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 研究所敷地内の最北端に、研究所から出た化学廃棄物を処理する為の施設がある。その更に片隅、何故か廃車が数台放置されている一角で、エマヌエルは廃車の間に座り込み、小さなノート型パソコンをいじっていた。

 事故後、すぐに見付けた地下最下層の隠れ場所は、一週間程前に放棄していた。

 ちょうどその頃に殺した男――ウェルズに指摘されるまでもなく、どこかの捜査団体が毎日のように何か嗅ぎ回っているのは知っていた。彼は確かCUIOとか言っていたが、それがどんな組織なのかまではエマヌエルには判らない。十歳にして人身売買組織に売られ、世間一般の情報からは隔絶されて育った所為だ。

 けれど、改造もされていない普通の人間に何が出来ると、無意識に侮っていたのも事実だ。

 その『侮り』が『油断』として自覚出来たのは、一週間前の夜半のことだった。

 いつものように隠れ場所から這い出たエマヌエルを、見知らぬ女が出迎えてくれたのだ。その姿を視界に捉えるまで、気配が全く読めなかった。

 己の迂闊さに舌を打ちながらどうにか振り切ったが、一度見付かった隠れ場所を使用し続けるのは危険以外の何者でもない。女を撒いた後、その足でウェルズ他数人を住宅街で片付け、以降は新たに見付けた隠れ場所である研究所付属の危険物廃棄所で寝起きしていた。

 廃棄所の面積はおよそ二平方キロメートル。

 フロリアンの地がゴンサレスの私有地になる以前、ノース・エンド・シティのゴミ集積及び処理場として使用していた施設を、そのまま流用したものらしい。

 ゴミ処理場だった頃の名残とばかりに、打ち捨てられたままになっていた廃車の中が、今はエマヌエルの仮住まいだった。

 研究所の研究内容が内容なだけに、そこへ廃棄されるのは使い捨ての注射器や期限切れの薬品ばかりではなく、かなり危ないウィルスの種なども放置されている。

 勿論、定期的に焼却炉で処理が行われていたが、研究所が半ば崩壊した今は普段管理に当たっていた人員も爆発『事故』の後処理に追われているらしい。出入り口付近にある管理室は現在無人で、忍び込むのに苦労は要らなかった。

 更に、度重なる肉体及び遺伝子改造手術を強制的に受けさせられたエマヌエルの身体は、大抵のウィルスや細菌には感染しなくなっているので、こんな場所でも無防備でいられる。

 ちなみに、エマヌエル以外の被験体も皆同じかと言えば、そうとは言えない。感染症に最初から罹らないようにする――それによって戦場に投入された兵士の病気感染の憂いをなくす為の研究に関してはまだ途上らしく、今のところエマヌエルは自分と同様、全ウィルス・細菌免疫体質に変異した被験体とは顔を合わせたことはなかった。

 ともあれ、普通の人間なら命の保証はないに等しいこの場所は、格好の隠れ家だった。

 最悪、周りを取り囲まれたとしても、生半可な装備では相手は踏み入って来られない。相手がまごついている間に、地下に通じる排水溝を辿って敷地外へ抜け出すことも充分可能という訳だ。

 とは言え、自分の存在を知られた今は、ここでの決着を長引かせる訳にもいかなかった。

 エマヌエルは、黙々と目の前の画面をスクロールしていく。ノート型パソコンを使って見ているのは、爆破後の研究所跡で探し出した、裏プロジェクトに関わった研究スタッフの名簿――正しくブラック・リストだ。その名簿に書かれた名前の上には、所々線が引かれていた。

 取り消しを示すように線が引かれた人物は、既にこの世にいない。

 三分の一は、瓦礫の下で死んでいるのを確認したか、爆発跡で止めを刺したか、ウェルズのように自宅へ出向いて始末したかのいずれかで、既に片付いている。残る三分の二の内、半数は寮を覗いて回っても自宅に人がいる様子がなかった。あの爆発に巻き込まれて死んだ者を見落としたのか、死体が残っていないか、それとも病院かどこかに運ばれたのか。

 自分にとって行方不明の連中は、取り敢えず後回しだ。残る三分の一を片付けてしまいさえすれば、ここを離れられる。行方不明の連中を片付けるのは、その後でも遅くはない。

 そろそろ、夕闇も迫るこの時間帯が、エマヌエルにとっては狩りの始まりの時だ。

 パソコンの電源を落とそうとした正にその時、カチ、という微かな音と共に硬質な感触が後頭部に当たって、エマヌエルは凍り付いた。

「――動かないで」

 少女とも大人の女性ともつかない、凛としたその声音が低く命じる。

 今の今まで、全く気配が読めなかった。

 けれども、それよりもエマヌエルにとって重大な問題は、相手が何故ここにいられるのかという疑問だ。

 ここは、単なるゴミ処理場ではない。危険な化学廃棄物の掃き溜めだ。

 普通の人間が、何の装備もなく易々と侵入を果たせる場所ではない筈だった。ただ、今のエマヌエルは相手の姿を見ていないので相手が無防備なのか何らかの装備済みなのかは判断がつかない。しかし、少なくとも『声』は、何かのマスクのようなものを通した声ではなかった。

「まずはパソコンを地面に置いて。……ゆっくり立ち上がってこっちを向きなさい」

 エマヌエルは、静かに深呼吸した。自身に落ち着けと言い聞かせながら、相手の指示に従う素振りを見せる。相手の言う通り、胡座を掻いた膝の上にあったパソコンを地面に置いた。

 相手に気取られないようパソコンからUSBメモリを引き抜いて、上着の内ポケットへ滑り込ませる。最悪、このパソコンは手放しても良い。データを開く為の道具に過ぎないからだ。だが、裏スタッフのデータが詰まったこのUSBメモリだけは失う訳にはいかなかった。

 ゆっくりと、胡座を掻いた姿勢から、膝を立てて立ち上がる。そうしながら、素早くパソコンの画面を閉じると、やや重い板状になった機械を引っ掴んで振り向き様相手に投げ付けた。

 女は息を呑んだが、同時に、巧みに身を縮めて自身に向かって飛来したノート型パソコンを避けている。流れるような動きで構え直された銃に向かって、エマヌエルは回し蹴りを繰り出した。

 が、足は虚しく空を切る。――否、空を切ったかに思われた足は、女の空いた手に掴まれていた。そのまま、グイと押されて背中から倒される格好になる。

 咄嗟に頭を庇うが、女はエマヌエルの足首を掴んだ手を離さなかった。強か背中を打ち付けて、一瞬息が出来なくなる。

 半ば力づくで捕まれた足首を取り戻し様、後転の要領で一回転して起き上がる。体勢を立て直す頃には、相手も銃を構え直していた。

 視界の中に、今日初めて相手の姿を捉える。

 目の前で銃を構えているのは、エマヌエルと同じ年頃の少女だった。忘れもしない、先日地下の隠れ場所を放棄するキッカケを作ってくれたあの女である。夕闇が深くなった今は、昼間と同等の明瞭な視界を与える視力<ノクト・ヴィジョン>でも、色までは判別出来ない。だが、その瞳は静謐な色を湛えている。柔らかなウェーブを描く、闇に溶け込みそうな濃い色の髪の毛が、時折、風に促されて少女の頬を撫でた。

 落ち着いた雰囲気そのままに、彼女の手にした銃口はブレることなく、真っ直ぐエマヌエルの心臓に向けられている。

「……動かないでって言った筈よ。大人しくしてくれれば危害を加えるつもりはないわ」

 僅かな時間の攻防だったが、今の動きで少女が息を乱した様子はない。もっとも、それはエマヌエルも同じだった。

「……銃突き付けられながら言われても全然説得力ねーんだけど。抵抗して下さいって言ってるようなモンだぜ?」

 少女の言い分を鼻先で笑って退けると、エマヌエルはやや腰を落として身構え直す。

 てっきりそのまま掛かって来るかと思いきや、少女は「それもそうね」と呟くなり、手にしていた銃を唐突に放り出した。

 予想外の行動に唖然とした瞬間、少女の姿が視界から掻き消える。一度視界から外れたら全く気配が読めない相手を見失うなど、致命的だ。

 それでも、エマヌエルは相手の動きを探ろうと、必死で全神経を研ぎ澄ませる。

 空気が微かに動く。

 身体が動くに任せて、前方の地面へ飛び、受け身を取って転がる。直前まで頭部があった辺りに、遠慮なく繰り出された拳が、勢い良く通過したのはほぼ同時だった。エマヌエルの側頭部を捉える筈だった少女の裏拳は、本来の目標を失って廃車の窓ガラスに衝突した。無惨な音を立てて、ガラスが砕ける。同時に、少女は再び地を蹴っていた。

 エマヌエルの方は、地面へ転がった為に、次の攻撃に対する挙動が一拍遅れた。バックステップで地を蹴ったが、間に合わない。

 身体が空中に浮くか浮かないかの刹那、細い指先に胸倉を掴まれて地面へ叩き付けられる。肺から空気が無理矢理叩き出される感覚の中で、むせることすら出来ずに息を詰める。その間に喉元は少女の右手で、両腕は彼女の右足と左手でそれぞれ地面に縫い止められていた。空いた彼女の左足の膝は鳩尾を圧迫していて、下手に身動きすれば肋骨が折れ兼ねない。

「話が違うじゃないの」

 やはり息を乱すこともせずに、少女は無表情で真上から言った。

「何が」

「あたしが銃を捨てれば抵抗しない筈じゃなかったの」

「誰がンなコト言ったよ」

 どこかズレているとはこのことだ。鳩尾を圧迫される苦痛から、どうにか彼女の下から抜け出す術を探るが、しっかりと組み敷かれた身体は梃子でも動きそうになかった。――彼女の、足か腕を一本、吹き飛ばしても良いなら話は別なのだが。

「あたしを傷付けずに振り切ろうなんて、馬鹿げた考えは捨てた方がいいわよ」

 淡々とした声音に図星を突かれて、エマヌエルは内心で舌を打った。

「あんたが逃げる素振りさえ見せなければ、あたしだってこんな真似はしない。あたしは、あんたの協力が欲しいだけなんだから」

「……協力、だって?」

 エマヌエルの、形の良い眉の間に皺が寄る。

「は、これが協力要請する体勢かよ。まさかガキでも作る相談じゃねぇだろうな」

 嘲るように言った途端、首を絞める力が僅かに増す。見上げた彼女の瞳は、感情の殺げ落ちた冷たい色を宿していた。

「……そのテの冗談、あたし死ぬほど嫌いなの。もう一度言ったらこの首へし折るわよ」

 少女の声のトーンが、オクターブは落ちている。温度の感じられない冷え切った声音は、自分が言った内容を実行できる力があることを示していた。

「……了解。悪かった」

 吐息と共に、素直に謝罪を口に乗せる。両手が自由であれば、ホールドアップの格好を取っていただろう。

 十歳で人身売買組織に売られ、以降の人生で形成されたエマヌエルの性格は、一言で表すと『人間不信』だ。脅されようが殺されようが、自分が信用しないと思ったらとことん信用しない。脅しに屈するくらいなら、死んだ方がマシだというのがエマヌエルの持論だ。それも時と場合によるが、そんな彼が他人の言う事を額面通りに受け取るなど、ましてや、それを受けてすんなり詫びるなど、天変地異の前触れにも等しい珍事である。

 故に、彼女の気迫に臆した訳では決してない。ただ、傷を垣間見た気がしたのだ。他人が触れてはいけない心の傷に、知らずに踏み込んでしまった後ろめたさで、エマヌエルは少女の視線から逃れるように目を伏せる。

「謝るから、取り敢えず退()いてくんない? 押し倒されるのはシュミじゃねぇんでな」

「話が済むまで逃げないって約束すれば、退いてあげる」

 伏せていた目を上げる。再び見上げた少女の瞳には、先程の冷たさはもう露ほども感じられなかった。

「話だけで済むって保証は?」

「どういう意味?」

 やはり淡々と訊き返されて、僅かに苛立つ。先刻感じたばつの悪さは、早くも脳内からデリートされた。

「だから、そのまま捕獲とか抹殺とか?」

()るつもりなら、最初から殺ってるわ。それに、この体勢に持ち込んだ時点で気絶させるなり首へし折るなりしてると思わない?」

 至言である。反論を探すが、ぐうの音も出ない。

「……解った。但し、あんたを信用するかは別問題だぜ」

「人間不信もそこまでいくと表彰ものね」

 渋面と共に少女の意に従う旨を示すと、少女が小さく苦笑した。そろりと鳩尾に食い込ませていた膝を浮かせ、圧迫からエマヌエルを解放する。

 しかし、両腕の拘束はそのままだった。首に掛けられた指も緩められはしたが、依然油断なく首に添えられている。

「……どういうつもりだよ」

「悪いけど、他人を信用しないのはあたしも同じなの」

「へぇ。信用しない相手に協力求めるなんて、あんたも変わってんな」

 揶揄交じりに言うと、少女が再び苦笑する。

「そうね。あんたを信用するかしないかは、今は判断できない。でも、あんたはあたしに協力するしかない筈よ」

 エマヌエルは、再び眉根を寄せた。一体、どういう意味だろう。

「あんた、――AA(ダブル・エー)8164、でしょう?」

 音もなく覆い被さって来た彼女が、耳元でそっと囁いた。

 ゾワリ、と首筋に何かが疾走る。


『AA8164はお前か』


 ――違う。


『本来なら欠陥品だから正当な製造ナンバーで呼ばれる資格はないのだがな。……ダブル・ハーフ・ナンバー0010……もう十体目か』


 ――俺は、道具じゃない。


 頭の奥が、急速に冷めていく。鼓動が早くなって、雷鳴の音が弾けた。

 覆い被さっていた少女が、ハッとしたようにその上体を起こす。瞬間、エマヌエルの腕に、青白い雷光が走った。生まれた微かな隙を逃さず、左腕を彼女の足の下から強引に引き擦り出す。必然、擦り傷が出来たが構わなかった。バランスを崩した彼女の胸倉を自由になった左腕で捕らえる。逆に押し倒して組み伏せると、少女が初めて見せた動揺を呑み込むようにして息を詰めた。

「……その記号の羅列みてぇな呼び名、二度と口に乗せんな。手足がなくなるだけじゃ済まなくなるぜ」

 その気になれば、人間一人くらい塵も残さずこの世から消し飛ばせる。誇張でもハッタリでもない。

 エマヌエルに与えられた忌まわしい能力――フォトン・シェルなら、本当にそれが可能だ。

 人体に巡る微弱な電流を、体内に埋め込まれた特殊な機械で増幅し破壊力を持たせ、腕から掌に掛けて移植されたナノサイズの射出口から言わば電気の弾丸として発射する。その気になれば、人間一人どころか、街一つ、都市一つ、国一つ――下手をすれば、大陸一つでも一瞬で跡形なく消し飛ばすことなど造作もない。しかも、核兵器と違って放射能などの有害物質が一切生成されないところが、スィンセティックを使役する者から見れば最大の長所だ。

 そして、AA8164――それはエマヌエルの、スィンセティックとしての製造ナンバーだ。

 そう呼ばれるのが、あの狂った科学者連中と同じくらい嫌いだった。呼ばれる度に、もう自分は人間ではないと刻み付けられる気がした。

 今でも、誰に呼び掛けられても胃が捩れるような憎悪が煮え滾る。憎しみ、恨みと言った負の感情は、薄れるものではなく際限無く沸いてくるものだと、この身体になって初めて知った。

 塞がることを忘れた傷口のように、いつまでもジクジクと膿を持っていて、『AA8164』もしくは『ダブル・ハーフ・0010』というキーワードによって鮮血を吹き出す。

 それが彼女に見えたかどうかは、エマヌエルには判らなかった。いや、どうだっていい。今肝心なことは別にある。

「あんた……何をどこまで知ってる?」

 十六歳の少年のものにしては、まだ若干高さを残した声が、低く落ちる。

「答えろ」

 ジジッ、という電子音を立てて、少女の胸部に()し掛かるようにして彼女の動きを封じている細い腕に、青白い筋が這った。

 少女の返答如何では、彼女も消さなければならない。無関係の人間を巻き込むつもりは更々なかったが、自分の目的を達する障害になるのなら話は別だ。

 しかし少女は、やはり淡々とした――外からは何を考えているか一切読めない表情で、エマヌエルを見上げる。若干哀れむような視線を投げると、溜息と共に、

「そう威嚇しなくたって答えるから、ちょっとその物騒なもの引っ込めてくれない?」

 と言った。

「それでなくたってこっちはそんな飛び道具、体内に持ってないんだから……」

「何?」

「驚くコトないでしょう。あんたの製造ナンバーを知ってるんだから、身体の中身を知ってても当然だと思わない?」

「黙れ!」

 製造ナンバー――製造ナンバー、製造ナンバー。

「……黙れ。俺は機械じゃない」

 道具でもない。ロボットでも、意思のない殺戮人形でもない。だが、今となっては胸を張って人間だとも言えない。

 自分は、この身体になってから、間違いなく人を殺している。自分を、守る為に。突き詰めれば、それは自分のエゴ以外の何者でもない。

「俺はっ……」

 けれども、そうしなければ生きられなかった。目的を果たすまで、死ぬ訳にはいかない。

 いつの間にか、意図せず俯かせていた顔の側面に、不意に温度を感じて、エマヌエルは反射的に視線を上げた。その先に映ったのは、凪いだ湖面のような瞳だ。

「解ってる」

 静かに、逆立った感情を宥めるように少女が言葉を紡ぐ。頬に感じる温もりが、彼女の掌のものだということに気付くのに、そう時間は要らなかった。

「知ってるわよ。あんたは道具じゃない」

「何を」

「あたしも同じだもの」

 同じ――同じだと? 一体、何の話をしている。

 混乱しながらも張り詰めた神経を緩めず、少女の挙動を注視した。拘束しているエマヌエルの腕を、やんわりと、それでいて有無を言わせぬ力で自分の胸元から退かせると、少女は肘で支えるようにして上体を起こした。彼女が、おもむろに自分の胸元へ手を掛ける。しなやかな指先が、上着のすぐ下に身に着けているTシャツの胸元を、恥ずかしげもなく思い切り引き下げた。

 かなり際どいところまでギリギリ露わになった白い肌が夕闇に浮き上がる。エマヌエルから向かって左側の乳房に無惨に刻まれていたのは、彼自身もよく知っているものだった。

「ッ、……それ、」

 続きは言葉にならず、今度こそ驚きは瞠目になって表面に現れる。

 改造された視力で読み取れたのは、向かって右肩上がりに刻まれた――


 ――『(エス)9910』、『Double Half-0013』――


***


「そう言えば、おっさん、あいつのことについて、まだ話して貰ってないよな」

 ウィルヘルムが、出し抜けにそんな言葉を口に乗せたのは、今日の作業可能時間も終わりに近付いた頃だった。

 ユスティディアの冬の日暮れは早い。

 午後五時を過ぎれば、薄暗くなって周囲は殆ど見えなくなる。

 まだ、瓦礫に埋まっている人もいる。

 事故後、約半月が経って、現在まだ瓦礫の下だとしたら、もう生存は絶望的と言っても過言ではない。だが、それを口に乗せることは誰一人しない。家族の身になれば、もしかしたらと言う一縷の望みを捨て切れないのは解ると言ってしまえば語弊があるかも知れないが、思いやるくらいは出来るからだ。

 しかし、視界が悪い中での作業は、二次被害を引き起こし兼ねない。

 この時間帯になれば、誰に指示されるでもなく、皆申し合わせたように現場から引き揚げて行った。

 アスラーも、この時刻になると、ダイイング・メッセージの文字の一部と写真と遺体をセットでウィルヘルムの詰める仮診療所に届けるのがこのところの習慣になりつつあった。もっとも、最近ではメッセージが近くにある状態の遺体は噸と見かけなくなっているので、こちらの捜査も行き詰まりが見え始めている。

 これ以上の被害が出ないであろうことを喜ぶべきか、犯人が未だ捕まらないのを嘆くべきか、アスラーは真剣に決め兼ねていた。

 ウィルヘルムが、その問いをフイと口にしたのは、そんな習慣の直中(ただなか)のことだった。

「あいつ? 誰のことだ?」

「あいつだよ。ほれ、あの小生意気な小娘」

「ああ……」

 ヴァルカのことか、とアスラーは納得すると同時に苦笑した。見る人から見れば、ウィルヘルムも生意気と取られても仕方がないところがあるのだが、本人に自覚はないらしい。

「何だよ」

 笑いを聞き咎めたのか、ウィルヘルムが不機嫌そうな声音で問うた。

「ああ、別に……何も」

 何もないと言いつつ、アスラーはクスクスと笑い続けた。

「おい、おっさん」

「あー……悪い悪い。ヴァルカのことだったな」

 苛立って詰め寄り掛けるウィルヘルムを手で制すると、アスラーは話題を戻す。

「で、何を知りたい?」

 問うと、ウィルヘルムは、自分から訊いたくせに、言い淀んで一瞬口を閉ざした。

「どうした?」

「ああ、いや……訊いて良いのかと思ってよ」

「構わないが……何故だ?」

「だって、こないだおっさん、随分言い渋ってただろ」

 ウィルヘルムの指す『こないだ』が、最初にヴァルカの担当していた潜入捜査に絡んで話した時のことだと思い至って、アスラーは苦笑する。

「少し話が長くなりそうだったからな。それに、彼女本人に承諾を取っていなかったこともあって……今は大丈夫だ。構わないから何でも訊け」

 言うと、ウィルヘルムはようやく安堵したように、疑問を口に乗せた。

「……取り敢えず、あの若さで捜査官なんかやってるのは何でかってとこからかな。そもそも十七でなんて、書類でハネられるのが普通じゃねぇの?」

「まぁ、普通はな」

 アスラーは含みを持たせるように、ウィルヘルムの意見をなぞる。

「だが、彼女は普通じゃない。身体の造りからしてな。大きな声では言えないが、彼女は実は――」


***


「……ヒューマノ、ティック……だと…?」

 呆然とした無意識の呟きが、口から漏れる。

 『(エス)9910』、そして『Double Half(ダブル・ハーフ)-0013』。

 傷など付けることも躊躇われるような柔肌に、容赦なく刻まれた文字は、エマヌエル自身の身体にも刻印されているものだ。

 ただ、エマヌエルの場合は、鏡でもなければ自分で見る事は出来ない。背中の右肩部分にある刺青は、『AA(ダブル・エー)8164』と『Double Half-0010』だ。

 人間ベースのスィンセティック――ヒューマノティックは、無論自分一人でないことは知っている。

 しかし、兵器としては欠陥品であることを示すダブル・ハーフ・ナンバーの付いた被験体には、これまで会ったことはなかった。

(……道理でな)

 銃口を突き付けられるまで気配が全く読めなかったことも、十代の少女らしからぬ腕力にも、ヒューマノティックとして改造手術を施されていると思えば納得がいく。

 この危険物集積場で、無防備でいられることも、自分と同じく全細菌・ウィルス免疫体質を手に入れたのなら、何の不思議もない。

 しかし、ダブル・ハーフ・ナンバーだからと言って、信頼に足る相手かどうかはまだ判らない。

 エマヌエルは、動揺を理性で押さえ込むと、軽く深呼吸し、改めて相手を見据えた。


 ダブル・ハーフ・ナンバーが刻印される被験体の条件は、体内にあるフォトン・シェル製造装置の制御を兼ねて脳内に埋め込まれるチップから洗脳プログラムが飛んでいること。

 製造者の言うことを聞かない兵器など危険極まりない、という訳だ。

 チップの欠陥が確認された被験体にはダブル・ハーフ・ナンバーが新たに与えられ、矯正教育が施される。研究者達の命令に従うようにする為の再調教――機械で言うところの再プログラムだ。飛んだ『洗脳プログラム』を外から補うという、言葉にすればそれだけの話だが、『再調教』される側は堪ったものではない。内容と言ったら、思い返すも腹立たしくおぞましいが、最初は、自分の呼び名(エマヌエル曰くの『記号の羅列』)の刷り込みから始める。方法も至って単純(シンプル)で、まず科学者達が、自分達の名前を訊く。向こうの望む答え、即ち『製造ナンバー』を答えなければ、十分間電流の洗礼が施される。その後で、もう一度同じ質問が繰り返され、それでも駄目なら今度は二十分電気が流される訳だ。

 大抵の被験体は、三十分に到達する前に白旗を挙げるが、エマヌエルは三日三晩粘った。挙げ句に屈した訳ではなく、その間に考えたのだ。屈した振りをして、与えられた能力を使いこなすことを覚える方が、後々得策だと。

 但し、ここをクリアしても、電流地獄など序の口だった、とエマヌエルは思う。

 ともあれ、結果的に研究者達から見れば、全ての被験体が意図通りになったと思っていた筈だ。だから、エマヌエルも彼らの支配下にいる振りを装っている間に、ダブル・ハーフ・ナンバーを与えられても、廃棄された被験体がいるという話は聞いたことがない。研究者達にしても、一体一体が巨額をつぎ込んで開発されるものだから、そう簡単に廃棄処分にはしたくないというのが本音なのだろう。

 けれど、人間の脳というのは、計算で計れるほど簡単な造りではないのも確かだ。

 現に、エマヌエルの場合は再調教の苦痛よりも、自らの身体を勝手に改造されたことへの憎しみの方が強かった。結果、自分を手放さずに逃亡の機会を捉えることが出来た末に、今に至る。

 しかし、殆どの被験体は、抵抗を諦め自我を手放し、他のスィンセティックと同じように日々諾々と研究所の意に添う毎日を送っていた筈だった。目の前にいる相手も、もしかすると、研究所の生き残りの手下としてエマヌエルを捕獲しに来たという可能性はゼロではない。

 全く警戒を解かないエマヌエルに、少女はもう一度溜息を吐いて、服の胸元を押さえていた指を離した。

「……お仲間だと判ったんだから、もうちょっと打ち解けたらどう? やれやれ、思いっ切り見せ損ね」

「色仕掛けが通じなくて生憎だな」

 エマヌエルは面白くもなさそうに、フンと鼻を鳴らす。

「大体、お仲間はお仲間でも身体の構造だけだ。あんただって言ったろ。俺を信用出来るかはまだ判らないって」

 深い青色の瞳が、冷ややかに少女を睨め付ける。

「あんたがヒューマノティックで、ダブル・ハーフ・ナンバーなのは判った。けど、それが何だ? 免罪符になるとでも思ってるなら甘いぜ」

「そうね。別にそこまでは思ってないけど」

 食い下がるかと思いきや、少女は軽く肩を竦めただけだった。

「あんたが首根っこ押さえられてる状況なのは変わってないわよ」

「何だと?」

「違う? あたしが一言訴えれば完全装備のCUIOの捜査官がここへ乗り込んで来るわ。多分、あんたの能力を封じられるものも用意してね」

「あんたは何だ。そこの――CUナントカの子飼いか?」

 先日殺した男から一度聞いた単語ではあったが、エマヌエルにはCUIOが何を指すものなのかが、未だに理解出来なかった。十歳の時から今まで世間一般の情報から隔絶されて育ったのが一因だ。『捜査官』が出てくるところからすると、警察関連の組織であることだけは容易に想像がつくが。

「子飼い……ねぇ。まあ、否定はしないわ」

 少女は自嘲気味に笑って、再度肩を竦めた。

「なるほどな。制御装置の情報に関しちゃ、あんたっていう密告者がいるってワケか」

 舌打ちと共に皮肉ると、少女が出会ってから初めて笑顔らしいものをエマヌエルに向けた。但し、柔らかなものではなく、勝利を半ば確信したかのようなそれだ。

「解ってるじゃない。でも、あたしに協力するなら、あんたのことは黙っててあげる。同じダブル・ハーフ・ナンバーの(よしみ)でね」

「あんた、まだ甘いな。どこでどのくらいの間、ぬるま湯に浸かってたか知らねぇけど」

 エマヌエルは嘲るように鼻先で笑うと、中途半端に起き上がっていた彼女の上体を、やや強引に再び地面へ押し付けた。

「あんたに黙ってて貰う必要はどこにもねぇ。この場であんたの息の根止めれば、それで俺には片付く問題だ。ついでに言やぁ、あんたは今丸腰。確か、フォトン・シェルの能力はないんだったよな。銃はあっちの地面に落ちてるし」

 少女の顔から、スッと笑みが消えた。自分の言い分が通らなくて焦っているのかどうかは判らない。外から内心が読めない無表情に戻っている。

「あの世に送る前に教えといてやるよ。信用できるか判らない相手にホイホイ手の内明かすもんじゃねぇぜ」

 じゃあな、と言おうとしたエマヌエルを、再度浮かんだ少女の微笑が遮った。

「情報が欲しくない?」

 眉根を寄せたエマヌエルの視線の先で、少女は笑みを浮かべたまま言った。口調が急いていないところから、少女の余裕が伺える。

「情報だ?」

「そ。あんた、ここを全部片付けたところで、その後どうする気?」

「その前に、あんたは俺が何しようとしてるか、知ってるワケ?」

「あんたに直接聞いたわけじゃないから、知りゃしないけどね。少し考えれば判るわ。製造ナンバーで呼んだだけであれだけの殺気を見せたんだから、研究所その他諸々には相当恨みがあるんでしょ」

 それは、問い掛けではなく断定だった。

 落ち着いていた感情の底が、再度沸騰し始める錯覚を憶えて、エマヌエルは少女に鋭い一瞥を投げる。

「だったら何だ。それがあんたに関係あるか?」

「ないって言ってしまえばないのかもね。でも、ちょっと考えてよ。あたしがタダでCUIOの子飼いなんてやってると思う? あたしだって自我を持って再調教を乗り切ったんだから、あたしがあいつらにどんな感情持ってるかは解ってると思うんだけど」

「あんたに本当に自我があるって証拠はあんのか」

「……あんた、本当ーに筋金入りの人間不信ね。そうでないと生き残れなかったのは解るけど」

 少女が、やや呆れたような表情で息を吐く。

「調べればバレるような嘘吐いてもあたしに得はないわ」

 それが、本当にマジならな。

 現実には沈黙を返しながら、胸の内で呟く。だが、一方でそうは思いながらも、エマヌエルには、少女の言い分を頭から否定することがどうしても出来なくなっていた。先刻、ほんの一瞬垣間見た少女の剥き出しの傷が、頭の隅に引っかかっている。

 自分と同じだ、と直感するのに充分だったような気がする。

 CUIOの関係者や、自我を持っているように装うだけならその場の演技でも出来る。洗脳プログラムの働いている被験体は、自我を持っていない。但し、命令されれば人間らしく振る舞える。業界の名俳優も真っ青の演技が可能だ。しかし、心の傷跡だけは決して演技だけでは補えないものだ。少なくとも、自我を失くしたヒューマノティックには、不意打ちの演技でそれが出来るとは思えない。

 最早、反論出来る材料はなかった。けれども、何か言わなくてはと口を開き掛けたその時、ふと違和感を覚えた。何に、とは特定出来ない。強いて言えば、空気だろうか。少女も同時に異変に気付いたようだった。

 エマヌエルがバックステップで、少女が後転の要領でそれぞれその場を飛び退くのと、一瞬前まで二人がいた場所が爆発するのとは、ほぼ同時だった。


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