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「――いるか?」
ココン、と軽いノックの音と共に、訪いを告げられ、ハロンズは入室の許可を出した。
粗末な木製の扉が開き、ハワードがその長身を屈めて入ってくる。
奥行きが五、六メートルもあろうかというそこには、どこかから調達して来た木製の椅子と机が置かれ、その机の上にはノート型パソコンが鎮座していた。幅は場所によってまちまちだが、机がある場所は、ほぼ楕円型の空間になっており、広々として見える。他の場所の幅が狭いから、そう感じるだけかも知れないが。
そのパソコンの前に座っている人物が、振り向いて肩を竦めた。
「確認しなくっても、僕ら以外にここに来る人いないでしょ」
避難所の喧噪から遠く離れている所為か、そこにいる時のハロンズは、グレンの扮装のまま素の言葉遣いで話している。
CUIOのアスラー警部とウィルヘルム=ウォークハーマー医師に接触を持つ前に、ハロンズ達は、隈無くこの地下都市を調べていた。ここへ辿り着いてから彼らに接触するまでに、三ヶ月を要したのはその為だ。
取り敢えず逃げ込んだものの、こう人でごった返していては、落ち着いてプログラムの開発などできたものではない。もっと人の少ない場所はないかと歩き回り、湖底湖を挟んで更に西へ行った場所に、まだ誰も避難していないエリアを見つけた。
「ん、まあ、一応な」
扉の内に入ったところで、天井が低いことに変わりはない。
ハワードは、顔を顰めて、それが親の仇ででもあるかのように天井を睨むと、壁に当たる岩肌に沿って腰を下ろした。
「そっちはどんな具合だ?」
「見ての通りさ。もう彼らはダメだね」
あっさり言う彼に倣って向けた視線の先には、急拵えの檻がある。と言っても、室内の奥まった場所を、地上で見繕って来た木の枝を格子代わりにして遮った簡単なものだ。
その木の格子の内には、巨大な鳥とライオンが、力なく寝そべっている。ハロンズ達だけの避難場所に、アトラス湖以外の出入り口を見つけて引き入れたフィアスティックだ。その目は虚ろで、焦点が既に合っていない。
ここへ避難して後の情報収集に使っていたものが、半月程前から、洗脳薬を増やさないと言うことを聞かなくなった。そして、薬の持続時間が徐々に短くなり、数日前には遂に全く動けなくなってしまった。
「まさか、洗脳薬に麻薬作用があるとはな」
「仕方ないよ。そこに気付く前にこの騒ぎだもん」
また肩を竦めて言ったハロンズは、「まあ、非常食代わりにはなるかもね」と事も無げに続けた。
「非常食代わりったって、その麻薬作用のある危ない薬が染み込んだ肉、食う気か?」
思う様、眉根を寄せるハワードに、ハロンズはいつもの無邪気な微笑を向ける。
「君、意外と潔癖性だよね。これで扮装地帯でどうやって生き残って来たんだか」
「だからこそだよ。ったく、体に悪いモン取り込んで戦場で走り回れるかっつの」
「その割には煙草吸ってるよね」
煙草だって十二分に有害だよ? と付け加えたハロンズに、今正に煙草を取り出して銜えたハワードは、またしても苦虫を噛み潰した顔になった。
「……いーんだよ、コレは。戦場じゃ数少ない娯楽だったんだから」
それでも、密室空間であることを考慮したのか、彼は火を付けることはせずに言葉を継ぐ。
「それより、どうするよ。これから」
「そうだねぇ。駒を穫ってくるだけなら何とでもなるけど、もうあまり時間掛けてられないのは確かだね」
おどけた口調とは裏腹に、そのブリリアント・グリーンの瞳はどこか酷薄な光を帯びている。
「そろそろ正面突破か?」
「それしかないでしょ。プログラムももう殆どできあがってるしね」
ウィルヘルムと接触を持ってから、およそひと月が経過しようとしている。
この劣悪な環境で、自分とイェニー=ビアンカ=シュヴァルツ博士だけで臨んだら、この短期間で望む成果は得られなかっただろう。
「後はテストして、仕上げだけでいいんだけど……」
ハロンズが、そのまま思索に耽るように言葉を途切れさせた時、新たなノックの音が静寂を遮る。
「はい、どうぞ。ビアンカ?」
ここへ来る人間は、ハロンズとハワードの他は、彼女だけだ。扉の方を見もせずに入室を許可したハロンズは、それを数秒で後悔する羽目になった。
「こんな快適な場所があったなんて知らなかったな」
シュヴァルツにしては低すぎ、ハワードにしては年を取り過ぎたような声音に思わず振り向くと、そこにはやつれた顔をした年嵩の男性の姿があった。
「全く人が悪いなぁ、グレン。――いや、ユーリ=ハロンズと呼んだ方がいいのか?」
続いて顔を見せたのも、見覚えのある青年だ。
やや痩けた頬、理知的な瞳に眼鏡を掛けた、青年――
「……やだなぁ。もしかして、すっかりバレバレ?」
「もしかしなくてもバレバレだ。その目、どっかで見たコトあると思ってたんだよ。思い出すのに随分掛かったケドな、腹減りの所為で」
おどけるように肩を竦めた青年――ウィルヘルム=ウォークハーマーに、溜息だけで答えると、ハロンズは被っていた変装用のマスクを脱ぎ捨てた。
人の皮を模したマスクの下から、プラチナブロンドと、形の良い輪郭、端正な顔立ちが露わになる。
「おい、ユーリ……」
その時、既に窮屈そうにしながらも立ち上がって小銃を構えていたハワードが、咎めるように名を呼んだが、ハロンズはいいんだというように苦笑した。
「実はバレてホッとしてるかも。このマスク、結構蒸れるからさ」
「蒸れるくらいで言ってくれるぜ。こちとら食糧不足でフラフラだってのに、同じトコに同じ期間引き籠もってて、何でそんなに肌艶がいいんだ」
ハワードと同じく拳銃を構える年輩の男性――ベンジャミン=アスラー警部の後ろで、ウィルヘルムが思い切り面白くないと言いたげにぼやく。
「そりゃー、何だかんだで必要な栄養は摂ってるからねぇ」
いたずらっぽくウィンクするハロンズに、ハワードだけが「嘘付け」と脳内で呟いた。
確かに、他の避難民と違って、時折外へ出て食べ物を調達してはいるが、ハロンズの場合それだけではない。スィンセティックと同じ遺伝子レベルでの肉体改造がモノを言っているのだ。しかし、そこまでここにいる刑事達にばらす必要はないだろう。
「でも、何でここが分かっちゃったかなぁ」
当然の疑問を投げたハロンズの前に、アスラーが無言で一人の女性を突き飛ばした。金茶の髪が緩く翻り、白衣を着たその女性が蹈鞴を踏んで蹲る。
「申し訳ございません」
一言の弁明もなく、うなだれてそう言ったのは、シュヴァルツだ。彼女も、『グレン』の古い知り合いという触れ込みで、ウィルヘルムと共に、プログラム開発に携わっていたから、『グレン』と繋がりがあると推察するまでもない。
その彼女が、挙動不審に辺りをはばかるように歩いていればどうなるかは、推して知るべしだ。
「次からは尾行には充分気を付けるように、教育しとけよ」
「肝に銘じとくよ」
出入り口の上部に手を突いて言ったウィルヘルムに、ハロンズは再び苦笑を返した。
「で、どうするの? まさか、スィンセティック研究に関わってた大ボスだった僕を、ここでいきなり射殺はしないよね」
まだプログラム、完成してないし? と楽しげに微笑して続けるハロンズに、アスラーはギリギリと奥歯を噛み締めている形相だ。
「ああ、そうだな。あんたの言う通りだよ。それで? そっちこそ、何か策はあるんだろうな」
怒りのあまり声も出ないアスラーに代わって反問したウィルヘルムの言葉には、肝心な部分が削げ落ちているように思える。が、何を言っているかは理解できた。
プログラムの仕上げ――即ちテストはどうするか。テストができたとして、どうやってプログラムを流すのか。流す場所までどうやって移動するのか――その全ての策があるのかと訊いているのだ。
「うーん……あるって言えばあるけど、ないって言えばないかな」
あっけらかんと言い放つハロンズに、ハワードが「早い話、無策って言い換えてもいいよな」と付け加えた。
するとウィルヘルムが、呆れたように目を細めて溜息混じりに言う。
「まあ、今のとこは無策でもいいさ。どうせ、プログラムが仕上がるまではそっちだって一蓮托生だ。お前らもこっちを背中から殺る気はねぇんだろ?」
「まあね」
利用価値のある内は生かしておくよ、という声が聞こえたのは、ハワードの空耳ではあるまい。空耳だったとしても、胸の内でハロンズがそれを付け加えているのは明らかだ。ウィルヘルムもそれが聞こえたと言わんばかりの顔をしている。
しかし、彼が言った通り、今のところは一蓮托生だ。だからこそハロンズも、調査の過程で知った存在である彼らに接触を試みたのだろう。
「じゃあ、早速だけど仕上げに掛かろっか、ウィル?」
この場の話し合いを綺麗に纏めたハロンズが、少年のようにニッコリと微笑し、ポンと手を合わせる。
気安く呼ぶんじゃない、と言いたげな形相で、ウィルヘルムがピクリと眉尻を跳ね上げたが、実際にその文句が彼の口から出ることはなかった。
***
「ぶはっ……!」
次第に浅瀬に乗り上げ、足が着くようになると、エマヌエルは水の底に手を突き、四つん這いになって俯いた。流石に息が上がっている。
海面から半分出ているだけで、体がひどく重く感じた。もう何キロ遠泳したやら、見当も付かない。
隣に追い付いてきたヴァルカも漏れなく同感と見えて、水底に突いた膝に手を突っ張り、無言で息を整えている。
もういっそ、水底に寝そべりたい程の疲労を覚えたが、今の呼吸の状態でそんなことをしたら、間抜けに溺れ死ぬのは自明だ。
二、三度、深呼吸を繰り返すと、泥のように重くなった体を水中から引きずり上げるようにして立ち上がる。
体が水中から出る割合が増えれば、体重が益々増えたように思えた。足に鉛が括り付けられたような錯覚に陥る。その足を引きずるようにして完全に陸地へ上がった。
ハアハアと荒い息を吐きながら、今度こそ砂浜へ仰向けに寝ころぶ。ぐっしょりと湿った衣服や、肌の露出した部分に、砂がべっとりと付着したが、構っていられない。その気持ち悪さよりも、疲労の方が遙かに大きかった。
一つ島向こうへ来るだけでこの始末では、端まで行き着けるだろうか。しかし、船などがない以上、そうするしかない。
少し離れた隣にヴァルカも同じように転がる気配を感じながら、エマヌエルはぼんやりと空を見上げた。青い――どこまでも澄んだ青空の青は、少し色味が薄いブルーだ。自分の瞳の色とは違う、とどうでもいいことが頭を過ぎる。
快晴の空に輝く太陽の光に目を眇めながら、ここへ辿り着くまでに、時化に遭わなかったのは幸運だったと思った。この幸運が、果たしていつまで続くことやら。
はあ、と大きく溜息を吐いた時、急に目の前が陰って、視界に丸みを帯びた幼子の顔が映り込んだ。
「にーに。だいじょーぶ?」
モスグリーンの瞳が、本当に心配げにエマヌエルを見つめる。ここへ辿り着くまでに、一歳の誕生日を迎えたレフィーナは、より多くの言葉を操るようになっていた。ヒューマノティックの血が混ざっている所為なのか、やはり普通の人間の子供よりも成長が早い。
疲労の余り、口を利く余裕もないエマヌエルは、それでも彼女を安心させるように唇の端と、重い腕を持ち上げて、レフィーナのプラチナブロンドの髪を撫で付ける。幼子らしい柔らかな髪の毛は濡れていない。
彼女は、彼女の能力で自分と母親を、球体状に展開した電磁シールドで包み込み、まるで海を漂うようにしてこの島まで来たのだ。球体の進行速度や方向まで意のままにできるのだから、ちょっと驚きだった。
つまり、早い話が、エマヌエル達が危惧していた、マグネタインの影響は、全くの杞憂に終わったのである。
レフィーナは、マグネタインの障壁をモノともせずに通過し、更にマグネタインの影響エリア内でもフォトン・エネルギーを発生させることができたのだ。
エマヌエルの方は、遺伝子変化の効能から、マグネタインの影響下でも問題なく動くことができるようになってはいたものの、フォトン・エネルギーを発生させることはできない。正確に言えば、発生させることはできるが、フォトン・シェルや電磁シールドのように、自分の体から一度エネルギーが離れてしまうと、意図した状態を維持することができなかった。
レフィーナの作り出す球体の大きさは、その幼さ故なのか、レフィーナ自身とファランが入るだけが手一杯のもので、エマヌエルとヴァルカは未知の領域の遠泳を敢行せざるを得なかった。
そんな遠泳の影響で、流石に困憊してはいたが、それはレフィーナの所為ではない。無理矢理にも笑って見せたので、大丈夫と判断したのだろう。レフィーナは満面の笑顔を残して、ピョンと跳ねると、ヴァルカの元に向かい、同じ質問を投げ掛けている。
(……ガキは元気だよなぁ……)
もう危なげのない足取りで(それでもまだ歩幅がチマチマとしていて愛らしいのだが)駆けていったレフィーナを目で追いながら、ぼんやりと脳裏で呟く。
年齢を言うなら、エマヌエルも十七を越えたばかりで、若い。けれども、十歳を過ぎた後からの人生は激動過ぎて、たった七年しか経過していない筈なのに、それより遙かに長い時間を過ごしたような気分になる。
(……は、何考えてんだか。年寄り臭……っつか)
らしくねぇ、と、感傷に浸りそうになる思考をシャットアウトして寝返りを打つ。
幾分疲労が回復すると、あちこち隈無く付着した砂の感触が気になり出した。
「げっ……髪の毛もドロドロだな、こりゃ」
上半身だけを起こして、ふと掻き上げた側頭部にも、砂が大量に付着している。海に戻って水を浴びるだけで落ちるだろうか。
「あーっ、もう! サイテーね」
その声に隣を見ると、ヴァルカも似たような有様だ。
その深い紅を撫で回すも、たっぷり海水を吸った髪に付いた砂を、濡れたままの手で払い落とそうとするものだから、中々砂は落ちていかない。早々に諦めたらしい彼女は、さっと立ち上がると、海へ逆戻りした。
遅れて腰を上げたエマヌエルも、うなじの上辺りで纏め上げていた髪を解きながら、彼女に倣う。
その間、ファランはただこちらを無言で見つめていた。無茶な遠泳をしたのは彼女の為ではないのだが、それにしても労いの言葉一つない。
中央島の隠れ家で衝突してからこっち、彼女はエマヌエル達とは必要最低限の会話しかしなくなった。
その張り詰めた空気を感じているのか、レフィーナは殊更エマヌエルとヴァルカにすり寄り、構って貰いたがった。自分が母親に始終くっついていると、エマヌエル達と疎遠になってしまうのではと心配なのか――いや、まさか一歳の子供がそこまでの理屈は考えていないだろうが、本能的にそうしているのだろう。
現に今も、全身から砂を落とす為に海へ入ろうとしたエマヌエル達を、トコトコと可愛らしい足取りで追ってくる。
「エアにい」
波に爪先が浸る直前で、ボトムの裾を捕らえられて、エマヌエルは苦笑した。
「にーに。どこいくの?」
見上げるモスグリーンの瞳に、表現しようのない不安が渦を巻いているのが分かる。
エマヌエルはしゃがみ込んで彼女と目線を合わせると、柔らかく微笑した。
「海で砂を落としてくるだけだ。すぐ戻るから」
一緒に来るとずぶ濡れになるぞ、と付け加えて母親の元へ戻るよう促す。細かいところは理解できないながらも、『すぐ戻る』という言葉は分かったのだろう。素直に頷いたレフィーナは、エマヌエルの頬に軽くキスをし、踵を返す。
「何か妬けるわ」
むっつりと不機嫌な声に視線を向けると、いつの間に横に立ったのか、あらかた砂を洗い落としたらしいヴァルカがこちらを見下ろしている。その表情も、顔と同じく下り坂のように見える。
「何がだよ」
立ち上がると、僅かに目線が上になったエマヌエルを見上げ、ヴァルカは唇を尖らせた。
「あーんな優しい笑顔、見たことなかった」
拗ねる様が何だか可愛く見えて、エマヌエルは軽く吹き出す。
「何、あんた本気で妬いてんの」
「悪い?」
あんなちっこいガキに、と付け加えると、益々お冠になった彼女は、それ以上反論せずに浜へ戻ろうとした。チラとレフィーナの方に目をやると、ファランと何事か話をしている。ファランも、視線は娘に向いていてこちらへは注意を払っていない。
と見るや、エマヌエルは浜に戻ろうとしていたヴァルカの腕を掴んだ。微かに瞠目した彼女を引き寄せ、ファラン達に背を向けたエマヌエル自身の体の陰になるように誘うと、怒れるその唇に、軽く口吻ける。
「……機嫌、直った?」
「……バカ。また汚れたじゃない、折角洗ったのに」
「あ」
キスをした拍子に、まだ砂を落としていなかったエマヌエルの腕が、ヴァルカの衣服に触れてしまったらしい。
濡れてはいるものの、砂による汚れがなかった彼女のインナーには、またしても泥と化した砂が付着していた。
「悪」
「悪いと思ってるように聞こえないんだけど」
相変わらず不機嫌そうな声音ではあったものの、顔は既に怒っていない。
近距離で見つめ合った二人は小さく笑い、また揃って汚れを落としに海へ戻った。
「随分遅かったのね、お二人サン」
浜へ戻った二人を、腰を下ろしたファランが半眼で睨め上げた。まさか、キスしていたのを見られたんだろうか、とは思ったが、エマヌエルは敢えて訊かない。
対照的に、彼女と共に砂の城を造っていたレフィーナは、陽が射すように笑うとこちらへ走ってくる。
「あー、ストップストップ! ホントに濡れるぞ」
臑の辺りに激突して来そうな勢いのレフィーナを止めようとするが、幼い子は聞く耳など持たない。代わりにファランが、いつもの彼女からは考えられない素早さで立ち上がり、娘を背後から抱き留めた。
「――で、これからどうするの?」
不服そうに暴れる娘を抱き上げ、眉間にやや皺を寄せながら、ファランが問う。
「とにかく、島の反対側まで歩いて、そこからまた泳ぎだな」
その前に、島群全体を見渡せるような高台があれば方向も絞れるのだが、ざっと見た感じでは、この島には中央島にある程の高所はなさそうだ。
はあ、と溜息を吐いたタイミングで、エマヌエルは微かに目を見開いた。
さっと周囲に走らせようとした視線が、一瞬ヴァルカのそれと合う。彼女も、同じモノを感知したのだろう――即ち、自分達以外の人間の気配をだ。
正確に言えば、生き物が動いている気配だろうか。気配を感じられるところからしてスィンセティックの類ではない。人間も、中央島にはいなかったから、野生動物だろうか。
急に緊張した空気を孕んだエマヌエル達を、怪訝な目で見つめたファランも、遅ればせながら何かを感じたのか、レフィーナを抱く手に力を込める。
程なく、ガサガサと草を踏み分ける音が近付いて来た。ちょうど、ファランの背後にある、原生林からだ。
エマヌエルは、レフィーナを抱いたファランをさり気なく自分の後ろに庇いながら、音源を見据える。
やがて、ひょっこりと顔を出したのは、一人の少年だった。まだ幼い――十歳前後に見える。頭髪は濃いブロンドだ。濃い茶色の瞳が大きく瞠り、エマヌエル達を見つめた。
***
「びっくりしたー。ナンナ=リーフ側に人がいるなんて思わなかったから」
少年は、エマヌエル達を先導するように先頭を歩きながら言った。
彼のその手には、何に使うのか、大振りの葉っぱが山と抱えられている。不審気な視線の先に気付いたのだろう。少年は、「これ?」と言って軽く抱えた葉を持ち上げながら言葉を継ぐ。
「ま、簡単な絆創膏代わりかな。最近、全然外から物資が入って来なくなっちゃってさぁ」
「物資が入って来なくなったって」
「一年くらい前からかなぁ。急にネットがダウンして、何か狼みたいな顔した男が人間に宣戦布告? みたいなコト言ってる動画が流れたのが最後に、通信機器ぜーんぶダウンしたろ」
エマヌエル達が付近の島から来たと思っているのか、少年は同意を求めるようにチラリと振り返って視線を向けてくる。
「……まあな」
「あれからウチの島には全然物資が届かない。食料も飲料も、生活用品もだ。通信機器がイカレてるから外にも連絡取りようがないし」
「船はなかったのか」
「あったよ。でも、外に様子を見に行った人間は、誰一人帰って来なかった」
急にその声がトーンダウンしたかと思うと、少年は俯いてポツリと呟いた。
「オレの……父さんも」
そうか、としか言いようがなかった。
間違いなく、彼の父親も、他に外へ出た人間も、フィアスティックに殺されたのだ。
「だから、もう半年も前から誰も外海に出なくなった。内海からは少しずつ漁をしてるけど、魚の数も無限じゃないし」
「外海って、いつもどこまで出るの?」
当然の疑問を投げ掛けたのは、ヴァルカだった。
(……そう言えば)
ハロンズの話によれば、マグネタインの影響範囲は大体半径十キロ前後。だから、リーフ・アイランドの一番外側の島から海へ出たとしても、半径十キロ圏内にいれば、襲われる道理がない。
だが、この予想を、少年はあっさりと覆した。
「そうだなぁ……北側の島にいる漁師は、結構遠くまで行くよ。大体ヒルトラウト島の近くまで行くコトもあるって話だぜ。南側はよく知らないけど、南島国辺りまで行くんじゃねぇかな」
ちなみに、ここはナンナ=リーフから見て、北に進路を取って最初に行き着く島だ。
最初はサトヴァンを目指す予定だったが、ヴァルカがやっぱり北へ行こうと言い出したのだ。ヒルトラウト島まで行ければ、マフィアの本拠地があるから、何か移動手段があるかも知れないというのが理由だった。――もっとも、マフィアも戦闘に長けてはいても所詮一般人であるところを考えると、望み薄ではあったが。
とにかく、ヒルトラウト島かサトヴァン付近まで行ってしまうと、残念ながら確実にマグネタインの庇護圏内からは外れる。
「なあ、それよりオレばっかに喋らせないでさ。姉ちゃん達も身の上話してよ」
少年が、不意に不機嫌そうに眉根を寄せ、唇を尖らせた。
「姉ちゃん達、どういうパーティー?」
そう言う少年の視線は、明らかにエマヌエルに向いている。
「……どういうって言われても……」
一方、『姉ちゃん』という呼び掛けから、自分に問われたと思ったのか、ヴァルカが思案顔になる。彼女がこんな風に、考えていることが顔に出ることはそうない。
「成り行きの運命共同体ね」
それまで黙っていたファランが、負ぶった娘を揺すり上げながらボソリと言う。言い得て妙だ、とエマヌエルは思った。
そのファランの娘――レフィーナは、ずっと負ぶわれていた所為か、またしても夢の中に入ってしまったようだ。
「ふーん」
意味を掴み兼ねたのか、それとも詳細を話して貰えないのが不服なのか、少年はまだ唇を尖らせている。
「なあ、坊主」
それに構わず、エマヌエルが話し掛けると、少年は益々仏頂面になってエマヌエルを半ば睨め上げた。
「坊主じゃない。オレには親から貰ったアルベルトって立派な名前がある!」
歩きながらふんぞり返るという器用な仕草をして、アルベルトと名乗った少年は鼻息を荒くする。
「そりゃ、失礼。じゃあ、アルベルト」
「何?」
「この島に、船はまだ残ってるか?」
手漕ぎのボートでもいい、とエマヌエルは半ば縋るような気持ちで問うた。それでも、もう先刻と同じ距離の遠泳をするより遙かにマシだ。
「答えてもいいケドさぁ。姉ちゃん達もいい加減名乗ったら?」
オレは名乗ったんだから、名乗られたら名乗り返すのが礼儀だろ、としたり顔でアルベルトが返す。
「そうね、ごめんなさい。あたし、ヴァルカ」
やはり自分だと思ったのか、ヴァルカが答えた。次いで、ファランが名乗り、背に負う娘を紹介する。
「じゃ、姉ちゃんは?」
アルベルトの視線は、もう疑いようもなくエマヌエルに向けられている。そこで、反射的にファランが吹き出しそうになり、ヴァルカも唖然とした。
「……おい。もういっぺん言ってみろ」
誰が何だって? と続けられたエマヌエルの視線も声音も氷点下になったのを、ヴァルカとファランは敏感に察したのか、気持ち後退る。アルベルト少年も不穏な何かは感じたらしいが、エマヌエルの言わんとすることまでは分からないらしい。
「え、だから、姉ちゃんの名前……」
と、執拗に地雷発言を繰り返す。
大人げないぞ、と言う理性の囁きは思いっ切りブロックして、エマヌエルはガッシとアルベルトの頭頂部を掴んだ。
「お・れ・は、兄ちゃんだ。分かったら正しく訊き直せ」
地獄の底から沸くような声音は、その比喩とはそぐわない程冷ややかだ。
何となく、身の危険を悟ったのだろう。アルベルトは反駁することなく、「お兄様のお名前を教えて下さい」と礼儀正しく頭を下げた。