CODE;4 At a house in a forest
「ホントーに、『兄ちゃん』だったんだなぁ」
濡れた着衣を苦労して脱いでいると、着替えを持ってそこに立ったアルベルトが、感心したような声音で言った。
「うるせぇ、それ以上言いやがったらホンットにシメるぞ」
脱衣所で上半身だけ裸になったエマヌエルは、肩越しに半眼でアルベルトを睨め付ける。
「ご、ごめんなさい」
絶対零度の声音で凄むと、それだけでアルベルトは縮み上がった。勘だけは動物並に良いらしい。
「で? タオルと着替えクシャクシャにして、いつまでそこにいる気だ?」
下まで確認するつもりか? と続ければ、彼は慌てて脱衣籠に乾いたタオルと着替えを放り込んで扉を閉めた。彼の気配が脱衣所の前から遠退くのを確認すると、できるだけ手早くボトムも脱ぎ、洗濯機へ放り込む。先にシャワーを終えたヴァルカから教わった通りにスイッチを入れ、バスルームへ滑り込んだ。
蛇口を捻って、塩水でベトベトになった頭からシャワーの湯を浴びる。余計な塩分が流れ落ちて行くような気がして、どこかホッとした。
髪の毛を含む全身をザッと洗い流して、バスルームを出た。乾いた着替えに袖を通して、頭を拭きながら、見るともなしに唸る洗濯機を見つめる。全自動で洗濯が進行する様は、何だか、これまでの人生とはかけ離れた、平和の象徴のように思えた。
(……ここまで世話になるつもりじゃなかったんだけどな)
アルベルトによると、この島の住人は、通信機器がダウンしたことと、物資が届かなくなったこと以外は、フィアスティックの反乱が起きる前と変わらない生活をしているらしい。物資が届かないということは、そろそろ生活が苦しくなっているということだが、通信以外のライフラインはまだ生きている。
つまりそれは、ネット以外の情報を得る方法はそのままという事実に他ならない。
ならば、後は街中まで出て聞き込みでもすればいい。物資が届かないと言っても、本屋や図書館などがあればどうとでもなる。古い情報でもないよりはマシだし、世界地図とリーフ=アイランド全体図が分かれば言うことはない。
しかし、そこまで聞き出して、後は自力でどうにかするべく立ち去ろうとしたエマヌエル達を、アルベルトが引き留めたのだ。
『兄ちゃん達、そのカッコのままで街中に出るつもり?』
と。
言われてハタと気付いた。ここ半年程、自分達以外の人間を見ない生活を続けていたから気にも留めなかったが、ファランとレフィーナ母子はともかく、エマヌエルとヴァルカはずぶ濡れのまま歩いていた。
『オレも結構びっくりしたんだからね。ナンナ=リーフ側に兄ちゃん達がいたコトよりもずぶ濡れって……』
アルベルトは、何があったのかをしつこく聞きたがった。
聞けば、孤島群の中心島であるナンナ=リーフとは、もう長いこと行き来ができなかったという。中央島へ近付こうものなら、何故か問答無用で攻撃された為、通信機器がダウンして程なく、交流は疎か、孤島群の南側へ行くこともできなくなっていたらしい。
そんな事情に加えて、好奇心で一杯なのは、その年頃の少年には珍しくないから仕方がない。けれども、エマヌエルは勿論、ヴァルカも(これは珍しいことに)ファランも、詳細を彼に言うことは控えていた。
今思えば、中央島を乗っ取ったハロンズが、それまでの住人を生かしたまま追い出すというような、上品で紳士的な真似をする筈がない。恐らくは皆殺しにしたか、でなければヒューマノティックかゴーレムに改造でもしたのだろう。
洗濯機に突いた手を、ギリ、と握り締める。
(早く)
早く、彼らに追い付かなければ。
身を隠しているだけなら、ここにいる方が寧ろ安全だが、そうも言っていられない。彼らを放置すれば、同族とも呼べるフィアスティック達が、良いように操られた挙げ句、ゴミのように使い捨てられる。フィアスティックのみならず、スィンセティック全ての問題だ。
ハロンズの最終目的が何なのかは、知らない。知る気も起きない。だが、エマヌエル自身、改造された時点で自我を失っていたら、今頃使い捨ての兵器として利用され、どうなっていたか分からない。今、世界に散らばる同胞は、一歩間違えば自分自身だった。
だからこそ、ハロンズ達をこのままにはしておかない。絶対にだ。
唇をも噛み締めたところで、ピー、というやや間抜けな音が、エマヌエルを現実に引き戻した。
エマヌエルは、一つ息を吐くと、洗濯の終わった衣服を乾燥機に放り込み、スイッチを入れた。
***
乾燥機に入れた衣服が乾くには、暫く掛かる。
その場で見ていても仕方がないので、エマヌエルは一度脱衣所を出た。
「あ、兄ちゃんも何か飲む?」
向かうともなくリビングへ足を向けると、アルベルトが振り返った。
案内されたアルベルトの自宅のリビングは、キッチンと地続きになっている。壁に沿うようにL字型にシンクとコンロが並び、中央にさして大きくないテーブルセット、その正面に暖炉もあった。今は、時節柄、火は入れられていないようだ。
「どうぞ。もう湯冷ましの水しか置いてないけど」
「……ああ」
躊躇った挙げ句に、エマヌエルは結局グラスを受け取った。
支援物資を持たないのに転がり込んだエマヌエル達は、アルベルトの家族からすれば完全にイレギュラーな存在であるし、余計な消費を増やすだけだ。水一杯でも貴重な筈だから、受け取るのも本当は気が引ける。
「悪いな。服が乾いて着替え次第出てくから」
しかし、受け取った以上飲まないのも失礼に当たるので、エマヌエルは口を付けながら言った。
視線を泳がせると、次の間のリビングに当たる部屋で、やはりL字型に設えられたソファに、ヴァルカとファランが座っている。ファランの膝の上で、レフィーナはまだ寝息を立てていた。
周囲に鬱蒼と茂る森の隙間から、少しでも陽の光を取り入れようとしたのか、窓が広く取られており、今は室内も比較的明るく見える。
同じくシャワーを浴び、着替えを借りたヴァルカは、アルベルトが勝手に持ち出した、彼の母親のものだというワンピースを身に着けていた。彼女の着ていた服は、今は乾燥機の中で、エマヌエルのものと一緒に回っているのだ。
「悪いことなんかないよ。来て欲しいって強引に誘ったのはオレだし」
アルベルトは、満面の笑顔を浮かべた。そうして屈託なく笑うと、年相応の少年に見える。
「こうやって人が家の中にいるのって久し振りだから、すっげ嬉しい。すぐ出てくなんて言わずに、今日は泊まってってよ」
え、と目を瞬いたのは、エマヌエルだけではない。ヴァルカとファランも、息を呑んだような表情でアルベルトを注視した。
「……ちょっと待って。だって今、ヴァルカちゃんが着てる服って、あなたのお母様のものじゃないの?」
瞬時、沈黙が落ちた末に、口を開いたのはファランだ。
それは言外に、『お母さんはどうしたんだ、一緒に住んでるんじゃないのか』と問うていたが、エマヌエル達も同じ疑問を持った。第一、いくら森の奥深くに棲んでいるとは言え、彼一人で住むには、この家は広過ぎる。
アルベルトにも、それは通じたのだろう。彼は瞬時押し黙ると、目線を落として口を開いた。
「うん……実はさ。母さんはもう死んだんだ。ずうっと前……オレが、うんと小さい頃」
リビングの椅子に腰を下ろしながら、彼は寂しげに微笑した。
「だから、母さんのコトは正直言ってよく覚えてない。父さんが、オレの唯一の家族だったんだ」
その父親は、先にも話された通り、外へ様子を見に行って戻らないままのようだ。
「……親戚、の方……とかは?」
そこまでで既に顔を蒼白にしたファランが、果敢にも問いを重ねる。
「分かんない。父さんは、ここで隠れるみたいに暮らしながら、時々往診に出てた。たまに、街の方まで行って、病院でも仕事してたみたいだけど、詳しいところは教えて貰えなかった」
ただ、追っ手がいつ来るか分からないから、世間にあまり存在を知られたくない、と。それが、父の口癖だったと言う。
「オレにも口酸っぱくして、絶対この森から出ちゃダメだって。一度だけ、こっそり街まで出たらすっげぇ怒られてさ」
アルベルトは、当時を思い出したのか、苦笑いした。
「……どういう、コトだ」
エマヌエルの疑問は、覚えず口から出ていた。早鐘を打ちそうに、落ち着かなく震える心臓を、宥めるように胸元を掴む。
身を隠す必要のある、医療関係者。エマヌエルの知識で弾き出される答えは、ただ一つしかない。だが、だからと言って、すぐにそうと断定してしまうのは早計だった。判断するには、材料が足りな過ぎる。
「……あなた、学校は?」
ファランは、まだ寝息を立てる娘を、リビングにあったソファにそっと寝かせると、アルベルトの側に膝を突いた。
「行ってない。でも、父さんが勉強も見てくれたし、街に出た時に本を買ってくれてたから」
「そう」
ファランも、寂しげに微笑んで、アルベルトの側頭部を優しく撫でた。
「ねえ、アルベルト」
「何?」
「答えたくなければ、そう言ってくれていいわ。お父様は、……その、誰に追われているか、仰っていなかった?」
「言うワケないよ」
アルベルトは、面白くなさそうに眉根を寄せると、肩を竦めた。
「そうね。じゃあ、もう一つ……ごめんなさい。あなたにはとても無神経な質問をするコトを許してね。……お母様は……何故亡くなられたか、お父様に聞いたコトはある?」
「病気だって。それ以上のコトは何も」
「そう……そうね。ありがとう。ごめんなさいね」
慈愛に満ちた、それでいて苦痛の混ざったようなファランの微笑に、彼は黙って首を振った。
アルベルトの父親が、妻の死について彼に詳細を話さなかったのは、当然だろう。アルベルトが成人しているならともかく、彼はまだ、年端も行かないと言って差し支えない年齢だ。
そんな息子に、妻の死因を語ったところで分かる筈がない、と考える方が自然だ。よしんば分かったとしても、良い年をした大人なら、愚痴めいて聞こえることを危惧するだろう。まして、医師だったなら尚更だ。何故、医師でありながら、妻を助けられなかったのかという後悔の念に未だ苛まれていたかも知れない。
「あ、でも……」
アルベルトが、ふと思い出したとでも言うような口調で、顔を上げた。
「何?」
「母さんのコトで知ってるコトがある。兄ちゃん、ココに何か入れ墨してなかったか?」
「え?」
いきなり話を振られて、取り繕う余裕もなくエマヌエルは狼狽し、思わず右肩を手で掴んでしまった。
アルベルトが、ココ、と言いながら示したのは、右肩の背部――エマヌエルのそこには、スィンセティックとしての『識別ナンバー』が刻まれている。
(脱衣所で)
右側を奥にしていたから、絶対に見られていない自信があったのに。
しかし、アルベルトの方は、自分が見たものが何なのかは理解していないのか、無邪気に続ける。
「確か、母さんの腕にもあったんだ。ああいう、文字みたいな数字みたいな入れ墨……」
俯いて過去の記憶を探るように言ったアルベルトの言葉は、彼本人とレフィーナを除く全員にとって爆弾に等しかった。
「な……」
何だって? と言う台詞は、口から漏れることはなかった。代わりに、ただ呆然として立ち尽くすしかない。
ヴァルカとファランも、唖然と口を開いたまま固まっている。
「え……何? オレ、何か変なコト、言った?」
やはり、コトの重大さを理解してはいないのだろう。アルベルトは、オロオロと三人の年長者の顔色を窺った。
「へ……変な、コトって言うか……」
「お前っ……それ、他の誰かに話したコトあるか?」
先に漏れたファランの呟きで、我に返ったエマヌエルは、真っ先にそれを訊ねた。もし、アルベルトの母親が、エマヌエル達の思っている通りの人種だとしたら。もし、彼がそれを父親以外の人間に話したとしたら――しかし、アルベルトは首を左右に振ることで、その危惧をあっさりと否定した。
「言っただろ。父さんは絶対にオレにここから出るなって言ってたって。一度だけ街に出て死ぬ程怒られたケド、その時には保護してくれた警官としか会話してないよ。そんな深いところまで話す余裕なかったし……でも、兄ちゃんの背中にあったのが、母さんの腕にあったのと同じだったなって、今ふと思い出したから」
だとしたら、母親の死因は自ずと知れている。この島に来たことの弊害だ。アルベルトの母は、恐らくエマヌエルと同じ、フォトン・エネルギー製造装置内蔵型のヒューマノティックだったのだろう。
問題は、彼の父親の方だ。十中八九、父親はスィンセティック研究班のスタッフだろうが、何故、ヒューマノティックを妻としたのか。そもそも本当に彼女は彼の妻なのか、アルベルトが彼の子なのかも分からない。
しかし、どの道、アルベルトがヒューマノティックの子だとしたら。
「……親父さんの書斎とか、まだあるのか」
「え……う、うん。あるけど」
何で? と首を傾げるアルベルトに、エマヌエルは有無を言わせなかった。
「案内しろ、早く!」
「ええっ?」
何でそこまで一方的に暴露しなきゃなんないのさ、と言いたげな顔をしたアルベルトだったが、それは彼の口から出ることはなかった。ただ、むっと唇の端を下げて立ち上がる。リビングの隅にあった螺旋階段を上っていく彼に、エマヌエルは無言で続いた。
書斎と言っても、アルベルトの母親が生きていた頃でも親子が三人だけで隠れるように暮らしていた家だけあって、二階も二間しかない。
ざっと見て、四・五メートル四方ほどの寝室と、その奥に扉がある。
「あそこが、父さんが使ってた書斎だよ」
示された扉を開けると、外の森に負けない程、薄暗い部屋が姿を現した。
奥行き二メートル、幅は四メートル程だろうか。所狭しと本棚が並べられ、どうにか見つけた隙間に押し込むように机と椅子が置いてある。
本棚も、入り切らない本や書類が、上の隙間に寝かせて突っ込んであった。
机の上にあったパソコンは、デスクトップ型で、タイプは随分と古そうに見える。プラグを差し込み、起動スイッチを押したが、ウンともスンとも言いそうにない。
「お前、普段電気は来てるって言ってたよな?」
アルベルトを振り返って訊ねると、彼はどこか微妙な表情をして、
「あー……うん。ちょっと待ってて」
と言い置くと、一度部屋を出て行った。
十分程して戻って来ると、「もう一度電源入れてみて」と言った。今度はすんなりと起動する。
「自家発電か何かか?」
「うんー……まあ、そんなトコ。でも、いつまでも持たないよ。今、乾燥機も使ってるし……持って一時間かな」
その奥歯にモノが挟まったような物言いが気になったが、エマヌエルは特に追及しなかった。調べられるものが調べられれば、それでいい。一時間もあれば充分だ。
パキ、と指を鳴らすと、エマヌエルは本格的にパソコンに向かい合った。ファイルを端から調べていく。パソコン関係は正直得意ではないが、そこにあるファイルを開けて中を調べるくらいはできる。
アルベルトは、開いたパソコンの中身に興味がないのか、書斎にあったベッドへ腰掛け、手持ち無沙汰に室内を眺めている様子だった。覗き込まれたら覗き込まれたで止めるつもりだったが、手間が省けて内心ホッとする。
思った通り、そこには研究成果が山と詰め込まれていた。スィンセティック研究の一通りのデータだ。但し、十五年程前までの記録しかない。恐らく、その頃、研究所から離れたのだろう。
いくつ目かのファイルを開けると、そこには一人の女性の写真と、プロフィールが記されていた。彼女の頭髪は丸刈りにされ、その背後の壁には、刑務所に入った囚人の証明写真のように、身長を示すラインがある。
彼女の名は、ミラベル=シドニー=オグデン。スィンセティック・プロジェクトの被験体に、個体の名前が残っているのは珍しい。が、それも当然かも知れないと思い直す。どういう経緯かはよく分からないが、彼女は恐らく、アルベルトの父親が妻にと望んだ相手だ。彼が、個人的に名前を控えておいても不思議はない。
「なあ、アルベルト」
「アルでいいよ。何?」
「お前、姓はオグデンっていうのか?」
アルベルトの母がオグデン姓なら、それは彼女の夫のものだろう。そう思って何気なく訊ねたが、アルベルトはそれを否定した。
「ううん。デイヴィスだよ」
「へえ? じゃあ、親父さんのフルネームは?」
考えてみれば、アルベルトの父は隠れていたのだ。本名で行動する筈がないと思いつつ、参考までにと質問を重ねる。
「アリヴィアン=メイナード=デイヴィス」
「んじゃ、お袋さんの名前は?」
「ミラベル=シドニー=デイヴィスだけど」
そうか、と答えながら、エマヌエルは画面をスクロールした。アルベルトの父親――アリヴィアン=デイヴィスというのは、聞き覚えのない名前だった。研究スタッフ名簿の中にも、見たことがないと思う。やはり偽名か、若しくは、アルベルトが生まれる前に研究所から逃亡したとすれば、在籍していたとしても、名前は削除されている可能性もある。
そう思いながら、ミラベルのデータをスクロールしていたエマヌエルは、ふと指を止めた。
彼女の識別ナンバーに引っ掛かりを覚えたのだ。
顔写真の下には、識別ナンバーが刻まれた腕の写真が配置されている。右前腕部・内側に刻まれたその識別ナンバーは、『R0001』。
(……何だ、これ)
スィンセティックは、ベースとなる被験体から大別して、ヒューマノティック・フィアスティック・ゴーレムと三つの種類がある。だが、基本的に識別ナンバーの区別は一緒だ。通常、Fナンバーから始まり、E、D、C――の順にその能力値は上がっていく。それは、そのまま研究・開発された時期を表しており、一番能力値が高いのがSSシリーズだ。
だが、Rシリーズというのは聞いたことがない。レフィーナは、人間との混血という意味合いからMシリーズに分類されるらしいが、Rナンバーというのは初耳だ。
「……何か分かった?」
早くも痺れを切らして上がって来たのか、背後からヴァルカの声が飛んだ。振り向くと、その後ろに、レフィーナを抱いたファランの姿もある。先刻まで眠っていた筈のレフィーナは、抱き上げられたことで目を覚ましてしまったのか、小さな手で眠たげに目を擦っていた。
「あんた、Rシリーズって聞いたコトあるか?」
「Rシリーズ?」
鸚鵡返しに言って、ヴァルカは眉根を寄せた。どうやら彼女も知らないらしい。考え込むような間の後に、「確か識別ナンバーってFからよね」と呟いている。
彼女の着ているワンピースの裾を引いて、エマヌエルは今開いているファイルの画面を見るように促した。
「……どう思う?」
「……さあ。少なくとも、いい情報じゃないってのは間違いなさそうね」
言って、ヴァルカはチラリとアルベルトに視線を向けた。エマヌエルも釣られてそれに倣う。
「……何だよ」
その場にいる全員の視線を集めたアルベルトは、居心地悪そうに身じろぎした。
エマヌエルは沈黙を返しながら、ヴァルカと目配せし合う。どの道、短時間でこの書斎にある全ての資料に目を通すのは不可能に近い。
「……いや。悪いけど、今日は一泊させて貰ってもいいか?」
ここに、逃亡したスィンセティックとその研究スタッフが潜んでいたかも知れない。加えて、ここにいるアルベルトの正体を放置したまま、ここを立ち去る訳にもいかなくなった。
けれども、そんな事情を知らないアルベルトは、パッと顔を輝かせた。
「勿論! 勿論、いいよ」
コクコクと頷く様は、まるで捨てられていた子犬が、少し構って貰えたことに大喜びし、尻尾を振る姿を連想させる。
「悪いコトなんて、全然ないよ。オレが泊まって欲しいって頼んだんだからさ」
勢い込んで立ち上がった少年は、「街まで買い出しに行ってくる!」と言って、螺旋階段を駆け下りて行った。
***
「そう言えばさぁ。ハワードには話したっけ、『アレ』のコトは」
ウィルヘルム達が一旦その場から引き上げた後、ハロンズがポツリと呟いた。仕上げに入ろうか、とは言ったものの、フィアスティックの制圧プログラムはまだ仕上がった訳ではない。テストの為に、明日にも新たなフィアスティックを捕獲して来なければならない。
「アレぇ?」
その準備に勤しんでいたハワードは、興味なさげに語尾を伸ばし、思い切り眉根を寄せる。
「僕が目指す、スィンセティック・プロジェクトの最終段階の話」
そう言われれば、ああ、と得心したようにハワードが頷いた。
「アレね。RAISE・ナンバーの研究」
「うん……そのRシリーズの領域にね。踏み込んでたスタッフが一人いたんだよ」
「へえ?」
それは流石に初耳だったのか、ハワードがどこか面白がるような響きを帯びた声を出す。
「もうちょっとだったのに、肝心な所で怖じ気付いちゃったのかな。資料をみーんな持って、蒸発しちゃったんだよね」
クスクスと、何故か楽しそうに笑いながら、ハロンズは開けたパソコン画面を見ている。
「データバンクに残ってなかったのか」
「調べたけど、全然。ってゆーか、そこにアクセスしようとすると、トラップが作動して、パソコンがウィルスに冒されちゃうんだよね」
恐らく、ハロンズが言うところの逃亡スタッフは、データを全て消去はしたのだろう。だが、万が一にも復元されることを恐れ、そのような罠を残したに違いない。
「お前としたことが、ワクチン作ったりとかは?」
「うーん……それがねぇ。そのウィルスって自動進化型らしくって、アクセスする度、型がどんどこ変わっちゃうんだよ。まあ、自然界のそれと違って、所詮、人間が作ったモノだから、長期で観察すればパターンが見えるだろうけど、それまでに何台パソコンがお釈迦になるコトやら」
だからね、と合いの手を挟んで、ハロンズは続ける。
「本人を捜し出した方が早いと思ったんだけど、これがまだ見つからないんだよねぇ」
「ちなみに、それ何年くらい前の話だ?」
「十五年くらいになるかな。あの頃なんて僕だってまだそこまで辿り着いてなかったから、知った時はホントに嬉しかったんだけど、研究成果まで持ってかれちゃったらねぇ。すっごい悔しかったよ」
僕も若かったからホントに地団駄踏んでさぁ、と付け加えた彼の顔には、珍しい苦笑いが刻まれている。
「研究成果?」
「そう。実は、完成してたらしいんだよね。R0001が」
クス、とまた楽しそうな笑みを挟んで、ハロンズはパソコンの電源を落とす。
「この一件が片付いたら、捜したいと思ってるんだ」
「その研究スタッフをか?」
「うん」
「しっかし、そんなトラップ仕掛けて、挙げ句に十年も音沙汰眩ましてるような凄腕をどうやって見つける?」
「やだなぁ、ハワード。僕がノープランでこんなコト言い出す訳ないでしょ?」
ニッと唇の端を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべたハロンズは、USBメモリを一つ取り出した。対フィアスティックの為に作っているデータとは別のものだ。
「フィアスティックが暴走する前から、こっちもちょっとずつ開発進めてたんだ。AA8164の他にも逃げ出した被験体が結構いたから、その回収対策の為にね」
思わぬ所で役に立ちそうだ、と言った彼は、浮かべた笑みを深くする。
「もし、あの人がR0001を連れて逃げたとしたら、ちょっと時間は掛かるかも知れないけど、補足できると思うよ。あの人だけじゃなく――AA8164もS9910も、ね」
クスクスという小さな笑いを合いの手に、ハロンズが肩を震わせる。そのブリリアント・グリーンの瞳が、ひどく楽しげに煌めいたのを、ハワード以外に見る者はなかった。