく振り回せば、不意を突かれた男達は、ある者はしゃがみ込み、ある者は後退しようとして後ろにいた者の足を踏み付け、他人を巻き込んで床へ転倒した。

 更に後方にいる者を牽制するべく、握ったスタンドを投げ付ける。微かに悲鳴が上がる。

 すかさず左腕に意識を集中させた。乾いた音を立てて、青い筋が腕を這う。

 ベッドを降りてカーテンを引き開き、窓を開けるといった上品な動作をしている余裕はなかった。

 掌に生まれた白い光弾を、窓めがけて投げ付ける。

 爆音とガラスの割れる音が交錯する中に、エマヌエルは躊躇わずに左腕で目を庇いながら飛び込んだ。

 身体が空中に投げ出され、浮遊感に包まれる。

 爆煙を抜けたと思ったところで、細く目を開ける。上の方に、白い煙がもうもうと立ち込めているのが確認できた。

 下に視線を投げると、意外にも目算三メートル程先に地面が迫っている。舌打ちと共に空中で何とか身体を捩って、殆ど全身で着地する。

 無様に地面に叩き付けられることだけはどうにか回避したが、着地の衝撃は殺し損ねた。

「ッ、ぅ……!」

 右肩の傷に、モロに響く。痛みで声も出ない。それでも、そこにうずくまっている余裕もない。

 立ち上がって、素早く周りを見回す。思った通り、外はまだ薄暗かった。

 それでも、改造された目に明かりは要らない。

 飛び降りたその場所は、研究所に付属する病棟の裏庭のようだった。

 上は確認せずに走り出す。

 裏庭だから、本来なら囲いの塀を飛び越える方が逃げるには遙かに早い。

 けれど、今のエマヌエルの身体では、下へ飛び降りることは出来ても、有刺鉄線込みで七、八メートルはあろうかという塀を飛び越すのは難しかった。

 走っていても、右肩に響く痛みから意識を庇いながらだと、いつもの半分もスピードは出ない。

 それでも、足を動かす。

 死にたくなかったら、走るしかない。それも、嫌というほど解っていた。

(まるで――あの日の再現だな)

 自嘲気味に脳裏で呟く。

 最初に研究所を爆破して逃げ出した、あの日。自分は自由を手に入れた筈だった。

 思うままに能力を駆使して、狂った科学者達に鉄槌を下す。その為の、自由を。

 だのに、実際はどうだろう。

 思わぬところから横槍が入った揚げ句、一瞬の判断ミスで自分から窮地に陥ってしまった。

 重傷を負った三日前、意識を手放す直前に、ヴァルカに身を委ねたのは生き延びる為の判断だった。多分、間違ってはいなかった――筈だ。けれど、何かが途中で狂った。

 自分の知らないところで、何かが起きている。

 一体何が――しかし、エマヌエルはそこで考えることを一旦放棄した。

 今は、余計なことを考えている時ではない。とにかく逃げなければ。でも、何処へ?

 身体さえ普段通りのコンディションなら、すぐ傍にある塀を飛び越えて外へ逃げ出せる。不測の事態が起きても、それなりに対応出来る自信はある。

 けれど、今はこの右肩だけが、普段の素早い動きを阻害していた。下手をすれば傷口が開くという、いつ爆発するか判らない爆弾付きだ。

 壁に半ば縋るようにして、病棟の角を曲がる。

 万一、自分が破った窓から人が顔を出してもすぐには見付かる気遣いがなくなってから、一つ息を吐く。

 しかし、休んでいる暇はない。

(――……ここから、どう動く?)

 既に荒くなった呼吸の中で自問する。

 ヴァルカは、もうアテに出来ない。

 いくら彼女の気持ちが自分の味方をする気でいたとしても、身は『組織』に属していることで、ある程度の束縛を余儀なくされている。

 彼女でなくとも、そもそも最初から誰をアテにする気もなかった。

 この復讐劇の引き金は、たった一人で引いたのだ。少なくとも、つい先日まではそのつもりだった。

 だのに、今の今までつっかい棒にしていたものが唐突になくなったような気分になるのは、何故だろう。

(……堕ちたもんだな、俺も)

 胸の内で吐き捨てる。

 同じ境遇にいた人間に、たまたま出会っただけだ。ただそれだけで、仲間意識を感じる方が、どうかしている。

(……誰も、信じるな)

 確認するように、――脳裏に刻むように、自分に言い聞かせる。

 自分以外の誰も、信じない。

 他人など、絶対に信じられる代物じゃない。

 これも、嫌というほど解っていた筈なのに、何を今更――

(……誰も、信じるな)

 目を閉じて、呪文のように繰り返す。

 だからこそ、今まで生き延びて来られた。

 目的を遂げる、その日まで生きていたかったら、これからもそうでなければならない。

 伏せていた瞼を上げれば、誰もいない通路が目の前にある。

 病棟と塀の狭間に、建設時の都合でたまたま出来ただけの狭い、幅一・五メートルほどの空間は、普段通路として使っているのかどうかは不明だ。雑草が生え放題になり、掃除も碌にされていないのが一目で判るそこには、正当な用途があるのかさえ疑わしい。

 だが今は、自由に身動き出来ないエマヌエルの逃亡を助けてくれるかも知れない、優しい盾だった。

(……人間は、信じられない)

 しかし、無機物やモノ言わぬ雑草なら信用出来る。それもかなり皮肉な話だが、こちらが使い方さえ誤らなければ、意図通りの働きをしてくれるのは確かだ。

 深呼吸する。足を踏み出す。一足ごとに、歩く振動が傷に響く。眉を顰めても、足は止めない。待っていても助けは来ないのだ。来ない助けを待って、期待した助けの代わりに現れるだろう追手に捕まるなど、愚かの極みだ。

 自分は一人だ。

 音を立てないように注意して歩きながら、脳裏に刻む。

 二度と、甘えないように。

 背中を預けたいと思わないように。――安心、しないように。

 胸の内で繰り返す。

 たった一人で、引き金を引いた。

 ならば、決着を着けるのも、自分の手以外にはない。――憎悪して止まない、あいつらの血に染まったこの手で、必ず楔を落としてやる。

 昏い決意を秘めた深い青の瞳が、孤独を象徴するように人のいない通路の先を見据えた。


***


「ッ痛……」

 ゴホゴホと数人が咳き込む声が、室内を満たす。

 爆風に煽られる形で床に叩き付けられたヴァルカは、鈍い動作で起き上がった。

 エマヌエルの放ったフォトン・シェルで、カーテンは無惨に破れ、窓も破壊されたが、炎上は免れたらしい。

 数分前まで膨れ上がった入道雲のように立ち込めていた煙は、収まりつつあった。

「くそっ……完全に油断したな。あの身体でまともに抵抗するなんて……」

 同じく爆風で床へ薙ぎ倒されたらしいアスラーが、やはり緩慢に立ち上がりながら服を叩いているのが目に入る。口汚くぼやいているのが、平時温厚な彼にしては珍しい。

 当たり前だ、とヴァルカは音にすることなく呟く。

 ヴァルカを含むSナンバーの中の5000以降のヒューマノティックには、フォトン系統の能力がない。それは即ち、地下牢のフォトン・エネルギー製造装置に働き掛ける類の能力制御は効かないことを示している。だから、地下牢に入ったところで何ということはないが、フォトン系統の能力を持つエマヌエルは違う。

 地下牢は、フォトン・エネルギーを制御できる材質『マグネタイン』を使用して出来ている。その能力を持つスィンセティックは例外なく、虚脱感で立っていることも難しくなるらしい。マグネタインの使い方によっては、一瞬で意識を奪うことも可能だと聞いたことがある。

 強制的に無抵抗か、もしくはそれに近い状態にさせられることを知っていて、誰が諾々と従うものか。自分が彼の立場だったとしても、あれくらいの抵抗は当然するだろう――と言ったことを頭に巡らせながら、ヴァルカも立ち上がった。

「今、セカンド・ラボの周囲には何人メンバーがいる?」

「ちょうど交代の時間ですから……」

「ベン」

 アスラーの質問に答えようとした捜査官を遮るように、凛とした声が割って入った。

「あの子のコトは、あたしに任せて貰えない?」

 単刀直入に切り込むような申し出は、しかしあっさりと却下される。

「無理だ。事情が変わったと言っただろう」

「どういうことなの」

 アスラーは数瞬、躊躇うように視線を泳がせる。

 代わりに答えたのは、ウィルヘルムだった。

「今朝になって遺体がゴロッと発見された」

「遺体?」

「ああ。その内の一体が、お前さんが生け捕りにした、あの金髪の男だ」

「へぇ。で? 手掛かりが一つ消えて、焦ったあんた達はエマを徹底的に拘束することにした訳? 逃げられてりゃ世話ないけど」

「半分当たりで半分外れってトコだな。男の遺体は、腹部が爆破されたように抉れてた。詳しい検死はまだだが、ファースト・ラボで発見された連続遺体遺棄事件で見つかった遺体によく似てる」

「爆破?」

 ヴァルカは首を傾げた。

 遺体に爆破されたような傷跡があったなら、当然その音がした筈だ。

 この病室は地上三階。対してあの男が収監されていたのは、ヴァルカは直接確認してはいないが、例の地下牢だと聞いている。

 地下牢と一口に言っても、セカンド・ラボの施設自体がかなり広大だ。地上よりも恐らく地下の方が広いだろう。それでも、事件の重要参考人を二人も押さえておいて、それぞれを離れた場所に留置するとは考え辛い。

「……念の為に訊くけど、その遺体になる前の男が収監されてた地下牢、ここからどのくらい離れてるの」

「地上三階分プラスアルファってトコだな。大して離れちゃいない。同じフロアにあったとしたら、半径五百メートル圏内だ」

 答えたウィルヘルムが、それがどうした、と言う目つきで自分を見たのは解ったが、ヴァルカはそれには反応を返さなかった。

(五百メートル……)

 地上三階分がプラスされたところで、ヒューマノティックが持つ超聴覚の射程から外れようのない距離だ。

 だのに、何かを『爆破』するような音には全く気付かなかった。自分も、エマヌエルもだ。

(……まだ、何かがあるの?)

 超聴覚を持つ自分達に気付かれずに、遺体を破裂させる仕掛けが、あの地下研究棟にあるのだとしたら――。

「……それだけで、あの子を監禁しようとしたの。確証は?」

 背筋に走る寒気を敢えて無視して、ヴァルカは思考を元に戻す。今は、エマヌエルに新たに掛けられた嫌疑を晴らすことの方が優先だ。

 地下研究棟に何があるにせよ、それはこれから調べれば良い。

「ダイイング・メッセージだ」

 一方、ヴァルカの内心の葛藤を知らないウィルヘルムが投げた一言に、深紅の瞳が、ほんの僅かに瞠目する。

「……何ですって」

「あの男の遺体の指先に、血でメッセージが書かれてた。確か、あのキレイな顔した坊やの右肩背部に刻まれてた英数字の羅列と同じものだったな。『Synthetic-No.AA8164』と『Double-Half-No.0010』」

 何か、言葉を紡ごうとするかのように唇が動いたが、何も言えなかった。

「あんた……」

 何を、どこまで知っているの?

 そう続けたいが、それも呑み込む。

 迂闊な事を言えば、エマヌエルを思わぬ窮地に追い込む危険性があった。

 少なくとも、彼のことを『重要参考人』かも知れないと言いはしたが、ヒューマノティックだと目の前の男に告げた覚えはない。

 しかし、自分が口を噤んでいたとしても、執刀した医師が手術対象の患者の身体を見るのは当たり前だ。傷の手当てをして欲しいのに、出来るだけ身体を見るなと言っても無理な話である。下手をすれば、そこに刻まれた識別ナンバーを目にすることもあるだろう。

「……それが、確証だとでも?」

「今のところはそれに縋るしかねぇってコトさ。ご丁寧にこの南棟の監視系統が全部やられてたからな」

「やられてたって」

「そのままズバリさ。南棟の監視ルームのマザーコンピューターにウィルスが流されて、使いものにならなくなってる。更にこの病室と金髪の仏さんがいた地下牢を含む場所を見られる範囲の監視カメラと直結してる監視ルームが爆破された。昨夜そこに詰めてた連中が残りの爆死体って訳だ」

 思わず舌打ちが漏れた。

 随分、念の入ったことだ。

 後で真犯人が割れないようにという理由からだろう。しかし、それこそがエマヌエルが真犯人でないという何よりの証明ではないだろうか。

 だが、それを口にしたところで、他に証拠がない以上、簡単に捜査方針を変えられるとも思えなかった。この病室を見られるカメラも破壊されたということは、「エマヌエルがここで寝ていた」という証拠すらないということに他ならない。

 警察という組織は、情報を得るには便利な場所だが、一方でひどく独善的な一面も持っている。

 一度犯人と見定めた人間への先入観は、簡単には覆らない。

 それに――

(……あたしも、『まともな』人間とは違う)

 自嘲気味に唇の端が上がる。

 ヴァルカは、胸元で拳を握り締めた。

 黒いインナーが、くしゃりと皺を刻む。

 この『身体』は、普通と言われているものとは程遠い。

 自分の身体のことを知りながら養女として迎えてくれたアスラーも、つい先日自分の正体を知ったらしいウィルヘルムも――普通の人間と同じに扱ってくれる振りをしているだけだ。

 もしくは同情。

 哀れな生い立ちに、ただ可哀想にと言って手を差し伸べて、偽善者ぶりたいだけなのだ。

 本音は、人間(ひと)の形をした珍獣を見る思いなのかも知れない。

 彼らにとってヒューマノティックは、人間であって人間ではないのだ。

 人一倍正義感が強いアスラーでさえ、この件に関しては解決出来ればそれでいいと思っている節がある。容疑を掛けた相手は人間ではないのだから、冤罪であっても構うことはない。寧ろ、スケープゴートには打ってつけとでも考えているのだろう。

 『同族』に同情しているような捜査官の意見など、聞いてくれる人間はこの場にはいなかった。

(――ならあたしも、ここからは好きにやらせて貰う)

 元々、ヴァルカ自身もCUIOを只の情報源としてしか利用するつもりはなかったのだ。

 未だ煙の残滓が漂う室内で、右往左往する捜査官達が、急に色を失って見えた。

「――まだ何か訊きたいコトは?」

 沈黙してしまったヴァルカを、怪訝そうにウィルヘルムが覗き込んで来る。

 ヴァルカは、それにはもう答えなかった。

 ただ、冷然と跳ね付けるように、ダーク・ブラウンの瞳を見返す。

 ウィルヘルムはビクともせずに、ただ肩を竦めただけでヴァルカから一瞬視線を外した。

 ヴァルカが音もなく、破壊された窓から身を踊らせたのは、その一瞬の()のことだった。


***


 しなやかな細く長い指先が、優美な動きで手にした受話器を下ろす。

 今時珍しい有線の、しかも古風な感じのする電話機だ。確かな目利きのいる骨董品店にでも持ち込んだら、高値で売れるだろう。

 そんなことを考えるともなしに考えながら、ゴンサレスは細身の身体がこちらへ向くのをぼんやりと眺めていた。

 自分を認めたらしい、澄んだブリリアント・グリーンの瞳が、一瞬キョトンと丸くなる。

 引き締まった体つきの青年は、無造作なようでいて典雅な動きでゴンサレスのいるテーブル前へ近付くと、目の前でひらひらと掌を振った。

「もしもーし。ドクター、起きてる?」

 失礼な、と言う代わりに、ゴンサレスはチャコール・グレイの瞳で、半ば刺すように青年を見上げた。

「ごめんごめん。怒らないでよ。ぼんやりしてたから、ついね」

 一見、柳のように儚げに見える青年は、ビクともせずに悪戯っぽく舌を出して見せる。

 この世の悪事の『あ』の字も知らないような無邪気な笑顔に、うっかり騙されそうになるが、曲がりなりにも裏社会一と言われる兵器開発組織(ノワール)を率いる(おさ)だ。ゴンサレス程度の睨みで怯えるようなら、とっくにこの業界から消えているか、もしくはあの世にいるだろう。

「――それで、あれから例の件はどうなっているんだ。もう五日も経つが」

 “朗報”とやらは一向に届かないではないか、というのは言外に匂わせただけで口にはしなかった。

 『例の件』とは勿論、AA(ダブル・エー)8164の抹消の件だ。

 目の前の男は、五日前、近々解決するような口振りで自信たっぷりだった。けれど、実際のところは五日経った今も、この北の大陸<ユスティディア>西端の地、リッケンバッカーにはそれらしい報告はない。

 正確に言えば、ノワール施設内に滞在する自分の元にその報せがなかった。痺れを切らしたゴンサレスは、施設の中心部に位置するユーリ=ハロンズの書斎を訪ねたという訳だ。

「んー、それがねぇ。どうも第一陣は失敗したみたいなんだよね。ま、こっちが手を下すまでもなく、ヒューマノティック・ナンバー(エス)2341と役立たずは向こうで始末してくれたみたいなんだけど」

 まるで他人事だ。暢気なものである。

 ゴンサレスは内心で舌打ちした。

「『アレ』はどうなった」

「勿論、一緒にお陀仏さ」

 現物が返って来なければ、データも採れない。何とも無駄に捨てゴマ扱いされたものだ。

「怒らないでってば。データはこっちでも採れるでしょう」

 空気が読めないのかと思えば、まるでこちらの胸の内を見透かしたようなことを出し抜けに口にする。

 全く、掴み辛い男だ。

「……しかし、ここでは所詮実験の域を出ない。実践上のデータが欲しかったのだがな」

「まあまあ。『アレ』のデータ採取ならまた機会はあるさ。当面の優先事項はAA8164だろ」

 確かにその通りだ。

「……五日前、他にも何か仕掛けているようなことを言っていたが」

「うん、それ。今の電話は正にそのコトを話してたんだ。貴方にはまだ言ってなかったけど開発してたものがあったんだよね。これからデータ採るみたい。結果が届いたら、見に来る?」

「何だと?」

 スィンセティックに関しては提携者である自分に黙って、一体何を開発していたと言うのか。

「ほーら。そうやってすぐ怒ると寿命短くなるんだってよ。知ってる?」

 言葉を返す気にもならなかった。

 寿命も何も、この世界に身を置いていて、天寿を全うした人物が果たしてどれほどいるだろうか。

 こちらの考えたことを知ってか知らずか、ハロンズもそれ以上『寿命』については何も言わずに肩を竦めただけだった。

「貴方、A型の典型だよねぇ」

「どういう意味だ」

「完璧主義って言うの? 仕掛けたコトがすぐ結果に結び付かないとイライラしちゃって。それでよく研究者なんかやってられるよね」

 面白がるようにクスクスと笑いながら、ハロンズはティーセットへ手を伸ばす。

 ゴンサレスは、やはりリアクションを口にはしない。だが、苦虫を噛み潰すような顔になった。ハロンズの言うことは、確かに一理はあるのだ。

 研究というものは、本来すぐには結果が出ないことを根気よく続けることが求められる。しかし、その点だけ見れば、精神の方はともかくとしてゴンサレスは天才肌だった。

 常人が何年も掛けないと得られない成果を、割と短期間で手に出来たのだ。

 自分の思い通りにならないものなど、なかった。――あの、爆発事故が起きた日の朝までは。

「飲む?」

 ハロンズが、手にしたティーポットを軽く掲げてみせる。

「いや、結構」

 正直、そんな気分じゃない。

 それが全部顔に出たのだろう。

 目の前の青年が、薄い唇の端を、やはり面白そうに吊り上げる。

「そう? 惜しいなぁ。ユスティディアじゃ滅多に手に入らない上物なのに」

 北の大陸<ユスティディア>は、治安が悪く、貧富の差が激しい。ユスティディアの北部になるほどそれは顕著で、富める者は、大抵後ろ暗いことをやっていると相場が決まっている。――もっとも、当の本人達は、『後ろ暗い』などとは毛の先ほども思っていないのだが。

 殆どの人間が、明日の食い扶持にも喘いでいるこの地では、紅茶は所謂贅沢品だ。紅茶と言ってもピンキリだから、ランクが上になるほど手に入りにくい。

 ユスティディアに住みながら購入しようと思ったら、取り寄せるしか方法がない。ただ、取り寄せるにしてもかなり値が張る。

 当然だ。ここは世界一治安が悪い大陸なのだ。いくら出前でも、儲けと命を秤に掛けたら命に軍配が上がるに決まっている。それでも無理を言えば、ユスティディアで一番治安が良いと言われるレムエまでは届くが、そこまで自分で取りに行かなければならない。旅費は勿論自前だ。

 ただ、表社会でもしっかりした身分と収入源を確立しているハロンズが、『滅多に手に入らない』などと言っても説得力はないに等しい。

「そんなことより、さっきの続きだ。一体、何を開発したというのだ。それがAA8164を捕獲する決定打になるのか」

「うーん。決定打になるかどうかはまだ判らないなぁ。モノが出来上がったってだけだし、実験もこれからだしね」

 あっけらかんと言いながら、ハロンズがティーカップに紅茶を注ぎ入れる。ゴンサレスはいらないと答えたのだから、彼自身が飲む為のものだろう。

「関係ないだと?」

 AA8164を捕獲・抹消することがどれほどの急務か、この男は本当に解っているのだろうか。

 それでなくとも、今フロリアンはCUIOが押さえてしまっている。とにかく、AA8164を処分してしまうことが、最優先なのだ。

「だってさーあ、それってドクターの個人的感情入ってないって言える?」

「どういう意味だ」

「気に入らないからまず真っ先に始末したいってだけじゃないの? 仮にAA8164を始末してもそれじゃコトは収まりつかないと思うんだけど」

 違う? というように小首を傾げる様は、実に可愛らしいと言えなくもないが、既に目が全く笑っていない。

「しかし」

「心配しなくたってどうにかするよ。AA8164のコトも含めてね」

 茶菓子を取る為に伸ばした手元に向けられた視線の冷ややかさは、彼がしようとしている動作とは大幅に懸け離れている。

「CUIOだってバカじゃない。手を打たなかったら、僕にまで被害は及ぶ。貴方を助ける義理はないけど、自分に飛んで来る火の粉は払わなくっちゃね」

 助ける義理はないだと?

 そう言おうとして吸い込んだ息を、ゴンサレスは飽和点で止めた。そうして、口から出すべき言葉は、出さずに飲み込む羽目になった。

 それまで表面だけは無邪気に微笑んでいた端正な顔から、笑みが消えていたからだ。

「実害が及ぶ前に報せてくれたのには感謝するけどさ。これ以上養う義務もないコトだし、そろそろ消えてくれると有り難いんだけどな」

「どういう意味だ。スィンセティックは元々共同開発だろう。いや、そっちは発案しただけで、実際開発したのは殆どこちらだ。『アレ』だってまだ開発途上だし、今まで開発したスィンセティックだってメンテナンスには私がいないと」

「個人的感情・その二だね。開発途上だから、単に研究を続けたいだけでしょう? 必要なデータはこっちにもあるんだし、大体貴方だって永遠に生きてる訳じゃないんだから、いずれは後進に道を譲るとか言う頭はないワケ? 貴方が道半ばで死んじゃったらこっちはそれで商品が作れなくなる訳だから、その辺りもちゃんと考えてるんだけど」

 正論に次ぐ正論で畳み掛けられて、ゴンサレスは言葉に詰まった。

「とにかく、そっちがしくじった時点で提携はご破算。今回はそっちの尻拭いまでしないとこっちにも損害が及ぶから手を貸してるだけで、本来貴方を助ける義理はない訳。ここまでは理解出来た?」

 底の見えない昏い光を帯びた瞳が、ゴンサレスを射抜く。

 反論は危険だと本能的に悟るが、さりとて素直に頷くのはプライドが邪魔をした。こんな、自分の人生の何分の一かしか生きていない若造に――という年長者としてのプライドだ。

 そんなゴンサレスの沈黙をどう取ったのか、ハロンズは短く息を吐いて言葉を継ぐ。

「それを今まで黙って面倒見てやったんだ。今、貴方無職でしょう。ユスティディアを出る為のツテもない筈だ。安全にここに置いて欲しかったら、その偉そうな口を閉じておくコトだね」

 ゴンサレスが完全に沈黙したのを見て取ると、それまでの無表情が嘘のように、ハロンズはまたにっこりと人好きのする笑顔を浮かべた。

「貴方に心配して貰うほど堕ちちゃいないよ。二の手、三の手は既に打ってある」

 細く長い指先が、優雅に摘んだ茶菓子を口元へ運ぶ。薄く、カラリと仕上げられた焼き菓子が、軽快に美味しそうな音を立ててハロンズの口の中へ消えた。


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