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CODE;5 Intrigue

 遠退いた時と同じほどの速度で、ゆっくりと意識が浮上する。何を思考することなく、エマヌエルは瞼を押し上げた。

 視界は一瞬ぼやけたものの、数度の瞬きですぐに焦点を結ぶ。

 室内は薄暗かったが、ノクト・ヴィジョンならものの形などは昼間と変わらない明瞭さで見ることが出来た。

 視線の先にあったのは、見覚えのない天井。

(――……えー…と)

 自分は何故ここにいるのか。

 前後の記憶がすぐには見付からず、エマヌエルは軽く混乱する。

「――いッ……!」

 とにかく起き上がろうと身じろぎした途端、右肩に激痛が走って顔を顰める羽目になった。

(ああ……そっか……)

 殆ど身体を起こせずベッドへ逆戻りしたエマヌエルは、深く息を吐いた。

 戻って来られたのだ、と。

 意識が飛んだ後、何がどうなったのかは判らないが、どうやら命は繋がったらしい。

「――気が付いた?」

 その時、ふと右横合いから声が掛かって、エマヌエルは文字通り飛び上がりそうになった。――実際のところは、痛みの余韻でピクリとも動けなかったのだが。

 視線だけ声のした方へ向けると、立てた片膝に顔を埋めてこちらを横目で見ている少女がいた。

「……こんな時まで気配絶ったまま声掛けんの止めてくれよ」

 折角繋がった寿命が縮む。

 そうぼやくと、ごめん、と苦笑混じりの謝罪が返って来る。

「でも、それだけの口が叩ければ大丈夫ね」

 どこか安堵した表情で、少女がおもむろに立ち上がる。夕闇の中では濃い色としか認識出来なかった髪が、窓から射し込む月明かりを弾いて紅く煌めいていた。枕元へ歩み寄った少女は、慈しむような仕草で伸ばした指先で、エマヌエルの髪をそっと梳く。

 傷を負う以前のエマヌエルなら無言で払っているところだが、そうする気にはなれなかった。怪我の所為で、まだ頭の回転が鈍っているのだろうか。

「名前、聞いてなかったわね」

 エマヌエルの髪を梳く動作を続けながら、少女がポツリと言った。

「……名前?」

「そう。あんたの名前」

「……あの忌々しい文字の羅列知ってるくらいなら、とっくにご存知なんだろ?」

 吐き捨てる声にも覇気がない。自分で聞いていても、虚勢にもなっていないのが自覚出来て、情けなくなる。

「そこまではデータには載ってなかった。あいつらにとって、モルモットの元の名前なんてどうでもいいのよ」

 答えた少女の、後半の声音には、凍て付いた憎悪が滲み出ていた。

 ああまただ、とエマヌエルは思った。彼女の意思とは恐らく無関係に、垣間見える傷跡。それは、決して演技では不可能なことだ。エマヌエルは、それを嫌でも直感せざるをえなかった。胸の底に、同じ憎しみを秘めているからこそ解る、言うなれば同族テレパシーのようなものだろうか。

 もし、これが演技で、尚且つ自分を騙せているのだとしたら、プロの俳優も真っ青だ。

「人に名前訊く時は自分からが礼儀じゃねぇの」

 それでも、素直に名乗るのは何だか面白くなくて、少女から僅かに視線を反らしながら、苦し紛れの皮肉を口に乗せる。

「ヴァルカよ。ヴァルカ=クライトン。あんたは?」

 それをどう取ったのか、少女が苦笑混じりに自分の名を口に乗せた後、こちらの答えを促すように微かに首を傾げた。

 もう、返答を引き延ばす口実はない。エマヌエルは若干不貞腐れた様子で、エマヌエル=アルバ、と投げるように言った。

「エマヌエル、か」

「……エマでいい」

 人身売買組織へ売られるまでは、その愛称で呼ばれていた。人から名前で呼ばれるのは数年振りとは言え、今更正式名で呼ばれるのもどこか居心地が悪い。そう付け足して、我に返った時には愛称で呼ぶことを赦していた。

(……何か、バカみてぇ)

 これじゃ、思いっきり心許してるみたいじゃねぇか。

 事実そうなり掛けていることには敢えて目を伏せて、エマヌエルはヴァルカ=クライトンと名乗った少女から視線を外した。

「どうかした?」

「……別に」

 それより、と話題を転じる言葉で、訳の分からない焦燥にも似た感情からどうにか目を反らす。

「俺、……どれくらい眠ってた?」

 少々無理矢理な流れの転換に、ヴァルカがどう思ったのかは判らない。ただ、深くは追及せずに応じることを選んでくれたようだった。

「三日経ってる」

「三日か……」

「意識が戻る確率は五分だって言われてた。出血量が半端なかったから」

「ああ……」

 そうだろうな、と口には出さずに思う。

 普通、人間は体内の三分の一以上の血液を失うと死ぬと言われている。

 とっくにそれくらいの失血はしているのではないかと思っていた。

「ま、普通の人間とヒューマノティックの基準、一緒にされても困るけどね」

「は?」

「あれ、知らなかった? ヒューマノティックって心臓に増血作用あるから滅多なコトじゃ失血死しないって」

「え……だって、かなり目眩がしたけど……」

 貧血の所為ではなかったのか。

「スイッチが入るのに時間掛かったんでしょ」

「……スイッチだ?」

「そ。そこは人間の反射と同じよ。危険を感じたら瞼が閉じるとかそういうの。本当に三分の一の出血が認められないと増血スイッチが入らないみたいだから、その間は貧血で目眩もするでしょうね」

 開いた口が塞がらなかった。

 それでは反射というよりは、殆ど緊急延命装置ではないか。

 いくら戦場では輸血が出来ない確率が高いとは言え、戦闘中に作用しなければあまり意味がないような気がした。

SS(ダブル・エス)シリーズになるとその辺りは大分改良されてるみたいよ」

 こちらの顔色を読んだように、ヴァルカが説明を補足する。

「……判った、その話はもういい」

 貧血とは別の意味でクラクラしてきた。

 しかし、次の瞬間、ハタと気付く。

「って、ちょっと待て」

「何を」

「じゃあ、『放っとくと死ぬ』ってあれは」

「ハッタリに決まってるじゃない」

 ハッタリって何だよ。

 そう思ったが、奇妙な虚脱感だけが脳裏を支配して何も口に乗せる気にならなかった。

「こうでもしないと大人しく担ぎ込まれてくれなかったでしょ」

「……まさか、動けなくなるまで放っておいたって訳じゃねぇよな」

「そこまで極悪じゃないわ。第一、そんなことして本当に死んだらシャレになんないし」

「……判った、本当にもういい」

 死の淵から折角生還したのに、何でこんなに疲れなきゃならないんだ。

 余計な会話で余計な体力を使ってしまった気がして、エマヌエルはグッタリと目を閉じる。

 訊くべきこと、得るべき大事な情報はもっと他にあるのに。

「……で、ここ何処」

 ヴァルカは、数瞬言い淀む様子を見せた。

「――……セカンド・ラボ」

 けれども、いずれ知れると思ったのか、あっさりと答えを口に乗せた。

 エマヌエルは、一度閉じた目を見開いて、険しい視線をヴァルカに向ける。

「……一応訊くけど、何処の」

「ゴンサレスのよ」

 舌打ちが漏れる。

 ゴンサレスのセカンド・ラボと言えば、遺伝子工学研究所だ。過去に、不本意ながら、何度もヴァージョン・アップの為と称して手術を施されに無理矢理連行されて来た、忌まわしい場所。

 身体が自由に動けばこんな所、一秒だって世話になるのは御免だ。

「気持ちは解るけど、完治するまで我慢して」

 すぐにも脱走計画を立てそうな様子を見て取ったのか、ヴァルカが釘を刺すように、それでいて心からの労りに満ちた声音で制する。

『気持ちは解る』

 他の人間の言葉なら、そんな口先だけの同情文句と跳ね付けているところだが、彼女が相手ではそれが出来兼ねた。

 心底から理解してくれていると、嫌でも判る。そんな声の色。

 この研究所の内に、身を置いていたくない。

 それは、同じ環境に置かれていた者同士にしか解らない感情だ。

「それに、あんたの執刀をしたのはウチの――CUIO・レムエ支部で検死官をやってる、元人間相手の名医よ。研究所の人間も手術に関わったのは本当に表向きのコトしか知らないスタッフばかりだったし」

「それ、確証あんのかよ」

「爆発事故があった時から、フロリアンは全部CUIOが押さえてる。ヘンなコトはされてない筈よ。自我もちゃんとあるでしょ?」

 反論を探すが、事実その通りだったので、エマヌエルは渋々口を閉じた。

 ヴァルカの細い指先が、もう一度エマヌエルの前髪をかき上げるように動く。悔しいが、宥めるようなその動作に、今は癒される。

「……もう少し眠る?」

「いや……」

 もう三日も眠ったのだ。そろそろ起きないと身体が鈍る。

「じゃあ、センセイを呼んで来ますか」

「あ」

 言うと同時に指先が離れて、思わず声が漏れた。

「え?」

「あ、いや……」

 目がウロウロと泳ぐ。

 もう少し触れていて欲しかった、なんて。

(何考えてんだ)

 バカじゃねぇの、と。

 久方ぶりに触れる温もりに、もう少し浸っていたいなど。

(ガキじゃあるまいし)

「何?」

 ヴァルカが、特に焦れた様子もなく、首を傾げる。

 結局、更に逡巡した後、エマヌエルは「何でもない」と言って彼女から視線を反らした。

 ヴァルカは怪訝そうな顔をしたものの、じゃあ少し待ってて、と言い置いて部屋を出て行った。

 室内が明るくなくて助かった、と息を吐く。

 でなければ、柄にもなく顔が火照った様子が隠しようもなく彼女の目にも晒された事だろう。

(……らしくねぇ、よな)

 クツ、と自嘲の笑いが漏れる。

 静寂の戻った部屋に一人残されて、意外にも自覚してしまったのはひとときの寂しさだった。

(……今までは、これで当たり前だったのにな)

 爆発事故を起こす前までは、確かに周囲に人はいた。

 けれど、それは親しさに発展するような間柄の人間ではなく、理不尽にこちらを踏み付け支配する科学者か、戦闘教育を施す教官、あるいは硬い表情で話をすることもない、自我を奪われた『同胞』達だけだった。

 孤独には、慣れている筈なのに。

 たった一人、自我を保つ為に、いつ終わるとも判らない戦いをしていた日々に狂ってしまわなかったのが、いっそ不思議に思えた。


***


「どうだ、ウィル」

「……ダーメだ、全っ然」

 右手から差し出されたコーヒーを受け取りながら、ウィルヘルムは首を振った。

 少年の血を吸ってしまったことで沈黙したUSBメモリをパソコンから抜き取って、眉を顰める。

 三日前、危険物処理場の地下から収容した重傷の少年は、まだ目覚めたという報せがない。

 どういう訳か、少年の身元を明かすことを渋るヴァルカから、彼の執刀を自分が受け持つという条件と引き替えに聞き出したところによると、二つの連続殺人の重要参考人だろうということだった。

 その彼が、上着の懐に忍ばせていたのだから、そのUSBメモリは重大な手掛かりに違いない。しかし、彼の血でひどく汚れてしまっていた上に、パソコンに差し込む部分が運の悪いことに剥き出しだった。

 これが、蓋か何かで保護されていれば、多少結果は違っただろう。

 とにかく、悪あがきよろしく、支障のない程度に血を拭き取って読み取りを試みたが、成果はさっぱりだ。

「……そうか。中身が読めれば多少何か進展すると思ったんだがな」

 アスラーも落胆を隠さず溜息を吐いた。

「そうでもねぇだろ。あいつが目を覚ましさえすれば、また何か話が聞けるんじゃねぇか」

「しかし、意識が戻る確率は五分なのだろう」

「……全くねぇ訳じゃねぇよ。五分はある」

 とは言ったものの、それじゃ結局意識が戻るか戻らないか、二つに一つじゃねぇかよという内なる突っ込みは敢えて聞かぬ振りで、ウィルヘルムは言葉を続けた。

「それに、手掛かりはあいつだけじゃない。確か、ヴァルカが拾った男がもう一人いたよな?」

「ああ、あの男か」

 少年と同じ場所から収容したもう一人の人物は、短く刈り込まれた金髪が印象的な、長身の男だった。

 ヴァルカが手加減なしで殴ったようで、こちらも意識を回復するのに丸一日掛かった。しかし、目覚めたら目覚めたで更に丸二日、今に至るまで何も白状しない。

 勿論、自殺されないよう食事は手掴みで食べられるものを用意し、二十四時間監視を付けてはいるが、やはり落とすのに時間が掛かりそうだ。

 一瞬目を見交わして、二人同時に重い溜息を吐いた時、コトコトとドアを叩く音がした。

「ベン。あたし」

「ああ、ヴァルカか。入れ」

 アスラーが入室の許可を与えると、ドアが開いてヴァルカが顔を出した。

「ごめん、仕事の邪魔して。仮本部に訊いたら、センセイもこっちだって言ったから」

 無表情にチラリとこちらへ視線を投げる少女に、ウィルヘルムはうんざりした表情を隠さない。

「そんな棒読みで『センセイ』とか言うくらいなら、ウィルでいいよ。おれに用か」

「ええ。あの子、目を覚ましたわよ」

 ウィルヘルムとアスラーは、再び顔を見合わせた。

「よーやく何か進展しそうだぜ。おっさんも来るだろ」

「ああ、そうだな」

 ウィルヘルムが立ち上がって伸びをする。

 しかし、歩を踏み出して出入り口を出ようとしたウィルヘルムの前を、素早く横切ったものがあった。

 出入り口に背をもたせかけたヴァルカの、ショートパンツから剥き出しになったしなやかな白い足の片方が、まるでキープアウトの黄色いテープのようにウィルヘルムの行く手を阻んでいる。

「……何の真似だよ。おれを呼びに来たんじゃなかったのか」

「一つ、約束して」

「は?」

「今日は、診察以上のコトはしないって」

「はあ?」

 ウィルヘルムは盛大に眉根を寄せた。

「……それはつまり、取り調べをするなということか」

 ウィルヘルムの疑問を代わって口にしたのはアスラーだ。

 ヴァルカの、無表情な深紅の瞳が、アスラーの方へ動いた。

「そこまでは言ってないわ。ただ、今日はそっとしておいてあげて欲しいだけ」

「どういうことだよ」

「言葉通りよ。あの子も意識戻ったばかりで疲れてるから」

「重要参考人なら本来そういう気遣いは無用なんだがな」

 ウィルヘルムの問いに、彼の方を向いていたヴァルカの視線が、もう一度アスラーに向く。ひどく、冷たい視線だった。

「あんたの言う『重要参考人』はイコール『容疑確定犯』かしら」

「スィンセティックについては、ウィルが大分調査してくれてな。スパイに潜り込んだ割にお前の調査が芳しくなかったから」

 あからさまな嫌味にも、ヴァルカの表情は動かない。アスラーもそれに構うことなく後を続けた。

「あの少年もその一人じゃないのか。彼の持つ能力なら、今回の一件、充分してのけられると思うが」

「確たる証拠があって言ってるの」

「残念ながらな。つい先日、爆心と思われる手術室の映像を発見した。画像の解析も終わってる。あの少年は、我々も探していたんだ」

 ヴァルカは、無言でアスラーを睨み据える。一見するとただ眺めているだけにも見えるが、視線の温度が既に氷点下に思えるのはウィルヘルムの気の所為ではないだろう。

「二十四時間でいい。待てなくはないでしょう」

「断る、と言ったら」

「あたしの『権利』を行使する」

 アスラーも無表情でヴァルカを見た。

 彼女の行使できる『権利』――CUIO傘下の諜報機関CCA(ダブル・シー・エー)に彼女を捜査官として配属する為に、CUIOと彼女との間でなされた交換条件のことだ。実際のところは、『配属』というよりも、CUIO上層部が、ヴァルカのヒューマノティックとしての特殊能力を欲しがった為の、半ば以上無理矢理な引き入れだった。その負い目から、彼女の言うままに約した交換条件とは、『彼女個人の目的を最優先にすること』。もし、これを(たが)えれば、彼女の方からいつでもCUIOを離脱出来るというものだ。

 ウィルヘルムも、つい先日、それをアスラーから聞かされて知っていた。

「あたしは正直言って、あんた達を頼ったことは一度もない。必要な情報は勝手に取らせて貰ってるしね。あんた達はギヴアンドテイクのつもりなんでしょうけど、あたしからすれば、ギヴアンドギヴよ。だから、多少の融通は利かせて貰えるんだと思ってたけど」

 違う? とでも言うように、ヴァルカが小首を傾げる。その年頃の少女ならまだ可愛らしく見える筈のその仕草が、ちっとも可愛く見えない。

「あたしは全然困らない。要求が認められないなら手を引くわ。あの子を連れてここを出る。但し、ドクターにも一緒に来て貰うけど」

「……困らない割に、おれは連れて行く訳だ」

「安心してよ。あの子が完治したら、無傷で返してあげるから」

「ありがたいこった」

 噛み合わない会話に、どうする、と目線だけでアスラーを伺う。アスラーは何か言いたげに口を開き掛けては閉じるといった動作を散々繰り返した末に、諦めたように肩を竦めた。


***


 深夜の廊下は暗い。

 眠りを妨げない程度の弱い明かりが、その時間帯そこに用がある人間を導くように周囲を淡く照らすだけだ。

 ゴンサレスのセカンド・ラボ、地下研究棟も例外ではない。

 CUIOレムエ支部がフロリアンの地に入ってからは閉鎖されていたが、今はただ一室がある目的の為に利用されていた。

 元々は、囚人ではなく実験体を捕らえておく為の部屋だ。しかし、あながち見当外れな目的に使っている訳でもない。

 これが、ホテルにでも流用されると言ったら、また話は別だろうが。

 数メートル四方ほどの室内には、簡易ベッドが一つあるきりだ。

 そのベッドの上に腰を下ろした男は、がっしりとした、重たい鉄の扉に視線を向けて、溜息を吐いた。

 食事の時は下の方に取り付けられた小窓が差し入れ口となっており、万が一にも逃げられるようなスペースが開くことはない。

 それでなくとも、今自分がいるのは、丸腰でも凄まじい戦力を誇るスィンセティックでさえ、大人しく監禁されるままになるしかないような部屋だ。

 戦闘訓練を積んでいるとは言え、普通の人間で、しかも丸腰の自分が容易に抜け出せる筈もない。その上、今は両手両足に傷を負って、満足に歩けるかも怪しい状態だ。

 申し訳程度に手当はされているものの、痛み止めは与えられていない。

 けれど、傷口の疼きよりも、我が身の行く末が案じられて、男は意識が戻ってからは碌に眠っていなかった。

 ここへ収監されてから二日――ただ、それは男の意識の中だけの話で、その実、自分は一日気絶していたらしいから三日経っていることになる。

 ここには時計がないので、時間の感覚は完全に吹っ飛んでいるが、そろそろ日付が変わる頃だろうか。

 つまり、このフロリアンの地へ入ってから、四日が経とうとしているということだ。

 ノース・エンド入りする直前に、上司であるユーリ=ハロンズに連絡を入れたから、その後すぐに消息を絶った形になる。

 四日も音信不通では、とっくに『任務失敗』という判断を下されていてもおかしくない。

 標的と、自分を纏めて始末する為の新たな刺客が放たれたとしても、流石に北の大陸<ユスティディア>西端の地からこの最北端の地まで、四日では到達出来ないだろう。

 だからと言って、それが命の保証に繋がる訳でもないが。

 男は舌打ちを漏らす。

 早く抜け出して対策を講じなければ。もう、命のカウントダウンは始まっている。

 ユーリ=ハロンズという男は、失態を犯した部下に二度目のチャンスをくれるような甘い人間ではないのだ。

 外のやり取りが、微かに漏れ聞こえて来る。日付が変わり、見張り交代の時間らしかった。

 しかし、男にはどうでもいいことだ。交代した見張りがフイと気を変えて、鍵でも開けてくれなければ。

 けれども、この日に限って男にとっての奇跡が起きた。少なくとも、今この時においては、奇跡だと思えた。鍵の解除音が響いたかと思うと、微かな金属音と共にゆっくりと扉が開かれる。

 降って沸いた幸運に、男が瞠目したのは、ほんの一瞬のことだった。

 逃げなければ。

 とにかく今は、ここを出るのが先決だ。

 失態を償う策を練るのは、それからでも遅くはない。

 開かれた扉を見て、男が考えたのはそれだけだった。

 鍵を開けてくれた人物が自分を助けようとしているわけは、勿論ないだろう。

 先手必勝、とばかりに男は、傷口に走る痛みをどうにか堪えて開いた扉の隙間に突進した。開かれた扉の縁に必死で取り付き、出入り口を力づくで押し広げる。その向こうにいた人物を押し退け、廊下へ転げ出た――つもりだった。

 しかし、廊下へ足を踏み出すよりも先に、身体に衝撃が疾走る。

「えっ……?」

 何が起きたのか、理解出来ない。

 いやにゆっくりと、目の前の景色が反転する。元々暗かった廊下が、更に暗さを増したような気がした。明かりが、落とされたのだろうか。

 疑問に思う間があったのか、なかったのか。

 男の視界は、急速に灰色に染まり、ブラック・アウトした。


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