CODE;2 An escape operation
ヴァルカは、気怠さの中に漂うような気分でその日の目覚めを迎えた。
ただ、それは甘い幸せを凝縮したような気怠さであることも自覚している。
微かな呻きと共に寝返りを打つと、昨夜の名残のように微かに腰が痛んで、眉間に皺が寄った。瞼が重い。
異性とベッドを共にするのは初めてではないが、こんなに二度寝したいような眠気が瞼に絡み付くような後朝は初めてだ。
それでも、長年の習慣からか、人が動くような気配を感じると目が覚めてしまう。というより、今まで人の気配を察知して寝ていられるような呑気な環境にいなかったのだ。
人の気配を感知して尚寝こけていれば、それが即死に繋がる世界で生きていた。
幸福な微睡みへの誘惑が、死への警戒に勝てる程、表の世界での生活は長くない。――もっとも、今この場での自分以外の気配の正体など、分かり切っているが。
頬に誰かの手が触れるのを感じて目を開けると、そこには予想に違わない美貌がある。深い青色の瞳と瞬時視線が絡んで、ヴァルカは気恥ずかしさにそっと目を伏せた。
「……はよ」
「……おはよ」
取り敢えず朝の挨拶を口に乗せるが、会話が続かない。何と言えばいいのか分からなくなる。
「シャワー……は出ないから、簡単に水でも浴びれば」
「え……」
そう言うエマヌエルは、よく見れば既に身支度を整えている。普段と同じく、白い七分袖のインナーに黒っぽいボトム姿だ。髪の毛はまだ下ろされたままだが、いつの間に服を着たのだろう。
「やだ、あたし……今、何時頃?」
シーツで裸の胸元を隠しながら跳ね起きようとする。が、やはり腰に鈍い痛みが走って、その動作は普段より鈍いものになった。
「さあな。時計がねぇから分かんねぇけど、まだ昼にはなってないと思うぜ。よく眠ってたから起こさないでおいたけど、何かまずかったか?」
「……別に……」
まずいという訳ではないが、ある意味ではまずいだろう。
まさか、隣で起き出す気配に気付かなかったなんて。横で寝ていたのがエマヌエルで、この場が弾丸飛び交う戦場でなかったから良かったようなものの、普通の時なら死んでいてもおかしくない。
軽い自己嫌悪に陥っていると、何を思ったのか、エマヌエルが、小さく笑った。
「何よ」
「いや? たまにはいいんじゃねぇかと思って。正体不明に寝こけてんのもさ」
何に思い悩んでいるかは筒抜けらしい。
眉根を寄せて視線を落としていると、頬に軽く掠めるように唇が触れる。
「……悪い」
「え」
一緒に謝罪が落ちてきて、ヴァルカは丸くした目を反射的にエマヌエルに向けた。
「昨夜……その、あんま加減できなかったから。……もしかして、無理させたかと思って」
「な、」
彼が何を言っているのか一瞬で悟ったヴァルカは、声を失った。出ない言葉の代わりに、体温が急上昇して、頬が火照るのが分かる。
昨夜の出来事がまざまざと脳裏に蘇って、ヴァルカは思わず、胸元のシーツを口元まで引き上げた。
「べ、つに、あたしは何も」
「へぇ?」
急に、エマヌエルの声が意地悪い笑いを含む。
まずい、何か地雷を踏んだ。というのは理解できたが、一年近い付き合いの中でもそんな声音は聞いたことがない。
「別にってコトは、大したコトなかったってコトか。そいつは悪かったなぁ、俺も随分加減してたんだな。じゃあ、今日は遠慮なくヤらせて貰っていいってこったな」
「そ、そんなコト言ってない!」
第一、じゃあ今日はって何よ、今日もする気なのっ!? と口から出る前に、口元まで引き上げたシーツは強引に奪い取られ、唇が彼のそれで塞がれている。
「ッ……ン……ッ」
そのままベッドへ押し倒されて、ヴァルカは軽くもがいた。が、少し抵抗した程度では、拘束は容易には外れない。
その間に、彼の掌が、気づかぬ内に露わになった胸元へ伸びる。
ピク、と身体を震わせれば、ヴァルカがその気になったのだと解釈されても無理はない。エマヌエルは、言葉でそう指摘する代わりに、顔を傾け直し、口吻けを深くした。
「ンンッ」
唇の隙間を彼の舌先が抉じ開け、口腔へ潜り込んで来る。甘い誘惑にほだされそうになったその時、これ見よがしな咳払いがして、二人は――と言うよりエマヌエルが反射的にキスを中断した。
咳払いの発信源に視線を向けると、部屋の出入り口に、それはそれは不機嫌そうな顔をしたファランが立っている。
「お取り込み中ヒジョーに申し訳ないんですけどね。朝ご飯、食べてないのヴァルカちゃんだけなの。とっとと身支度済ませて降りてきてくれない?」
言うだけ言うと、ファランは甲高い音を立てて扉を閉じた。
一瞬遅れて、エマヌエルが舌打ちするのが聞こえる。しかも、思いっ切り不服そうなそれだ。
「イイとこだったのに」と、彼がボソリと呟いたのは、絶対に気の所為ではない。
これまでに見たことのないエマヌエルの側面を見た気がして、ヴァルカは半ば呆気に取られたような気分で彼の顔を見つめた。
それに気付いたのだろう。エマヌエルは苦笑すると、ヴァルカの唇を軽く啄んでベッドを降りる。
「エマ」
「先に行ってる」
それだけ言って、踵を返した彼の黒髪が、艶やかに舞った。
***
「止めてよね。ああいうコト、あんなトコでするの」
寝室に使っている部屋を一歩出ると、二メートル程先にファランが壁に背を預けて立っていた。
その表情は、明らかな不快感に歪んでいる。
「ああいうコト、って何だよ。別に公衆の面前じゃねぇんだから、いいだろ」
つか、無粋なのはあんたの方だ、と言いつつ、眉根を寄せたエマヌエルは、後ろ手に扉を閉じる。
「いい訳ないでしょ。フィーナだっているのよ。小さな子の教育に悪いコトは止めてって言ってるの」
「……気を付けてはいるよ。まあ、アイツも気配感じねぇから絶対はねぇけど」
『フィーナ』というのは、ファランの娘・レフィーナの愛称だ。彼女を引き合いに出されると、強くは言えなくなる。何だかんだで、エマヌエルも彼女のことは、年の離れた妹のように思っているのだ。
「次からは部屋に鍵掛けるよ。それでいいだろ」
肩を竦めて、ファランの前を通り過ぎようとすると、「良くないわよ」と返って来て、エマヌエルは足を止めた。
「……あんた、何が言いたいんだよ」
「いい気にならないで。あなた達が幸せになるなんて、許さないから」
振り返ると、そこには憎悪の丈を込めたアメジストがある。
「ウォレスがあなた達にしたことは、悪かったと思ってるわよ。代わりに私が償わなきゃいけないってことも。――でも、男女として、あなた達が幸せになるなんて許さないわ」
一気にそこまで言うと、ファランは明らかな恨みの色を宿した紫の瞳で、エマヌエルを睨み据えた。
「確かに私は、あなた達に力を貸してくれるように頼んだわ。けど、勘違いしないで。あなたがしたことを許した訳じゃない。あなたが私からウォレスを奪ったコト、忘れた訳じゃないのよ。ウォレスとフィーナと私の、家族三人で過ごせた筈の未来も、フィーナの父親も、あなたが奪ったのを忘れないで」
言うだけ言ってしまうと、ファランは足早に歩を進めて、エマヌエルを追い越した。
「だから、俺達には幸せになる権利がないって言いたいのか」
その背に、冷ややかな声を投げ付けると、ファランの足がピタリと止まる。
「下らない。そんなの、あんたの個人的なただの嫉妬だろ」
「なっ、」
怒りに満ちた表情で勢いよく振り向いたファランは、エマヌエルと視線を合わせた途端、顔を強張らせた。
外から見れば、今のエマヌエルの顔からは、表情というものが根こそぎ殺げ落ちている。まるで、スィンセティック研究に直接関わったスタッフと相対している時のそれだ。
なまじ容貌が整っているだけに、無表情でいられると、その美貌はそのまま凄みになる。
勿論、エマヌエル本人はそれを自覚などしていないが。
「一つ断っとくけど、別に俺達――っていうか、少なくとも俺は幸せになろうなんて図々しいコトは考えちゃいねぇよ」
ファランを竦ませたモノが何なのかなど、考える余裕もなく、エマヌエルは静かに彼女に歩を進めた。
「前にも言った筈だ。俺の身体をメチャクチャにした連中に与えられたこの能力で、奴らを殺せればそれでいい。その所為で誰がどれだけ泣こうが知ったこっちゃない。その代わり、報復を全て遂げた後でなら、誰にどうなぶり殺されても文句は言わねぇ」
更に静かに歩を進めると、ファランはビクリと肩を震わせて一歩下がった。
「だけどな。あんたが俺に対してする権利があるのは、俺個人に対する報復までだ。色恋まで干渉される謂われはねぇ。俺やヴァルカが誰と寝ようが、あんたに文句を言う権利も、非難する権利もねぇんだ」
また一歩分距離を詰めると、ファランがそれに合わせて一歩下がる。
「あんたこそ、忘れるなよ。先に俺の身体に手ぇ出したのは、ゴンサレス研究所のスィンセティック研究班スタッフだ。その中に、ウォレス=パターソンも含まれてたのは、あんたも知ってる筈だろ」
「それは、」
それまで半ば青ざめながらも憎悪を残していた紫の瞳は、初めて怯むような色を見せた。
その怯んだ隙に、エマヌエルは容赦なく踏み込む。
「俺は、ウォレス=パターソンに対して、当然の仕返しをしてやったまでだ。それを知った上であんたが今すぐ俺を殺したいなら構わない。僻みったらしい嫌み垂れてないで、いつでも寝首掻きに来い。けど俺の方も、報復は道半ばなんでな。遠慮なく返り討ちにしてやるから、そのつもりでいろよ」
たとえ、それがレフィーナから母親をも奪う行為であったとしても、エマヌエルは譲る気はない。この生き方を、今更変えることなどできない。向かう先が破滅であっても、突き進むしかないと思っている。
その覚悟が、ファランにも分かったのだろう。
小刻みに震える彼女は、悔しげに唇を噛みながらも、拳を握り締めて下を向いた。ウォレスの妻であり、恋人であった自分よりも、レフィーナの母親である自分を優先する今の彼女に、この議論の勝ち目は最初からなかったと言っていい。
ふん、と鼻を鳴らして、エマヌエルは彼女の脇をすり抜けた。
どこへ向かうともなく、足の向くまま階下へ降りると、リビング代わりにしている部屋の扉から、レフィーナが顔を出した。
母親が戻らないので、様子を見に出て来たというところだろうか。
彼女は、キョロキョロと周囲を見回し、エマヌエルと視線が合うと、パッと破顔した。
「エアにー」
まろぶように、危なっかしい足取りで駆け寄ってくる様は、ひどく愛らしい。
自然、エマヌエルも頬を緩ませた。膝を屈めると、彼女が足に到達する前にその脇に手を入れて抱き上げてやる。浮き上がるような感覚が面白いのか、彼女が歓声のような笑い声をあげた。
そのまま、空中へ幾度か放ってやると、レフィーナはますます喜んでキャッキャッとはしゃぎ、もっととねだる。
しばらく彼女に付き合ったエマヌエルは、ふと表情を曇らせて、腕に抱いたレフィーナを見下ろした。
まだまだ赤子のようなふっくらとした曲線を描く輪郭の中で、円らな、モスグリーンの瞳がエマヌエルを不思議そうに見つめ返す。
「にー?」
レフィーナは小首を傾げると、紅葉のような掌を、エマヌエルの頬に、若干痛みを感じる強さでピタンと押し当てた。彼女なりに、何か感じるところがあったのかも知れない。
慰められているらしいと気付いて、エマヌエルは苦笑を返す。
「……何でもねぇよ。ホラ、母さんのトコ行ってこい」
振り返れば、やや蒼白な顔をしたファランがこちらを見つめている。
随分前から彼女がそこにいたのには気付いていたが、エマヌエルは敢えて知らぬ振りをしていた。
床に下ろしてやると、レフィーナは先刻エマヌエルに駆け寄ったのと同じようにヨタヨタとした足取りで、ファランの元へ走って行く。別段こちらが何をした訳でもないというのに、ファランは大慌てと見える仕草で、エマヌエルから庇うようにレフィーナを抱き上げると、そそくさと戸外へ姿を消した。
(……感じ悪)
吐き捨てるように脳裏で呟くが、彼女に向けた苛立ちはすぐに自分への苦笑に変わった。
あれだけ八つ当たりすれば、彼女がレフィーナにも危害を加えられるのではと恐れたのも頷ける。
自嘲気味に小さく笑うと、エマヌエルは壁に背を預けて俯いた。
そう、あれは、紛れもなく八つ当たりだった。ファランが、エマヌエル達に対してしたのと、大差はない。
昨夜は、ヴァルカの甘い肌の感触に溺れることで忘れていられたが、一人になると否応なく、変化してしまった身体のことに意識が向いてしまう。
エマヌエルは殊更俯いて、自分の身体を掻き抱くように腕を回した。怖い、と脳裏で言葉にするのを避けるように、唇を噛み締める。
後どのくらい、この身体はこの形を保っていられるだろう。どのくらい、自分の頭は正気でいられるだろうか。
遺伝子が自分の意思とは関係なく変化してしまうなど、完全に想定外だ。どうなるのか、見当も付かないことが、底なしに恐ろしい。
(くそッ……!)
残された時間は長くないかも知れない。そう思うと、怖かった。復讐を遂げない内に死ぬことが、何よりも一番怖い。
ギリ、と奥歯を噛み締めた刹那、頬にそっと誰かの掌が触れて、エマヌエルはハッと目を開けた。
「……あ、」
顔を上げると、視線の先には紅い瞳がある。
「大丈夫?」
慈しむように動く唇に噛み付きたい衝動を抑えて、エマヌエルはただ縋るように彼女を抱き寄せた。
「……エマ?」
「……悪い」
少しだけ――このままで。
そうポツリと呟いて、ヴァルカの首筋に頬をすり寄せると、彼女の腕が優しく肩と首に回るのが分かる。
「大丈夫よ」
「――……」
「大丈夫、あたしがいるわ。ずっと、傍にいるから」
大丈夫よ。
歌うように繰り返されるその言葉に溶かされるように、鼻の奥が痛む。滲んだ涙を隠すように、エマヌエルは彼女の腕の中でキュッと強く目を閉じた。
***
「当面の問題は、どうやって島を出るかってところよね」
遅い朝食を摂りながら、ヴァルカがボソリと呟く。
朝食と言っても、この近隣にある食物の備蓄はあらかたなくなってしまった。彼女が手にしているのは、白湯の入ったマグカップで、前には野菜の端切れとしか呼べないサラダらしきものが置いてある。主食はない。
「それもそうだけど、取り敢えず、午後から移動だな。もう食い物殆どねぇし」
エマヌエル達はともかく、普通の人間であるファランや、幼いレフィーナには、何日も食事抜きというのは厳しいに違いない。
そう思いながら、ヴァルカの向かいに座ったエマヌエルも相槌を打つ。
彼女が食べ終わるのを待つ間に、簡単に忘れ物がないかを確認した後、エマヌエルはヴァルカを伴って外へ出た。すると、未だ外にいたファランが振り向く。彼女の腕の中で、レフィーナは安らかな寝息を立てていた。
三ヶ月の間、拠点にしていた家の半径一キロ圏内は、既に食べ物を失敬し尽くしている。
今日中に一キロ以上向こうへ行くのはさして難しくないだろうが、エマヌエル達はそれより先に、研究施設として使用されていた教会へ向かった。
その別棟であり、ファランが監禁されていた建物が、ナンナ=リーフの中で一番標高が高い。そのてっぺんから見渡せば、多少は島群全体が見渡せるかも知れない。
とは言え、彼女が監禁されていた塔は、先の戦いで半壊していた。まるで、崩れたケーキのように、所々室内が断面を晒け出している。
エマヌエルは、ヴァルカをファランの元に残し、自分は崩れた塔の屋根の上まで上がった。
視界に入った島群は広かった。
青い海原に、この中央島を囲むように、大きめの島が六つ。その周辺に小さな島が、欠片でも巻いたように散らばっており、全体で楕円を描いているのが分かる。
ただ、目算でもどれくらいあるのかはちょっと見当が付かなかった。それ程に全体は広い。
スィンセティックの視力は、半径二キロ圏内ならはっきり見えるくらいはあるが、それより遙かに広いのは確かだ。
塔の上にある細い棒に掴まって頭上を見上げても、何もない。空以外には。
飛行機はおろか、飛行型フィアスティックさえ見当たらない。どうやら、この島群が天然マグネタインでできているという話は本当のようだ。近付きたくても近付けないと言ったところだろう。
(……そう言えば)
ハロンズの断片的な話と、以前ここで意識を取り戻してからヴァルカに聞いた話によると、この中央島だけが、天然マグネタインでできた島群の影響を受けないエリアらしい。
(……試してみるか)
また一つ息を吐くと、エマヌエルは空いた右腕に意識を集中する。けれど、いつもと同じつもりで、無意識でいては駄目だ。またいつ、どんな状況下で力が暴走するか分からない。
出力『中』程度を明確にイメージしながら、慎重にエネルギーを解放していく。チリ、という微かな音と共に、細い手首から指先に掛けて、青白い閃光が走った。電子音と音叉を打つような音が徐々に膨れ上がって、エマヌエルの掌に生まれたエネルギー弾が肥大していく。
程々の大きさになったのを確認すると、無造作に右腕を振り上げた。エマヌエルの手から放たれた閃光弾は、同じ色のスパークを纏い付かせて、真っ直ぐに上空へ疾駆する。もしも、マグネタインの壁に阻まれたら、それは唐突に消失する筈だった。だが、見えない壁に阻まれる様子もなく、フォトン・シェルはひたすら上昇し、やがて見えなくなった。大気圏に激突したとしても、ここからでは確認できないだろう。
同じ要領で、エマヌエルは、飛ばす角度を変えながら、フォトン・シェルを連続で撃った。すると、斜め六十度程の角度で放ったものが、中央島の際で前触れなく消えた。
(……あそこが壁か)
エマヌエル本人はもうその影響は受けないが、放たれたエネルギーは別らしい。
それを確認し終えると、エマヌエルは塔の先端から手を離した。所々の引っかかりに掴まりながら地上へ降り立つと、早速ヴァルカが不可解だという顔で歩み寄って来た。
「……あんた、今何してたの?」
「マグネタインの影響の確認。フィアスティックがこの上空だけでも飛んでれば、脱出の方法もあるかも知れないと思ってさ」
エマヌエルは、苦笑して肩を竦めた。
「でも、ダメっぽいな。飛ぼうと思えば飛べるだろうけど、マグネタインの影響範囲が正確に分からねぇと」
「そうねぇ……やっぱり、地道に泳いで渡るしかないかしら」
島群の端まで行けたとしても、その先を泳いで渡るのは流石に厳しい。地図がない為、どちらへ行けばどの大陸があるかも分からない。加えて、ファランとレフィーナのこともある。
レフィーナは教えれば何かできるとしても、ファランにはどう頑張っても無理だろう。
しかし、とにかく島群の端までは進む必要がある。
「あんた、ここまで来た時のコト覚えてるか?」
それだけでヴァルカは、エマヌエルが何を言いたいか察したらしい。
「ここは北の大陸のサルダーリから、直線距離にして約二千百五十五・三キロ離れた海上にあるって聞いたわ。南島国から見て、北東に位置する場所だそうよ。ヒルトラウト島のアルヤからはジェット機なら……そうね、六時間くらいだったかしら」
ちなみに、サルダーリはユスティディアの南端にある都市で、ヒルトラウト島は、東の大陸<トスオリア>に属する島国だ。
「なら、ひとまずサトヴァンに向かうのが一番いいか」
サトヴァンから見て北東なら、サトヴァンはこのリーフ・アイランドからは南西方向にあるということになる。
エマヌエルは、先刻、塔の上から見た光景を脳裏で反芻した。
正確に南西とは言わないが、せめて南の方向にある島々の中で、一番近い場所はどこだったか――
「……一番近いのは、どっちかってと西の方だな」
うんざりした気分で呟く。しかもその島まで何キロあるやら、想像も付かない。
「そこまで泳げそう?」
「俺らはやってやれないコトはねぇと思うけど、確実に十キロ以上あるぞ」
そこで言葉を切ると、エマヌエルとヴァルカは揃って、今の今まで会話の外にいたファランの方へ視線を向けた。
勿論、ここまでの会話は全部彼女にも筒抜けである。青と紅の視線を一身に集めたファランは、リアクションに困ったように二人を見つめ返した。
「……まさか、私にも泳げって言うの?」
恐る恐るといった調子で、眠るレフィーナを抱き締めるようにして、気持ち後退ったファランに、エマヌエルは半ば蔑むような視線を投げた。
「やってくれたら話は早いんだけどな」
そこまで期待しない、と付け加えながら、エマヌエルは肩を竦める。
「可能性があるとしたら、ソイツだな」
言ったエマヌエルは、ファランの腕の中で安らかな寝息を立てるレフィーナを見た。ヴァルカから聞きかじったレフィーナの能力なら、もしかしてファラン共々無事に向こう岸へ渡れるかも知れない。
「この子に何をさせる気なの?」
だが、そうは取らなかったのか、ファランは警戒心も露わに、エマヌエルを睨み付けた。先刻の言い争いの余韻がまだ残っている所為もあるだろう。
エマヌエルは、やはり呆れたように肩を竦めると、溜息混じりに側頭部を掻いた。
「別に何も」
ただ、レフィーナに関しては、少々心配なことがある。そう思いながら上げた視線が、ヴァルカのそれと合う。彼女も、同じ不安を感じているらしいのが、何となく分かった。
「……何なの?」
しかし、相変わらず洞察力の鈍いファランに、それは理解できていないようだ。
「いや。何でもない」
とにかく、今はこの島の端へ移動することが先決だ。立ち止まっていても始まらない。
そう断じると、エマヌエルは先に立って歩を踏み出した。