CODE;14 On an island
「おーいっ! いたぞ! こっちだ!」
男は、海岸で捜索を続けていた仲間を大声で呼び寄せる。
砂浜には、乳白色の髪の女性と、生まれたばかりの赤子が倒れていた。
女性の方は気を失っているのか、目を閉じたまま動かない。けれど、赤子の方は元気な泣き声を上げていた。二人共ずぶ濡れなところを見ると、海に落ちたと思って間違いないのに、赤子の方は水も飲んでいる様子がない。
「とにかく運ぼう」
男の一人が赤子を抱き上げ、他の男数名が担架に女性を乗せた。
***
窓の外には、すぐ海が見える。
小さな島が集まって出来た、リーフ=アイランド。その孤島群は、南島国<サトヴァン>の東北に位置し、島そのものがマグネタインと呼ばれる鉱石で出来ている。それ故、ハロンズは隠れ場所に選んだと言っていたが、それが何を意味するのか、詳しいことはファランは知らない。
リーフ=アイランドの中央に位置するナンナ=リーフ島の断崖に建てられた、城としか言えないような屋敷の一室で、ファランは腕に抱いた赤子を見下ろしてどこか弱々しい笑みを浮かべた。
予定日より二ヶ月半も早く生まれたウォレスとの子は、娘だった。早産だったにも関わらず、レフィーナ=ニノンと名付けた娘は、保育器など必要とせず元気に育っている。これも、ウォレスがヒューマノティックとなっていたことが理由なのか。そう思うが、どこからも答えは返らない。
普通の子の常識では考えられないが、生後一ヶ月ほどで首が据わった彼女は、今は授乳を終え、安らかな寝息を立てている。普通の主婦なら、我が子が寝ている内にと色々な用事を済ませるのだろうが、ファランにはその必要がない。
ジークリンデ島に付属する小さな島――ハロンズの私有地からこちらに移って来てから半年が過ぎていた。そのハロンズの私有地にいた時と同じように、ファランには監視を兼ねた使用人が付いている。
それを差し引いても、ファランは我が子をベビーベッドへ下ろす気になれなかった。
少しでも目を離したら、ハロンズに奪われるかも知れない。そう思うと、一瞬も彼女から目を離すことは出来ず、ファランはほぼ一日中赤子を抱いて過ごした。
自分でも病的だとは思うが、最初の待遇を考えれば仕方がないことだった。
精神的なことからか、ファランの初産は、早産の上に難産だった。
丸二日苦しんだ末に産んだ我が子には、一週間も逢わせて貰えなかった。ようやく逢わせて貰えたかと思えば、その後は週に一度しか逢わせて貰えない。
ハロンズの許からの逃亡に失敗し、まんまとこの孤島群に連れて来られ、幽閉されていたファランにとっては、ウォレスとの絆の証である我が子だけが生きる縁だった。それなのに、その我が子は、逢わない間にまずは様々な検査を受けさせられている様子だった。
ある面会日に、我が子がM0001と呼ばれているのを耳にしたファランは、発作的にレフィーナを抱いて断崖から海に身を投げてしまった。目覚めたのは私室として与えられていた部屋の、ベッドの上でだった。
『残念だったね。天国じゃなくて』
普段通りの冷たいセリフでファランの目覚めを直撃してくれたハロンズは、しかしそのセリフとは裏腹にひどく苦しそうな切なそうな表情をしていた。
ファランには、そもそも今以て助けられた理由が分からない。ファランが死ねば、ハロンズには娘を自由にする絶好の機会だった筈だ。
ちなみに、生後二ヶ月で危ないダイブを経験させられたレフィーナも、幸い命に別状なく、すくすくと育っている。
命懸けの抗議(?)が効いたのか何なのか、あれからハロンズはレフィーナをファランの許に置いておいてくれるようになった。正直なところ、あの行動は逃亡未遂として咎められはしても、抗議として通じるとは思ってもみなかったから、それにも驚いている。もっとも、定期検診と称して、半月に一度はレフィーナの詳細なデータ提出を求められた。
同席したがるファランを、最初は阻んでいた研究班も、今は何も言わない。きっと、ハロンズがそのように計らってくれているのだろう。
軟禁状態に置かれていることを恨みこそすれ、感謝の念など抱きようもないが、レフィーナと心中未遂をした時のハロンズのあの表情が、ファランの心の片隅に引っかかっていた。
とにかく、どうにかして逃げ出さなければいけない状況に変わりはない。しかし、どうしようもないのも現実だ。
けれど、いつまでも無力に甘えていてはどうにもならないのも解っている。それに、今は世間一般の『定期検診』で済んでいるレフィーナの身体能力測定が、いつ『実験動物扱い』に変わってもおかしくない。
裏の研究班がどんなことをしていたか知らないが、あの黒髪の少年や紅い髪の少女の怒りの深さを考えると、相当酷いことをされていたに違いない。
(そんなことは、私がさせない)
何があっても、娘を守り抜く。
改めて脳裏に刻むように口に出さずに呟いて、腕に抱いたレフィーナを見下ろした時、ノックの音が響いた。
「やあ。姫君のご機嫌はいかがかな」
ややおどけた調子で顔を出したハロンズに警戒するように、ファランは我が子を抱いた腕に力を込める。
「そんなに警戒しないで欲しいなぁ。折角朗報を持って来たのに」
さも傷ついたと言いたげな表情を作ったハロンズが、勧められもしないのに、室内にあった白い小さな丸テーブルの前の椅子を引いて腰を下ろした。
「朗報ですって? もしかして、娘共々自由にしてくれるのかしら」
警戒心で張り詰めた声は鋭く尖っている。
そんなことは有り得ないが、ファランにとっての『朗報』はそれ以外にない。
「残念だね。自由にはしてあげられないけど、ここから出られる日は近いかな」
「どういう意味?」
「まあ、こっちに来て座りなよ。あ、君、お茶の用意、お願いできる?」
「はい、旦那様」
たまたま傍を通り掛かったメイドにお茶の用意を頼むハロンズを見て、ファランは益々眉を顰めた。長居するつもりだろうか。ここの人間とは、相手が誰であれ、必要最低限以外の話をしたくないのに。
それきりハロンズは暫く口を噤んでいた。ファランが腰を上げるのを待ってでもいるのだろうか。冗談ではない。
レフィーナの命が懸かっていたからこそ、妊娠中は言うことを聞いていたが、彼女が無事生まれた今、これ以上相手の言いなりになるものかと思う。
結局、お茶が供されるまで、ハロンズは口を開かなかった。お茶受けの菓子を口に入れる音がして、ようやくハロンズは口を開く。
「ねえ、このクッキー美味しいよ。君もこっちに来て食べたら?」
「用がないなら出てって。貴方の顔なんて見たくもないわ」
ファランは、ハロンズに背を向ける形で窓の外を臨めるベッドの端に座っていたので、ハロンズがどんな顔をしたのか判らない。ただ、一瞬間が空いた後、ハロンズはクスッと小さく笑って話を続けた。
「冷たいなぁ。まあ、いいや。あのね、そろそろ心の準備はしておいて貰おうと思って」
「心の準備ですって?」
「そう。レフィーナと別れる心の準備」
ファランは瞠目した。今度こそ立ち上がって、ハロンズから目一杯距離を取る。
「嫌よ! この子は誰にも渡さないわ!」
「ねえ、落ち着いて考えてみなよ。普通に育った子だっていつか親から離れるんだよ? それがちょっと早いだけのことじゃない」
「ふざけないで! 貴方達に渡したらこの子に何をされるか分からないわ!」
取り乱した母親の金切り声に眠りを妨げられたのか、レフィーナが火が付いたように泣き出した。
「あーあ、起きちゃった。折角眠ってたのにねぇ」
クスクスと耳障りな笑い声を立てて、ハロンズが席を立つ。ファランは、まるで野生の草食動物が、我が子に手出ししようとする肉食獣を威嚇するように、ゆったりとした足取りで近付く男を睨み付けた。
「来ないで!」
咄嗟に窓の鍵を解除して開け放つ。
「来たら飛び降りるわ。本気よ!」
男は焦った様子もなく、しかし足だけは止めて溜息を吐いた。
「仕様のないお母さんだねぇ。この前も失敗したのにまだ懲りないの?」
「何が朗報よ。出てって! 今すぐ私の前から消えて! もう二度と私の前に姿を現さないで!!」
髪を振り乱す勢いで赤子を抱き締めて叫ぶファランに、ハロンズは全く動じる素振りも見せずに言葉を接ぐ。
「ねえ、解ってる? どうしてこないだは失敗したのか」
「知らないわよ。早く出てって! 貴方の話なんて聞きたくない!!」
全く聞く耳を持とうとしないファランを哀れむように見て、ハロンズは尚も続けた。
「その子のお陰なんだよ。凄いよねぇ。生まれて二ヶ月、誰にも教わらないのにその子は泳いで自分とお母さんを助けたんだ。彼女の中にどんな能力があるか、これで解っただろ?」
「だから何よ!」
「彼女は然るべき検査と教育を受けて、『僕ら』の世界で過ごした方が幸せなんだよ」
「何ですって?」
「彼女はこれから本格的にスィンセティック……ヒューマノティックとして訓練を受けながら過ごすことになる。その為に、それ以上大きくなる前にここを出る必要があるんだ」
いつの間にか、ハロンズの声から笑いが消えている。いつになく真剣な表情をしているのが、却って恐ろしい。
「ここはマグネタインの影響が届き難いとは言え、やっぱりヒューマノティックには厳しい環境だしね。スィンセティックが入り込んで来れないから一時的な避難場所に選んだけど、そろそろ限界だ。追々準備も整えて、近い内にここを出る。君も外へ出たらもう自由にしていいけど、レフィーナは僕に渡して貰うよ」
「お断りよ! この子を兵器にするなんて、絶対に嫌!!」
(それに……それに)
この子は、たった一人のウォレスの忘れ形見なのだ。引き離されるなど、考えたくもない。
相変わらず泣き喚く我が子を抱き締めて、窓際へ下がれるだけ下がる。
ハロンズは、ある程度予測していたとばかりに、再びうっすらと微笑した。
「そんなに離れたくなければ、僕達の研究に協力してよ」
「はあ?」
思わぬ方向へ話が飛んで、ファランは思い切り眉根を寄せた。
「君の専門は何だっけね。ああ、そうそう。遺伝子工学だ。違ったかな」
ファランは答えなかった。けれど、それを然して気にする風もなく、ハロンズは勝手に話を続ける。
「要するに、娘と一緒にいられれば良い訳だろう? なら、彼女の担当になれるように計らうから。それも研究班のリーダーにね。本来ならこんな特別扱いはないんだけど、君は彼女の母親で、しかも研究者なんだから、良いポジションだと思うよ」
何かがズレている。一緒にいられればレフィーナに何をされても許容できるかと言えば、そうではないのに。
ファランの沈黙をどう取ったのか、ハロンズは機先を制するように言った。
「ああ、先に断っておくけど、スィンセティック研究に参加するのも嫌、なんてワガママは通らないから。娘を差し出して自分だけ自由になるか、それとも娘と一緒にいて研究に参加するか。どっちを選ぶかだけは君次第だよ。まあまだ多少時間はあるから、ゆっくり考えて?」
そう言って、ハロンズがニコリと微笑む。その笑みは、何故かゾッと背筋が震える何かを含んでいた。
***
ファランの部屋から出たハロンズを、そのすぐ前にある通路で待ち受けていたのは、一人の女性だった。
切れ長の目元の上に、楕円を描いた眼鏡を掛け、白衣を纏った女性の名は、イェニー=ビアンカ=シュヴァルツ。
ノワールでの研究班主力メンバーであり、ハロンズに忠実なスタッフの一人でもある。
そして、現在開発中のフィアスティック制圧プログラムの、産みの母でもあった。
シュヴァルツ博士は、知的な薄茶色の瞳をハロンズのブリリアント・グリーンの瞳と瞬時合わせ、軽く頭を下げる。
「やあ、ビアンカ。何か、進展あった?」
ハロンズの問い掛けには、主語がそっくり抜け落ちていたが、シュヴァルツには通じたらしい。「はい」と短い返事をして、手にしていたデータの束をハロンズに差し出す。
彼女から渡されたデータに簡単に目を通して、ハロンズは歩き出しながら口を開いた。
「大体、完成ってトコかな。最終テストは?」
「これからです。所長にも臨席頂ければと思いましたので」
「そう」
これからすぐにできる? と問えば、彼女からはやはり「はい」という簡潔な答えが返ってくる。
ナンナ=リーフ島へ移って来てから、ハロンズは、シュヴァルツ博士と共に、フィアスティックを制圧するプログラムの開発に勤しんでいた。
その間に、手間の掛かる人間を何人か抱え込んでいたので、完成に思ったより時間を要してしまったが、これでようやく外に出られる目処がついた。
「まあ、最終テストの結果を見てってトコだけど、ほぼ完成と思って大丈夫でしょ。後は、通信網の奪還だね」
「ええ。プログラムを流すには、ネットが使えないとどうしようもありませんから」
プログラムが完成したと言っても、設備が万全ではなかったので、質もそれなりだった。
ここからフィアスティックを制圧するプログラムを流したとしても、大多数のフィアスティックは影響を受けずに終わるだろう。
「ただ、有効範囲はまだ未知数です。外でのテストをしたいところですが……」
そうする為の防御対策も、人材的余裕もないのが正直なところだ。それは彼女にも分かっているのだろう。
「通信網を一気に奪還して、間髪入れずにプログラムを流す。ぶっつけ本番になっちゃうけど、これがベストだよね」
「はい。それも、世界中の要所要所で一斉にやらなければなりません」
それをするには、人手も戦力も、圧倒的に足りない。
「フィアスティックの浸食はどこまで進んでるか、把握できてる?」
「いいえ。申し訳ございません」
女性は、答えだけを端的に口に乗せ、頭を下げる。
普通なら、己の所為ではない失策でも、保身に懸命になる余り、長い言い訳が先に来る者が多い。そんな中では、彼女は希有な存在だった。ハロンズは、彼女のそんな潔いところが気に入っている。
「いいよ。君の責任じゃないのは分かってるから」
軽い口調で言うと、シュヴァルツは黙って再度頭を下げた。それを視界の端に入れながら、ハロンズは彼女にデータの束を返す。
「じゃ、最終テストの準備が終わったら知らせて」
「分かりました。どちらに連絡を?」
「内線十五番」
簡潔に言って、ハロンズはニヤリと笑った。
「ちょっと協力を要請しに行ってくるよ」
***
ハロンズの言う、『内線十五番』に当たる部屋は、即席の研究所の地下二階にあった。
地下といっても、特別新しく地下を掘った訳ではない。この状況下で、いくらハロンズでもそこまでの余裕はなかっただろう。
リーフ・アイランドの中心島・ナンナ=リーフは、円周にして約一キロ程の大きさの島で、その上にはかつて教会として使用されていた聖堂が建っている。教会だけではなく、その周辺には、かつて人々が住んで生活を営んでいたであろう町並みが、そっくり残っていた。
正確に言えば、現在でも人が住んでいたのだが、ハロンズが表の権力を駆使して追い払ったのがフィアスティックが反乱を起こしてすぐ辺りのことらしい。
天然のマグネタインで出来た島群でありながら、その中心に位置するナンナ=リーフ島だけはマグネタインの影響を受けないことを突き止めていたハロンズは、そのリーフ・アイランドを丸ごと買い上げ、占拠し、フィアスティックを制圧する手段が見つかるまでの本拠としたのだ。
島の中心にそびえる聖堂は、三段構造になっていた。だが、一番上にある聖堂以外の部屋は、外から見ると山の上に茂った木々の下に隠れてしまっていて、内側に部屋があるとは思えない。
その地下二階部分にある、礼拝堂の一つに、乾いた撃発音が木霊する。自分を追うように、そこここで破裂し、或いは跳ね返る銃弾を、全力で走ることで躱しながら、エマヌエルは、その射手であるヴァルカに向かって突進した。
彼女の胸倉を掴もうと伸ばした手は、寸前で真上に飛んだヴァルカを捕らえ損ねて空を掴む。
しかし、エマヌエルは前方へ進むエネルギーを利用して、自分から地面へ飛び込むように手を突くと、空中に飛んだヴァルカに倒立する要領で蹴りを放った。だが、その足首を足裏で受けられて地面へ逆戻りする。
咄嗟に右へ転がった刹那、上に飛んでいたヴァルカが勢いよく着地し、愛銃の銃口を起き上がる途中のエマヌエルにポイントした。だが、彼女の指先が引き金を絞ることはない。本気の殺し合いではなく、身体が鈍らないようにする為の自主訓練だからだ。
「チェック・メイトね」
暫し視線を合わせた後、彼女は小首を傾げて、唇の端を吊り上げた。
「こいつがなければ、引き金引かれても防げるよ」
まだ勝負は分からない、とばかりに肩を竦めたエマヌエルは、示した手首をヒラヒラと振って立ち上がった。そこには、ややごつめの、鉄製に見える枷が填められている。
だが、その枷はマグネタイン製で、同じものが足首にも着けられていた。
ここへ連れて来られたのは、もう半年も前になる。
予想通り派手に暴走した挙げ句、胸部を撃たれて死にそうになったエマヌエルを助けたのは、こともあろうに仇敵とも呼べる人物だった。もっとも、その仇敵に助けを求める判断を下したのは、エマヌエル自身ではなく、目の前のヴァルカ=クライトンだったが。
『死なせたく、なかったの』
目を覚ました時、枕元に座ってそう言った彼女の顔は、泣き出しそうに歪んでいた。
『どうしても、あんたを死なせたくなかった。あんたを助ける為には、こうするしかなかったの……ごめんなさい』
俯いた彼女の顔からは、今にも涙の滴が落ちそうに思えた。更に、エマヌエルの自我がなくなるようなことがあれば、エマヌエルを殺して自分も死ぬつもりだったとまで言われれば、選りにも選って敵陣に飛び込むような真似をしてどういうつもりだ! と問う為に吸い込んだ息に、言葉を乗せることなく吐き出すしかなかった。
その時、既に両手足には、制御装置が填められていたのだ。――今からほぼ一年前、研究所を爆破し、逃げ出す前のように。
振り出しに戻る、とはこういう時に使うのだと思わずにはいられなかった。
ただ、未完成のマグネタイン抽出液によって暴走し、それを抑える為の特殊マグネタイン弾で沈黙したエマヌエルが、一週間で意識を取り戻したのは、皮肉にも『仇敵』と憎む相手の中の一人である、ユーリ=ハロンズのお陰だ。それと、命を張ってエマヌエルの自我を守ろうとしてくれた、ヴァルカの――。
適切な治療さえ受ければ、後はスィンセティックの驚異的な自己治癒能力がモノを言った。
無数の切り傷と、マグネタイン弾による胸部への被弾。普通の人間なら、まず半日もしない内にあの世往きだっただろうが、手術を受けた日から数えて三週間程で、エマヌエルはほぼ全快した。
但し、勿論その後、外へ出しては貰えなかった。強引に逃げ出そうとすればやってやれないことはなかっただろう。しかし、周辺が海なのは分かっている。陸続きでない以上、詳しい間取りも地理も分からないのに逃げても徒労に終わる確率が高かった。
『ここなら自由に使って良いよ。運動するなりゴロ寝するなり、お好きにどーぞ』
語尾にハートマークが付きそうな口調でこう言ったのは、他ならぬハロンズである。
初めて逢ったハロンズという男は、思っていたよりずっと若かった。整った顔立ちをしているが、実年齢が見事に読めない。プラチナ・ブロンドの髪と、ブリリアント・グリーンの瞳が印象的な、見た限りでは二十代後半から三十代前半くらいの男だ。
今いる礼拝堂の一室に、エマヌエルとヴァルカを放り込んだその男は、本当にその部屋にいる限りはエマヌエル達を特に拘束しようとはしなかった。但し、電撃銃と改造マグネタイン銃を装備した再洗脳済みのヒューマノティックが、常に二人一組でその出入り口で見張っていた。
「やあ、調子は良さそうだね」
軽い拍手の音に視線を向けると、そのハロンズ本人が礼拝堂の出入り口付近に立っている。
「お陰様で」
無愛想に返して、そのブリリアント・グリーンの瞳を見据える。
「ついでに、この枷取ってくれるともっと調子が良くなりそうなんだけどな」
「ごめん、それはムリ。言ったでしょ? 命救ってあげた恩は返して貰うって」
「なっにが『恩』だよ、図々しい」
エマヌエルは、その美貌を、あからさまな不快感に思い切り歪ませた。
至近距離まで歩を進めて来たハロンズと向き合えば、彼の方が僅かに背が高い為、そのいけ好かない緑を見上げる羽目になる。
「あんたが善意で俺を助けたなんて、俺が信じるとでも思ってんのか? よく言うぜ。ヴァルカが脅し掛けなきゃ、俺の脳みそまで掻き回して操り人形にするつもりだったクセに」
「うん、否定しない。でも、簡単に殺されても治療損だったしね」
あっさり頷いたハロンズは、心底楽しそうに続けた。
「今まで言ってなかったけど、君、凄く良い素材なんだよね。手術ついでに色々サンプル取らせて貰っちゃった。自我は残ってるんだから、文句はないだろ?」
「今すぐその口ひん曲げられたくなきゃ、それ以上ヒトの身体いいように弄くり回したい願望羅列すんの止めとけよ」
鋭く吐き捨てるように言うと、ハロンズは遂に吹き出した。
「はははっ……いや、ごめんごめん。綺麗な顔して過激だねぇ」
「そりゃどうも。よく言われる」
低い声で返して肩を竦めると、改めてハロンズを睨み据える。
「それで? わざわざ下らない世間話に来た訳か?」
「そう急かさないでよ。サンプルとかの検査結果、聞きたくない?」
「コイツが填まってさえなきゃ、とっくに木っ端微塵にされてるって忘れんなよ」
「それはどうかな」
ハロンズはクスリと笑うと、おもむろにまた歩を踏み出し、元々礼拝堂だったそこに備え付けられていた長椅子に腰を下ろした。そして、スウッと流れるような仕草で腕を持ち上げ、掌を上に向ける。
その行動の意味が分からなくて眉根を寄せた途端、ハロンズの腕に、乾いた音と共に見慣れた青白い光が走って、エマヌエルは思わず目を剥いた。
「君が仮に能力を封じられてなくても、僕にも君と互角に戦う力はある。勝負は分からないさ」
声も出せずに瞠目したエマヌエルとヴァルカに向かってウィンクすると、ハロンズはフォトン・エネルギーを弾丸状にすることなく納めた。
「……あんた、相当イカレてんな」
選りに選って自分の身体まで改造しちまうなんて、とは呆れ過ぎて付け足す気にもならない。ハッ、と息を吐いて投げ出すように言うと、ハロンズは再度面白そうに笑った。
「どう致しまして。君達みたいな兵器を開発する以上、研究する側が完璧に君達の力をコントロールする方法か、同じ能力を備えるのは常識さ。ただ、残念ながら能力的には君の方が上かも知れない」
「どういう意味だよ」
「言ったろ? 君は特別だ。ここへ担ぎ込まれた時、実は傷口は塞がり始めてた。肺に血腫もなかったしね。普通、スィンセティックの自己治癒能力だって、そこまでのアフター・ケアはできないんだ。つまり、ここへ駆け込まなくても君は自力で意識を取り戻したかも知れない。ちょっと早まったね、S9910?」
揶揄するような微笑を浮かべて、ハロンズはヴァルカにチラリと視線を投げる。そのヴァルカは、表面上は冷ややかにハロンズを見つめ返したが、内心は腸が煮えくり返る思いをしているだろう。
そんなヴァルカを見て、こちらの神経を逆撫でするようにクスクスと笑うと、ハロンズはエマヌエルに視線を戻した。
「ここからはまだ詳しく調べてないから推測だけど、君の身体は多分、後天的遺伝子操作が繰り返された結果、凄いスピードで自己進化する能力を自己開発しちゃったんだ。突然変異的にね。識別ナンバーこそAAだけど、スペックだけで言えば、SSシリーズと同等かも知れないよ」
「言われても全っ然嬉しくないね。いー加減、用件済ませてとっとと失せろ」
「だからさ、急かさないでよ。そろそろ……」
そのハロンズの言葉を遮るように、後付けで装備された内線電話が着信を告げる。「あ、来た来た」とどこか嬉しそうに言ったハロンズは、さっと立ち上がると、出入り口、内側から見て向かって左手にある電話の受話器に手を伸ばした。
「やあ、ビアンカ? 準備できた? ……そう、分かった。すぐ行くよ」
短いやり取りを終えて受話器を置くと、ハロンズは相変わらず楽しげな微笑を浮かべた顔をこちらに振り向けた。
「じゃあ、行こうか。面白いもの見せてあげるよ」