CODE;1 Sleep with…
「エアにー!」
「ぅおわっ!?」
扉を開けた途端、後ろから足を取られたエマヌエルは、素っ頓狂な悲鳴を上げる。
危うくひっくり返りそうになるのを堪えて、反射で下を確認した。すると、してやったりと言わんばかりのレフィーナがにんまりと満面の笑みを浮かべてエマヌエルを見上げている。
まだ満一歳にもならないのに、もう歩き始めたレフィーナは、足首に近い場所へ、しっかりとしがみついている。
「……あーあ。またやられちまったな」
肩を竦めて苦笑しながらレフィーナを抱き上げてやると、彼女は嬉しそうな笑い声を立てた。
「あたしもやられたわ。もう何度もね」
すると、背後からヴァルカがわざと気配を絶たずに近付いてくるのが分かる。
「最近のお気に入りなのよ、その遊び」
「遊びねぇ」
眉根を寄せて、腕に抱いたレフィーナを見下ろす。その表情を、レフィーナは円らな瞳で見返して、可愛らしく小首を傾げた。
誰にも教わらないのに、既に彼女は本能的に気配を絶ち、足音を殺す術を身に着けていた。先刻も、まんまと転倒するところだったのは、彼女の気配をまるで感じなかった所為だ。
「そろそろ、力の使い方でも叩き込んでやるか」
「ちょっと、恐ろしいコト言わないでよ」
溜息と共に言うと、透かさず不機嫌な女性の声が割り込む。
その声の方へ視線を向けると、開け放しだった扉から乳白色の髪をうなじの辺りで束ねた、二十代前半の女性が立っていた。レフィーナの母親・ファランだ。その顔は、声と同じようにむっつりとしているのが分かる。
「私があなた達に協力を頼んだのは、何の為だと思ってるの? その子を変な殺人の道具にしたくないからじゃない」
ホラ、そこどいて、と言いながら、彼女は手にしていた紙の束で、エマヌエルとヴァルカの間を割るようにして左右へ除けた。そうしてできた通り道へ歩を進めながら、言葉を継ぐ。
「それなのに、力の使い方を教える、ですって? バカも休み休み言って」
簡素な部屋に設えられた、木製のテーブルセットに腰を下ろしたファランは、険の宿ったアメジストの瞳で二人を睨み据えた。しかし、エマヌエルは動じずに言い返す。
「バカ言ってんのはあんたの方だろ、オカーサンよ」
「何ですって?」
「だって、そうだろ? もし、なーんにもできないままで、研究所の連中にとっ捕まったらどうするつもりだ?」
「それは、」
「それこそアイツらのいいようにモラル教育されて、虐待紛いに戦闘技術叩っ込まれた挙げ句に、兵器として利用されるだけだぜ。利用用途は売買か、戦場に放り込まれるかはアイツらの胸先三寸って奴だろうけどな」
ファランは、尚も言い返そうとするように口を開き掛けた。だが、結局は空気を呑むようにして口を噤む。
「……その件に関しては、少し考えさせて」
吐息に乗せるようにして言うと、彼女は苦悶の表情で額に拳を当てた。
「ま、納得いくようにすればいいさ。母親はあんたなんだからな」
エマヌエルも、それ以上は言い募らずに、肩を竦める。
いずれ発見される可能性を思えば、生まれ持ってしまった能力はコントロールできるに越したことはない。だが、親にすれば、我が子を下手に修羅場へ放り込みたくはない気持ちも分からないでもないのだ。――もっとも、エマヌエル自身は子を持った経験がないので、想像でしかないのだが。
「それで? あんたも何か用があったんじゃねぇの?」
「え」
言われて俯けていた視線を上げたファランの、アメジストと視線が合う。一瞬、何を言われたのか理解できない、と言いたげな顔をした彼女に、エマヌエルは顎をしゃくって彼女の前の書類を示した。
すると、ファランも「そうだった」という顔をして、書類をエマヌエルの方へ滑らせる。
「あなたの、精密検査の結果よ」
「俺の?」
キョトンと目を瞠ると、ファランは真摯な顔つきで頷いた。
「ここへ来てから少しして、あなたの身体検査したでしょう?」
「あー……」
そういや、そんなコトもあったっけ。
そう思いながら、エマヌエルは差し出された書類に視線を落とす。
エマヌエル達がリーフ・アイランドの中央島であるナンナ・リーフの片隅の、この空き家を無断拝借して住み始めてから、三ヶ月が経っていた。
それはイコール、ハロンズ達をこの島から退けてから三ヶ月経ったことを意味している。
当時、エマヌエルはハロンズとの対決で若干無理をした結果、ほぼ身動きが取れない状態だった。放置しておいてもその内元通りになると言ったのに、人の話を碌々聞いていないファランが、残された研究棟にエマヌエルを運んで検査をしようと言い張り、半ば強引にエマヌエルに精密検査を受けさせたことがあった。
まだ、ハロンズの部下が残っているかも知れない場所に、調べもせずにノコノコ出て行くのは賛成できなかった。その前に、ヴァルカだけで偵察に行くことを提案したが、それにはヴァルカが猛反発した。
動けないところを奇襲されることを心配するヴァルカと、放置しても元通りになるからと主張するエマヌエルと、このまま動けなかったら治療はいつするのか、検査をしなければその方針も打ち出せないと言うファランとの間で、三日ばかり議論が繰り返された。しかし、結局、その後も今一つエマヌエルの体調が戻らなかった為、全員で研究棟へ赴く羽目になったのだ。
診療や検査に必要な機材は全て持ち去られていると思っていたが、意外にもそれらは全てそのままになっていた。
研究棟内に、自分達以外の人の気配がないことを確認した上で、エマヌエルはその場で人間ドック並の検査を受けさせられた。
ただ、その後、検査結果をファランが持ち出す前に全快したので、エマヌエルの中ではそのことはすっかり忘却の彼方だった。
あれから三ヶ月。
身体の動作確認を綿密にした後で、エマヌエルとヴァルカは交代で島の中を見回っていた。
本当に、ハロンズ一味が撤退したのかを確認する為だ。
とは言え、島は存外に広さがあり、一定期間ごとに交代して確認作業を行っても、三ヶ月を費やしてしまったという訳だ。
「島の中の調査は、今日で終わりだな。本当に、今はこの島には誰もいない。俺達以外はな」
机の上を滑ってきた書類を、レフィーナを抱いていない方の手でめくりながら、エマヌエルは調査結果を口にする。
戻った途端、レフィーナに可愛い悪戯を仕掛けられたので、こちらも報告が遅くなってしまった。
「そう……じゃあ、後はどうやって島を脱出するかってコトね」
頷いたヴァルカが、エマヌエルからレフィーナを抱き取り、自分もエマヌエルの手元を覗き込む。
しかし、書類をめくってはみたものの、エマヌエルにはその内容はさっぱりだった。
「……で、コレ、何が書いてあんの?」
早々に内容を理解することを放棄したエマヌエルは、ファランに視線を戻す。
「第一、こんな薄っぺらい内容の結果が出るのに、何でこんなに掛かった訳?」
書類は、束と言ってもほんの数枚だ。結果が出るまでに、三ヶ月も要したとは考えにくい。
するとファランは、どこかばつが悪そうに、一度エマヌエルの方へ滑らせた書類を自身の方へ引き寄せる。
「悪かったわね。私、今まで裏の研究に参加したコトなかったから、残ってたデータの中からスィンセティックについて勉強してたの。って言っても、私はネット上から裏研究のデータを取り寄せる方法なんて知らないし、ここにあるデータはベテラン向けだったから理解するのに時間が掛かったのよ」
ファランは、そう言って唇を尖らせた。知識を吸収するのに、相当期間を要したのが後ろめたいらしい。しかし、エマヌエルは少なからず感心していた。
スィンセティック研究に関して全くゼロの状態から、たった三ヶ月で、しかも独学で大体理解できたというところが、恐らく並ではない。普段、どこか『ぽえーん』として見えるので、頭の程度も常春なのかと思っていたが、よく考えれば彼女は研究所の『表』に勤めていたのだ。頭脳はやはり一般人のそれとは出来が違うということだろう。
一方、そのファランは、エマヌエルの内心には気付かないまま、書類の表紙をめくりながら説明を始めた。
「結論から言うと、今エマヌエル君の身体は、当初の改造状態からかなり変化してるみたいね。多分、マグネタインももう効かないんじゃない?」
「……今頃言われてもな」
そんなことはもう知っている。
だからこそ、ハロンズとの対戦時にした無茶で、マグネタイン製の手錠を破壊できたのだ。
「それと、フォトン・エネルギーの射出口が全身に広がってるみたい。どこからでも放出できるようになってるってコトね」
「げ、マジ?」
「ってコトは、今後暴走が起きても大丈夫ね!」
どこかホッとした表情で割り込んで来たヴァルカに、エマヌエルはうんざりとした視線を向ける。
「大丈夫って、何がだよ」
「え、だから、皮膚が切れる危険がなくなったってコトで……」
「ポイントはそこか!?」
冗談ではない。
ハロンズにもチラと言われたことだが、これ以上戦闘に特化してどうしろというのか。
しかし、尚も言い募るよりも早く、思わず大声を上げたことで驚いたのか、レフィーナが泣き出した。
「あー、よしよし。びっくりしたよねー。大丈夫よ、エマ兄はあなたに向かって怒ったんじゃないのよ」
別に、あんたに向かってだって怒ってねぇよ、と口の中でもぞもぞと言い返す間に、ヴァルカはエマヌエルから離れてレフィーナをあやすように身体を揺すりながら、彼女の背中をポンポンと叩いた。
いくらヒューマノティックとの混血で、その能力が飛び抜けているとは言え、精神的には見た目通りの赤子らしい。レフィーナは程なくスンスンと鼻を啜りながらも、落ち着きを取り戻したようだ。それを見計らって、ヴァルカはレフィーナの母親に、彼女を返す。
「後は何か?」
レフィーナを受け取るファランにヴァルカが続きを促すと、ファランは目だけで頷いて、書類をめくりながら言葉を継ぐ。
「エマヌエル君。あなた確か、フォトン・エネルギー製造装置内蔵型だったわよね」
「ああ」
若干それに不快感を覚えて眉根を寄せるが、ファランは事実を確認しているに過ぎないのが分かっているので、特に口を挟まず首肯した。
「体内にフォトン・エネルギー製造装置、頭部にそれをコントロールする為のICチップが埋め込まれてる。――で間違ってないわよね?」
「そうだよ」
しかし、相手に悪意がないのを理解しているのと、反射で怒りがこみ上げて来るのとは別の問題だ。
最早、取り繕うことはせずに、投げ出すように返すが、ファランは頓着せずに先を続けた。
「CTも撮ったんだけど……どうやら両方共なくなっちゃってるみたいなのよね」
「……は?」
思わず間抜けな声が出る。
ファランの横にいたヴァルカも、目を見開いてファランを凝視した。
「もうちょっとちゃんとした検査設備がないことには何とも言えないけど……多分、両方共原子レベルで体内に吸収されちゃったんじゃないかしら。ちなみに、エマヌエル君今いくつ?」
「えっと……分からねぇよ。売られた時からカレンダーなんて見たことねぇし……」
エマヌエルは、どこか面白くない気分でぶつくさと呟きながら頭を掻く。
しかし、ファランは、こちらの答えが不明瞭なことを、咎めるでもなく淡々と問うた。
「じゃあ、売られたのはいつか覚えてる?」
「十歳の時」
「何年だったかは?」
「ええっと……一六一四年だったと思う」
「ちなみに生年月日は?」
まるで警察での尋問のように質問が続いて、エマヌエルは思わず苛立った声を出した。
「一六〇四年の十月五日だよ。次は何だ? 出身地か?」
すると、ファランはあっさりと「いいえ、もういいわ」と言って書類をめくった。
「ってコトは、改造手術を受けた時から七年経ってる訳ね。それに加えてあなたは最近、マグネタインでできた銃弾を受けたり、液体マグネタインを注入されたりしたから、遺伝子の方が自己防衛の為に過剰進化しちゃったんだと思うわ。ICチップとフォトン・エネルギー製造装置が体内に吸収されたのもきっとその所為ね」
その所為ねって。
あまりにも重大なことを軽く言われた気がして、エマヌエルは虚脱感を覚えた。目眩で倒れるより先に座ってしまおうと、乱暴に椅子を引いて腰を下ろす。
「つまり……俺は今、どういう状態なワケ?」
拳を額に当てて俯いたエマヌエルに、ファランはあっけらかんと言った。
「別にどういう状態でもないわ。纏めると、マグネタイン免疫体質のヒューマノティックってだけかしら」
だけかしら、じゃない。
そう言いたかったが、ツッコむだけの気力もなかった。もう、机に突っ伏すのを通り越して、地面にめり込みたいような虚脱感に襲われる。
「ま、制御不能の戦闘兵器って訳ね。研究者達が聞いたら目回すわ」
「それだけで一泡吹かせてやれそうだよな……」
綺麗に纏めついでに止めを刺されて、エマヌエルは今度こそ机に突っ伏した。
***
「エ・マ」
夜の帳も降りたベランダでぼんやりしていると、目の前にスイとマグカップが差し出されて、エマヌエルは目を見開いた。
その腕の先を目で辿れば、予想に違わぬ人物が立っている。声を掛けられるまで気配に気付けず、且つ自分とさほど身長が変わらない人間は、ここには一人しかいない。
反射で受け取ったマグカップは、程良い温みを掌に伝えてくる。
「大丈夫?」
自分のカップを傾けながら、ヴァルカが言った。
何に対して「大丈夫か」と訊かれたのかは分かっている。昼間の、検診結果のことだ。
平気だよ、と言おうとして、エマヌエルは口を噤む。
「……ん、まあ……正直なとこ、ちょっと堪えてる……かな」
クス、と自嘲気味に笑って、エマヌエルはベランダの手摺りに寄り掛かった。
「実はさ。こっそり夢見てたんだよなぁ。あの女には偉そうなコト言ったけど……内臓だけでもフツーに戻して、ひっそり平凡な人生生きたい、とか……勿論、やるコト全部済んでからだけどさ」
ヴァルカは、言葉でのリアクションをしなかったので、彼女がどんな顔をして聞いているかは分からない。が、エマヌエルも何らかの反応を期待していた訳ではないので、独白のように続ける。
「それがさ。笑えるよな。チップも兵器も体内に吸収されたって。本物の歩く兵器に格上げのかっての」
「エマ」
自分を抱き締めるようにして、空いた片手を身体に回す。
「堪えてるどころじゃねぇよ。正直言って……ホントのホントに正直なとこ、すっげ怖い」
俯くと同時に、手から力が抜けて、手にしていたマグカップは地面に落ちた。その割れる音さえも、どこか遠くから聞こえる。
「もう普通に戻れるなんて希望もねぇってコトだろ。それだけじゃない。いつどんな暴走が起きるか分からないのに、原因も取り除けなくなったってコトじゃねぇか」
チクショウ、と呟いて、エマヌエルは手摺りに突っ伏す。
自分の身体が、急に自分のものでなくなった錯覚に陥っていた。
こんな状態にはとっくに馴染んでいた筈だったのに、フォトン・エネルギー製造装置だけでも除去できる方法があるのではないかと、それを心のどこかで期待していたのだと、今になって思い知る。
(チクショウっ……!)
ギリ、と唇を噛み締めた時、前触れなく腕を捕まれた。
「!?」
問答無用でヴァルカの方を向かされ、唇を塞がれる。
手摺りに押し付けられ、彼女の唇が自分のそれに重なっていると理解するのに、数秒を要した。
思わず身じろぎするが、彼女はそれを許さないとでも言うように肩に腕を回してくる。強い力で押さえ付けられている訳でもないのに、エマヌエルはそれ以上身動きできなくなってしまった。
ただ、彼女が唇を啄む感触だけが、脳内を支配する。
どこか淫猥なリップ音が響いて、エマヌエルの背筋をゾクリとさせた。
「ッ……!」
息が詰まる。
深くはないが、どこか情熱的な口吻けに、何を置いても応えない程、エマヌエルも人間できていない。相手が、想いを寄せる女性なら尚のことだ。
ぎこちなく顔を傾けて、自分から唇を押し付け返す。
ン、と濡れた声を立てて、反射的に身を退こうとするヴァルカの腰を抱き寄せた。浅い口吻けを繰り返して、一度唇を離すと、潤んだ紅い瞳と視線が絡む。
「……落ち着いた?」
「何が」
やや息を弾ませながら訊ねるヴァルカに、エマヌエルは眉根を寄せる。
するとヴァルカは、どこか恥ずかしげに視線を伏せながら、ボソボソと言った。
「だって……」
「ん?」
「取り乱してる女を落ち着かせるのに有効だって、誰かが言ってたから」
「……俺は女かよ」
その女性寄りの美貌から、ただでも普段女と間違えられることが多いエマヌエルは若干気分を害したが、図らずも先刻までの絶望的な気分が払拭されているのは否めない。我ながら、ゲンキンなものだ。
ならば、モノはついでとばかりに、エマヌエルは彼女の額に自分のそれを押し付ける。
「……なあ」
「何?」
「じゃあ、その……少し、抱き締めててもいい?」
程近いところで合った深紅の瞳は、面食らったように見開かれたが、やがてその表情は苦笑に近い微笑を刻む。
「……どうぞ?」
いくらでも、という彼女に甘えて、エマヌエルはもう片方の手を持ち上げて彼女の肩に回し、彼女の瞳と同じ色の髪の中に顔を埋める。幼子が母親に甘えるように頬を擦り寄せると、彼女の両手がエマヌエルを抱き締め返すように背中に回るのが分かる。
「……ねぇ、エマ」
「ん」
「何があっても……あたしがいるから」
「え?」
どういう意味だ、と身体を離そうとすると、それを嫌がるように彼女の方がエマヌエルの腕に顔を擦り寄せる。
「たとえあんたが前後不覚に暴走するコトがあっても、あたしがちゃんと止めてあげる。他の人が怖がってあんたを遠ざけても……あたしだけは、離れないから」
「あ……」
彼女が何を言っているのか、やっと思い至って、エマヌエルは彼女から見えない角度にある青色の目を瞠った。
どちらからともなく、絡み付けていた腕を解いて、互いの顔が見える所まで身体を離すと、ヴァルカは、小さく「ごめんなさい」と呟く。
「暴走しても大丈夫ね、なんて……冗談でも言っちゃいけなかったのに」
「……もういいよ」
散々メーワク掛けたのは事実だし? と悪戯っぽく言って、エマヌエルは再度彼女の首筋に顔を埋めた。
「……なぁ」
「ん?」
「あのさ」
「何よ」
エマヌエルは、次の一言を口に乗せてもいいものかどうか、迷った。
こんな時、一般的な恋人同士ならわざわざ断らなくてもいいのかも知れない。だが、相手の了承を取らずにコトになだれ込むことだけは、避けたかった。
「……抱いていいかって訊いたら……鉛弾でも返されんのかな」
ややおどけるようでいて、ストレートに訊くと、ヴァルカは息を呑んだように微かに身体を震わせた。
目が合う距離まで顔を離すと、何とも言えない複雑な表情をした彼女と視線が合う。何か言い掛けるように動いた唇に誘われるように、エマヌエルは自分の唇で彼女のそれを塞いだ。
彼女の後頭部を押さえ込むようにして捕らえて抱き竦め、さっきよりも深く口吻ける。
「ンッ……」
甘い、蕩けるような声が漏れて、理性が飛びそうになる。啄むようにして一度唇を解放し、彼女の答えを求めるように深紅の瞳を見た。
「あの……」
潤んだ瞳が、困ったようにウロウロと視線を泳がせる。
嫌がっているようには思えなかったが、長すぎる間に、エマヌエルは息を吐いて彼女を解放した。
「え、エマ?」
「……悪い。ちょっと性急すぎたみてーだな」
軽い自己嫌悪に、自嘲気味な笑いが漏れる。
だが、踵を返して、ベランダと室内の境にあるガラス窓を引き明けようとするより早く、彼女が背中にぶつかるように抱き付いた。
「ヴァルカ?」
「あの……あのね、嫌な訳じゃないのよ、ただ……」
エマヌエルの背中に顔を押し付けるようにした彼女は、早口でまくし立てるように言葉を継ぐ。
「あたし……あの、……初めてじゃないって言ったら……軽蔑、する?」
「それって……」
目を見開いて鈍い動作で振り向くと、彼女が脅えるように顔を上げた。視線が合うと、紅の瞳がエマヌエルから逃れるように下を向く。
「でも、あたしの、意思じゃないの。研究所の……その、」
そこまで聞くと、エマヌエルは言葉を遮るようにヴァルカを抱き締めた。
「もういい」
「エマ……」
「言いたくないコト、無理して言うな」
「だけど、」
「分かってる。俺も……多分、同じだから」
え、と言うように強張った彼女の身体を、殊更力を入れて抱き竦めるエマヌエルの脳裏には、思い出したくもない研究所での出来事が過ぎっていた。
「エマ? 同じって……」
まさか、と言い掛ける彼女の唇を啄むように軽く奪う。
「この顔だぜ? ヤられてない訳ねぇだろ」
自嘲気味に微笑して見せれば、瞬時の間を置いて、ヴァルカの顔が泣き出す寸前のようにクシャリと歪んだ。恐らくエマヌエルの身に起きたことを、正確に察知したのだろう。
「汚らわしいとか、思うか?」
即座に首をブンブンと横に振った彼女は、躊躇わずエマヌエルの唇に自分のそれを重ねる。
「いい……もう、いいよ。何も言わないで」
「そっちが先に言ったんだろ」
「だって」
「いいよ。理由も分かってるから」
自分の身に起きたことを、言わずに済めばどんなにいいだろう。
けれども、身体を重ねる以上、言わずにそういう関係になるのは卑怯な気がしていた。きっと、似た経験をしたのなら、彼女もそう思ったのかも知れない。
だが、それ以上は互いに何も言わずに、二人はただ唇を貪り合った。
息が弾む程口吻け合った後、ヴァルカが「待って」とストップを掛ける。
「……何」
「……やっぱり……ベッドに行かない?」
ベランダとは言え、流石に初めての場所が戸外というのも気が引けたのだろう。
クス、と意味ありげに微笑したエマヌエルは、了解の返事の代わりにヴァルカの頬にキスを落とす。
(歯止めが利かなくなっても、知らねぇけどな)
黒い独り言の内容を知らない彼女の身体を、軽々と横抱きに抱き上げると、ガラス戸を後ろ手に閉じた。